2013年3月12日火曜日

置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2

置塩城(おきしおじょう)・その2

●所在地 兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田
●指定 国指定史跡
●登城日 21012年12月16日

◆解説(参考文献『サイト「城郭放浪記」』等)
【写真左】置塩城遠望
 南麓側からみたもの。
【写真左】置塩城配置図









浦上氏と赤松氏

 前稿で、赤松満祐の遺臣らが再興したことを述べたが、実はその再興に当たっては、当時の麾下・浦上氏も多大な貢献をしている。

 主家であった赤松氏が失墜したとき、その配下にあった浦上氏も殉じた。しかし、その後浦上則宗は赤松氏遺臣とともに再興を果たし、応仁元年(1467)守護代となって三石城(岡山県備前市三石)を居城とした。
【写真左】二の丸と三の丸の中間点
 前稿最後に紹介した南西曲輪群から一旦戻り、二の丸の西麓を北に進むと、この場所に当たる。
 右側が二の丸北東端で、左側に進むと、三の丸に向かう。
 なお、この窪みも空堀のように見えるが、切通しで、このまま進むと台所跡に繋がる。
先ず左側の三の丸に向かう。




赤松義村と浦上村宗の不和

 ところが、前稿でものべたように、その後浦上則宗の孫・村宗の代になると、主君であった赤松義村との不和が高まった。最初に攻め入ったのは主君である義村である。

 永正16年(1519)、義村は則宗の居城三石城を攻めた。しかし、撃退され、2年後の大永元年(1521)、村宗は播磨国室津で義村を弑逆(しいぎゃく)、ここに西播磨と東備前を領有する戦国大名となった。中国地方における下剋上の始まりの一つといえる。
【写真左】三の丸・その1
 二の丸・三の丸付近の郭群はいずれも規模が大きい。
【写真左】三の丸・その2













赤松晴政(政村)

 事実上赤松氏を退けた浦上村宗は、その後細川家の内紛で、細川高国に属して(細川晴元と対立)各地を転戦した。しかし、享禄4年(1531)6月4日、三好元長らは赤松晴政(政村)の支援を受けて、細川高国を天王寺に破った(中嶋の戦い)。

 そして、その4日後の8日、高国は尼崎広徳寺で自害したが、村宗も同じく討死した(大物崩れ)。
【写真左】北曲輪群・その1
 三の丸からさらに北に伸びている郭群で、三の丸から7~8m程度下がった位置から北に延びている。
【写真左】北曲輪群・その2
 置塩城の各郭はいずれも規模の大きなものが多いが、中でもこの北曲輪群は最も大きい。
 三角形の形式をなしており、底辺部50m、奥行50mもあろうか。

 なお、この位置から西に向かって「西曲輪群」もあるが、時間の関係上そちらは踏査していない。




 ところで、赤松義村が播磨室津で謀殺されたあと、赤松氏はその子晴政が極秘に後を継いでいた。

 そして、細川高国・浦上村宗の死によって、晴政には播磨守護奪還のチャンスが訪れることになった。しかし、浦上氏はその後、村宗の子・政宗や宗景が勢力を維持していたため、その目的はなかなか果たせなかった。
【写真左】北曲輪群・その3
 北曲輪群から振り返って三の丸を見る。









 そうした最中、天文6年(1537)出雲の尼子詮久(後の晴久)が中国山地を越え、山陽の備前・播磨へと進攻してきた。

 これについては、以前三木城(兵庫県三木市上の丸)でも述べたように、尼子氏と本願寺光教との繋がりがある。
【写真左】台所跡の西側附近
 北曲輪群の東側斜面を通って二の丸側に進むと、左手に台所跡があるが、その境にはこのような石列がある。

 おそらく排水設備としての側溝跡と思われる。
この排水系統は二の丸及び、三の丸南端部から流出する雨水などを流すためのものだろう。



 このころ、浦上氏は家督を継いだ政宗と宗景には協力体制があり、尼子氏との和睦を行っていたため、同氏が攻められることはなかったが、赤松晴政に対しては徹底的な尼子氏の攻略が続き、翌天文7年(1538)11月5日、晴政は淡路に奔った。

