2012年9月10日月曜日

因幡・山崎城(鳥取県鳥取市国府町山崎)

因幡・山崎城(いなば・やまさきじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市国府町山崎
●築城期 天文年間(1532~55)頃
●築城者 山崎毛利氏
●高さ 標高200m(比高60m)
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2012年4月2日

◆解説(「日本城郭体系第14巻」、「探訪ブックス 城6 山陰の城」等)
 因幡・山崎城は、鳥取市の南東国府町山崎にある小規模な山城である。
【写真左】山崎城遠望
 ダム下流部から見たもので、ダム側が袋川で、写真右下の橋のさらに下流部で、東方から流れてきた上地川と合流する。



 登城したのは今年だが、2,3年前に麓まで探訪している。当時は西麓を流れる袋川のダム工事(殿ダム)などが行われていて、登城道まで向かう道が塞がれていたため遠望しただけだった。
 このダムは昭和43年に計画が発表され、紆余曲折を経て昨年の平成23年11月に竣工したという。

 今年(2012年)4月、久しぶりに当地を探訪したところ、竣工したこともあって、登城口までの道も開放され、通行可能となっていたため向かうことができた。
【写真左】登城口
 この写真は、東側(裏側)に当たる個所で、右にある道は、ダム施設管理用の道路のようだ。駐車場所は写真にあるスペースでもよかったかもしれないが、この道路の下の空き地に止めて向かった。

 この位置から本丸まで465mと表記されている。
 おそらく、ダムができる前は舌陵状に伸びたこの箇所付近にも遺構が残っていたのかもしれない。


山崎毛利氏

 築城者は国侍毛利氏といわれている。この毛利氏は以前紹介した私部城(鳥取県八頭郡八頭町市場)の因幡毛利氏の一族といわれている。このことから、山崎城の毛利氏を、「山崎毛利氏」、私都城(私部城:きさいいちじょう)の毛利氏を、「私都毛利氏、または因幡毛利氏」と区分している。
【写真左】私部城





 因幡毛利氏も、安芸国の毛利氏と同じく、元は大江広元の四男・季光を祖とする相模国毛利庄の出である。
【写真左】登城道から殿ダムを見る。
 左側のダムから勢いよく大量の水が放流されている。







 山崎毛利氏が本家筋である私都毛利氏(因幡毛利氏)から分家した当初は、当然良好な関係をもっていた。

 しかし、この山崎毛利氏の本貫地は東隣の但馬国と接していたこともあり、山崎毛利氏は山名氏と関係を深めた。これに対し、私都毛利氏は当時、この但馬山名氏と対立していたため、天文年間の11年から15年(1542~46)にかけて、山崎毛利氏を攻め、山崎城を落としたという。

 当時山崎城主であった毛利某は、陥落によって但馬へのがれ、私都毛利氏が当地を奪い取ったといわている。
【写真左】堀切と切崖
 ダム側からほぼ一直線に細い尾根を登っていくと、最初に堀切が見える。その向こうには小郭(櫓跡か)の切崖が正対する。






山崎城の出城など

 山崎城の出城として記録が残るのは、同町雨滝に「蛇山城」があり、この雨滝(布引の滝)の上の剣山に「七曲ノ城」というのが配置されていた。
【写真左】蛇山城遠望
 山崎城からさらに31号線(雨滝街道)を北東に登っていくと、ご覧の「雨滝」という看板が見える。雨滝は日本滝百選の一つで、右の道を進むが、その左の31号線との分岐点から見える山城である。

 時間の関係上当城は未登城であるが、雨滝側の道から分岐する山道があるようだ。地元では通称「愛宕山」といっており、本丸跡には祠が祀ってあり、麓の雨滝神社の分祠とされている。
【写真左】七曲城から落ちる「布引の滝」
 「雨滝」には、もう一つ「布引の滝」というのがある。この滝の上に七曲城がある。 

 当城も未登城だが、現在登城ルートの崖が崩落し通行止めとなっており、当分無理のようだ。しかも、この滝の横の岩山をよじ登ることになり、登山に習熟した者でないと、命とりになるかもしれない。また「クマ」の出没地区に当たるというから、管理人にとっては、いよいよもってお手上げの山城である。

 現地の説明板によれば、南北朝期、赤松円心が築城し、戦国期に至り毛利氏の部将が改修したという。秀吉の中国攻めの際落城したという伝承も残る。
 地取りから考えて、但馬国から扇の山北麓を越えて因幡国に侵入する際の境目の城として築城されたものだろう。


