波賀城(はがじょう)
●所在地 兵庫県宍粟市波賀町上野(波賀城史公園)
●築城期 弘長年間(1261~63)
●築城者 芳賀七郎
●標高 458m
●城主 中村氏など
●遺構 郭、石垣、土塁、堀切、復興木造二層櫓
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年8月15日
◆解説
兵庫県の西部因幡街道(国道29号線)沿いに築城された山城で、現在公園として整備され、車で直接たどり着けるようになっている。
波賀城については、現地にある詳細な説明板があるので、以下に示す。
【写真左】波賀城・その1
西麓から見たもの
【写真左】波賀城・その2
説明板より
“波賀城蹟
11世紀の初めのころまでに、私達のこの地域は、伯可荘(はかのしょう)として石清水八幡宮の荘園になっていました。
この地には有名な名馬の伝説があります。
「その昔、芳賀七郎という武士がおりました。彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、あるとき、そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。
七郎は、名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました…」
伝説の芳賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。
13世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移ってきたのが中村氏や大河原氏です。彼らは鎌倉幕府の御家人で、秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党(たんとう)、丹治(たんじ)氏の一族です。
【写真左】石垣と塀
中村氏は、初代の光時から戦国時代末期の吉宗まで20代にわたって波賀城主であったといわれます。波賀城を修理・拡張し、これを拠点にして赤松氏などの支配下で勢力を維持したものと思われます。
現在の波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。羽柴秀吉が播磨を制圧したときに、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。
この城は、山陽道と日本海側を結ぶ因幡海道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの「郭」を造って縦深をとっています。
【写真左】復元木造二層櫓
櫓は城山西端部に造られ、この場所から眼下に波賀の街並みが望める(下の写真参照)
また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。復元された城の石垣は、中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張とともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。
平成2年3月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に取り組むことを決め、城蹟整備専門委員会を設置して、文献、古文書など考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、城山の山頂部分を中心とする城郭遺構と、その縄張と、山麓部の製鉄遺構の発掘調査を行いました。
このことから、波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い史的遺産を含んでいることが確認され、城蹟の整備はそれ等の歴史的、文化的遺産のさらなる調査と保護をも含めて実施されるべきものとの結論を得ました。
【写真左】西方の眺望
写真の右が北になり鳥取方面に向かう。
手前が波賀の街並みで、谷の奥は斎木地区。この谷を越えると千種に繋がる。
このたび、その第1期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、町民が町史を学ぶ、心のよりどころの場となって、永く後世に活かされていくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。
宍粟市”
なお、上記の説明板とは別に、二層櫓内には当城の歴史について表記したものがある。これによると、波賀城の築城者は、波賀七郎光節と、初代城主中村光時が併記されている。
【写真左】落城の記事
また、落城したのは1585年、すなわち天正13年と書かれている。この年は秀吉が四国征伐した頃で、波賀城はその前に堕ちたのだろう。
鉄の生産
ところで、波賀を含めた千種地域は昔から良質な鉄が生産されていた。鎌倉末期の元亨3年(1323)、国宝の短刀が波賀城の東方揖保川沿いの三方(みかた)西で造られている。
この短刀には表に「備州長船住景光」とあり、裏には「元亨3年3月」とある。これ以外にも名刀が作られている。(下の写真「たたらの里」参照)
【写真左】古城跡付近に建つ祠
【写真左】たたらの里
波賀城の麓を流れる引原川の西の峰を越えた千種川の上流、西河内にあるタタラ跡で、その規模や歴史は近在ではもっとも大きく、古い。
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●指定 市指定史跡
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波賀城については、現地にある詳細な説明板があるので、以下に示す。
【写真左】波賀城・その1
西麓から見たもの
【写真左】波賀城・その2
説明板より
“波賀城蹟
11世紀の初めのころまでに、私達のこの地域は、伯可荘(はかのしょう)として石清水八幡宮の荘園になっていました。
この地には有名な名馬の伝説があります。
「その昔、芳賀七郎という武士がおりました。彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、あるとき、そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。
七郎は、名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました…」
伝説の芳賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。
13世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移ってきたのが中村氏や大河原氏です。彼らは鎌倉幕府の御家人で、秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党(たんとう)、丹治(たんじ)氏の一族です。
【写真左】石垣と塀
中村氏は、初代の光時から戦国時代末期の吉宗まで20代にわたって波賀城主であったといわれます。波賀城を修理・拡張し、これを拠点にして赤松氏などの支配下で勢力を維持したものと思われます。
現在の波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。羽柴秀吉が播磨を制圧したときに、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。
この城は、山陽道と日本海側を結ぶ因幡海道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの「郭」を造って縦深をとっています。
【写真左】復元木造二層櫓
櫓は城山西端部に造られ、この場所から眼下に波賀の街並みが望める(下の写真参照)
また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。復元された城の石垣は、中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張とともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。
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このことから、波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い史的遺産を含んでいることが確認され、城蹟の整備はそれ等の歴史的、文化的遺産のさらなる調査と保護をも含めて実施されるべきものとの結論を得ました。
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写真の右が北になり鳥取方面に向かう。
手前が波賀の街並みで、谷の奥は斎木地区。この谷を越えると千種に繋がる。
このたび、その第1期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、町民が町史を学ぶ、心のよりどころの場となって、永く後世に活かされていくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。
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波賀
返信削除波賀
削除横田亜美
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