馬場ノ平城(ばばのひらじょう)
●所在地 兵庫県美方郡新温泉町奥八田石橋
●築城期 慶長年間(1596~1615)か
●築城者 馬場豊後守
●標高 不明(比高20m程度)
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2010年12月18日
◆解説
兵庫県の北西端にあって、西隣の鳥取県岩美郡岩美町と接する美方郡新温泉町の山間に築城されたといわれている山城(城館)である。
【写真左】付近の案内図
この図でいえば、右側が北を示し、下段の道路を右に向かうと、国道9号線に繋がる。
図にある「上山高原ふるさと館」の館長がたまたまおられ、当城について訪ねたところ、図の「現在地」より少し左側の畑になっているところが屋敷跡ではなかったかということだった。
ずいぶん前に、地元の郷土史家の方が当城についてもう少し調査をしたいと計画しておられたが、高齢のため断念されたという。
【写真左】馬場ノ平城(屋敷)跡と思われる個所
畑もしくは田圃のような状況になっている。
現在のルートでいえば、新温泉町の国道9号線蒲生トンネルの東側手前で南に分かれる枝線(262号線)に入って、奥八田小学校もしくは上山高原ふるさと館のところからさらに西の林道に入った地点になる。
山崎左馬允家盛と馬場豊後守
詳細な記録はないが、城主(屋敷)であった馬場豊後守は、因幡(鳥取)の南東部因幡・若桜鬼ヶ城主・山崎左馬允家盛・甲斐守家治父子の家臣であったという。
山崎左馬允家盛については、以前紹介した因幡・若桜鬼ヶ城の稿で、少し紹介しているが、彼が鬼ヶ城に入ったのは、関ヶ原の合戦後、すなわち慶長5年(1600)過ぎで、その17年後の元和3年(1617)、池田光政の鳥取移封に伴い、備中に転封となっている。
【写真左】 同上
土地改良や、農道が設置されたため、当時の面影が失われているが、近くの祠や社、またここから下の谷の景色を見ると、ほぼこの位置であろうことは想像できる。
このため、馬場ノ平城主・馬場豊後守も、同時期に当城から去ったものと思われ、在城期間も短かったものと思われる。
ただ、地元には馬場姓を名乗る人が少なくないので、同氏の一部がそのまま当地に残り、今も残る「馬場大明神」を建立したものと思われる。
若桜鬼ヶ城主であった山崎氏時代は、その所領範囲が現在の鳥取県若桜町を越え、但馬国の二方郡(美方郡・新温泉町)まで及んでいた。このため、家臣であった豊後守のいる馬場ノ平城までの往来は、若桜から北方に向かい、諸鹿(もろが)を通り、扇ノ山(1310m)の東尾根を越え、但馬に入るというルートが使われた。このルートは山崎氏の名をとって「左馬殿道」と呼ばれた。
【写真左】豊後守を祀る祠
馬場一族が「馬場大明神」として小祠を建立したものと思われる。
【写真左】石橋神社
上記の祠はこの鳥居の左側斜面にあり、鳥居をくぐり階段を上ると、石橋神社本殿が建つ。
大正13年の同社改築の際、境内に移し合祀したといわれている。
【写真左】因幡・若桜城
【写真左】因幡・若桜城から但馬の馬場ノ平城方面を見る。
若桜城側(鳥取県)からは、八束川の支流・来見野川沿いに登る県道103号線から向かうと、諸鹿に向い、扇ノ山(写真ほぼ中央部の山と思われる)の東の峰を越えると、但馬美方郡の馬場ノ平城に繋がる。
このルートが前記した「左馬殿道」である。
●所在地 兵庫県美方郡新温泉町奥八田石橋
●築城期 慶長年間(1596~1615)か
●築城者 馬場豊後守
●標高 不明(比高20m程度)
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2010年12月18日
◆解説
兵庫県の北西端にあって、西隣の鳥取県岩美郡岩美町と接する美方郡新温泉町の山間に築城されたといわれている山城(城館)である。
【写真左】付近の案内図