 なお、山崎城から少し上ったところに楠城(なわしろ)という地区があるが、ここには南北朝期、楠木正成が一時当地に赴き、「楠城城」という城砦を築いたとされるところがある。正成が再び畿内に帰ったあとは、楠木一族が代々受け継いだといわれている。
【写真左】北端の郭
 先ほど見えた郭で、幅3m×奥行10m程度の規模のもの。

 写真の右側が登ってきた道で、この写真に見える左右両端までがこの位置の全幅になる。



 ところで、山崎城から少し下った中河原町というところだったと思う、小学校だったらしい廃校がある。現在この建物の一部には簡単な喫茶コーナーが設置されている。登城後コーヒーでも飲みたいと思ったので、この中に入った。

 地元の御婦人2,3人がおられ、家内と一緒に頂いた。店内(元教室か)の本棚に地元の歴史を綴った本があった。タイトルは忘れたが、山崎城に関する記事が載っていたので、紹介しておく。

“山崎(鳥取市国府町)    2005年5月2日

 国府町を縦断して流れる袋川の上流に、上池(わじ)川と雨滝川に枝分かれしてさかのぼっている場所がある。その両川に挟まれた城山の先端にある村なので「山崎」と呼ばれるようになった。

 また、城山の反対、雨滝川に沿って「殿」という村があった。殿ダム建設に伴い、全住民が村を離れ、平成11年頃集落はなくなった。しかしその昔、村には毛利の重臣屋敷が並んでいたのだろう。侍屋敷と騎馬の姿、雨滝街道を行き来する多くの旅人、そして山頂に望み見える山崎城の櫓など、往時の歴史映像を再現して想像するには楽しい。
【写真左】主郭に向かう。
 先ほどの郭を過ぎてさらに尾根伝いを南に進むと主郭が見えてくる。







 薮田寛(ゆたか)さん(73歳)は、何度も城山に登ったという。今は4人のお孫さんととおに悠々自適の毎日。地区の自治会長として住民の旗振り役を担ったこともある。耕運機の整備をされながら昔語りに花が咲く。

 「城山にゃ小学生のとき、全校生徒の体と精神を鍛えるって、先生が引率して何回もあがったですけぇ。頂上には何トンもの大石が整然と並んどってなあ、敵が来たら落とす段取りになっとった。

 西は断崖絶壁、横にゃあ深い堀溝、敵がひゃあれんやあに、難攻不落になっとったなあ」減反政策のなか、10軒の集落の周りは畑が多い。城山をスケッチする僕に気づかぬほど、無心に鍬をふるう山景多美江さんは屈託がない。「畑仕事で近所と仲ようできとりますぅ」
【写真左】山崎城の看板
 主郭に向かう途中の位置にはご覧のような看板が設置されている。

 写真左側が殿ダムから流れてきた袋川にあたり、その対岸部には周辺整備された道路が走る。


 さて、殿ダム周辺に現存する成器、大茅地区集落の未来を考えようと、殿ダム周辺整備検討者代表、委員の山崎豪太郎さん(59歳)が夢を語る。

「そう、自然の森を創生することですなぁ。ダム周辺の山にそれぞれの特徴を生かした樹木を今から育てることです。どんぐり山、満開の山桜に包まれるエリアなど、景観を満喫しながら遊歩道を散策、健康森林浴もええすなぁ」

 ダム湖を中心にした地域の村に水車小屋が再現され、一帯が昭和初期の懐かしい風情として生まれ変わったとき、人に優しいふるさと親水公園が完成する。”
【写真左】主郭付近
 登城道は主郭付近から西側に回り込み、高所となった主郭位置には現在屋根付きの休憩・展望台のような施設が建つ。
【写真左】主郭下の2,3段の郭
 主郭から南に下る位置には小規模な郭段が控える。

 その下には袋川が流れている。ちなみにこの袋川は、同町吉野付近で北西方向に蛇行し、以前取り上げた甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)の西麓を流れ、千代川と合流し日本海へ流れる。
【写真左】南端部最下端の郭から主郭を見上げる。
 この位置からさらに下方は天然の要害で険峻となっており、郭の加工跡は見られない。
【写真左】山崎城の石碑
 主郭の近くに建立されている。
【写真左】主郭付近の東側面
 当城の東西斜面は上述したように険阻な状態で、西側(ダム放流側)は伐採され見通しがいいが、東側はご覧のような状態となっている。

 急傾斜であることから、あまり伐採すると崩落する恐れがあるかもしれない。
【写真左】西側から遠望する。
 右側の高い位置が主郭付近となる。登城ルートは左側から向かう。

 手前の道路は整備された県道31号線で、山崎城と道路の間を袋川のダム放流水が流れている。

2012年9月7日金曜日

宇陀・沢城(奈良県宇陀市榛原区沢)

