2011年8月12日金曜日

黒岩城・その2

黒岩城・その2

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 今稿では黒岩城に関わる史跡を中心に紹介したいと思う。

大合戦橋

 前稿でも少し紹介したが、黒岩城東麓にある和泉合戦の激戦地となった橋である。
この橋を流れる竹地川は、東方から流れてきた宮内川と合流し、神野瀬川となって西城川へと下る水系だが、現地に立つとまとまった雨が降ればかなりの激流となる雰囲気を持つ。
【写真左】大合戦橋
 現在の川幅は河川改修の結果、御覧の通り2,30m程度のものとなっているが、当時は恐らく西方の竹地川と、東方から流れてきた宮地川が合流する地点で激しくぶつかり、200m前後の川幅(砂州)だったと思われる。




毛利元就縁の地
 現地にはこの合戦の経緯について、上記のタイトルを掲げた説明板がある(2007年現在)。内容は以下の通り。

“大合戦橋と泉合戦


 毛利氏が、備北地方での勢力を確立した戦が「大合戦橋」を中心に繰り広げられた「泉合戦」である。戦国争乱の世に、三次盆地や、その周辺の小領主たちは、大内・尼子という二大勢力の狭間にあって、自家の存亡をかけて戦いに加わっていた。尼子氏にとっては、中国全土を支配するためには、大内氏を倒すことであり、そのためには、大内氏の前衛的な存在である配下の毛利氏を倒すことが先決であった。


 毛利氏が大内氏の命令により、大内氏の配下から、尼子氏配下に転じた旗返城主・江田入道氏を討つため、四千余騎をもって出陣したと聞いた尼子晴久は、この機に毛利氏を倒そうと二万の軍を率いて冨田を出発し、仁多郡より王貫峠を越えて口和町に入って来た。


 当時、口和町大字湯木の釜峰城主・湯木氏は、大内氏に背き、尼子氏に味方していた。また、口和町大字大月には黒岩城を居城とする毛利氏方の泉(和泉)氏があった。


 毛利氏は、先ず尼子氏に寝返った湯木氏を討つために釜峰城に向かった。尼子氏はこれを聞き、天文22年(1553)5月20日に五千余騎を、向泉の萩の瀬に陣を張らせた。一方、毛利氏は二千余騎を大合戦橋を挟み対陣させ、自らは、小早川隆景と共に二千余騎で第ニ陣の構えとして後方の小高い丘(大月)に陣を布いた。


 このような勢力配備のもとで泉合戦は、萩の瀬橋(大合戦橋)を中心に繰り広げられたが、なかなか決着せず、そのうち雨がしきりに降り、川は増水し双方戦いを挑むことができず、互いに状況の偵察を繰り返すうちに、尼子軍は萩の瀬を去って、恵蘇郡山内(庄原市)へ移動していった。これによって、毛利氏は一帯を手中に収めることができた。さらに、尼子氏の配下にあった地方の小領主たちも、毛利氏に追随するものが増えてきた。
 この戦いののち、江田氏も討ち、毛利元就は備北地方での勢力を確立したのである
    口和町教育委員会資料より”


尼子方陣地

ところで、和泉合戦において尼子方が配したといわれる陣地としては、次のような地名が残る。

  • こしき岩山
  • 重信山
  • 柞山
  • 八幡山
  • 万福寺跡

【写真左】大合戦橋から西方に黒岩城を遠望する。
 橋の東岸から見たもので、写真中央の寺院は、月照山正専寺。


 なお、この写真は中国横断道の工事前に撮ったもので、現在は黒岩城の東麓を横に当該道路が走っている。




【写真左】月照山 正専寺
 江戸期に建立された寺院で、黒岩城との直接の関係はないが、大合戦橋の西岸に建立されている。

 参考までに当院の寺歴を記す。


“月照山正専寺沿革(寺記による)


 下総(今の茨城県)の鄕士渡辺好房は真宗に帰依し、法名教圓と授かり、弘法のため西下して、備中(今の岡山県)哲多郡に照専寺を創立した。


 5代目祐圓は寺務隠退の後、衆生済度のための諸国を行脚し、その途次永享年中(1429~40)、備後の国恵蘇郡竹地谷村芦原山中に阿弥陀仏の正像を拾得、一宇を建て正専寺と号した。
 7代目祐観は、寛文9年(1669)、当村三上庄屋の招請でこの地に移り、寺院を建立し現在に至る。”