 そして、翌8年11月25日、再び播磨に戻った晴政はまたしても尼子晴久によって破られ、一時三木城に逃げたものの、三木城の別所氏が尼子氏と通じたため、堺に逃亡した。

 その後の晴政は浦上政宗に実権を握られ、娘婿の龍野城主・赤松政秀に匿われながらも、浦上氏と争った。
【写真左】二の丸・その1
 台所跡と二の丸の間にある段で、幅4m前後奥行30m程度の規模を持つものだが、二の丸中心部との比高差は約2m程度ある。
【写真左】二の丸・その2
 置塩城の縄張図からもうかがえるように、当城の中心部となる位置で、北側に隣接する台所跡や、南側に茶室などがあったことから考えると、この二の丸や、後段で紹介する「二の丸北曲輪群」も含め、この場所が平時の居住地であったと考えられる。
【写真左】二の丸北曲輪群
 二の丸の北側を東西に走る切通しを介して、北東部に配置された曲輪群で、大小4つの郭段から構成されている。

 東側に向かって次第に下っていき、一旦鞍部となり、さらにその先に独立した峰の本丸が控える。
【写真左】本丸へ向かう
 先ほどの二の丸北曲輪群から東に向かう箇所だが、途中に石積みや、意識的に狭められた道などが見える。
【写真左】本丸・その1
 標高380mの位置で、20m×30m程度の規模を持つ。
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸・その3 瓦片
 この箇所にも建築物があったらしく、このような瓦片が残っている。
【写真左】本丸から北方を見る。
 二の丸付近からは眺望は全く期待できないが、本丸からは南北の眺望が楽しめる。
【写真左】本丸から南方を見る
 天気がいいと姫路城や、播磨灘などが見えると思われる。
【写真左】本丸から二の丸・北曲輪群を見る。
 この場所に立ってみて驚いたのが、二の丸などとの距離が思った以上に離れていたことである。

 連郭式山城であるが、考えようによっては「一城別郭形式」の城砦ともいえる。
【写真左】本丸南曲輪群
 本丸から南に約20m下がった位置に配置されているもので、およそ2段の郭から構成されている。
【写真左】櫃蔵神社と置塩城
 置塩城の西麓には櫃蔵神社がまつられている。

 暦応3年(1340)創建と伝えられ、置塩城5代城主赤松則房が天正5年(1577)羽柴秀吉に服して開城のとき、城の守護神は当社と糸田の柏森神社、垣屋の櫃倉神社の三所に分祀されたという。
 拝殿には多くの絵馬が奉納されている。

2013年3月1日金曜日

置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1

置塩城(おきしおじょう)・その1

●所在地 兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田
●別名 藤丸城・小塩城
●築城期 文明元年(1469)
●築城者 赤松政則
●城主 赤松氏
●形態 連郭式山城
●高さ 標高370m
●遺構 郭(本丸・二の丸・三の丸・その他多数の郭群)・石垣・茶室・台所等
●指定 国指定史跡
●備考 支城(小屋谷城・鞍掛山城・番城山城)
●登城日 2012年12月16日

◆解説(参考文献『サイト「城郭放浪記」』等)
 置塩城についてはこれまで多くのサイトでも紹介されているように、西日本でも有数の巨大山城で、白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)及び、感状山城(兵庫県相生市矢野町)と併せ赤松氏の城跡として1996年に国の史跡に指定されている。
【写真左】置塩城遠望
 北西部から見たもので、西麓を南北に流れるのは夢前川で、南下し播磨灘に注ぐ。







 現地の説明板より

“赤松氏城跡 置塩城跡

 国指定史跡。室町時代に播磨守守護職であった赤松氏の居城。標高370mの城山の山頂部に位置する播磨最大規模の山城跡である。
 遺構は東側の城内最高所にあたる伝本丸跡と、そこから鞍部を隔てた西側の伝二の丸跡を中心に広がり、曲輪・通路・石垣・土塁などが残っている。
【写真左】置塩城略図
 登城口は南側に設置されている(下の写真参照)。
詳細なものは下段に改めて示す。


 平成13~17年度に夢前町教育委員会が発掘調査を行った結果、伝二の丸跡で庭園とそれに面する大型の礎石建物、伝二の丸跡の北側で、曲輪群を貫く通路の遺構等が確認された。
 これらは格式を意識して構築されたものであるが、この意識は置塩城跡のプランを特徴づけるものとなっている。

 また、伝本丸跡には最終段階で天守的な性格をもつと考えられる塼裂建物を構築しており、城郭使用の末期段階において、伝本丸跡を中心とした曲輪は、この城全体の「詰城」的な機能を持っていたと考えられる。

