2009年3月21日土曜日

斐川町新指定文化財「米原氏関連寄進状、棟札」講演その2

◆前稿で取り上げた「米原氏関連寄進状、棟札」の中で、藤岡氏が特に注目したのは、諏訪神社の3号棟札の内容から、これまで不明だった綱寛の生誕年を想定できるものがあったということである。

 この3号棟札を見ると、上棟したのは永禄12年(1569)とあって、この年はちょうど山中鹿助(鹿之助ではなく、鹿助が正しいとのこと:藤岡氏)が、尼子勝久を擁して尼子再興を図りはじめた年である。



【写真】米原綱寛が祀られている学頭(がくとう)諏訪神社



 前にも記したように、米原氏はそれまで毛利方に与していたが、九州のキリシタン大名・大友宗麟方(立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)との交戦中、秘密裏に米原綱寛は、大友宗麟からの手紙(現存する)を受取り、尼子再興により、毛利方を挟みうちにするという計画を双方で練っている。


【写真】立花山城(福岡県)本丸跡から、多々良浜:福岡市方面を見る







 経緯として考えられるのは、最初に鹿助から密使を用いて、宗麟に話が持ちかけられ、その後、宗麟から道雪あたりが仲介人となって、綱寛に宗麟の手紙を託した、という流れではなかったか。もちろん綱寛は、立花城や多々良浜で毛利方として交戦中であるから、宗麟の手紙は絶対に毛利方に悟られないよう、細心の注意を払って極秘に綱寛の手に渡ったと思われる。

 そうした折、毛利方(吉川元春と思われる)より、綱寛に対して、出雲で鹿助が尼子再興の旗を挙げたため、先発隊として出雲に帰り、鎮圧するよう命が下る。よほど綱寛は毛利方に信頼されていたと思われる。綱寛のその時の心境としては、余りのタイミングのよさに「ほくそ笑んだ」のではないだろうか。

 もっとも綱寛は、帰途中、石見の浜田(船で帰ってきているようだ)でしばらく足を止めている。一説には、出雲における尼子再興軍と毛利方(富田城の城番・天野氏など)の戦況を眺め、再興軍がこの段階で敗北した際は、毛利方にそのまま残るつもりだった、という見方もされている。結果としては、再興軍(尼子方)に復帰するが…
 以上のような経過を経て、上棟された棟札である。

 さて、その棟札に戻るが、この3号棟札は永禄12年(1569)のものである。それ以前の1号は天文8年(1539)で、大檀那が本来は綱寛の父・綱広であるべきだが、どういうわけか、「米原新五兵衛尉」という名になっている。この名前は米原氏の系図にも載っていない(藤岡氏も疑問を呈している)。

 2号棟札は、天文22年(1553)で、これにはあえて「大檀那」でなく「檀那」として、「米原平内兵衛尉(綱寛)」となっている。つまり綱寛の父・綱広が生存中ということだと思われるが、家督を譲っている形からこうした記名になったのではないかと思われる。

 3号棟札は、2号から16年後の永禄12年になる。こうしてみると、1号から2号までの期間が、14年であるので、遷宮の期間もこのころは定まっていない、むしろ戦国の世であるから、定めようがない。
 この3号に、綱寛、妻子、伯父(?)などの名が記され、それぞれの氏名下に「乙未」「己亥」など干支が付記されている。藤岡氏はこの点を着目し、永禄12年(1569)段階で、計算すると、各人の生誕年が割り出され、年齢が以下のような結果になるとのこと。

 綱寛は乙未 天文4年(1535)生まれで、35歳
 同婦人己亥 天文8年(1539)       31歳
 以下、こどもは、9歳、8歳、2歳、で伯父らしき人物も永正12年(1515)生まれの55歳、その息子らしき人物、天文17年(1548)生まれで22歳。


 もっとも藤岡氏によれば、あくまでも推測で確定したものではないが、綱寛に関する史料を総合的に照合すると、年齢はほぼこのあたりになるだろうとのこと。

【写真】高瀬城本丸から、多久(和)氏居城・桧ヶ仙城方面を見る








 ところで、今回の講演会で藤岡氏は特に指摘していなかったが、私はこの棟札の中に見える「大工多久和某」という人物にも興味をもった。

 棟札1,2,3号、及び綱寛が既に出雲から去っているはずの文禄元年(1592)の第4号棟札にいたるまで、常に大工は「多久和」という名が入っている。多久和という姓は、この高瀬城から北の平田・桧ヶ仙城主だった「多久(和)」氏と同じである。

 しかもこの多久和氏も、元々、今の滋賀県長浜市坂田郷からやってきた一族がその祖である。斐川の高瀬城主・米原氏の実家が、その隣・米原市であることを考えると、この二つの一族は相当前から関係を持っていたのではないかと思われる。

 米原氏が、近江佐々木・京極(六角)系で、尼子氏の被官として出雲にやってきたという説はそれなりの論拠があるが、むしろ出雲にやってきた状況は、この多久和氏との絡みが大きかったのではないか、と思えるがどうだろう。

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太尾山城・その5

2009年3月20日金曜日

斐川町新指定文化財「米原氏関連寄進状、棟札」講演その1

 2009年3月20日、島根県斐川町にある荒神谷博物館で、表記について、藤岡大拙氏による講演会が行われ聴講したので、その主な内容を記す。

 これは、講演会の前である3月5日に、地元新聞・山陰中央新報で、このことについて報じていたこともあって、興味をもち向かった次第。
 以下、当日の資料よりその内容を記す。

