沢田城(さわだじょう)
●所在地 兵庫県篠山市沢田
●築城期 永正年間か
●築城者 小林近江守長任
●城主 沢田左衛門尉長治・小林修理之進時道・小林平左衛門重乾
●標高 30m程度
●遺構 土塁、郭等
●登城日 2010年10月8日
◆解説
前稿丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の支城といわれた城砦で、八上城主・波多野氏の家臣小林近江守長任が築いたといわれている。
【写真左】沢田城遠望
南側からみたもので、山城としては比高も低く、一見すると要害性はあまり感じられない。
所在地は、八上城の稿で紹介した図にもあるように、八上城から北西4キロの位置に築かれている。
山城というより平山城といった方がいいくらいの低丘陵地に築かれ、小規模な城砦である。
現地の説明板より
“澤田城
沢田城は戦国の昔、八上城主波多野秀治の命令で、小林氏がこの地池滝山に築城したものである。
小林氏は、沢田・黒岡郡家の千百石余を領していた。
歴代城主 事項
図中の中央部が本丸で、左に「出羽丸」という郭が築かれ、本丸右上に二ノ丸が伸びる。
また、右下(南)に毘沙門堂が描かれているが、これも「出羽丸」という郭跡である。
小林寺は後に建てられたもので、本丸を背に南麓に建立されている。
搦手は北に置いている。
沢田城が落城したのは、説明板にもあるように天正7年(1579)のことである。丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)主・波多野秀治・秀尚が明智光秀に攻められたのは、この年の前年(天正6年)である。
その後約1年にわたって八上城での籠城が続いた(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)。
【写真左】本丸跡に建つ石碑
現地はほとんど竹林状態だが、この場所だけ少し整備され石碑が建っている。
昭和48年春に建立され、城主小林近江守の四百回忌に当たって設置されたと記されている。
同時に八上城の支城であった沢田城主・小林平左衛門重乾は、沢田城より北西10数キロ隔てた柏原・八幡山城(兵庫県丹波市柏原町柏原)で奮戦していた。
八上城主波多野秀治・秀尚が光秀によって捕らわれ、安土に送られ信長の命によって磔刑されたのが、天正7年6月4日となっている。
【写真左】土塁跡か
東方に見えた個所で、土塁跡にもみえる。なお、東端部や北端部はかなり要害性を持たせた切崖が残る。
このことから、八上城と併せ沢田城の落城もおそらくこの年(天正7年)の6月1日前後と思われる。ちなみに、信長の居城・安土城が完成したのがこの年の5月11日であるので、竣工間もない城下で、彼らの処刑が執行されたことになる。
【写真左】出羽丸
南西部に設置された郭跡で、現在は墓地となっている。
さて、沢田城の麓には沢田城主の菩提寺「沢田山小林寺」が建立されている。
沢田山小林寺(曹洞宗)の縁起
“ 沢田山小林寺
元沢田城主並びに先祖の菩提寺であります。天正年間(1573~91)に、小林平左衛門長治が、父近江守長任を開基として、雑林庵を創立。のち、沢田城跡に移築し、小林寺と改称されました。
【写真左】沢田山小林寺
下って、享保14年(1729)、寺の位階を改め法地とし、曹洞宗宗洞光寺の24世春国万世栄大和尚を迎えて開山としました。
本尊は、十一面観音菩薩。また、68cmの毘沙門天立像(町文)が安置されています。
なお、背後の小山全体が沢田城跡で、容易に登れます。
篠山市”
●所在地 兵庫県篠山市沢田
●築城期 永正年間か
●築城者 小林近江守長任
●城主 沢田左衛門尉長治・小林修理之進時道・小林平左衛門重乾
●標高 30m程度
●遺構 土塁、郭等
●登城日 2010年10月8日
◆解説
前稿丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の支城といわれた城砦で、八上城主・波多野氏の家臣小林近江守長任が築いたといわれている。
【写真左】沢田城遠望
南側からみたもので、山城としては比高も低く、一見すると要害性はあまり感じられない。
所在地は、八上城の稿で紹介した図にもあるように、八上城から北西4キロの位置に築かれている。
山城というより平山城といった方がいいくらいの低丘陵地に築かれ、小規模な城砦である。
現地の説明板より
“澤田城
沢田城は戦国の昔、八上城主波多野秀治の命令で、小林氏がこの地池滝山に築城したものである。
小林氏は、沢田・黒岡郡家の千百石余を領していた。
歴代城主 事項
- 小林近江守長任 初代城主 天文年間(1540年・頃)沢田城を造営、小林寺殿勅岩祐元大居士
- 沢田平左衛門尉長治 晩年入道して雑林を号し、一宇を建つ。小林寺の創である。
- 小林修理之進時道
- 小林平左衛門重乾 天正7年(1579)柏原八幡山で戦死。沢田城落城”
図中の中央部が本丸で、左に「出羽丸」という郭が築かれ、本丸右上に二ノ丸が伸びる。
また、右下(南)に毘沙門堂が描かれているが、これも「出羽丸」という郭跡である。
搦手は北に置いている。
沢田城が落城したのは、説明板にもあるように天正7年(1579)のことである。丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)主・波多野秀治・秀尚が明智光秀に攻められたのは、この年の前年(天正6年)である。
その後約1年にわたって八上城での籠城が続いた(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)。
【写真左】本丸跡に建つ石碑
現地はほとんど竹林状態だが、この場所だけ少し整備され石碑が建っている。
昭和48年春に建立され、城主小林近江守の四百回忌に当たって設置されたと記されている。
同時に八上城の支城であった沢田城主・小林平左衛門重乾は、沢田城より北西10数キロ隔てた柏原・八幡山城(兵庫県丹波市柏原町柏原)で奮戦していた。
八上城主波多野秀治・秀尚が光秀によって捕らわれ、安土に送られ信長の命によって磔刑されたのが、天正7年6月4日となっている。
【写真左】土塁跡か
東方に見えた個所で、土塁跡にもみえる。なお、東端部や北端部はかなり要害性を持たせた切崖が残る。
このことから、八上城と併せ沢田城の落城もおそらくこの年(天正7年)の6月1日前後と思われる。ちなみに、信長の居城・安土城が完成したのがこの年の5月11日であるので、竣工間もない城下で、彼らの処刑が執行されたことになる。
【写真左】出羽丸
南西部に設置された郭跡で、現在は墓地となっている。
さて、沢田城の麓には沢田城主の菩提寺「沢田山小林寺」が建立されている。
沢田山小林寺(曹洞宗)の縁起
“ 沢田山小林寺
元沢田城主並びに先祖の菩提寺であります。天正年間(1573~91)に、小林平左衛門長治が、父近江守長任を開基として、雑林庵を創立。のち、沢田城跡に移築し、小林寺と改称されました。
【写真左】沢田山小林寺
下って、享保14年(1729)、寺の位階を改め法地とし、曹洞宗宗洞光寺の24世春国万世栄大和尚を迎えて開山としました。
本尊は、十一面観音菩薩。また、68cmの毘沙門天立像(町文)が安置されています。
なお、背後の小山全体が沢田城跡で、容易に登れます。
篠山市”
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