宇陀・沢城(うだ・さわじょう)

●所在地 奈良県宇陀市榛原区沢
●築城期 正平年間(1346~70)
●築城者 沢氏
●城主 沢氏・高山飛騨守図書
●高さ 525m
●遺構 本丸・二の丸・三の丸・出の丸、土塁・堀切等
●廃城年 天正年間(1573~92)
●登城日 2012年4月17日

◆解説(参考文献「日本の歴史⑩ 戦国の群像」池上裕子著 集英社版」等)
 宇陀沢城は、前月紹介した宇陀松山城から、北東方向へ直線距離で約4キロほど隔てた所に築かれた標高500m余りの城山に築かれている。
築城者沢氏は、秋山氏と同じく北畠氏の家臣で「宇陀の三将」の一人といわれた。
【写真左】宇陀沢城遠望













現地の説明板より

“ 沢城跡
 伊那佐山から南東に延びる標高525mの山頂に造られた山城です。城山(しろやま)と呼ばれている山上には本丸、二の丸、三の丸、出の丸などの跡があり、平坦面、土塁や堀割りなどの遺構が残っています。また、ふもとの沢地区内には、下城(しもんじょう)と呼ばれる館跡(下城・馬場遺跡)もあります。

 この城は、正平頃(1346~1370)に「宇陀三将」のひとりである沢氏の本城として造られ、天正頃(1573~1592)に廃城となったようです。永禄3年(1560)から永禄10年(1567)まで、高山飛騨守図書(ずしょ)が城主となり、高山右近も幼い頃、ここで過ごしたようです。

 ポルトガル人の宣教師ルイス=フロイスの『日本史』にも記されたこの城は、当時の遺構を残す貴重な中世(室町時代)城郭の一つです。
 榛原町教育委員会”
【写真左】文祢麻呂の墓
 登城ルートは2,3あるようだが、今回は南東部から向かった。
 途中には写真にある文祢麻呂の墓がある。





現地の説明板より

“史跡 文祢麻呂(ふみのねまろ)墓

  (昭和59年4月5日 史跡指定)

 文祢麻呂は、『日本書紀』、『続日本紀』にも登場する人物で、壬申の乱(672年)では、大海人(おおあま)皇子(のちの天武天皇)の軍で活躍した将軍の一人である。
 天保2年(1831)に偶然、墓誌が入った銅箱、金銅壺などが発見され、金銅壺の中には、火葬骨が入ったガラス製の壺(骨蔵器)が納められていた。墓誌には、「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲4年歳次丁未9月21日卆」と刻まれ、ここが慶雲4年(707年)に亡くなった文祢麻呂の墳墓であることが明らかとなった。
【写真左】文祢麻呂出土品等

 昭和57年(1982)、発掘調査を行ったところ、一辺約2.5mの土壙(穴)と、これを埋めた粘土などが見つかった。その結果、墓は、堅炭の上に銅箱、金銅壺などを置き、この周辺を木炭、砂質土で埋め、最後は粘土で全体を覆う構造であったことがわかった。
 文祢麻呂墓は、代表的な古代の墳墓であり、当時の上級官人の埋葬方法が明らかとなった数少ない例として、大変貴重な遺跡である。
  文化庁
  宇陀市教育委員会”


沢氏

 宇陀松山城・その1(奈良県宇陀市大字宇陀区春日・拾生・岩清水)  でも述べたように、沢氏も秋山氏と同じく、南北朝期に南朝方として活躍した北畠氏とのかかわりからその活動が見えていくる。
沢氏の系譜については、一部ながら伊予守泰廉から戦国末期に至るまでのものが残る。
  1. 伊予守泰廉
  2. (檜牧)某
  3. 兵部大輔 方満
  4. 兵部大輔 親満(天文15年(1546)隠居)
  5. 源五郎(天文21年(1552)没)
  6. 兵部大輔 房満(天正9年(1581)までは生存確認)
なお、1、の伊予守泰廉からは後に文亀3年(1503)、木造城主となった者が出ている。
【写真左】沢城と伊那佐山との分岐点
 文祢麻呂からしばらく行くと、沢城へ短距離で向かう案内標識がある。このコースは尾根伝いに登っていくコースで短距離であるが、全体を見たかったこともあり、南側の斜面をトラバースするコースをとった。

