楢崎城(ならざきじょう)
●所在地 広島県府中市久佐町字城山
●高さ 270m(比高150m)
●別名 二子城・朝山二子城
●築城期 正慶2年・元弘3年(1333)
●築城者 楢崎豊武
●形態 直線状連郭式
●遺構 郭・空堀・石垣・石垣井戸
●登城日 2014年10月7日
◆解説(参考文献「日本城郭体系第13巻」等)
楢崎城はJR福塩線河佐駅の東方1キロに聳える標高270mの小山に築かれた城砦である。
【写真左】楢崎城遠望
西側から見たもの。麓には安全寺が建っている。
現地の説明板より
“新府中歴史○○めぐり
安全寺と五輪塔
正慶2年(1332年)宇多加賀守豊武が芦品郡の地頭として着任、姓を楢崎と改め居城を築いたのが楢崎城です。
7代の間、芦品郡と神石郡の一部を統括しました。楢崎氏の菩提寺が竹馬寺で現在の安全寺です。安全寺の境内に歴代城主の墓があり、竹馬寺跡(安全寺より800m西)に楢崎城の武将家臣の墓碑群があります。40基近い五輪塔と宝篋印塔2基が、手をつなぎ語り合っているかのように立ちながらならんでいます。
府中商工会議支所”
【写真左】歴代城主の墓と石碑
西麓にある安全寺の境内にはご覧の墓がある。
安全寺の前身竹馬寺はこの場所ではなかったが、後にこの場所へ移設され安全寺と改名されたようだ。したがってこれらの墓も同時に移設されたもの。
登城口はここから一旦西側に戻ったところにあるが、管理人はこのままこの場所から直登し、途中から登城道に合流して向かった。
楢崎氏
説明板にもあるように、当地に入国した宇多豊武はその後、姓を楢崎と改めている。また「日本城郭体系」によれば、楢崎という姓は、入国する前に在住していた近江国犬上郡楢崎村から名乗ったという。その時期は、芦品郡に入った正慶2年(1332)からおよそ20年後の文和年間(1352~56)といわれる。その後の継嗣は次の通り。
●所在地 広島県府中市久佐町字城山
●高さ 270m(比高150m)
●別名 二子城・朝山二子城
●築城期 正慶2年・元弘3年(1333)
●築城者 楢崎豊武
●形態 直線状連郭式
●遺構 郭・空堀・石垣・石垣井戸
●登城日 2014年10月7日
◆解説(参考文献「日本城郭体系第13巻」等)
楢崎城はJR福塩線河佐駅の東方1キロに聳える標高270mの小山に築かれた城砦である。
【写真左】楢崎城遠望
西側から見たもの。麓には安全寺が建っている。
現地の説明板より
“新府中歴史○○めぐり
安全寺と五輪塔
正慶2年(1332年)宇多加賀守豊武が芦品郡の地頭として着任、姓を楢崎と改め居城を築いたのが楢崎城です。
7代の間、芦品郡と神石郡の一部を統括しました。楢崎氏の菩提寺が竹馬寺で現在の安全寺です。安全寺の境内に歴代城主の墓があり、竹馬寺跡(安全寺より800m西)に楢崎城の武将家臣の墓碑群があります。40基近い五輪塔と宝篋印塔2基が、手をつなぎ語り合っているかのように立ちながらならんでいます。
府中商工会議支所”
【写真左】歴代城主の墓と石碑
西麓にある安全寺の境内にはご覧の墓がある。
安全寺の前身竹馬寺はこの場所ではなかったが、後にこの場所へ移設され安全寺と改名されたようだ。したがってこれらの墓も同時に移設されたもの。
登城口はここから一旦西側に戻ったところにあるが、管理人はこのままこの場所から直登し、途中から登城道に合流して向かった。
楢崎氏
説明板にもあるように、当地に入国した宇多豊武はその後、姓を楢崎と改めている。また「日本城郭体系」によれば、楢崎という姓は、入国する前に在住していた近江国犬上郡楢崎村から名乗ったという。その時期は、芦品郡に入った正慶2年(1332)からおよそ20年後の文和年間(1352~56)といわれる。その後の継嗣は次の通り。
- 初代 豊武
- 2代 豊真
- 3代 満景
- 4代 宗豊
- 5代 信豊
- 6代 宗真
- 7代 通景
- 8代 豊景
楢崎城主最後の第8代豊景の代のとき、毛利氏に攻められ降伏、その後永禄から慶長年間(1558~1615)の間、毛利氏幕下の武将として仕え、活躍したといわれる。
【写真左】登城道
登城道は西側から回り込み、次第に南進した後、左方向に鋭角に曲がり、そのあと直進して本丸に繋がる。
写真は途中の南側斜面に取り付く道。
出雲国馬潟原の合戦
