讃岐・甲山城(さぬき・かぶとやまじょう)
●所在地 香川県善通寺市弘田町甲山
●高さ 87m(比高70m)
●築城期 不明
●築城者 朝比奈弥太郎
●遺構 郭
●備考 四国霊場第74番札所・甲山寺
●登城日 2014年7月5日
◆解説(参考文献 サイト「城郭放浪記」等)
讃岐・甲山城(以下「甲山城」とする)は、香川県善通寺市にあって、以前紹介した天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)の出城とされた城砦である。
【写真左】甲山城遠望
麓には四国霊場第74番札所・甲山寺があるが、そこから南南東へ2キロ足らずで空海生誕地とされる75番札所の善通寺がある。写真はその善通寺側から撮ったもの。
なお、善通寺は真言宗善通寺派総本山で、紀伊の高野山、京都の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられている。
現地の説明板より
“昔から親しまれている甲山(かぶとやま)は、ふもとに平安時代空海によって建立された甲山寺があり、また、室町時代には天霧城の出城があったと言われる。
そして、この甲山には江戸末期に開かれたという西国三十三札所がある。
このような歴史の流れと自然の恵みの中、私達は新たなふれあいの場をこの地に求めたい。”
【写真左】甲山寺
医王山多宝院甲山寺(こうやまじ)
寺名は背後に聳える甲山からきたものだろうが、呼称は「こうやまじ」という。
甲山城に向かう登城道は、裏側にもありそうだが、当院境内からのコースが整備されているので、先ずは参拝してから向かうことにする。
朝比奈弥太郎
天霧城の稿でも紹介したように、南北朝時代に至ると、讃岐国の守護職は細川氏が担うことになるが、このとき同氏に随った香川氏と安富氏は、それぞれ守護代として当地に下向した。こののち香川氏が勢力を拡大し、主に讃岐の西部をほとんど治めていくことになる。
甲山城の築城者とされる朝比奈弥太郎は、香川氏の家臣として活躍している。
【写真左】甲山寺と甲山城
当院のすぐ裏が甲山で、登城道は奥の方にある。
天文22年(1553)、阿波国を治めていた守護細川持隆は、家臣であった三好義賢に殺害され、南北朝から室町期にかけて、讃岐・阿波国に覇を唱えていた四国の細川氏は、次第にその力を失っていった。
それに代わって急激に台頭したのが、三好長慶らを筆頭とする三好一族であった。長慶が主として畿内を活躍の場としていたのに対し、後に実休と号した弟の義賢は、阿波国を本拠とし、さらには隣国讃岐にも触手を伸ばしていた(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)。
【写真左】案内図
「かぶと山トリムコース」と名付けられたハイキングコースが設置されている。
主郭は「石舞台」が標記された箇所に当たる。
この図でいえば、下の方からスタートすることになる。
永禄元年(1558)、三好実休は讃岐に侵攻、香川氏を攻めた。このとき、香川氏家中の中でも豪の勇士といわれた朝比奈弥太郎は、甲山城南麓において寄せ手の軍勢およそ190人を討ち取ったが、最後は力尽き討死したといわれる。
なお、朝比奈弥太郎の墓(石碑)は、近年だが甲山寺の裏(南側)にある善通寺市営野球場の一角に祀られている。
【写真左】登城口付近
甲山は標高100mにも満たない小山で、傾斜面には階段なども設置されていることから、夏だったものの、いつものような大汗はかかずに済んだ。
【写真左】「陸軍用地」の石碑
しばらく登っていくとご覧の石碑が見えた。
記録によれば、この善通寺市地域は明治29年(1896)に陸軍第11師団が設置され、善通寺を中心とした門前町と併せ軍都としての性格も持ち合わせた特異な都市景観が醸成されたという。
そのためだろう、あとで旧市街地を歩いてみると、洋風っぽい建物も散見された。
【写真左】郭段
中段までたどり着くと、ご覧の公園化した削平地が見える。
滑り台、ベンチや遊戯施設などが置かれている。先ほどの案内図から見ると、「みどりの広場」という箇所のようだ。
遺構の残存度がどの程度のものか分からないが、大幅に手は加えていないようだ。およそ2段の構成となっており、下の断が広い。
【写真左】さらに上を目指す。
【写真左】主郭
頂部だが余り整備されていない。
およそ20m×10m程度の削平地。
【写真左】石碑
主郭跡にご覧の石碑が見えたが、余りの草丈のため踏み込むのをためらった。
石碑の架台として石積がされているようだが、ここからは見えない。
石碑には天皇旗のデザインが刻まれている。
このあと主郭をこえて奥(南)に向かう。
【写真左】郭段
やっと郭の遺構が確認できた。
【写真左】さらにその下の郭
この辺りになると、ほとんど自然地形に近い状態になっている。
【写真左】横から見る。
この辺りにもハイキングコース(遍路道?)として地蔵さんが要所に置かれている。
【写真左】善通寺
下山後、善通寺も訪れた。
●所在地 香川県善通寺市弘田町甲山