 しばらく歩くと、ご覧の分岐点に出てくる。沢城へ向かうコースでもあるが、伊那佐山登山としての道でもある。
 沢城は、ここから反対の左側にコースをとる。


 ところで、当地宇陀には「宇陀の三将」の外に、もう一つの一族小川氏もいた。以前にも紹介したように、これら宇陀の諸族は天文元年(1532)に、組織横断的な決まり事を結んでいる。一揆盟約といわれるもので、盟約の中に掲げた掟(おきて)を順守し、争いが起きた場合はこの掟に基づいて処理を行うというもので、平和的解決を図るというものである。

 盟約を結んだ場所というのが、当地にある国宝の宇太水分(うだのみくまり)神社(莵田野町古市場)で、この神前で行ったという。
 しかし、実際にはこの一揆盟約も順守されず、度々争いが起きている。
【写真左】沢城要図
 この図には左下に「米山城」という城砦も記されているが、時間の関係上、ここは登城せず、沢城のみの登城とした。

 最初に「出の丸」というのが出てくるが、整備されているのはこの箇所のみで、本丸・二の丸・三の丸は全く整備されていない。
 なお、この図は下方向が北を示す。








 さて、沢氏は東隣の伊勢国と接していたこともあり、南北朝後期から室町初期にかけて当地支配が進んだ。当然ながら北畠氏による所領宛行がその背景にある。
  • 飯高郡神戸六郷      松坂市
  • 飯野郡西黒部        同上
  • 同郡井口           同上
  • 一志郡八知          美杉村
  • 同郡河口          白山町
  • 同郡小阿射賀三分一    松坂市
  • 多気郡御糸          明和町
  • 同郡前野            明和町
※当時の地名のままとしているため、現在は大幅に市町村区域名が変わっていると思われる。

 上記に掲げた場所は、それ以前はほとんど伊勢神宮領であったところである。当然ながら北畠氏による横領がその先駆けとなったと思われる。
【写真左】出の丸・その1
 看板の位置から出の丸までは約4m前後の比高がある。
【写真左】出の丸・その2
 出の丸は片側(右側)に土塁がめぐらし、中央部に平坦地が残る。
【写真左】出の丸・その3
 要図でも示されているように、北から東側にかけては幅1m前後、高さ2m程度の土塁が囲んでいる。
【写真左】三の丸に向かう道
 出の丸と本丸の間にある個所で、この位置から少し下がっていくと三の丸に繋がる。

 ただ、ご覧の通り藪コギ状態のため、ここで断念し、左側の本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
 全く手つかず状態のため、遺構は確認できない。

 出の丸から本丸に向かう道も、登城した人によってさまざまな踏み跡があり、勘を頼りにとにかく進む。
【写真左】本丸・その2
 本丸に至る手前に小規模な帯郭が取り巻き、その上に本丸があるが、ご覧の通りで見当がつかない。

 なお、本丸と三の丸の間には、細長い二の丸が伸びているようだが、これ以上先には進めなかった。

 出の丸と、本丸・二の丸・三の丸との維持状況がこれほど違うのはなぜだろうか。
 


高山右近

宇陀沢城の麓には、高山右近の石碑が祀られている。
【写真左】高山右近の碑

碑文

“有名なキリシタン大名であり、利休七哲の一人に数えられた高山右近が、永禄7年(1564)12才の頃、父ダリヨ飛騨守厨書の感化により「ジェスト」すなわち「正義」の教名をもって洗礼を受け、少年時代を過ごした大和沢城は、この碑の後方約1キロにそびえる沢山の頂にあったことが、当時西欧へ送られたイエズス会の宣教師たちの報告書により知られている。

 城主たる右近の父は、まれに見る優雅にして慈悲深き名将といわれ、右近もまた正義のためには追害に屈せず身命を惜しまず、その生涯を堅忍不抜の精神をもって貫いた日本人の亀鑑と称し得よう。
 右近は高槻、次いで明石の領主となり、慶長年間その堅信の故に、マニラに流され遂に彼の地で昇天するに至った。
 ここに、高山右近とその父を讃え、郷土の異色ある文化史蹟として沢城址を顕彰する。
  昭和45年春
     榛原町 高山右近顕彰会”

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2012年9月3日月曜日

又兵衛桜(奈良県宇陀市大宇陀本郷)

又兵衛桜(またべいさくら)

●所在地 奈良県宇陀市大宇陀本郷
●別名 本郷の瀧桜
●樹齢 300年
●備考 後藤家屋敷跡(後藤又兵衛屋敷跡)
●規模 幹周3m、高さ13m
●探訪日 2012年4月17日

◆解説(参考文献「中世武士団」石井進著その他)
 今稿は番外編として、宇陀市にある桜の名所として有名になった本郷の瀧桜、別名「又兵衛桜」を取り上げたい。
【写真左】又兵衛桜