2009年速報展 斐川町新指定文化財 展示解説
―蓮台寺(れんだいじ)の寄進状・諏訪神社の棟札―

平成21年3月14日~4月12日
斐川町教育委員会


1、展示品名:  蓮台寺の寄進状 1通
          諏訪神社の棟札 4枚

2、展示品解説


■蓮台寺の寄進状
 
●種別     :有形文化財(古文書)
 ●名称・員数 :蓮台寺の寄進状・1通
 ●所在地    :島根県斐川郡斐川町大字三絡324番地
 ●所有者    :蓮台寺
 ●概要
  高瀬城主の米原平内兵衛綱寛が、蓮台寺に土地を寄進したことを示す米原氏直筆の文書である。材質は唐紙、大きさは縦39.5㎝、横26㎝で、同じ唐紙に裏打ち後、再び軸装されたものである。

 所有者の南明山蓮台寺は、京都醍醐寺を本山とする真言宗で、開基創建の年紀・人名は不明だが、文治2年(1186)僧・高顕の中興との記録がある。
 本尊は木造十一面観音菩薩像で、像高36.0㎝、江戸時代慈覚大師の作と伝えられる。

 永禄年間(1558~1569)に、高瀬城主米原綱寛の祈願所となり、田畑(約2反5畝・米10俵相当)の寄進(永禄13年)があった。本史料はそのことを示すもので、今後維持管理をすることが記されている。
 約1000年前に花山天皇が出雲へ旅されたおり、33番観音霊場札所を定められ、当寺も6番札所となり多くの巡礼者でにぎわった。



●指定理由

 斐川町内で初めての中世文書として、稀少であるとともに、その保存状態が極めて良好である。米原氏本貫地のゆかりの文書として価値が高く、特に、米原氏直筆の文書として貴重である。




■諏訪神社の棟札

●種別     :有形文化財(古文書)
●名称・員数  :諏訪神社の棟札・4枚
●所在地    :島根県簸川郡斐川町大字学頭591番地
●所有者    :諏訪神社

●概要
 高瀬城主米原氏が諏訪神社の創建以来、上棟に関わったことを示す史料である。
 材質、寸法は以下の通りである。
 もっとも古い1号棟札は、右側上部が欠損し、文字も肉眼では判読不明だが、赤外線撮影により判別できる状況である。2~4号棟札は、部分的に文字の薄れが見られるものの、保存状態は良好といえる。
 いまから60年ほど前の、昭和14年(1939)11月3日、諏訪神社本殿改築遷宮の大祭が執り行われた翌年、ときの福間徳丸宮司が「皇紀2600年記念村社諏訪神社由緒書」を編纂された。このたびの釈文は、このときの記録をもとに作成した。

 諏訪神社の主祭神は、有名な国譲り神話に出てくる建御名方神である。この神が当社に祀られたのは、天文年間(1532~1555)で、神社を創建したのは高瀬城主米原綱広である。綱広の子・綱寛も祭神として祀られ、3回にわたって上棟を執り行っている。

 諏訪神社は、明治になるまでは諏訪大明神と呼ばれ、享保2年(1717)に著された出雲地誌『雲陽誌』の出雲郡学頭項に「諏訪大明神 建御名方命なり、本社一間四面、拝殿二間に五間、勧請年代分明ならず、祭礼7月27日なり、天文8年造立棟札あり、古老伝に云高瀬の城主米原氏の建立なり」と書かれている。本棟札は、この史実を裏付けるものである。

【写真】学頭諏訪神社


 1号棟札   年号  天文8年(1539)
         材質  杉材
         寸法  長さ83.4㎝、幅11.1㎝、厚さ0.55㎝


 2号棟札   年号  天文22年(1553)
         材質  杉材
         寸法  長さ71.4㎝、幅6㎝、厚さ0.7㎝


 3号棟札   年号  永禄12年(1569)
         材質   松材
         寸法  長さ97.25㎝、幅12㎝、厚さ1.9㎝


 4号棟札   年号  文禄元年(1592)
         材質  杉材
  
       寸法  長さ67.9㎝、幅14.5㎝、厚さ1㎝

●指定理由

 斐川町内で初めての中世文書として稀少であるとともに、その保存状態が極めて良好である。米原氏本貫地のゆかりの文書として価値が高く、特に、米原氏2代にわたる棟札であり、史実を裏付ける資料として貴重である。

長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)

岡豊城(おこうじょう)