 なお、発掘調査を通して出土した生活遺物は、土師器皿、中国製磁器碗・皿・備前焼甕・擂鉢、瓦質土器鉢など1万点に及ぶ。

 一般的に置塩城は、文明元年(1469)に赤松政則が築城したと伝わるが、この城が居城化し大規模に改修されるのは、16世紀中葉遺構で、赤松政村(晴政)・義祐・則房が城主であった時期に相当する。
 天正8年(1580)羽柴秀吉による城破令が出され廃城となった。
     平成20年8月
     姫路市教育委員会”
【写真左】登城口
 手前の道路脇には車3台程度の駐車スペースがあり、この他にも北側の神社脇に広い空地が設けられている。





赤松氏

 築城者は赤松政則といわれている。赤松氏は南北朝期、播磨に基盤をつくった則村(円心)をはじめとし、以後室町期将軍・足利義持の代に、有力守護として四職の一人(他は、山名・京極・一色の各氏)となり、幕政を運営していた。
 そして自らは播磨・備前・美作を支配していたが、嘉吉の変(1441)によって惣領家は没落。ほとんどの所領を山名氏に奪われるが、その後政則の代になると、彼は一族を再興していくことになる。
【写真左】登城道・5丁目付近
 登城道にはこうした距離を示す道標が設置されている。

 城域到達地点まで18箇所(18丁)設置されているので、換算すると、
18×109m=1,962m、およそ2キロの行程となる。



 ここで、改めて同氏の系譜について、諸説あるものの、示しておきたい。

  1. 初代  家範
  2. 2代   久範
  3. 3代  茂則
  4. 4代  則村 法名円心(1277~1350)  弟(円光)
  5. 5代  範資       (?~1351)   兄弟(貞範、則祐、氏範、氏康)
  6. 6代  則祐 5代範資の弟(1314~1372)
  7. 7代  義則 則祐の子  (1358~1427)
  8. 8代  満祐 義則の子  (1381~1441) 兄弟(祐尚、則友、義雅、則繁、竜門寺直操)
  9. 9代  政則 満祐の弟・義雅の孫(時勝の子) (1455~1496)
  10. 10代 義村 七条政資の子(政則の養子) (?~1521)
  11. 11代 晴政 義村の子 (1513~1565)
  12. 12代 義祐 晴政の子 (1537~1576)
  13. 13代 則房 義祐の子 (1559~1598)
  14. 14代 則英 則房の子 (?~1600) 赤松氏最後の当主。
【写真左】置塩城案内図
 城域の入口付近(茶室跡と二の丸の間)に設置されているもので、中央部の二の丸を基点に、南に茶室跡・南郭群、南西方向に南西曲輪群・大石垣、北北西に三の丸・北曲輪群があり、北側には台所・二の丸北曲輪群が近接している。

 そして、二の丸北曲輪群から東に約200m余り向かうと、独立した峰に本丸及び本丸南曲輪群が配置されている。


 嘉吉元年(1441)6月4日、赤松氏第8代満祐が足利義教を謀殺したいわゆる「嘉吉の変」については、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも紹介しているが、首謀者だった満祐は、その3か月後の9月10日、山名持豊(宗全)によって、播磨木山城攻めにおいて自刃を遂げることになる。
 赤松一族はその後、弟義雅の子時勝と、その子政則はしばらく京都の建仁寺で隠遁生活をしている。
【写真左】京都・建仁寺
 京都五山の一つで、以前取り上げた、出雲国の伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)でも紹介しているように、室町期には伊志見郷とは関わりが深い寺院(祥雲院領)でもある。
【写真左】南曲輪群へ向かう。
 登城道を登っていくと、最初の分岐点に出くわす箇所で、先ず右の道に進み南端部の南曲輪群に向かう。

 なお、この写真の左側の上の道は、二の丸東麓を進んで直接本丸へ向かう道となっている。


 こうしてしばらく当主がいなくなったものの、満祐の弟義雅の子ら遺臣は、17年後の長禄2年(1458)8月30日、吉野より神璽を奪回献上した功によって、幕府から同氏再興を許され、政則には加賀半国と備前・伊勢が与えられた。政則3歳のときであるから、おそらく遺臣の中心人物は時勝だったのだろう。
【写真左】南曲輪群・その1 1段目の郭
 南曲輪群は中小の郭が3段の構成となっている。
【写真左】南曲輪群・その2 2段目の郭
 幅は1段目よりせまいものの、奥行はこちらの方が長い。