●高さ 87m(比高70m)
●築城期 不明
●築城者 朝比奈弥太郎
●遺構 郭
●備考 四国霊場第74番札所・甲山寺
●登城日 2014年7月5日
◆解説(参考文献 サイト「城郭放浪記」等)
讃岐・甲山城(以下「甲山城」とする)は、香川県善通寺市にあって、以前紹介した天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)の出城とされた城砦である。
【写真左】甲山城遠望
麓には四国霊場第74番札所・甲山寺があるが、そこから南南東へ2キロ足らずで空海生誕地とされる75番札所の善通寺がある。写真はその善通寺側から撮ったもの。
なお、善通寺は真言宗善通寺派総本山で、紀伊の高野山、京都の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられている。
現地の説明板より
“昔から親しまれている甲山(かぶとやま)は、ふもとに平安時代空海によって建立された甲山寺があり、また、室町時代には天霧城の出城があったと言われる。
そして、この甲山には江戸末期に開かれたという西国三十三札所がある。
このような歴史の流れと自然の恵みの中、私達は新たなふれあいの場をこの地に求めたい。”
【写真左】甲山寺
医王山多宝院甲山寺(こうやまじ)
寺名は背後に聳える甲山からきたものだろうが、呼称は「こうやまじ」という。
甲山城に向かう登城道は、裏側にもありそうだが、当院境内からのコースが整備されているので、先ずは参拝してから向かうことにする。
朝比奈弥太郎
天霧城の稿でも紹介したように、南北朝時代に至ると、讃岐国の守護職は細川氏が担うことになるが、このとき同氏に随った香川氏と安富氏は、それぞれ守護代として当地に下向した。こののち香川氏が勢力を拡大し、主に讃岐の西部をほとんど治めていくことになる。
甲山城の築城者とされる朝比奈弥太郎は、香川氏の家臣として活躍している。
【写真左】甲山寺と甲山城
当院のすぐ裏が甲山で、登城道は奥の方にある。
天文22年(1553)、阿波国を治めていた守護細川持隆は、家臣であった三好義賢に殺害され、南北朝から室町期にかけて、讃岐・阿波国に覇を唱えていた四国の細川氏は、次第にその力を失っていった。
それに代わって急激に台頭したのが、三好長慶らを筆頭とする三好一族であった。長慶が主として畿内を活躍の場としていたのに対し、後に実休と号した弟の義賢は、阿波国を本拠とし、さらには隣国讃岐にも触手を伸ばしていた(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)。
【写真左】案内図
「かぶと山トリムコース」と名付けられたハイキングコースが設置されている。
主郭は「石舞台」が標記された箇所に当たる。
この図でいえば、下の方からスタートすることになる。
永禄元年(1558)、三好実休は讃岐に侵攻、香川氏を攻めた。このとき、香川氏家中の中でも豪の勇士といわれた朝比奈弥太郎は、甲山城南麓において寄せ手の軍勢およそ190人を討ち取ったが、最後は力尽き討死したといわれる。
なお、朝比奈弥太郎の墓(石碑)は、近年だが甲山寺の裏(南側)にある善通寺市営野球場の一角に祀られている。
【写真左】登城口付近
甲山は標高100mにも満たない小山で、傾斜面には階段なども設置されていることから、夏だったものの、いつものような大汗はかかずに済んだ。
【写真左】「陸軍用地」の石碑
しばらく登っていくとご覧の石碑が見えた。
記録によれば、この善通寺市地域は明治29年(1896)に陸軍第11師団が設置され、善通寺を中心とした門前町と併せ軍都としての性格も持ち合わせた特異な都市景観が醸成されたという。
そのためだろう、あとで旧市街地を歩いてみると、洋風っぽい建物も散見された。
【写真左】郭段
中段までたどり着くと、ご覧の公園化した削平地が見える。
滑り台、ベンチや遊戯施設などが置かれている。先ほどの案内図から見ると、「みどりの広場」という箇所のようだ。
遺構の残存度がどの程度のものか分からないが、大幅に手は加えていないようだ。およそ2段の構成となっており、下の断が広い。
【写真左】さらに上を目指す。
【写真左】主郭
頂部だが余り整備されていない。
およそ20m×10m程度の削平地。
【写真左】石碑
主郭跡にご覧の石碑が見えたが、余りの草丈のため踏み込むのをためらった。
石碑の架台として石積がされているようだが、ここからは見えない。
石碑には天皇旗のデザインが刻まれている。
このあと主郭をこえて奥(南)に向かう。
【写真左】郭段
やっと郭の遺構が確認できた。
【写真左】さらにその下の郭
この辺りになると、ほとんど自然地形に近い状態になっている。
【写真左】横から見る。
この辺りにもハイキングコース(遍路道?)として地蔵さんが要所に置かれている。
【写真左】善通寺
下山後、善通寺も訪れた。
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