●登城日 2009年3月18日(水)
●所在地 高知県南国市岡豊町八幡
●築城年 不明
●城主 長曽我部氏など
●標高 97m
●指定 国指定史跡

◆解説(『探訪 長宗我部氏ゆかりの地』 土佐のまほろば地区振興協議会編より)
岡豊城跡 南国市岡豊町八幡 国指定史跡
 長宗我部氏の居城であり、標高97mの東西に長い孤立丘陵に構築された土佐の中世城郭を代表する城跡である。築城の年代は不明であるが、永正5~6(1508~09)年、周辺の有力国人であった本山・山田・吉良氏らの連合軍に攻められて落城した。城主・長宗我部兼序(かねつぐ)は自刃し、幼年の子・千雄丸は幡多の一條氏のもとに逃れたと伝えるものが城についての初見である。
 永正15年(1518)、千雄丸は国親を名乗り岡豊に帰り、ここを本拠に長宗我部再興に乗り出した。国親は永禄3年(1560)病死するが、跡を継いだ元親は土佐を統一し、天正16年(1588)大(おお)高坂城(たかさかじょう)(現高知城城郭内)に移転するまで、長宗我部の居城として機能し続けている。
 城の縄張りは、山頂部を主郭とし、二の段から四の段までの階段式曲輪が構えられ、さらに西に伝厩(でんうまや)跡曲(あとくる)輪(わ)と、南に伝家老屋敷跡曲輪の2か所の副郭を持つ構造で、縄張りから見ると北側と西側の防御施設が顕著な城郭である。
 高知県立歴史民俗資料館建設等にともなって、6次にわたる発掘調査が行われ、「土の城」から「石の城」への変化、戦国期の城から織豊期の城へと変化する過程が確認された。
 平成13年11月、この城の南斜面下の国分川に最も突出した丘陵部の発掘調査が行われた。その結果や周辺の踏査に基づいて、大手(表門)や搦手(裏門)の確認や、家老屋敷跡とされる曲輪に大規模な屋敷群、さらにほかの曲輪に家臣団の屋敷群などが密集した大規模な城郭の想定が可能となった。   元親の土佐統一の天正3年(1575)頃からの大規模な普請を機会に、戦国大名の拠点にふさわしく、丘陵全体を総城郭化したとも考えられるようになった。


【写真左】岡豊城遠望
南東方面(高知東道路)走行中から撮る。


【写真左】岡豊城配置図
 この山全体が岡豊城城郭として築城されたと思うが、その西側には現在歴史民俗資料館が建ち、駐車場はこの資料館用と兼用されている。
 車をここにおいて、手前の二の段、三の段、詰(本丸)、四の段、虎口、展望広場、そしていったん下がると、もと厩跡といわれている曲輪(出城か)の展望広場tという順路で回った。
 城郭全体を散策する道は整備され、途中の傾斜がかなりきついところもあるが、滑り止めの処置がしてあるので、非常に歩きやすい。

【写真左】高知県立歴史民俗資料館
二の段の西方下に建っている。
開館時間は午前9時から午後5時まで、休館日は12月27~1月1日(ただし臨時休館あり)。大人450円
 平成3年にオープンしている。
 長曽我部氏の居城だった岡豊城跡に建っていることから、当然長曽我部氏関係の展示物もあるが、それ以外の歴史・考古・民俗関係の展示物もある。
 なお、この建物が建築されるとき、岡豊城の発掘調査も何回かにわたって行われ、その時の出土品や、当城の改修内容などもわかってきたという。

【写真左】二の段と詰下段の中間にある堀切と井戸跡
 堀切はこのほかにも多数あるが、手前に少し見えるのが、井戸跡。
 説明板によると、井戸の底が岩盤であることから、湧水はなく、雨水をためる「溜井(ためい)」として使われたという。


【写真左】詰(本丸)付近
この位置が、標高97m・岡豊山の頂上部で、三角形の形(一辺40m)。説明板によると、石敷遺構(建物の基礎)と礎石建物跡が発見されている。また、この位置にも「溜井」跡や、柱穴があったとのこと。
【写真左】東方を見る
この方向に見える景色は「土佐のまほろば」といわれる歴史上重要な一帯で、「比江廃寺跡」「土佐国分寺跡」「土佐国府跡」が見える。


【写真左】竪掘り
城郭の遺構としては管理がよく、こうした竪掘りも現地でもよくわかる上に、写真に撮っても鮮明に見える。
 この竪掘りは、途中から二股に分かれた構造になっている。

【写真左】虎口付近


【写真左】伝厩跡曲輪
詰のある地点からは大分離れていて、東方の様子が最初にわかる地点である。

◆感想
●昨年NHKのテレビで、若い女性たちの間で、戦国武将に人気が出てきているとの報道があり、その中で最も人気があるのが、この岡豊城主であった「長曽我部元親」とのこと。その理由が一代で四国を統一したことや、容姿端麗(どこまでが事実か分からないが)で、現代的にいえば「イケメン」だったこと、また波乱にとんだ人生であったこと、等などがその理由だという。
●当城の印象としては、その規模は中規模程度だが、遺構の保存が極めてよく、城郭の遺構の種類がほとんど網羅されていることや、中世山城から織豊期の山城へと移り変わる過程がよくわかるという特徴を持っていることが挙げられる。
●なお、この付近にはまだ岡豊城関連の史跡が相当あり、引用した資料「探訪 長曽我部氏ゆかりの地」も丁寧な内容で、はじめてきた者にとっては非常に参考になるものだ。

2009年3月9日月曜日

伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)

伊志見郷(いじみごう)

●所在地 島根県松江市宍道町伊志見


◆解説
 山城と直接関係はないが、前稿まで取り上げた佐々布氏の本城・佐々布要害山城から西へ向い、小佐々布を経て、さらに峠を越えると、伊志見郷という地区がある。
今稿はこの伊志見郷について取り上げたい。

 この伊志見地区を、歴史的な位置で見ると、中世・戦国期には、東に宍道氏や佐々布氏、西には斐川の高瀬城主・米原氏、そして南には加茂高麻城主・大西氏(鞍縣氏)、及び三刀屋氏など四周を国人領主が取り囲むような場所となっている。

 これだけでも、当時この郷に住む者たちにとって、いかに気が休む時がなかったかが想像できる。そうした環境下で、この地に住む人たちがどのように時の権力者と関わりをもったか、戦国期ではないものの、室町期までの記録として、興味のある史料が残っているので、取り上げたい。(参考資料:「宍道町史」など)