後藤又兵衛基次

 又兵衛とは、戦国末期から大坂の陣まで活躍した後藤又兵衛基次のことである。
彼の名が最も知られるようになったのは、敗戦直前の昭和19年から「朝日新聞」に連載された大仏次郎による『乞食大将』という小説がきっかけとなった。

 この作品は、連載の終わった昭和20年(1945)、京都大映においてクランクインした。敗戦間もない時期に日本で映画製作が行われていたということは驚きだが、この作品に限らず他にもあるようだ。もっとも、時局がら、実際の配給はそれから7年後の昭和27年(1952)に封切りとなっている。
【写真左】又兵衛桜と宇陀松山城













 このとき又兵衛役を演じたのは、市川右太衛門で、黒田長政役は月形龍之介、そして準主役としての宇都宮鎮房役は、当時チャンバラ映画専門役者として一世を風靡した羅門光三郎である。日本の時代劇映画黎明期といえよう。

 その後、1964年には勝新太郎による又兵衛役の同名映画が製作されている。随分前から見たいと思っているが、残念ながら未だ二つの作品とも見る機会がない。
【写真左】又兵衛桜・その1
 探訪したこの日は、多くの見物客が訪れていた。

 満開時には臨時の有料駐車場が下流部に数か所設置され、そこから歩いていくが、又兵衛桜以外の他の桜も多くみられ、さながらこの谷全体が桜の名所でもあるようだ。


 ところで1974年、歴史学者・石井進氏が小学館版「日本の歴史 第12巻」の中で、『中世武士団』を刊行、2011年には同タイトルで講談社が文庫本として発行しているが、同書の冒頭でこの『乞食大将』をとりあげている。

 又兵衛の出自については諸説があり、はっきりしないが、播磨国別所氏の家臣小寺政職に仕えていた後藤新左衛門の次男とされている。

 又兵衛の名が一般的に知られるようになるのは、天正14年(1586)の秀吉による九州征伐の頃からである。当初黒田孝高に仕え、その後仙石秀久に仕えた。長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次) でも紹介したように、仙石秀久が無謀な戦をしたため、島津氏に大敗し、いったん讃岐国に戻っている。

 その後、朝鮮出兵では武功を挙げ、関ヶ原の戦いでは東軍方に与し、九州黒田六端城の一つ、益富城(福岡県嘉麻市中益)の城主となった。
【写真左】本郷川砂溜工の図面
 平成9~14年度にかけて、又兵衛桜の麓を流れる本郷川を中心に左図のような護岸工事が行われ、観光客のための施設が整えられている。




 慶長9年(1604)黒田孝高(如水)が亡くなると、長子長政が跡を継ぐが、又兵衛は黒田家を出奔する。この理由とされているのが、冒頭で紹介した『乞食大将』に出てくる宇都宮鎮房(城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)参照)との関りである。

 長政が宇都宮氏を落とす際、又兵衛にとっては承服しがたい長政の謀略計画があった。一本気な又兵衛としては、正々堂々と対決し雌雄を決するのが武士の務めであると考えていた。しかし、結果として宇都宮鎮房は、長政の計画にはまり、又兵衛は止む無く鎮房を打果した。

 その後、又兵衛はこれ以上黒田家に留まることを潔しとせず、「最早、手前は御用のない者で御座れば…」といって、16,000石を捨て、流浪の旅に出ることになる。黒田家出奔後、一時的に他の大名に仕えるが、度々長政の干渉などがあり、慶長16年(1611)ごろには京都で浪人生活を送る。
【写真左】又兵衛桜・その2
 又兵衛桜は棚田状の先端部に植えられているが、石垣が積まれ、平坦部が屋敷跡であったことが分かる。





 それから3年後の慶長19年(1614)、大坂の陣が勃発すると、自主的に豊臣方の一員として活躍、夏の陣で討死した。

 従って、大和の大宇陀本郷にあるこの「又兵衛桜」の地は、前記したように京都で浪人生活を始めてから、大阪の陣に赴くまでの3年の間に、彼が住まいをしていた場所と考えられる。
【写真左】又兵衛桜・その3
 川岸のテラス護岸と周囲の桃の花とのコントラスも見事なものである。
【写真左】又兵衛桜・その4
【写真左】又兵衛桜・その5
【写真左】又兵衛桜・その6













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南山田城(兵庫県姫路市山田町南山田)

2012年8月29日水曜日

宇陀松山城・その2(奈良県宇陀市大字宇陀区)

