大内氏遺跡・凌雲寺跡
(おおうちしいせき・りょううんじあと)
●所在地 山口県山口市中尾
●高さ 標高140m(比高10m)
●創建期 永正4年頃(1507)
●開基 大内義興
●指定 国指定史跡
●遺構 石垣・惣門その他
●備考 城郭寺院か
●参拝日 2014年7月31日
◆解説
大内氏遺跡・凌雲寺跡(以下「凌雲寺」とする)は、山口市中尾にあって、以前紹介した高嶺城(山口県山口市上宇野令)の北西約4キロの位置に所在する。
【写真左】凌雲寺跡
東西に走る石垣跡
現地の説明板より
“大内氏遺跡・凌雲寺跡
昭和34年11月27日指定
凌雲寺は、大内氏30代義興を開基、了庵桂悟を開山として永正4年頃(1507)この地に創建されたと伝えられています。廃寺の年月は不明ですが、おそらく大内氏滅亡の後、いつの時代にか廃されたものと思われます。
【写真左】凌雲寺跡平面図
右方向が北を示す。西側(上部)に川が流れているが、その川を渡河すると切崖状の傾斜面があり、城郭寺院の要素を併せ持ったものであることが分かる。
寺は舌状をなして南に延びる台地上に営まれたもので、注目すべきは台地の南端を東西に横切る長い石垣です。これはこの寺の惣門の遺構と伝えられ、長さ約60m、高さ3m余りで、幅は2m余りあります。
巨岩をもって築かれ豪壮な石垣であり、寺の位置、地形等から考え、有事に備えての城塞の役を兼ねたものかと思われます。
指定区域内には凌雲寺開山塔、大内義興及びその婦人の墓と称する石塔三基が残っています。”
【写真左】遠望
西側から見たもので、手前には床の深い川が流れている。
大内義興
大内義興については、鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)でも紹介したように、大内義隆(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)の実父である。
そして、義興の父政弘は、応仁の乱が終結するするころの西軍の総大将として畿内で活躍しているが、文明9年(1477)この戦いがおわると山口に帰還している。義興はちょうど父政弘が山口に帰還した文明9年に生まれている。
因みに、後に覇を争うことになる出雲の尼子経久は、長禄2年(1458)に生まれているから、義興より19歳年上になる。
【写真左】案内板
少し手前の方に駐車場があり、そこから歩いて向かう。民家の脇の細い道を進む。
足利義稙を奉じて上洛
明応の政変により、室町幕府第10代将軍であった足利義稙(義材・義尹)は失脚、幽閉状態の身となり、小豆島に配流されるという直前に側近の手引きにより京都を脱出、前管領であった畠山政長を頼り越中に下向した。
その後、敵対していた細川政元と和睦したことにより、越前の朝倉貞景(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)のもとに身を寄せた。しかし、政元との和睦は再び決裂し、争った結果敗北し、周防の大内義興の庇護を受けることになる。
【写真左】西側斜面
昭和34年に指定を受けているが、その前まではおそらく田畑として使われていたのだろう。
それまでに小規模な圃場整備など手を加えていたかもしれないが、大規模な土砂の移動はなかったものと思われるため、この法面などは当時のものと殆ど変らないと考えられる。
永正4年(1507)6月23日、その政元は、細川澄之及び薬師寺長忠らによって謀殺され、その1か月余の8月、今度は政元を殺害した澄之が細川高国・政賢らによって殺害された。これにより細川澄元は同月2日、足利義澄に会い、家督を確認させた。
こうした畿内の情勢は逐次周防大内氏の元に届けられていたのだろう、大内義興が足利義稙を奉じて入京を図る決意をしたのは、この年(永正4年)の12月である。
【写真左】大内義興の墓など・その1
坂道を登ったところにあり、義興の墓をはじめ、宝篋印塔一基、五輪塔が2,3基祀られている。
ところで、周防国のとなり石見国ではこの段階で、三隅・福屋・周布・吉見の諸氏、そしてこのころ三隅氏・吉見氏らと敵対していた益田氏までも大内義興につき従った。
◎石見国の上洛従随者
【写真左】大内義興の墓など・その2
【写真左】塚か
近くにはこんもりとした築山のような箇所があり、墓石の一部もしくは祠のようなものがある。
このあと、遺跡中央部のほうへ向かう。
義興らはこの鞆の浦で翌年(永正5年)の4月7日まで留まっている。常識的に見ると、随分とのんびりした航海だが、義興らが瀬戸内を航行している間(3月ごろ)、畿内で義興らのために協力していた細川高国が、足利澄元と不和になり、伊賀の仁木高長へ奔ったことや、敵対していた足利義澄が在京していたことなどから暫く様子を見ていた為である。