承久の乱後
 
 後鳥羽上皇が隠岐に流された鎌倉期の承久の乱後、出雲杵築大社の社領として、周辺のおもだった郷・荘の中から12郷が寄進された。その中の一つに、この「伊志見郷」がある。その後、同郷は、社領として支配すべき当事者である、領家・藤原氏と本家・天皇家が争いを起こしてしまい、領主が定まらなくなった。

このあと、非常にめまぐるしい領地の支配争いが長期間にわたって行われる。以下主だった流れのみを記す。

【写真左】伊志見の谷
 現在は土地改良されて、整然とした区画となっているが、当時はどこにもあった大中小の変形田による棚田だった。


 写真奥に見えるのは、現在の高速山陰道で、右に行くと出雲市、この左奥へはいずれ広島県三次市や尾道市につながる予定の高速三刀屋線がある。

 紆余曲折したあと、全て本家に移ったが、建武の新政(後醍醐天皇)後、、大社国造と社領を折半したその半分(本家分・残りの半分は社家分として大社国造が知行)を、柳原宮家が継承する(『大社町史』)ことになった。

 ところが、その後、柳原宮家と山科家で、本家職をめぐって対立が起き、伊志見郷を含む大社領の半分(全体の四分の一)は、山科家が知行することになる。

 応永30年(1423)、柳原宮家は室町幕府に直訴して、その全面返還を求めるも、叶えられなかった。その後、室町・戦国期を通じて、この伊志見郷も含め、遙堪(ようかん)郷、千家郷、富郷は山科家の支配となる。

【写真左】京都・建仁寺の本坊
建仁2年(1202)将軍源頼家が土地を寄進し、栄西禅師が開山した。








祥雲院領・建仁寺

 ただ、理由は不明だが、この伊志見郷だけは、途中から山科家から、同じ京都の建仁寺(京都五山の一つで、この間仏像の盗難騒ぎがあったが…)の「塔頭祥雲院」に寄進され、祥雲院領となった。

 しかし、応仁・文明の乱により建仁寺では支配できなくなり、文明4年(1472)、幕府の命により、再び山科家に戻される。

 このころの出雲の守護代であった尼子清定に対し、山科家による所領支配について、幕府からもその旨協力するよう命が下っている。ただ、清定も直接自分とかかわりのない社領の支配協力には積極的でなかった。

 このため、山科家による自力支配ができず、石見の国人・佐波秀連(この当時は、出雲で活躍していた)に請負させ、改めて山科家より、伊志見郷の百姓らに対し、従来通り年貢・諸公事などを代官・佐波氏に納入するよう命が下される。

【写真左】天井絵図「双流図」
 建仁寺の法堂(はっとう)にある小泉淳作の筆(2002年作)による。







応仁の乱後

 応仁・文明の乱が終わると、再び伊志見郷は元の建仁寺に寄進された。しかし、こうした権門勢家による荘園領主は、明応年間あたりから衰退し、杵築大社支配関係の文書は、明応3年(1494)をもって姿を消している。

 そうした例としては、同じ明応3年4月27日付で、山科言国(ことくに)が、奥出雲国人領主・三沢氏に、「出雲国遙堪郷」を売却、という文書が見える。

 以上のように、この伊志見郷だけではないかもしれないが、おもに西日本では、一つの郷・荘をとらえて、寺領・社領といった郷地域などは、当国外の支配者によってかき回されている事例が多い。もっともその根源的な部分では、前時代の律令制の下地が影響もしているが。

ところで、この伊志見郷という地区は、重粘土質であり、昔から良質のコメがとれることが知られている。

 当時からこの谷で作られたコメを、近隣はもとより、遠く京の都まで運ばれていたことを考えると、食べ物の情報も相当広範囲で伝わっていたと思われる。つまり、今風にいえば、地方の名産品というブランドが既にこの時代からできていたようだ。



【写真上】伊志見谷のほぼ中央部
 この写真の左右にある道は、江戸期から佐々布方面へ往来する街道でもあったようだ。
※私事で恐縮だが、実はこの元伊志見郷(現:伊志見地区圃場整備組合)の中に、当方所有の田、数筆がある。
【写真左】中央付近から北を見る。
 中世の頃の伊志見郷は現在のように下流部まで圃場がなく、宍道湖がかなり手前まで広がっていた。
 その分、逆に山間部の小さな谷奥にまで中小の棚田が枝を張るように伸びていた。


【写真左】伊志見地区溜池掛り図・その1
 (下段が北を示す)

 この図面は伊志見地区圃場関係の図面で、水利関係を示したものだが、圃場整備された関係で、整備前の小規模な棚田の様子は窺い知ることはできない。
【写真左】伊志見地区溜池掛り図・その2
 (下段が北を示す)

 伊志見の圃場としては、北端がほぼ国道9号線あたり(図一番下の道路)で、中世当時の筆数よりは少なくなったが、耕作総面積は2倍近く増えたものと思われる。










伊志見郷と常陸・上総のイジミ

 ところで、さらに山城の関係と逸れる話になるが、たまたま本稿の写真・記事を見ていただいた方で、何有荘のblogというサイトを開設されている方から、常陸(千葉県)の夷隅(イスミ)は、古代出雲国伊志見(伊甚)からやってきた人々によって開拓・建国されているというメールを戴いた。

 その後、管理人が加入している地元伊志見圃場整備組合の会員の方から、同じような観点から調査しているという話を聞き、改めて当地・伊志見郷の興味深い歴史の重みをそこに感じた。