この図でいえば、右側が北を示し、下段の道路を右に向かうと、国道9号線に繋がる。
図にある「上山高原ふるさと館」の館長がたまたまおられ、当城について訪ねたところ、図の「現在地」より少し左側の畑になっているところが屋敷跡ではなかったかということだった。
ずいぶん前に、地元の郷土史家の方が当城についてもう少し調査をしたいと計画しておられたが、高齢のため断念されたという。
【写真左】馬場ノ平城(屋敷)跡と思われる個所
畑もしくは田圃のような状況になっている。
現在のルートでいえば、新温泉町の国道9号線蒲生トンネルの東側手前で南に分かれる枝線(262号線)に入って、奥八田小学校もしくは上山高原ふるさと館のところからさらに西の林道に入った地点になる。
山崎左馬允家盛と馬場豊後守
詳細な記録はないが、城主(屋敷)であった馬場豊後守は、因幡(鳥取)の南東部因幡・若桜鬼ヶ城主・山崎左馬允家盛・甲斐守家治父子の家臣であったという。
山崎左馬允家盛については、以前紹介した因幡・若桜鬼ヶ城の稿で、少し紹介しているが、彼が鬼ヶ城に入ったのは、関ヶ原の合戦後、すなわち慶長5年(1600)過ぎで、その17年後の元和3年(1617)、池田光政の鳥取移封に伴い、備中に転封となっている。
【写真左】 同上
土地改良や、農道が設置されたため、当時の面影が失われているが、近くの祠や社、またここから下の谷の景色を見ると、ほぼこの位置であろうことは想像できる。
このため、馬場ノ平城主・馬場豊後守も、同時期に当城から去ったものと思われ、在城期間も短かったものと思われる。
ただ、地元には馬場姓を名乗る人が少なくないので、同氏の一部がそのまま当地に残り、今も残る「馬場大明神」を建立したものと思われる。
若桜鬼ヶ城主であった山崎氏時代は、その所領範囲が現在の鳥取県若桜町を越え、但馬国の二方郡(美方郡・新温泉町)まで及んでいた。このため、家臣であった豊後守のいる馬場ノ平城までの往来は、若桜から北方に向かい、諸鹿(もろが)を通り、扇ノ山(1310m)の東尾根を越え、但馬に入るというルートが使われた。このルートは山崎氏の名をとって「左馬殿道」と呼ばれた。
【写真左】豊後守を祀る祠
馬場一族が「馬場大明神」として小祠を建立したものと思われる。
【写真左】石橋神社
上記の祠はこの鳥居の左側斜面にあり、鳥居をくぐり階段を上ると、石橋神社本殿が建つ。
大正13年の同社改築の際、境内に移し合祀したといわれている。
【写真左】因幡・若桜城
【写真左】因幡・若桜城から但馬の馬場ノ平城方面を見る。
若桜城側(鳥取県)からは、八束川の支流・来見野川沿いに登る県道103号線から向かうと、諸鹿に向い、扇ノ山(写真ほぼ中央部の山と思われる)の東の峰を越えると、但馬美方郡の馬場ノ平城に繋がる。
このルートが前記した「左馬殿道」である。
はじめまして、馬場豊後守の子孫の者です。
返信削除自身のルーツを調べていてこちらに辿り着きました。
貴重な情報を記事にして頂き有難うございました!
一度この地へ足を運んでみようと思います。
拝復 御笑覧いただきありがとうございます。10数年前の投稿なので管理人もすっかり忘れていました。因みに、当城に関しては別のサイト「山城攻略記」さんが詳細な記事を掲載されています。
削除山間部なのでくれぐれも足元にご留意ください。
トミー 拝
トミーさま
削除お返事遅くなりました。
古い情報でも辿り着くことができるのはインターネットならではですね!
山城攻略日記さまも拝見いたしました。
私はこういった情報を調べる術を、ネットで検索する程度しか持ち合わせていないので、
トミーさまや山城攻略日記さまの記事が無ければ豊後守の情報には辿り着くことができなかったと思います。
検索では他に情報が見当たらなかったので、
詳細なレポート(しかも写真付き!)を残してくださり、とても有り難く思います。