 なお、この下にも1m程度の帯郭が取り巻いている。



歴代城主

 置塩城の歴代城主は、従って同氏9代政則から始まり、上述の系譜の流れと同じであるが、最後の城主となったのは、13代則房までである。

 このうち、同氏第11代、すなわち当城城主としては3代目となった晴政のとき、置塩城はもっとも激しい動乱の時を迎えた。晴政の父、すなわち赤松氏第10代の義村は系譜でも明らかなように、同氏直系ではなく、七条政資の子で、政村に養嗣子として入っている。

 このころ備前の浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)は、赤松氏の後見人として守護代の地位を得ていた。その村宗は後に赤松氏から実権を奪い取ろうとし、義村を幽閉・殺害した。大永元年(1521)9月17日のことである。
【写真左】茶室跡・その1
 南曲輪群から再び元のコースに戻り、登り坂を行くと、右側に茶室跡が見える。






 当然ながら赤松氏側からは村宗に対する反駁が起こった。赤松氏はその後、義村の子・晴政を極秘に3代目城主に据えた。浦上村宗はその頃、細川家の内紛にも荷担、細川高国側に属して各地で転戦をしていた。


その後の動きについては、次稿でとりあげることにしたい。
 
【写真左】茶室跡・その2
 茶室という名称から小規模なものというイメージがあるが、予想以上に広い。

 この下にも2段の郭が連続しているので、単純に東屋風の小ぶりな建物ではなく、相当大きな建築物があったのかもしれない。


【写真左】南西曲輪群へ向かう。
 茶室跡からすぐに真北に二の丸などが控えているが、その前に西側に繋がる「南西曲輪群」の方へ向かう。
 写真の右側の道は二の丸方面に向かう道で、二の丸側から直接南西曲輪群に向かうことも可能だが、切崖のため、素直にこの通を選んだ。
【写真左】南西曲輪群・その1 1段目の郭
 この箇所の曲輪群は、規模は小さいものの3段で構成され、施工精度も高い。
【写真左】南西曲輪群・その2 大石垣
 各段の比高差も平均して4m以上あり、見ごたえもある。
 この石垣は3段目に残るもので、当城の中でも特に優れた施工である。

2013年2月26日火曜日

因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)

因島・青陰山城(いんのしま・あおかげやまじょう)

●所在地 広島県尾道市因島中庄町青陰・田熊町
●築城期 南北朝期か
●別名 青影城
●築城者 不明(今岡氏・伊予衆か)
●城主 伊予衆・因島村上氏など
●指定 広島県指定史跡
●高さ 標高275m(比高180m)
●遺構 郭・木戸跡など
●登城日 2012年11月25日

◆解説(参考文献(『日本城郭体系第13巻』『サイト「城郭放浪記」』等)
 瀬戸内海のしまなみ海道を繋ぐ島の一つ・因島の青影山に築かれた山城である。因島の山城については、これまで千守城跡(広島県尾道市因島三庄町千守)を紹介しているが、青陰山城は同島の中でも高い位置にあり、眺望は極めてよい場所に築かれている。
【写真左】青陰山城遠望・その1
 北側にある村上水軍城から見たもの。
2014年12月撮影
【写真左】青陰山城遠望・その2
 南西麓の金山フェリー前(三光汽船発着場)ふきんから見たもの。







 当城については、いつものように現地の説明板から紹介したいところだが、管理人が登城したとき、現場にはその説明板の枠が残るのみで、肝心の文面が消失してしまっていた。このため、サイト『城郭放浪記』氏の写真から転載させていただく。
【写真左】青陰城と千守城の位置
 青陰城は因島の西方にあり、以前紹介した千守城は東方に配置されている。








“青影城跡

 標高277mの青影山の頂にあり、元弘年間村上義弘が居城してから慶長元年第10代村上吉亮が世を終わるまで、約260年間村上家累代の城であった。

 当時をしのぶものとして、本丸跡と二の丸跡の平坦地、それをつなぐ通路が一段低くなって頂上を形成、本丸の下に武者走り、東に三の丸の城門、石風呂、井戸等の跡があり、昭和32年9月広島県史跡として指定された。”
【写真左】登城口付近
 登城道は複数あるようだが、この日は南麓部からのコースを使った。