 さて、このことについては、近畿民俗学会会員の澤田文夫氏が「出雲、上総、常陸のイジミ地名考」(2005年)という論文で発表されている。これによると、出雲国伊志見(伊甚)から上総・常陸へ移住した人々の性格や、その理由などは不明だが、時期は7~10世紀頃であろう、としている。
【写真左】伊志見郷
 カリヤ免付近












 この論文は「地名考」を中心に神社信仰の共通性も含めて推論しているが、地名でいえば、イジミ(イスミ)以外に、や、例えば「カリヤ(免)」という共通地名などがあり、伊甚神社記によれば、現在の神社より南100m地点に「伊志見国造」の政所(「万所」)があり、当時の当地における豪族(※)で、のちにこの勢力が上総(千葉県)へ移ったという伝承が生まれているという。

 ※「政所」から東へ伊志見川を挟んで約20mの位置に「別所」があり、そこには高さ約40センチ程度の小規模だが、かなり古い宝篋印塔形式で、塔身から上部までのものが残っている。ただ、当時の豪族のものかは不明。


 前記した「カリヤ(免)」という筆地は2か所点在しているが、奇しくも2か所とも管理人の圃場に接している場所に当たる。カリヤというのは、おそらく稲の刈取りからきた語源だろうと思うが、カリヤ免とは、刈取りを免ずる、すなわち上納・貢を免ずる、場合によっては、神田の補完的な役割を担っていたのかもしれない。

 このほか、伊志見郷の圃場にはそれぞれ固有の名称があったが、ほとんど土地改良によって名称は番地の登録となり、当時の筆名を知る人はほんのわずかである。

 山城は戦の歴史をかたる有形文化財であるが、田圃の地名(筆名)は、それ以上に生活という人の営みを如実に物語ってきた生産遺構でもある。

◆関連投稿
  伊甚神社(島根県松江市宍道町伊志見)

佐々布の五輪塔(島根県松江市宍道町佐々布)

佐々布の五輪塔
●所在地 宍道町佐々布

●佐々布要害山城の位置は、「佐々布中」と「岡の目」というところの中間地点にあるが、ここから北北西すなわち、国道9号線方面に約1キロ下った地点には、東に「荻田」、西に行くと「小佐々布」の分岐点がある。そして、この三叉路のところに、写真で示した大きな石碑がある。

●これまで何度となく見ていた石碑で、よくある江戸期の街道筋に建てられている旅人を祀るものだと勝手に思っていた。
 しかし、数年前から山城を探訪していた関係で、五輪塔や宝篋印塔と他の、石碑・古墓との区別がだいぶ分かるようになってきた。

●今回佐々布要害山城を探訪したあと、改めてこの石碑を見たところ、これは明らかに江戸期のものでなく、その形式は五輪塔にほぼ間違いないと思われる。

●しかも、その大きさが相当大きく、これだけ大きいものは私の知る限りこの地区では見かけない。しかも、その場所が佐々布氏の領地であったということを考えると、佐々布氏の五輪塔である可能性が高いのではないかと思われる。

●地元の方にはまだこの五輪塔について聞いていないが、非常に興味のある五輪塔である。なお、「宍道町史」の史料編で、この五輪塔が記載されているかどうかはまだ確認していない。

2009年3月7日土曜日

佐々布氏・佐々布要害山城 その2

佐々布氏・佐々布要害山城 その2

◆前稿で佐々布氏の記録などを主として「きまち書留帳」に基づいて記したが、今稿では主として「宍道町史」によって、さらに同氏と当城について取り上げる。

●全盛期の佐々布氏の所領範囲が地元宍道区域のみならず、宍道湖を隔てた平田方面まであったことはすでに記したが、このことは宍道湖を使った活動、すなわち水運によるものであり、宍道町史では、「佐々布氏が中海・宍道湖を内海として活躍する水軍領主としての特徴をもっていた」と想定している。

●佐々布要害山城の特徴である、東郭群と西郭群の2区域に別れた形式を「一城別郭」という。この稿では、東郭群を取り上げるが、この主郭部の標高は、西郭群より低く、標高102mである。

●この城郭の調査に当たった山根正明氏によれば、東西の郭を巧みに連結し、東郭群で防戦しながら、西郭群へ撤収するという設定であるという。また全体に普請そのものが丁寧で、完成度の高い山城であるという。

●そして結論としては、「西郭群は、佐々布氏によってその所領支配の拠点として築かれていた同氏の本城(詰城)だった」と推定する。そして佐々布氏後に改修された痕跡(竪掘り、土塁など)から、その施工主は毛利氏もしくは、石見・安芸の国人によるものだという。

【写真左】西郭群から東郭群へ向かう尾根道

【写真左】東郭群の郭
東郭群も厳密にいえば、東西に分かれた形をとっており、西側の頂上部(標高101m)郭は長径40m弱で、周囲はほぼ全面切崖状態で、東側の頂上部(標高95m)の郭は南に土塁を駆使して、東西に約80m伸びている。

そしてその北東周囲下に3,4段の郭を配し、北面に「噴水を逆にしたような竪掘り」ができている(現地では確認できなかったが…)。この特徴的な竪掘りは、石見瑞穂町の「二ッ山城」(出羽氏)と類似した技法で、このことがのちに毛利氏もしくは、石見の国人が、当城にあらたに手を加えた痕跡とする根拠である。