◎関連投稿
釜峰山城(広島県庄原市口和町湯木)・その1

2011年8月11日木曜日

黒岩城(広島県庄原市口和町大月)・その1

黒岩城(くろいわじょう)・その1

●所在地 広島県庄原市口和町大月●別名 大月山城
●築城期 永正・大永年間(1504~28)
●築城者 和泉三郎左衛門久勝(三郎左衛門尉信正)
●遺構 郭・井戸・空堀等
●高さ 標高456m(比高110m)
●指定 庄原市指定史跡
●登城日 2010年12月10日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 黒岩城は旧比婆郡といわれた口和町の大月山に築かれた山城で、現在当城の東麓には数年後に完成予定の中国横断自動車道尾道松江線の工事が行われている。
【写真左】黒岩城遠望
 南東部から見たもので、中央横に見えるのは工事中の中国横断自動車道尾道松江線の盛土。






 口和町大月は、西方の「しんぎょう峠」を超えると君田町につながり、神野瀬川を下ると西城川に合流し、前稿の尾関山城(広島県三次市三吉町)のある三次市へと向かう。

 また、北に進むと高野町につながり、王貫峠を越えると出雲国(奥出雲町仁多)に出る。この付近には黒岩城以外のものとして、北東部にかけて10数カ所の城砦が確認されているが、これらは殆ど北方出雲国の尼子氏との関連で築城されたものが多い。
【写真左】松岳院跡
 登城口はこの南麓にある松岳院跡地で、駐車場を兼ねている。ここに向かうには、東麓を走る39号線(三次高野線)から分かれる枝線から入っていく。この箇所は、現在高速道路工事によってトンネル状になっており、そこを抜けて南に向かうとこの場所につながる。




現地の説明板より

“庄原市史跡
黒岩城址
   平成4年2月17日指定


 黒岩城は中世戦国期の大永より文禄年代(1521~92)、すなわち16世紀前半から後半にかけて、当地方を支配した和泉氏の山城である。領主については諸説があるが、和泉氏3代にわたったと伝えられている。


中世城郭の分類形式により、形態を規定すると
  • 全体が自然の山地を利用して構築された典型的山城である。
  • 城郭は大小10余の郭が階段状に連接して構成された多郭階段式山城である。
当時この地方は、山陰の尼子氏と山陽の毛利氏との争いの陰陽最前線にあたり、毛利氏にとって戦略的にも極めて重要な拠点として、三次盆地防衛の「前線砦」的な政治的・軍事的に重要な山城であった。
【写真左】黒岩城絵図
 現地に設置されているもので、遺構の配置など分かりやすい。

 今回はこの図でいえば、左側のルート(時計回り)から向かった。




 海抜456m、城郭部分の面積は約3ha、頂上からは東に向かって脚下に大月集落、及び雲伯路に向かう向泉集落や、大合戦橋が見下ろされ、遠くには釜峰山をはじめ、中国山地の連峰が望見できる。

 現在の駐車場は、大永年間に城主が開基した「松岳院」跡にあり、その前方約20mに参詣路の両側が幅約3mの切割りとなり石垣が残っており、松岳院の山門跡と推察されるが、黒岩城の大手口も、このあたりと考えられる。

 山頂には「アベマキの巨木」が林立し、その途中には「矢竹」の群生地もあり、山城らしい山容を示している。また「シラカシ林」は分布的には、県最北端部に位置しており、「ヤブツバキ・ベニシダ・ヤマツヅジ」が群生し、自然美の宝庫でもある。
【写真左】登城口に設置してある鳥居
 「金比羅宮」と書かれたもので、このルートは大手道になる。





 今は廃寺となった「松岳院」跡に昭和30年代に建立した「収蔵庫」があり、松岳院の本尊や松岳院に安置されていた城主の位牌や、古文書等々、黒岩城にまつわる宝物が収納されている。

 また、付近に「八十八箇所札所地蔵」や、「六地蔵」もある。なお、北東側に「犬走り」(腰郭)跡があり、これを保存し、さらに史跡を後世に伝えるため、要所に石柱による標識を建立してある。

平成19年3月
庄原市教育委員会”
【写真左】南方に工事中の中国横断道を見る
 登城道は比較的整備されているため、歩きやすい。また途中で写真にあるように麓の景色が見える箇所もあるため、退屈しない。