しかし、その義澄がその後近江に奔ったため、4月27日、遂に和泉の堺浦に碇を降ろした。その後、伊賀から戻った細川高国や、畠山尚順らが彼らを出迎え、その後、二人は先駆して京へ侵攻した。6月8日のことである。ちなみに、この上洛において、出雲の尼子経久は、義興ら瀬戸内ルートとは別に、京に向かっている。おそらく、高国らが京へ侵攻した際、経久は高国らと行動を共にしていたと思われる。
【写真左】惣門の案内板
探訪したのが7月の終わりという一番暑い盛りで、しかも「まむし注意」という表示板を見たとき、これ以上先を進むのをためらったが、慎重に歩きながら惣門跡に向かう。
さて、事実上主(あるじ)のいない幕府側は、ついに義稙に使者を送り和議を申しれることになった。
7月1日、義稙は義澄の官爵を奪取、再び室町幕府征夷大将軍の地位を得た。当然ながら、義興はその最大の功労者として、管領職に任じられ、畿内・中国・西海を統治することになる。
【写真左】惣門が見えてきた。
惣門は下(南)にあり、伸び放題の雑草のため、どのあたりが道なのかよく分からない。
その後義興は、永正15年(1518)まで在京することになるが、彼が室町幕府の将軍義稙や、管領細川高国と蜜月だったのはこの時期がピークで、先に出雲に帰った尼子経久や、安芸の武田元繁らが義興の支配地を侵すようになったため、中央(京)での強力な地盤を築けないまま、山口へ帰還することになる。
【写真左】惣門・その1
現在は南側にこの石垣が残っているが、当時はこの位置から北にかけて「コ」の字の形で、取り囲むような石垣もあったのではないかと推察される。
以上のように大内義興が足利義稙を奉じて上洛し、以後義興は約11年間在京することになるため、今稿の「凌雲寺」が創建されたのは、義興が上洛する直前だったと考えられる。
そして、上洛した後は、了庵桂悟にこの凌雲寺普請を委ねていたものと思われる。
【写真左】惣門・その2
近づいてみると、予想以上に幅がある。
【写真左】周囲を見渡す
一見するとのどかな棚田風景にみえるが、それぞれの段に寺坊などが建てられていたのかもしれない。
(おおうちしいせき・りょううんじあと)
●所在地 山口県山口市中尾
●高さ 標高140m(比高10m)
●創建期 永正4年頃(1507)
●開基 大内義興
●指定 国指定史跡
●遺構 石垣・惣門その他
●備考 城郭寺院か
●参拝日 2014年7月31日
◆解説
大内氏遺跡・凌雲寺跡(以下「凌雲寺」とする)は、山口市中尾にあって、以前紹介した高嶺城(山口県山口市上宇野令)の北西約4キロの位置に所在する。
【写真左】凌雲寺跡
東西に走る石垣跡
現地の説明板より
“大内氏遺跡・凌雲寺跡
昭和34年11月27日指定
凌雲寺は、大内氏30代義興を開基、了庵桂悟を開山として永正4年頃(1507)この地に創建されたと伝えられています。廃寺の年月は不明ですが、おそらく大内氏滅亡の後、いつの時代にか廃されたものと思われます。
【写真左】凌雲寺跡平面図
右方向が北を示す。西側(上部)に川が流れているが、その川を渡河すると切崖状の傾斜面があり、城郭寺院の要素を併せ持ったものであることが分かる。
寺は舌状をなして南に延びる台地上に営まれたもので、注目すべきは台地の南端を東西に横切る長い石垣です。これはこの寺の惣門の遺構と伝えられ、長さ約60m、高さ3m余りで、幅は2m余りあります。
巨岩をもって築かれ豪壮な石垣であり、寺の位置、地形等から考え、有事に備えての城塞の役を兼ねたものかと思われます。
指定区域内には凌雲寺開山塔、大内義興及びその婦人の墓と称する石塔三基が残っています。”
【写真左】遠望
西側から見たもので、手前には床の深い川が流れている。
大内義興
大内義興については、鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)でも紹介したように、大内義隆(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)の実父である。
そして、義興の父政弘は、応仁の乱が終結するするころの西軍の総大将として畿内で活躍しているが、文明9年(1477)この戦いがおわると山口に帰還している。義興はちょうど父政弘が山口に帰還した文明9年に生まれている。
因みに、後に覇を争うことになる出雲の尼子経久は、長禄2年(1458)に生まれているから、義興より19歳年上になる。
【写真左】案内板
少し手前の方に駐車場があり、そこから歩いて向かう。民家の脇の細い道を進む。
足利義稙を奉じて上洛
明応の政変により、室町幕府第10代将軍であった足利義稙(義材・義尹)は失脚、幽閉状態の身となり、小豆島に配流されるという直前に側近の手引きにより京都を脱出、前管領であった畠山政長を頼り越中に下向した。