出雲尼子氏と毛利氏の戦いについてはこれまで紹介してきたが、楢崎氏が毛利氏に仕えて、最初に軍功を挙げたのがこの出雲における馬潟原の戦いである。
この戦いは、白鹿城(島根県松江市法吉町)・その2でも述べたように、凋落の見え始めた尼子氏を攻略すべく、元就が病をおして永禄5年(1562)出雲に発向、松江に荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を築き、尼子氏居城であった広瀬の月山富田城と、それを支援する松田氏一族が拠る白鹿城との連絡を分断させる戦いであった。
【写真左】堀切
楢崎城の本丸がある頂部と、そこから北西に向かって尾根が続き、一旦鞍部を介して向背の山が控える。この箇所には2条の堀切がある。
この写真はそのうち北端部のもので尾根幅が絞られた箇所である。
馬潟原というのは、松江市を東西に流れる大橋川の東南部にある現在の馬潟地区で、富田城から白鹿城へ向かうにはこの大橋川を渡河しなければならなかった。
白鹿城に籠る尼子方の兵糧が底を突き始めたのは、この年(永禄6年)8月の半ば過ぎからで、元就は徐々に白鹿城を取り囲み、同月13日、外郭を焼き、籠城の尼子方は富田城からの支援なしでは持ち堪えることが不可能となった。このため、富田城からは兵糧と併せ、所々を押さえていた毛利氏の陣を打ち破る必要があった。
【写真左】南側の登城道
途中で登城道は左に旋回し、本丸の南斜面に取り付いている。もっともこの道は近年設置されたような幅広のもので、当時の大手道がこの箇所であったかどうかは分からない。
しかし、毛利方は広瀬月山富田城から白鹿城への補給路を分断する要所を綿密に設定していた。特にこの馬潟から北に向かって大橋川を渡河した現在の津田町付近は、最も重要な場所で、元就らによるこの判断が功をそうした。
【写真左】石垣
本丸下の腰郭側にあるもので、幅7m前後の規模のもの。
楢崎豊景らが馬潟原で月山富田城から救援に駆けつけた尼子勢と戦ったのは、永禄6年(1563)9月23日のことといわれる。この戦いの1ケ月後の10月29日、兵糧の尽きた白鹿城を攻略、城内の主だったものは自害、他は富田城などに逃げ込み、白鹿城はここに落城した。
【写真左】郭段
本丸の東側に付随するもので、この先を下っていくと、当城最大の堀切があるはずだが、藪化していて踏査できない。
その後の楢崎氏
楢崎氏の事績としては上記の出雲国馬潟原の戦いのあと、備後神辺城の内紛処理などをしたことが知られている。
また、元亀元年(1570)、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)においては、城主三浦貞広が山中鹿助の合力によって一旦奪われた当城を奪還したが、その6年後の天正4年(1576)3月、毛利・宇喜多連合軍によって再び攻略されることになり、そのあとに城主として入ったのが楢崎元兼である。
元兼はおそらく豊景の嫡男か一族のものだろう。因みに、彼が高田城に在城した期間は天正11年(1583)ごろまでで、高松城攻めのあと、楢崎元兼に代わって入ったのは、宇喜多秀家である。
【写真左】本丸・その1
およそ長径(東西)80m×短径20mの規模を持つ。手前左右は樹木があり中央部までの道周りだけが整備されている。
【写真左】本丸・その2
本丸中心部にはご覧の小屋が建てられている。
【写真左】「楢崎山城址之碑」
本丸跡には当城の石碑があるが、明治44年3月に楢崎氏の末裔が建立とある。
【写真左】龍王神社
本丸北側には龍王神社が祀られている。
【写真左】基壇
龍王神社の後ろ(北側)は約1m程度高くなった基壇がある。物見櫓の役目もしていたのかもしれない。
【写真左】宝篋印塔
基壇の後ろには宝篋印塔1基が確認できた。
このあとさらに、北に進む。
【写真左】本丸北端部
錆びついた鉄棒の施設が残るが、この先は切崖となって、さらに細長い腰郭があるが、藪化していて明瞭でない。
【写真左】本丸から西方を俯瞰する。
冬期に訪れれば手前の樹木の葉が枯れて見通しもよくなるだろうが、この日は余りよく見えない。
西麓には久佐町の街並みが広がる。
◎関連投稿
正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)
【写真左】登城道
登城道は西側から回り込み、次第に南進した後、左方向に鋭角に曲がり、そのあと直進して本丸に繋がる。