 この写真では奥に向かうと三次市方面につながる。


和泉氏

和泉氏の出自は不明だが、説明板にもあるように黒岩城の城主として3代続いた。
  1. 初代 久勝(信正)
  2. 2代  信行(信正嫡男)
  3. 3代  久正
『西備名区』という史料によれば、初代信正(久勝)は前稿「尾関山城」で触れた三吉氏(宗隆)の婿にあたり(つまり信正の妻が三吉氏から嫁いでいることになるが)、嫡男・信行を人質として尼子氏に送り、同氏に従属していた。

 そのころから、義父になる三吉宗隆は、台頭著しい毛利氏の勢いを看過できず、再三にわたって信正に毛利氏に属するよう誘った。しかし、信正はその誘いに対し断り続けていた。

 城主である信正のこうした態度に対し、毛利氏に与することが得策と考えた、原勘兵衛・同但馬・間鍋五郎左衛門・秋山伊勢守など主だった家臣らは、謀議の結果、大永6年(1526)6月13日、城主・信正を殺害した。

 そして、出雲月山富田城に人質として送られていた嫡男信行を第2代黒岩城主とした。その際、信行の替わりの人質として、家臣石田尾張守の嫡子孫三郎が送られた。
【写真左】南郭
 上掲した当城の「絵図」でも分かるように、大手側には、下から順に「南郭」「三の丸」「二の丸」と続き、最後に本丸が控える。
 この南郭は、16m×30mの規模のもの。




和泉合戦

黒岩城主第2代となった信行は、尼子から離れ毛利氏につくことになったが、天文20年(1551)陶晴賢による大内義隆殺害によって、戦況は大きく変わり、備後国内においても少なからぬ動揺が走った。

 特に高杉城(広島県三次市高杉町)でも述べたように、尼子氏に属した江田氏の一族祝氏は、天文22年(1553)毛利氏の攻撃を受けるが、このとき尼子氏は江田氏救援のため富田城を出発し南下した。これに対し、毛利氏は備後の北の入口であるこの黒岩城に拠って尼子氏と戦火を交えた。
【写真左】三の丸
 南郭を過ぎると三の丸が控える。30m×21mの規模。

 なお、この付近には「矢竹の群生」という標識があり、弓矢で使用されたのだろう。



 この戦いは、のちに「和泉合戦」と呼ばれた。尼子・毛利の陣構えは次の通り。

【尼子方】

  • 先陣:尼子詮久(晴久)・卯山(宇山)・米原・疋田の2,000騎
  • 二陣:尼子敬久・牛尾・桜井の1,000騎
  • 後陣:尼子国久(新宮党)の2,000余騎

【毛利方】

  • 先陣:吉川元春・熊谷・香川・飯田各氏の国人衆2,000騎、及び和泉入道父子(和泉三郎五郎信行・同三郎久正)
  • 後陣:毛利元就・隆元の2,000余騎
双方はこの構えで黒岩城東方の苧瀬の橋を挟んで対峙し、合戦が始まった。互角の戦況のうち大雨が降りだし、尼子方は川を渡ることができず、結局撤収したといわれている。
【写真左】井戸跡
 三の丸の東北隅に設置されているもので、2m×2.5mの開口部を持つ井戸。







 ところで、苧瀬という地区は萩瀬とも記録されているので、「高杉城」の稿ではその場所を比定していなかったが、恐らくこの場所は、和泉合戦において対峙した橋、すなわち黒岩城東麓の「大合戦橋」(写真参照)と呼ばれた場所と思われる。

 また、この和泉合戦の時期は天文22年(1553)とあり、『新裁軍記』によれば、
 「同年5月20日、毛利元就、尼子晴久の兵を備後国萩瀬に破る」
とあり、この記録が和泉合戦の事と思われる。

 さて、この合戦の功によって和泉信行は、笠野山城(別名笠城山城:三次市糸井町)を元就から与えられた。
 また、3代久正は三吉氏の所領近くの三次市上里(あがり)に福谷山城を築き、完全に三吉氏の家臣となって行ったようである。
【写真左】二の丸
 10m×30mの規模で、三の丸の約半分の大きさである。鳥居が建っている。
【写真左】石積み
 二の丸の奥にあるもので、おそらく和泉氏等を供養した石碑が建っていたのかもしれない。
 なお、三の丸より西奥に城主の墓と伝えられているものがあるということだったが、当初この石積みが墓と勘違いしてしまい。件の墓には向かっていない。
【写真左】二の丸から北に本丸を見上げる。
 二の丸から本丸までの高低差は約9mある。全体に郭段の構成など施工精度が良好で、切崖も見ごたえがある。
【写真左】本丸・その1
 35m×20mの規模で、休憩小屋のような建物が建つ。
【写真左】本丸・その2
 口和町内山城分布図