その後、敵対していた細川政元と和睦したことにより、越前の朝倉貞景(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)のもとに身を寄せた。しかし、政元との和睦は再び決裂し、争った結果敗北し、周防の大内義興の庇護を受けることになる。
【写真左】西側斜面
昭和34年に指定を受けているが、その前まではおそらく田畑として使われていたのだろう。
それまでに小規模な圃場整備など手を加えていたかもしれないが、大規模な土砂の移動はなかったものと思われるため、この法面などは当時のものと殆ど変らないと考えられる。
永正4年(1507)6月23日、その政元は、細川澄之及び薬師寺長忠らによって謀殺され、その1か月余の8月、今度は政元を殺害した澄之が細川高国・政賢らによって殺害された。これにより細川澄元は同月2日、足利義澄に会い、家督を確認させた。
こうした畿内の情勢は逐次周防大内氏の元に届けられていたのだろう、大内義興が足利義稙を奉じて入京を図る決意をしたのは、この年(永正4年)の12月である。
【写真左】大内義興の墓など・その1
坂道を登ったところにあり、義興の墓をはじめ、宝篋印塔一基、五輪塔が2,3基祀られている。
ところで、周防国のとなり石見国ではこの段階で、三隅・福屋・周布・吉見の諸氏、そしてこのころ三隅氏・吉見氏らと敵対していた益田氏までも大内義興につき従った。
◎石見国の上洛従随者
- 三隅藤五郎興信
- 吉見三河守成頼
- 佐波常陸介誠連
- 高橋志摩守清光
- 福屋太郎左衛門国兼
- 小笠原兵部大輔長隆
- 周布左近将監和兼
- 同 武兼
- 中島主殿
- 都野又四郎
- 出羽孫次郎
- 祖式・久利等の諸氏
- 大谷維忠(益田大谷城主:益田宗兼の命により)
【写真左】大内義興の墓など・その2
【写真左】塚か
近くにはこんもりとした築山のような箇所があり、墓石の一部もしくは祠のようなものがある。
このあと、遺跡中央部のほうへ向かう。
義興らはこの鞆の浦で翌年(永正5年)の4月7日まで留まっている。常識的に見ると、随分とのんびりした航海だが、義興らが瀬戸内を航行している間(3月ごろ)、畿内で義興らのために協力していた細川高国が、足利澄元と不和になり、伊賀の仁木高長へ奔ったことや、敵対していた足利義澄が在京していたことなどから暫く様子を見ていた為である。
しかし、その義澄がその後近江に奔ったため、4月27日、遂に和泉の堺浦に碇を降ろした。その後、伊賀から戻った細川高国や、畠山尚順らが彼らを出迎え、その後、二人は先駆して京へ侵攻した。6月8日のことである。ちなみに、この上洛において、出雲の尼子経久は、義興ら瀬戸内ルートとは別に、京に向かっている。おそらく、高国らが京へ侵攻した際、経久は高国らと行動を共にしていたと思われる。
【写真左】惣門の案内板
探訪したのが7月の終わりという一番暑い盛りで、しかも「まむし注意」という表示板を見たとき、これ以上先を進むのをためらったが、慎重に歩きながら惣門跡に向かう。
さて、事実上主(あるじ)のいない幕府側は、ついに義稙に使者を送り和議を申しれることになった。
7月1日、義稙は義澄の官爵を奪取、再び室町幕府征夷大将軍の地位を得た。当然ながら、義興はその最大の功労者として、管領職に任じられ、畿内・中国・西海を統治することになる。
【写真左】惣門が見えてきた。
惣門は下(南)にあり、伸び放題の雑草のため、どのあたりが道なのかよく分からない。
その後義興は、永正15年(1518)まで在京することになるが、彼が室町幕府の将軍義稙や、管領細川高国と蜜月だったのはこの時期がピークで、先に出雲に帰った尼子経久や、安芸の武田元繁らが義興の支配地を侵すようになったため、中央(京)での強力な地盤を築けないまま、山口へ帰還することになる。
【写真左】惣門・その1
現在は南側にこの石垣が残っているが、当時はこの位置から北にかけて「コ」の字の形で、取り囲むような石垣もあったのではないかと推察される。
以上のように大内義興が足利義稙を奉じて上洛し、以後義興は約11年間在京することになるため、今稿の「凌雲寺」が創建されたのは、義興が上洛する直前だったと考えられる。
そして、上洛した後は、了庵桂悟にこの凌雲寺普請を委ねていたものと思われる。
【写真左】惣門・その2
近づいてみると、予想以上に幅がある。
【写真左】周囲を見渡す
一見するとのどかな棚田風景にみえるが、それぞれの段に寺坊などが建てられていたのかもしれない。
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