【写真左】東郭群の北東2段目郭に見えた「井戸跡」
西郭群にあった井戸跡は相当埋まっていたが、この井戸跡は極めて良好に残っていた。

形状は四角形で、一辺が1.5m前後か。この位置あたりになると、おそらく井戸深さは西郭群のそれよりも浅い状態でも水が出たものと思われる。

【写真左】土塁の一部
現地でははっきりと確認できる形状でも、こうして写真を撮ってみると、ほとんど判別不能の絵柄になってしまう。

特に周辺にこれだけ雑木や、枯葉が多いと、撮った本人でさえも「何の写真?」という状況に陥る。

【写真左】東郭群の西頂上部から北に降りた地点から見た北の景色
このすぐ下には、高圧線の鉄塔が建っており、そのわきに北側から登れそうな小道の跡が少し残っていた。

【写真左】佐々布要害山城の北西部にある宍道町(松江市)「ふるさと森林公園」案内図
 この写真でいえば、右側のほぼ中央部からさらに右(東)へ向かった地点が当城の位置となる。

◆この佐々布要害山城について、個人的な感想を述べるならば、現在の出雲部にある山城として、その規模は隣にある「金山要害山城」と遜色なく、しかも特徴的な「一城別郭」という形式や、普請の完成度から見ても上位に入ると思われる。

ただ、残念なことに、西郭群のさらに西方部が既に「ふるさと森林公園」によって大幅に改変されていること、また、現地の雑木や倒木等々全く未整備の状況があるため、「気楽に登城」できないことである。

尼子氏や毛利氏といった巨大な支配者でなく、むしろ一族が絶えないことを最後のよりどころとしたような同氏の戦国後半期の姿が、そのままこの城に投影されているような、そんな印象が残っているが、山城としては、非常に興味深いものを感じる。機会があれば、再度登城してみたい城である。

佐々布氏・佐々布要害山城(島根県松江市宍道町佐々布)その1

佐々布(さそう)氏・佐々布要害山城

●登城日 2009年3月6日
●所在地 島根県松江市宍道町佐々布佐々布中
●遺構 溝 その他 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口


【写真左】佐々布城西側入口付近


 佐々布要害山城は、基本的な縄張として、①東郭群と②西郭群にはっきりと分かれている。

 今稿では、②の写真を掲載する。
「入口」といっても、佐々布城の登城案内板などは一切なく、地図であらかじめ位置を確認したところ、現在の「宍道町森林公園」の東側端から伸びた丘陵状の山林が城郭区域となっているため、車はこの公園内の駐車場に停めて、そこから登城というよりも「下って」行くような経路になる。


◆解説
 佐々布の呼称は「さそう」あるいは、地元では「さそ」と短くした呼称で呼ばれている。
地元郷土史「きまち書留帳」(以下「書留帳」とする)によると、地名としての佐々布が記録上初見されるのは、文永8年(1272)、杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳案で、他の郷とともに下記のように残っている。
1、宍道郷 38町8反300歩(成田四郎)
2、来海荘 100町7段60歩(地頭・別府左衛門妻)
3、佐々布郷 20町2段180歩(地頭・佐々布左衛門入道子)
4、伊志見郷 杵築大社領

●また、建武4年(1337)3月、諏訪部信恵軍忠状によると、出雲国主・塩冶高貞の侍大将の一人・佐々布七郎入道が奉行になって、三刀屋郷地頭の諏訪部信恵が、越前金崎城に拠った新田義貞討伐の軍忠証人となっている。さらに、同年10月には小境郷地頭・伊藤義明の大和河内での軍忠の証人には、佐々布新左衛門尉がなっている。

●書留帳によると、建武の中興期、宍道の地頭(南方)は成田氏となっているが、現実には守護職・塩冶氏の配下奉行であった佐々布氏が、この区域の実権を握っていたようだ。その後、尊氏と直義との軋轢により、南朝系となった足利直冬が石見・出雲を抑えたことにより、佐々布氏は直冬のもとに入り、北朝系の成田氏を追放、金山要害山城を奪い、同じ直冬系の石見・益田兼見の所領とさせている。

●貞和2年(1346)末、高師泰が、佐々布次朗左衛門尉に対して、備後国一宮吉備津宮の神官が、浄土寺(播磨の浄土寺と思われる:筆者)と漁船のことで争ったとき、当該神官に幕府に出頭して事情を説明するよう命じている。この事件について、書留帳は、「出雲・朝山氏が備後国守護に任じられ、その守護代として、佐々布氏が活動していた」と記している。なぜ朝山氏や佐々布氏がここに出てくるのかという経緯・説明がないのでなんともいえないが、佐々布氏全盛期には出雲のみならず、活動範囲が相当広かったようだ。

●しかし、南朝派の衰退とともに、佐々布氏の勢いも下っていく。観応2年(1351)ごろには、佐々布次朗左衛門尉の領地であった出雲国園村(旧平田市)、多久郷(同)などが北朝側の領地となっていく。
 越えて戦国期になると、尼子晴久時代には何とか国人領主としての名を残しているが、永禄年間(1566)ごろには、宍道氏の「家臣」もしくは奉行人として生き残っていく。
【写真左】土橋のようなもの


 当城はほとんど管理されていないので、完全な藪こぎを覚悟しなければならない。今冬の重たい雪による倒木が行く手を時々阻むが、素手で取り除くか、大廻しながら行けば何とか進める。
 写真は、森林公園側から少し入ったところで、このあたりから②の郭群の遺構である土橋が確認できる。