 冒頭でも述べたように、この付近には小規模な出城・城砦が点在している。


 この図は、本丸に設置された分布図で、写真では文字が小さくて読みにくいかもしれないが、町内山城の配置が分かりやすく描かれている。


 参考までに、記載されている山城名は、北から順に下記の通りとなっている。

  1. 熊谷城
  2. 古屋敷山城
  3. 信木山城
  4. 釜峰山城(広島県庄原市口和町湯木)
  5. 竹山城
  6. 信安城
  7. 茶臼山城
  8. 山崎城
  9. 御所陣山城
  10. 大仙山城
  11. あいが城
  12. 迫城
  13. 貴船山城
  14. 工(たくみ)ケ原城
【写真左】本丸から東麓の苧瀬(おがせ)(大合戦橋)を見る。
 写真中央を横に流れる川は竹地川で、やや右に大合戦橋がある。その西岸には正専寺が建つ。

 黒岩城およびこの東麓部苧瀬において、天文22年和泉合戦が行われた。
【写真左】太刀洗い池の標識
 本丸から約300m向かったところに当該池があったと記されているが、当日はそこまで行っていない。
【写真左】北の丸
 本丸から少し北に向かうと小郭が3,4か所連続して構成されている。
 このコースは搦手となるもので、史料では後期に施工されたものではないかとされている。


 この郭は最初のもので、「北の丸」といわれたもの。
【写真左】搦手側郭からみた切崖
 北の丸から3,4段の郭段が構成されているが、この写真は特に見ごたえのある切崖である。
【写真左】犬走り
 搦手から大手につながるもので、東麓部を走る。










2011年8月10日水曜日

尾関山城(広島県三次市三吉町)

尾関山城(おぜきやまじょう)

●所在地 広島県三次市三吉町
●別名 積山城・小丸積山城・三次城
●築城期 戦国時代
●築城者 上里越後上守光
●形態 山城
●高さ 標高202m(比高50m)
●遺構 郭等
●登城日 2010年12月10日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 尾関山城は広島県を縦断する江の川が、南東から流れてきた馬洗川、及び北東から流れてきた西城川と合流する地点で、現在の三次市市街地に築かれた山城である。築城者は三吉氏(上里備後守)といわれている。

三吉氏
佐々木氏流三吉氏


 備後・三吉氏の出自については、初期のものとして、一つは、佐々木氏流三吉氏といわれ、源頼朝が奥州藤原氏第4代当主泰衡を追討した際、佐々木七郎秀綱が功を立て、建久3年(1192)、三次の地に地頭職として補任し、秀綱は当地の三吉(三次)氏の祖となった、というのものである。
【写真左】尾関山城二の丸・本丸付近
 尾関山城は現在公園となっているので、山城としての整備よりも、当該施設の管理が優先され、遺構箇所についての説明標識などはほとんどない。



 秀綱が最初に築いたのが、尾関山城より北東にあった比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)である。

 秀綱の子・秀方の代になって、承久の変が勃発、京方(後鳥羽上皇)に与したため敗死した。しかし、当時秀方の子・高元(2歳)は、難を逃れ伊予国能島で成人し、さらに備前国児島に隠れ住んでいた。そして、建久3年(1192)から承久3年(1221)まで、この佐々木氏流三吉氏が当地に在住していたという。

 ただ、『日本城郭大系第13巻』によれば、比叡尾山城の構造・遺構を検証すると、当城の築城期がその当時(鎌倉初期)のものではなく、むしろ鎌倉期後半から室町期前期のものであるということから、佐々木氏流三吉氏が最初に居城としたのが、当城とするのは疑わしいとしている。
【写真左】北麓部の駐車場付近に設けられた配置図
 尾関山城の北側には道路を挟んで、鳳源寺という三次藩の藩祖浅野長治が建立した寺があり、そこから北の山に登ると比熊山城がある。