宇陀松山城(うだまつやまじょう)・その2

●所在地 奈良県宇陀市大宇陀町
●探訪日 2012年4月18日

◆解説
本稿では城下町としての宇陀の町並みや、その他史跡関係を取り上げたい。
【写真左】宇陀松山地区 案内図
 この図にある「織田藩上屋敷跡」「織田藩向屋敷跡」は、残念ながら探訪していない。




現地の説明板より

“城下町「松山」の成立と発展

 「松山町」(現大宇陀町松山地区)は、天正13年(1585)から宇陀郡に入部してきた豊臣家配下の大名の城下町として成立しました。関ヶ原の戦いの後、当地の領主となった福島孝治の頃、町名も「松山町」と改称されたと考えられます。

 元和元年(1615)に織田信長の次男信雄が宇陀を所領し、宇陀松山藩としての藩政が始まります。織田氏は、春日神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山山麓から山腹地にかけてと宇陀川の西側に武家地、現在の町役場付近に「長山屋敷」を設け、それらに挟まれる形で町人町を定めました。織田氏時代には400軒を数える商家が賑わいました。
【写真左】松山の町並み・その1
【写真左】松山の町並み・その2













 元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だけが残りましたが、元来奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、平坦部からは米や塩、その他の日常物資を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給しました。

 城下町としての機能を失っても、「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り、薬問屋や紙問屋をはじめとした各種問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀末の史料には、三と八の日に市が開かれ、遠く室生・曽爾・御杖・吉野からも客が来ると記されているように、広域な商圏をもつ在郷町であったことがうかがえます。

 現在の松山地区には、今なお江戸時代後期から明治時代にかけての建築物等が数多く残っており、これらの建築物や歴史的街並みを保存し、後世に伝えて行かなければなりません。”
【写真左】松山西口関門













 現地の説明板より

“史跡
 旧松山城西口門

 ここは旧松山城大手筋にあたる西口関門である。建築は徳川初期のものと認められ正面の柱間13尺5寸両内開きになっていて、左右に袖垣をつけた高麗門の形である。
 門を含む地域は枡形になり旧位置に現存する城下町の門としては珍しいものである。

 松山城は旧名秋山城と呼び、秋山氏の築城に始まる。天正元和の間次第にその形を整え、福島掃部頭の居城とした。慶長年間城郭ならびにその城下町の完成を見るに至った。
 この西門もその頃の構築にかかるものである。
   大宇陀町教育委員会”
【写真左】西口門付近を流れる宇田川
 松山の町並みの西側を流れる川で、趣のある川である。










織田信雄

説明板にもあるように、元和元年(1615)、宇陀は織田信雄が所領した。信雄については、田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)でも紹介しているが、信長子息の中では、江戸時代まで大名として生き残ったのは信雄だけである。

信雄は信長の次男とされ、母は生駒吉乃(きつの)といわれている。信長の正室は知られているように濃姫であるが、一般的には信長と濃姫の間には子がいなかったといわれている。このため、信長には吉乃をはじめ約10人の側室がおり、吉乃は事実上の正室でもあったといわれている。
【写真左】徳源寺
 所在地 宇陀市大宇陀岩室
 宇陀松山城の北西1.5キロの丘陵に建立されている。

 宇陀を治めた信雄から以降、4代織田氏が続くことになるが、当院は織田松山藩が歴代藩主の菩提寺として建立した寺である。

 この寺の奥に藩主であった信雄・高長・長頼・信武の五輪塔が建立されている(下段の写真参照)。



永禄年間、信長の南伊勢侵攻に伴い、北畠氏の養子となって、具房の妹雪姫を娶り、名を北畠具豊と改めた。その3年後家督を相続、信意(のぶおき)と名乗った。この改名にある「信」を名乗ったことからも想像されるが、翌年の天正4年(1576)、父信長の命によって、北畠氏一門を誅滅させた。
【写真左】織田松山藩主歴代五輪塔
 始祖・信雄は寛永7年(1630)京都で亡くなっているので、供養塔と思われる。








 本能寺の変によって信長が亡くなると、知られるように秀吉と柴田勝家の対立が生じ、信雄(このころはすでに信雄と名乗っていた)は、秀吉に一旦属した。

しかし、その後秀吉とは関係が悪くなり、小田原攻めの際、武功を挙げたものの、東海地方への移封命令を拒否、このため秀吉から改易された。流罪先は下野国烏山といわれ、出家して常真と号した。

その後、出羽国、伊予国へと転罪されたものの、家康の口利きによって赦免され、再び還俗、このとき大和国へ18,000石を領した。文禄元年(1592)のことで、これが信雄が大和国と関わる最初のきっかけとなった。
【写真左】徳源寺側から宇陀松山城を遠望する。