写真は途中の南側斜面に取り付く道。
出雲国馬潟原の合戦
出雲尼子氏と毛利氏の戦いについてはこれまで紹介してきたが、楢崎氏が毛利氏に仕えて、最初に軍功を挙げたのがこの出雲における馬潟原の戦いである。
この戦いは、白鹿城(島根県松江市法吉町)・その2でも述べたように、凋落の見え始めた尼子氏を攻略すべく、元就が病をおして永禄5年(1562)出雲に発向、松江に荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を築き、尼子氏居城であった広瀬の月山富田城と、それを支援する松田氏一族が拠る白鹿城との連絡を分断させる戦いであった。
【写真左】堀切
楢崎城の本丸がある頂部と、そこから北西に向かって尾根が続き、一旦鞍部を介して向背の山が控える。この箇所には2条の堀切がある。
この写真はそのうち北端部のもので尾根幅が絞られた箇所である。
馬潟原というのは、松江市を東西に流れる大橋川の東南部にある現在の馬潟地区で、富田城から白鹿城へ向かうにはこの大橋川を渡河しなければならなかった。
白鹿城に籠る尼子方の兵糧が底を突き始めたのは、この年(永禄6年)8月の半ば過ぎからで、元就は徐々に白鹿城を取り囲み、同月13日、外郭を焼き、籠城の尼子方は富田城からの支援なしでは持ち堪えることが不可能となった。このため、富田城からは兵糧と併せ、所々を押さえていた毛利氏の陣を打ち破る必要があった。
【写真左】南側の登城道
途中で登城道は左に旋回し、本丸の南斜面に取り付いている。もっともこの道は近年設置されたような幅広のもので、当時の大手道がこの箇所であったかどうかは分からない。
しかし、毛利方は広瀬月山富田城から白鹿城への補給路を分断する要所を綿密に設定していた。特にこの馬潟から北に向かって大橋川を渡河した現在の津田町付近は、最も重要な場所で、元就らによるこの判断が功をそうした。
【写真左】石垣
本丸下の腰郭側にあるもので、幅7m前後の規模のもの。
楢崎豊景らが馬潟原で月山富田城から救援に駆けつけた尼子勢と戦ったのは、永禄6年(1563)9月23日のことといわれる。この戦いの1ケ月後の10月29日、兵糧の尽きた白鹿城を攻略、城内の主だったものは自害、他は富田城などに逃げ込み、白鹿城はここに落城した。
【写真左】郭段
本丸の東側に付随するもので、この先を下っていくと、当城最大の堀切があるはずだが、藪化していて踏査できない。
その後の楢崎氏
楢崎氏の事績としては上記の出雲国馬潟原の戦いのあと、備後神辺城の内紛処理などをしたことが知られている。
また、元亀元年(1570)、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)においては、城主三浦貞広が山中鹿助の合力によって一旦奪われた当城を奪還したが、その6年後の天正4年(1576)3月、毛利・宇喜多連合軍によって再び攻略されることになり、そのあとに城主として入ったのが楢崎元兼である。
元兼はおそらく豊景の嫡男か一族のものだろう。因みに、彼が高田城に在城した期間は天正11年(1583)ごろまでで、高松城攻めのあと、楢崎元兼に代わって入ったのは、宇喜多秀家である。
【写真左】本丸・その1
およそ長径(東西)80m×短径20mの規模を持つ。手前左右は樹木があり中央部までの道周りだけが整備されている。
【写真左】本丸・その2
本丸中心部にはご覧の小屋が建てられている。
【写真左】「楢崎山城址之碑」
本丸跡には当城の石碑があるが、明治44年3月に楢崎氏の末裔が建立とある。
【写真左】龍王神社
本丸北側には龍王神社が祀られている。
【写真左】基壇
龍王神社の後ろ(北側)は約1m程度高くなった基壇がある。物見櫓の役目もしていたのかもしれない。
【写真左】宝篋印塔
基壇の後ろには宝篋印塔1基が確認できた。
このあとさらに、北に進む。
【写真左】本丸北端部
錆びついた鉄棒の施設が残るが、この先は切崖となって、さらに細長い腰郭があるが、藪化していて明瞭でない。
【写真左】本丸から西方を俯瞰する。
冬期に訪れれば手前の樹木の葉が枯れて見通しもよくなるだろうが、この日は余りよく見えない。
西麓には久佐町の街並みが広がる。
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