藤原姓三吉氏

 後期の三吉氏としては、藤原姓の三吉氏である。前段の佐々木氏流三吉氏が承久3年までとしているのに対し、この三吉氏は承久の変後、当地にやってきたというものである。

 承久の変後であることから、恐らく論功行賞によるものと思われ、初代兼範から始まり、その子兼定の代になって、三吉大夫と称し三吉氏を名乗った。以後、3代兼家・4代信兼と受け継がれ、次第に領地を拡大、5代秀高のとき、後醍醐天皇に、またその後足利直冬に従ったという。

【写真左】本丸北麓部
 傾斜部になっているので、郭段ではないが、非常に広々としている。








戦国期

 さて、その後の三吉氏については、比熊山城(広島県三次市三次町上里)でもとりあげているが、本稿の「尾関山城」が築城されたのは戦国期である。

 戦国期の三吉氏が拠った居城は、前掲した「比熊山城」であるが、尾関山城はその出城として築城された。当時当城の城守は、神主で三吉氏の信任の厚い上里越後守守光(丸山城(広島県尾道市御調町丸門田)・雲雀城(広島県尾道市御調町市)参照)であった。
【写真左】三吉台と呼ばれる郭
 尾関山城の主だった郭には、「石見台」「発蒙台」「三吉台」「福島台」「上里台」「因幡台」「望巴台・迎陽台」など固有の名称のつくものがある。

この写真はそのうちの三吉台といわれるもので、本丸北にある80m×12mの規模のものである。


 慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、毛利氏が防長に移封されると、他の毛利氏配下の備後国人領主がそうであったように、時の比熊山城城主・三吉広高は領地没収され、流浪の身となった。

 あくる年、福島正則が安芸・備後に入り広島城に入城すると、三次の守りには、重臣尾関石見守正勝が2万石の城主として当城に入り、城名も彼の名をとって、尾関山城と呼ばれた。
【写真左】本丸
 石見台といわれているもので、60m×70mの規模を持つ。
【写真左】発蒙台
 本丸よりさらに4m高くなった櫓跡で、15m×38mの規模を持つ。現在は写真にみえるように展望台が設置されている。






三次藩・浅野氏

 以前にも述べたように、福島正則はその後徳川幕府から意図的な改易を受け、後任には和歌山から浅野但馬守長晟(ながあきら)が広島に入城した。そして三次には支藩として5万石を設け、長子因幡守長治を置き、尾関山東方に館を設けた。
【写真左】浅野神社
 本丸・二の丸・三の丸のある丘陵部とは別に北西部に鞍部を隔てた小丘がある。この北側一角に浅野神社が祀られている。
【写真左】二の丸
 因幡台といわれ、70m×25mの規模を持つ。


【写真左】三の丸
 望邑台・迎陽台といわれている三の丸で、120m×20mの規模を持つ。

【写真左】浅野神社付近から北に比熊山城を遠望する。
【写真左】本丸から北東に比叡尾城を遠望する。
【写真左】本丸から南麓に江の川を見る
 この写真の左下付近には西城川が流れ、馬洗川と合流し、すぐに江の川と合流している。
 左は三次の市街地。
【写真左】本丸から北西方向に浅野長治公墓のある山を遠望する。
 浅野氏の墓については、一旦尾関山城を下り、北側の鳳源寺西方の山道から入っていく(下の写真参照)。
【写真左】浅野長治墓
 現地の説明板より

“浅野長治
 浅野長治(1614~75)は、寛永9年(1632)広島本藩から分家した三次支藩5万石の初代藩主です。
 彼は三次町の周囲を流れる川を天然の堀とし、町全体を一つの城郭にみたて、城下町三次を建設しました。


 長治は学問を好み、尾関山に天文を観測する発蒙閣を建てたり、庶民の日常道徳を説いた「教導書」を自ら書きました。


 臨済宗鳳源寺は、長治が父長晟及び先祖の菩提を弔うために、また日蓮宗妙栄寺は母のために建立した寺院です。
 延宝3年(1675)、江戸で62歳の生涯を終えた彼の遺体は、はるばる三次の町を見下ろすこの地へ運ばれました。
 彼は死後も「名君」としてながく庶民から慕われました。
  三次市”
【写真左】浅野長治墓地から尾関山城を遠望する。

2011年8月4日木曜日

新宮城(広島県三次市志幸町)

新宮城(しんぐうじょう)