 写真に見える箇所には車1台分のスペースがあり、平日だったこともあり何とか停めることができた。

 余談ながら、瀬戸内の島独特の大変に狭い道で、対向車が来たら相当難儀することを覚悟しなければならない。


築城期と築城者

 上記の説明板によれば、元弘年間村上義弘が居城云々とある。しかし、これについて『日本城郭体系第13巻』は、村上海賊衆が瀬戸内海で水軍として活動し始めるのは、室町期も後期のことであり、村上義弘在世の貞治4年(正平20年・1365)頃には、のちの能島・来島・因島の三島村上氏のような海賊衆の組織化は見られない、としている。
【写真左】登城途中から青陰山城を見る。
 登城口から本丸まではおよそ600m程度で、道の方も整備されている。
 写真左側に見える岩は、下段に紹介する仙龍寺・奥ノ院に付属する仁王像が描かれているもの。
【写真左】仙龍寺の向背に描かれた仁王像
 この岩とは別にもう一つ絵が描かれているものがある。磨崖仏のようなものではなく、色を塗布したような仕上げになっている。



 この島に城郭を構えてくる必要が出だしたのは、南北朝期と考えられ、康永2年、青陰山の北麓から東に拡がる中庄町(かつては広い入江だった)の東南端の堂崎山城で、南北両軍の激しい戦いが繰り広げられており、青陰山城もこのころ築かれたものと推察される、としている。

 このころ因島を押さえていたのは、南朝方であった伊予衆で、北方から安芸・小早川氏が北朝方として南下してきている。その際、北朝方の攻めを最初に阻止するために築かれたのが、上述の堂崎山城である。

 当城については管理人は未登城だが、『城郭放浪記』氏が既に登城報告されているのでご覧いただきたい。この城の築城者は、南朝方の広沢五郎と大館右馬亮といわれ、当城における最も激しい戦いが、康永2年といわれている。
【写真左】石積みされた段
 登城途中、右側にあったもので、当時のものか、最近のものかわからないが、眺望が楽しめる。






今岡氏

 青陰山城の南麓部には館跡があり、そのうち南麓には「今岡氏屋敷跡」と伝承されるものがある。残念ながら現地でその場所は確認できなかったが、今岡氏は南北朝期に活躍した伊予衆といわれ、おそらく南朝方で当城の築城者ともいわれている。

 その後、村上氏が同島を支配下に治め、長崎城・青木城・余崎城などを支城として構えることになったと考えられる。
【写真左】分岐点
 青陰山城の東方にある鞍部で、この箇所で北側から登ってきた道と合流し、西(写真の正面)に進むと青陰山城へ、手前に行くと、風呂山方面に向かう。













城の構成

 青陰山を囲むような形で、東には風呂山、西に山伏山などが連なっているが、このうち三の丸は山伏山との間を介在する位置にあり、東には風呂山との間を掘りきった二の木戸(城門跡)を構え、そこから北麓への道をたどると、二段からなる屋敷跡があったといわれている。

 数年前まで当城の配置図などが掲示してあったようだが、相当劣化したため現在ではなくなっている。
【写真左】二の丸・その1
 上図の道を登っていくと、最初に二の丸が現れる。
 長さ約40m、幅5~10m前後のもので、南側には屋根付きの展望台が設置されている。
【写真左】二の丸・その2 石碑
 この石碑には、

 “建武中興六百年記念
村上義弘公青影城址登山路改修碑
 田熊 村上氏一族”

と刻銘されている。
【写真左】二の丸から南方を俯瞰する。
 二の丸からは南方がよく見える。
 この写真では、左から弓削島・生名島・鶴島などが見える。なお、麓の町は田熊町の町並み。


【写真左】二の丸から本丸へ
 二の丸から西に向かうと本丸に繋がるが、この連絡路は少し幅が狭くなり、途中の北側には深さ50cm程度の四角形に抉られた箇所が残る。何の目的かわからないが、人為的な遺構と考えられる。

 なお、この連絡路は登り坂で約50m程度の長さがある。
【写真左】本丸・その1
 二の丸とほぼ同じ程度の規模を持つもので、若干幅が広い。
【写真左】本丸・その2 石碑
 本丸は西側が少し高くなっているが、その場所にこの石碑が祀られている。
【写真左】三の丸
 本丸の西端部から2m程度の段差を持ち、幅3m程度の郭が本丸西端外周にとりついている。
【写真左】本丸南側
 青陰山城は東西に伸びる尾根筋を利用して築城された城砦であるため、南北は天険の要害である。

また、三の丸の西端部も山伏山との間が険しい谷を構成しているため、尾根筋以外の箇所で加工された郭などの遺構は少ない。
【写真左】本丸から北方を俯瞰する。
 本丸からほぼ真北には尾道市因島史料館や模擬天守の因島水軍城などが見える。

 その先には、因島大橋の橋脚や向島、さらに左側には本土側の三原市が確認できる。


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