【写真左】堀切


 大きさは中規模だが、尾根筋の幅が狭いので、堀切りとしての効果は期待できただろう。

【写真左】井戸跡らしいくぼみ

 この山城は廃城になってからほとんど手が加えられていないようで、特に枯葉の堆積が半端でない。

 西郭はΓ(ガンマ)形の形状で、東郭に比べ郭数は少ないものの、「東1」「東2」郭の長径は約100mはあるだろう。特に「東2」などは、その平坦形状や位置的にみても、井戸跡などを見ても、長期間の居住が可能な造りに見えた。

【写真左】西郭群中央部に立つ石碑


 この石碑が建っているところが、佐々布要害山城の一番高いところで、標高は126m余りである。
 前述したように、西郭群の要害性も十分にあるものの、のちほど取り上げる東郭群に比べ、形状がゆったりとしており、事実上の「本丸」がこの西郭群のこの位置ではなかったかと思われる。

小早川正平の墓(島根県出雲市美談町)

小早川正平(こばやかわまさひら)の墓


●所在地 島根県出雲市(旧平田市)美談(みだみ)町
●探訪日 2007年10月27日及び2014年10月6日

◆解説
 小早川正平の墓は、前々稿で取り上げた鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町) の麓に、建立されている。

 正平が討死したのは、尼子再興軍が蜂起した元亀年間ではなく、その約30年以上前の天文年間である。
 当時は山口の大内氏が全盛期で、天文11年(1542)、大内義隆が出雲(尼子)制圧のため東上してきた。このとき、それまで大内氏に従っていた正平は、一時尼子に与しようとしたが、大内氏に見破られ、居城であった安芸・高山城(広島県三原市高坂町)を奪い取られ、その後、正平は大内氏に拘束される。

 そうした状況のまま、出雲遠征に従軍するが、このときの戦も大内氏配下となっていた出雲国人たちの寝返りにより、大内軍の大敗北となり、敗走するだけで精一杯になった大内氏は、正平に殿軍(しんがり)を務めさせる。


 果せるかな、正平は尼子方主従3人により討たれてしまう。時に天文12年(1543)5月9日、享年21歳という若さであった。

 結果として、大内氏は、最初から負け戦の際は、この正平に討死させるつもりだったようで、なんとも哀れである。またこの戦では、いずれ取り上げるつもりだが、現在の東出雲町付近では大内氏の養子・春持(晴持とも書く)(土佐一条氏から来ている)も溺死している。


 なお、この正平の墓の東には、後年、末裔となった小早川隆景が正平の死を弔うために建てた「興源寺」がある(下段写真参照)


【写真左】興厳寺方面から見た正平の墓遠景

 国道側に案内の木柱はあるものの、そのあとの案内板が全くないため、探すのに大分苦労した。写真中央のこんもりとした部分が、下にある正平の墓地である。左の民家の手前にあぜ道程度のものがあり、その家の北の裏側を通って行く。

 興厳寺から西へ約150m程向かったところにある。


【写真】小早川正平の墓・その1
【写真】小早川正平の墓・その2
【写真】小早川正平の墓・その3


【写真】小早川正平の墓・その4
 横には「天文12年5月9日薨(みまかる)」と刻銘されている。
【写真左】興源寺
【写真左】宝篋印塔二基
 正平の墓とは別に、興源寺前の道路を挟んだ南側の畑地に二基の宝篋印塔が祀られている。
 正平の墓とは全く別の箇所にあるため、尼子方の武将のものかもしれない。







◎関連投稿
米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)
大内神社(島根県東出雲町 西揖屋) 

宍道政慶菩提寺・広雲寺(山口県萩市北古萩)

宍道政慶菩提寺・金沙山 広雲寺(こううんじ)

探訪日 2008年11月21日
住所 山口県萩市大字北古萩9番地

◆解説
宍道政慶の菩提寺は毛利氏が萩に移封された関係で、他の一族同様この萩市にある。
以下、縁起・由緒などは当院のHPより記す。

 “もと龍昌院の塔頭であった妙雲院が明治5年に同じく塔頭の栄周院と合併し広雲寺と改称した。  
 龍昌院は輝元の側室児玉代(秀就生母)の菩提所として慶長10年に建立され、その法名の一部をとって周慶寺と号していた。


 開山上人は是休上人、その後、秀就側室の菩提所とし、第4世円受代、寛文4年にその法名から龍昌院と改め第5世幡益代、寛文11年に類焼して堂宇焼失したが、第6世牛故代延宝2年に再建された。


 文久年間に又焼失し廃寺となる。妙雲院は寛永年間に秀就の命により、宍道政慶の菩提寺として建立。
 栄周院は寛永11年隠居所として創建。 ”

◆なお、萩はご存じのとおり城下町であることから、武家屋敷区域の道は大変に狭い。

当院は町部の少し端の方になるが、車の場合、そこに行くまでの道が狭いので、一番良い方法は、観光客専用の広い駐車場へ停めて、あとは探索気分で歩いた方が安心である。

◆残念なことに、このお寺の門にも、境内にも一切「宍道氏」を説明するようなものがないので、探訪したとき、境内墓地に宍道氏の墓を見つけることが出来なかった(御住職も不在であった)。















2009年3月6日金曜日

鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)

鳶が巣城(とびがすじょう)

●登城日 2007年11月26日
●所在地 出雲市 西林木町 鳶が巣山
●築城期 中世 ●遺跡種別 城館跡
●築城主 永禄4年(1561)、毛利元就築城、または宍道氏とも
●標高 281m ●遺跡の現状 山林 

◆解説(本丸跡に設置された説明板より)