●所在地 広島県三次市志幸町
●別名 志幸山城・新宮山城
●形態 丘城(館跡か)
●築城期 天文年間(1532~55)
●築城者 新宮左衛門(甲斐守)
●高さ 比高5~15m
●遺構 郭・土塁・竪堀
●登城日 2007年12月26日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
前稿「高杉城」の位置から馬洗川を2キロ余り遡った福塩線沿いに築城された城砦である。
【写真左】新宮城近景
 北側の国道184号線沿いからみたもので、規模は南北に長く70m×40m程度の小規模な城砦である。

現地の説明板より

“新宮城跡
 山城というより館として構築されたと思われます。城主は新宮左衛門・新宮甲斐守といわれています。


 尼子氏と大内・毛利氏が激しい戦いを繰り返していた戦国時代、特に両勢力の激突地である三次盆地は、熾烈な状況におかれていました。常に両氏の動向に目を向けながら去就の定まらない日々であったでしょう。


 天文22年(1553)4月に新宮氏の属する旗返山城(三次市三若町)主の江田隆連は、尼子氏に味方する甲山城(庄原市本郷町)の山内氏の誘いで、毛利氏を裏切って兵を挙げました。


 知らせを受けた毛利元就は、早くも3日後には江田氏と同族の和智氏を押さえるために、両氏の境である三良坂町寄国に進軍し、江田軍を撃破しています。その後、毛利軍は口和町でも尼子軍と戦っていますが、本格的な合戦となったのは、7月の高杉城での戦いで約600人の兵を討ち取るという激しい仕打ちでした。


 当然、この新宮城にも毛利軍が押し寄せてきたと思われますが、戦いの詳しい様子は不明です。この戦いで討ち取った兵士の鼻・首・耳を葬った塚で、水田に残るのは鼻塚と伝えられています。また、城主の新宮甲斐守は落城後、三良坂町長田まで逃れ、そこで自殺したと伝えられています。
  三次市
  三次市教育委員会”
【写真左】新宮城案内図
 城域のうち、北側の一部はJR福塩線が敷設されたため、消失しているが、主要な部分は残されている(下図参照)。
【写真左】縄張図
 小丘部に造られた城砦で、山城としての機能よりも館跡として、土塁などが残る。
【写真左】鼻塚
 北東麓に建立されている。
【写真左】南側から見る
 登城進入が可能なのは、南側の道路からで、途中までは雑草が刈ってあるが、奥に向うに従って藪こぎ状態となっていた。
【写真左】入口付近に立つ標柱
 「高杉城の支城 新宮甲斐守の居所(後期山城型式)」と銘文されている。


 なお、左奥には写真にもあるように、個人の墓地もある。
【写真左】土塁
 ほぼ全周にわたって土塁状の高まりがある。この写真は西側のもの。
【写真左】土塁と切崖
 主として北面に認められる形状で、土塁を持たせた後、外周には、低い比高の割には角度のある切崖が取巻いている。
【写真左】墓石か
 奥の方に見えたもので、五輪塔の一部にも見えるが、供養の意味を込めたものだろう。
【写真左】八幡神社
 新宮城より東へ約200m程むかったところに祀られている社で、当社を祀る小丘は新宮城のそれより2倍程度の大きさを持つ。
 探訪したとき、最初にこの小丘が新宮城と勘違いしてしまった。


 当社の縁起によれば、元亀2年(1569)、双三郡辻村(現吉舎町辻)より、八幡神社建立の勧進があり、天和2年(1616)8月社殿完成、明和4年(1767)8月に拝殿を建立した、とある。


 祭神は、呂陀和気命外十二柱神を奉斎している。


 新宮城が落城した後、吉舎町辻からの勧進があったということから、おそらく和智氏一族によるものだろう。

高杉城(広島県三次市高杉町)

高杉城(たかすぎじょう)

●所在地 広島県三次市高杉町
●別名 杉山城・祝城・祝要害
●築城期 観応年間(1350~52)
●築城者 祝新左衛門尉氏正
●形態 沼城
●遺構 土塁・空堀
●高さ 標高170m(比高5m)
●指定 広島県指定史跡
●登城日 2008年5月28日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 三次市高杉町に所在する城砦だが、山城というより館跡といった形態のものである。所在地は馬洗川と国道375号線の間にあって、小丘部の南東麓にあり、その前には広々とした田園が広がる。
【写真左】高杉城近景
 一見すると、どこにもあるような神社の様相である。