 関ヶ原の戦いでは、明確な態度を示していない。しかし、大阪冬の陣においては、直前になって徳川方についた。翌元和元年(1615)、家康から大和宇陀郡、及び上野国甘楽郡などを5万石を与えられた。

2012年8月24日金曜日

宇陀松山城・その1(奈良県宇陀市大字宇陀区春日・拾生・岩清水)

宇陀松山城(うだ まつやまじょう)・その1

●所在地 奈良県宇陀市大字宇陀区春日・拾生・岩清水
●別名 宇陀秋山城・神楽岡城
●築城期 南北朝期ごろ
●築城者 秋山氏か
●指定 国指定史跡
●高さ 473m(比高120m)
●城主 秋山氏・伊藤掃部頭義之・加藤光泰・羽田正親・多賀秀種・福島孝治
●廃城年 元和元年(1615)
●遺構 本丸(天守郭)・二の丸・郭群・虎口・横堀その他
●登城日 2012年4月17日

◆解説(参考文献「集英社版日本の歴史⑩戦国の群像」池上裕子著、『戦国の山城』全国山城サミット連絡協議会編等)

 前稿までこの4月に探訪した伊勢国北畠氏関係の史跡を紹介してきたが、実は伊勢国を訪れる前に西方の大和宇陀地方を先に探訪している。
【写真左】宇陀松山城遠望
 東方の「又兵衛桜」(大宇陀本郷)から見たもの。
 なお、「又兵衛桜」については、別稿で取り上げる予定である。



 ところで、初めて宇陀を訪れたのは昭和46年ごろだったと記憶している。当時名古屋に住んでいたが、近鉄名古屋線から大阪線に乗り換え、室生口大野の駅だった思う、そこから延々と渓流沿いに続く道をハイキングして、たどり着いたのが室生寺だった。

 随分と時間がかかった行程だったが、渓流沿いには、グラデーション鮮やかな紅葉が四方を覆い、最終地点では、木立に囲まれ独特の色彩を放つ五重塔や、金堂・潅頂堂など、室生寺の伽藍と境内が醸し出す雰囲気には格別のものがあった。それ以来、宇陀は管理人にとって、豊後・南予(愛媛)と同じく、お気に入りの土地として脳裏に刻まれていた。今回の探訪は従って実に40余年ぶりのことになる。

 さて、大和国の山城としては、随分前に高市郡高取町にある日本三大山城の一つ「高取城(奈良県高取町)を紹介しているが、今稿で紹介するのは、北東部に位置する宇陀市の「宇陀松山城」である。
【写真左】春日神社参道
 宇陀の町並みは現在重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 当地を探訪する観光客は、ほとんどこの町並み散策が主で、松山城へ登城する人は少ないようだ。

 春日神社参道は、宇陀の城下町の出入口である西口関門から続いている大手筋正面に位置する。このまま進むと、春日神社に向かい、その手前から登城口の案内がある。

宇陀の三将

 伊勢北畠氏は戦国期、この宇陀にも支配体制を敷いた。北畠氏を支えたのは、「宇陀の三将」といわれた沢・秋山・芳野の三氏である。特に沢氏については、平安時代末期から江戸時代までにかけて約500点の文書が所収された「沢氏古文書」が残る。
【写真左】春日神社
 現地の説明板より

“春日神社由緒

一、祭神 天之児屋根命(あめのこやねのみこと)・武甕槌命(かけみかずちのみこと)・比売神(ひめかみ)

 当社の創建について詳しくは分からない。しかし、宇陀郡内には興福寺大乗院門跡管領の春日大社領が多く存在し、当社地も中世の春日庄(応永13年(1406)作とされる「宇陀郡田地帳案」(春日大社文書)に位置することから、奈良春日大社を勧進したものと考えられる。

 宇陀松山城と城下町の縄張りを示した「阿紀山城図」(文禄3年写・1594)という絵図には「春日社」として社地が表されている。
 また、絵図に示された宇陀松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経て、いったん春日神社へ入る。そして、神社から再び城へ向かう構造をとる。つまり、この時代の春日神社は城郭の郭としての機能も併せ持っていたのである。”

【写真左】春日門跡
 春日神社手前の付近で、周囲には石垣などが残る。







 同文書によれば、沢氏はもちろん、秋山氏ら宇陀郡内においておこった土民一揆や、それらを担保する一揆盟約(掟)などが記録され、彼らの国人領主同士による、地域自治的組織化が図られていたことが知られている。ただ、現実には種々の問題が発生し、収拾がつかない場合には、度々北畠氏の裁断に仰いでいたようだ。