“鳶が巣城の歴史

 我が国の戦国時代に中国地方の覇権を獲得しようとする戦いの中で、鳶が巣城は大きな役割を果たしていました。

 1542年(天文11年)、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏が拠点としていた富田城(現広瀬町)に進攻しました。しかし、2年間にわたる戦いの末、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏に敗退しました。このとき連合軍の中にあった鳶が巣城も落城し、城主の宍道隆慶は一族とともに長州(山口県)に逃れました。


 それから20年後の1561年(永禄4年)、大きな勢力となった毛利元就は再び尼子氏攻めに出撃しました。宍道隆慶も毛利元就の武将として出雲に進攻しました。


 翌年、毛利氏は鳶が巣城を乗っ取り、宍道隆慶、政慶(まさよし)父子を城主とし、尼子氏攻略の拠点としました。4年間に及ぶ戦いの末、尼子氏拠点の富田城は落城しました。出雲平野を挟んで、鳶が巣城と戦った南山の米原氏(尼子方)の高瀬城(現斐川町)も落城しました。 こうして出雲の国は、完全に毛利氏が制するところとなりました。


 宍道氏は、この2つの戦いの功績から、出雲北山一帯の武将を支配する地位に任命され、その後40年近く城下及び領地の経営に力を尽くしましたが、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いがおこり、西軍豊臣方に属した毛利氏は破れ、その配下であった宍道氏も毛利氏に随行して、萩(山口県)に移り、鳶が巣城は廃城となりました。”


【写真左】鳶ヶ巣城遠景
城下南西の方から見る。


【写真左】山麓部の郭付近
 鳶ヶ巣城の特徴の一つは、頂上部の郭とは別に、南山麓部に非常に大きな平坦地(郭)を2か所持ち、その大きさはちょっとしたソフトボールの試合ができそうな大きさである。おそらく、この場所が多くの将兵が陣を構えた所と思われる。

 特に、ほぼ南方に構える斐川学頭の米原氏の居城・高瀬城を、いよいよ落とすという元亀年間には、宍道氏も含めた毛利氏の大軍がここに構えたが、その数は数千といわれている。

【写真左】登城途中の「西3郭」付近
 鳶ヶ巣城は、地元出雲市の指定史跡となっており、この標識の横には「史跡と文化財探訪コース第5番」と書かれている。

 横に見えるタンクは、頂上部に設置された給水設備のための加圧タンクで、桜のシーズンにはかなりの人が登ってくるようだ。

 この郭部分は、麓の郭と頂上部の郭群の間に位置するが、南西方向に突き出した形状として、その先端部の切崖はかなり強調されている。また北の方には土塁の痕跡が認められる。
【写真左】頂上部の南に延びた郭から北の本丸方向を見る
 頂上部の形状は、ほぼ十文字に郭を配置し、中央部に本丸を置いている。


【写真左】本丸から南へ延びる郭を見る
この南北に伸びた郭が一番平坦になっており、その長さは100m前後あると思われる。当時はこの場所も含め、相当数の将兵が陣を構えていたものと思われる。

 現在は、展望台のようなものが設置され、桜の木が相当数植えてある。


【写真左】東2郭入口付近
 上記の南に延びた郭から東に向かうと、東2郭へ続く。
なお、本丸の真北にも幅、奥行とも十分な広さをもつ郭があり、その奥北東部にも尾根を利用した郭と切崖を施した遺構が残っている。

 残念ながら上記の部分は雑草が多く、遺構の確認が南面ほどよくない。
 よって、この稿では写真は掲載していない。

【写真左】鳶ヶ巣城本丸下の郭から、元亀年間攻め落とした斐川町の高瀬城及び、狼山(大神)城方面を見る。

 写真が少し小さいため分かりずらいが、後方の中央部右側のとがった山が、高瀬城で、その下の低い平野部の丘陵地(中央部付近)が、現在斐川公園となっている狼山城のあったところ。

 毛利方は、最初に手前の低い山城である狼山城をあっという間に落とし、その後高瀬を攻め入った。

 なお、手前に見える斐伊川は当時、この経路でなく、右側(西)の出雲方面(日本海)へ流れていた。また、写真に見える平野部も当時は陸地となっておらず、ほとんど毛利方はこの鳶ヶ巣城から船を使って高瀬の麓まで向かっていたという。

 このため、一説には、小早川隆景が、はるばる瀬戸から村上水軍(児玉水軍など)を引き連れて来たといわれ、戦の形態としては地上戦より、船戦(ふないくさ)の感が強かったといわれている。

【写真左】鳶ヶ巣城から東方を見る
 上記のように、当時は眼下はほとんど宍道湖となっており、この写真の奥には、山中鹿之助らが陣取る松江の真山城がある。

以上のようなことから、水上での戦を得意とした村上水軍らの活躍がこのときの最大の功労者とも言われている。


【写真左】本丸跡にある「宍道政慶公の碑」
 宍道「政慶」とあるが、実際には宍道「隆慶」がこの城に拠ったようである。ちなみに、隆慶の子が政慶である。

 宍道氏の動きについては、宍道町史でも述べられているように、宍道氏一族の中でも惣領(嫡流)と庶子(庶流)があり、毛利方と尼子方とに分かれて戦っている。

 この構図は他の国人領主の一族でもかなりあるらしく、このことが後世の軍記物などで混乱を生じさせている一因でもある。

 なお、鳶ヶ巣城の築城者についても、はっきりと宍道氏とは断定できる実証性はなく、築城にかかわった可能性は十分にあるが、基本的には毛利元就の指示により、他の国人領主らと共同で築城した可能性が高いようだ。