現地の説明板より

“高杉城跡


 戦国時代の三次盆地は、山陰側の尼子氏と山陽側の大内氏・毛利氏が激しく抗争した地です。その中で、この地方の武将である三吉氏・和智氏・江田氏はどちらの勢力につくか不安定な日々でした。


 天文22年(1553)、尼子氏に味方した江田氏は毛利元就の攻撃を受けます。江田氏の支城であった高杉城には、城主祝甲斐守・治部大輔を中心に約1,000人が籠城していました。


 この時代には、城はほとんど山頂に築かれていましたが、知波夜比古神社の神職を兼ねる祝氏は、神社を中心にこの丘を三重の空堀と土塁で囲み、城としたのです。
【写真左】高杉城要図
 図のように左側(西側)に土塁と堀が図示されている。




















 7月23日、この城の東北(塩町)から毛利元就・隆元の軍勢、西から吉川元春の兵士が攻めかかります。

 軍記の「陰徳記」には、その時の様子を「城兵、矢間を開き散々に射る。寄手(毛利軍)三重の空堀を超え、一度にどっと塀につくところを城中の兵とも鑓・長刀をもって突き落とし」として激しく抵抗するが、そのうち「粟屋弥七郎唯一少しも引かず、当城一番乗りと名乗り塀際の榎に取りつき、曳(えい)やっと声をかけて」攻め、ついに毛利全軍が突入し、逃げる兵士を討ち取ったのです。


 軍記には、討ち取られた首が約600とあり、ほぼ全滅の状態でした。城跡の南の山際には、この時討死した城主祝氏を供養した宝篋印塔があります。
  三次市
  三次市教育委員会”


江田氏

 江田氏については、先月投稿の「三良坂・福山城」の項でも示した通り、和智氏の庶流で、和智実村の子・実綱が三谷西方の南部江田荘(江戸時代の向江田村及び、美波羅川流域の合計15ヶ村の地域)を相続したときに始まる。
【写真左】高杉城の石碑













高杉城の落城

 説明板にもあるように、当城が落城したのは天文22年であるが、尼子方に属するきっかけとなったのは、天文20年(1551)9月、大内義隆が陶晴賢によって殺害されたことによる。それまで大内方にあったが、義隆が亡くなったことによって、江田氏は尼子氏に与することを選んだ。

 高杉城落城が落城する2か月前の、5月3日、毛利元就は川西の備後・旗返山城(広島県三次市三若町)の江田隆通を破っている。江田隆通は元々大内家の家臣であったが、山内隆通とともに天文21年、尼子氏に従っていた。隆通は落城後、甲山城(広島県庄原市山内町本郷)の山内氏を頼って奔走した。

 そして、同月20日になると尼子晴久が送った兵を、毛利元就は備後国「萩瀬」に破ったとある(「新裁軍記」)。この萩瀬という地名は管理人の知る限り、現在備後国(広島県)に見えないため、当時あった旧地名と思われるが、恐らく尼子氏は美作や備中国に転戦していた足で、そのまま西方の備後国に向かったことから、現在の三次市の東方、もしくは庄原市区域あたりだろう。
【写真左】式内社の知波夜比古神社本殿
 境内中央奥に建立されている。












 高杉城に籠城した人数は説明板によると、約1,000人とある。『日本城郭大系第13巻』によれば、祝甲斐守・同長門守を将として、宗徒200余騎並びに、久代修理亮の加勢100騎、その他雑兵ら合わせて750余騎が立て篭もり、とある。

 現在の高杉城をみると、この小規模な城館に1,000人もの兵が入るのは少し無理があるだろう。

 取り囲んだ毛利方の面々は、総帥毛利をはじめ、吉川・平賀・宍戸・熊谷・天野・香川の諸氏で、総勢6,000余騎とある。

 戦いのあと、祝父子をはじめとする首級が600とされているので、ほとんど全滅である。3年後の弘治2年(1556)、三吉致高は神像を祀り、焼失した神社を修復したといわれる。
【写真左】本殿脇付近
 境内はほぼ正方形(40m四方か)で、思った以上に広々としている。
【写真左】境内外周部
 恐らく土塁跡と思われるが、明確には残っていない。


 当時は恐らく全周囲に土塁と濠を配置していたのだろう。