 ところで、沢・秋山両氏は元々同国宇陀郡内の国人領主とされ、当地荘園の下司(げし)又は荘官クラスの出自といわれている。
 北畠氏と関係を持ち始めたのは、おそらく南朝方として活躍したときと思われる。もともと宇陀は興福寺や春日社などが所有する荘園が多く、後に沢・秋山氏は北畠氏を後ろ盾として、これらの領地を次第に奪取していった。
【写真左】登城口
 春日神社脇に案内標識が建っており、この道を進む。










 北畠氏の家臣であったとはいうものの、三氏とも独立性の強い国人領主であったため、領地境界や、荘・郷の支配については互いに抗争をつづけた。文明16年(1484)、沢氏領有地の東方にあった諸木野(現在の榛原高井付近)をめぐって、秋山氏と抗争が始まった。

 この合戦には、のちに西方近隣の高取城主・越智氏や、筒井順慶を輩出した筒井氏などが絡み、複雑な様相を呈していく。統治者北畠氏も当然この抗争の調停に赴くことになり、4年後の長享元年(1487)、やっと和議が成立した。

 このとき、秋山氏は自害を命ぜられ、その後沢氏は源左衛門が北畠氏の面前で切腹させられたという。
【写真左】登城道
 登り坂となった位置からは杉林の中を進む。道の周囲は崩落防止用の土嚢が左右に積んである。








戦国期

 宇陀松山城は、別名秋山城ともいわれている。築城者秋山氏は上掲したように南北朝期北畠氏の家臣として活躍するが、その後戦国期の天正13年(1585)、豊臣秀長が大和郡山へ入ると退去することになる。

 そのあとに入ったのが、秀吉の家臣であった伊藤掃部頭義之が入封し居城とした。その後、加藤光泰・羽田正親・多賀秀種といった豊臣家臣らが引き継いだが、関ヶ原合戦後、福島孝治が入った。しかしわずか15年後の元和元年(1615)、孝治は改易され当城は廃城となった。

 現在残る遺構の大半は、前記した豊臣家臣時代のもので、大規模な改修を行っている。併せて城下町の整備もこの頃行われたという。
【写真左】北側に延びる空堀
 宇陀松山城の調査は平成7~11年度、及び16年度に行われ、平成20年度から保存整備を進めているという。

 訪れたこの日も所々に調査跡のブルーシートや、周辺の伐採した跡が残り、整備は完了していないようだ。
 これまでのところ、礎石建物群・桐紋・菊紋などが入った瓦・陶磁器類などが発掘されている。
【写真左】御加番郭
 北側から回り込んだ登城ルートを進むと最初に見える郭で、本丸の西側に設置されている。
 この付近には虎口郭などが残る。
【写真左】本丸と天守郭・その1
 御加番郭を過ぎて東に少し上ると、すぐに広大な本丸が見え、その先には3,4m程度高くなった天守郭が控える。
【写真左】【写真左】本丸と天守郭・その2
 北端部を見たものだが、本丸から下に向かう法面はかなり高く、15m前後はあるだろう。切崖状である。

 なお、写真中央に見える郭は、西側にある御加番郭で北東部を扼する。
【写真左】天守郭・その1
 2層構造となっており、手前の階段から上る。
 出土したものや、遺構の内容等から織豊時代の城郭の特徴を明瞭に残した城郭とされている。


【写真左】天守郭・その2
【写真左】天守郭から北東に大御殿・御加番郭を見る。
 先ほど紹介した箇所で、天守郭の東端部からそのまま東に降りると、大御殿があり、その北東部には一段下がった御加番郭が控える。
【写真左】西の御加番郭から天守郭を見上げる。
 この位置から天守郭を見上げると、かなりの比高差があることが分かる。


【写真左】天守郭より二の丸を見る。
 東側の大御殿の南側には「大門」があったらしく、その南東部には二の丸が伸びている。

 二の丸は写真にもあるように、一部杉の伐採が施されているが、大半は杉林のままになっている。
【写真左】二の丸
 奥まで入っていないが、奥行は優に50mを超える。上段の本丸の規模とさほど変わらないようだ。

 おそらくこの場所にも礎石建物があったものと思われる。


【写真左】本丸の南側
 この箇所はご覧のように東方の大御殿・二の丸に向かって帯郭が走り、途中には南虎口があった。

 なお、手前の帯郭は幅が広く、西帯郭とされ、その先の細い帯郭は東帯郭と命名されている。



感想

 さすがに国指定史跡をうけるだけの堂々たる城砦である。
 ただ、調査・整備中であるとはいえ、できれば現地に縄張図や、城の概要などを示す説明板のようなものがあるとうれしいのだが…。