2011年2月8日火曜日

鷹の巣城(島根県簸川郡斐川町大字神庭)

鷹の巣城(たかのすじょう)

●所在地 島根県簸川郡斐川町大字神庭
●築城期 中世
●築城者 不明
●城主 錦織右京進
●標高 130m
●遺構 郭・石垣その他
●登城日 2008年10月9日

◆解説
 前稿「狼山城」に続いて、同じく高瀬城の支城といわれた「鷹の巣城」を取り上げる。
【写真左】登城口付近にある神代神社の案内板
 残念ながら「鷹の巣城」に関する事項は全く記載されていない。
 権現山と宇夜都弁命について書かれている。
 
 所在地は、高瀬城の北東麓に聳える標高130mの権現山といわれたところにあり、その西麓には宇夜都弁命(うやつべのみこと)を主祭神とする神代神社(通称:宇夜八幡宮)が祀られている。
現在、当城の城域だった北半分は、ゴルフ場となっており、当該区域は大分改変されているが、本丸周辺部は高圧線の鉄塔以外、余り手が加えられていない。

錦織氏

 鷹の巣城の城主は錦織氏といわれている。神代神社の縁起によれば、元弘元年(1331)、後醍醐天皇に従い、笠置山(H289m:京都府相楽郡笠置町字浜)の戦いで討死した錦織判官代俊政が同氏の家系という。

 錦織氏の出自は、河内とも近江ともいわれている。笠置山で討死した錦織氏の一族がなぜ、遠国出雲にきたのだろうか。そこで想起されるのが、後醍醐天皇の隠岐配流との関係である。

 「増鏡」によれば、元弘2年(正慶元年:1332)3月7日、幕府は後醍醐天皇の隠岐配流を決め、京を立った。そして4月に隠岐にたどり着いた。

 錦織氏の出自が上記のうち河内となれば、同氏が出雲に来住してきた理由がさらに現実味を帯びる。というのも、後醍醐天皇が隠岐に流されていた間も、各地に反幕府の火の手が上がっており、特に楠木正成は、赤坂城が陥落した後、紀伊から河内・和泉当たりで盛んに活動している。

 錦織氏は、後醍醐天皇の配流地・隠岐に近接した出雲国にあって、楠木正成らと事前にコンタクトをとりながら、畿内における反幕府方の戦況を逐次報告(後醍醐天皇側へ)する密使の役目をになっていたのではないだろうか。
 ただ、残念ながら船上山に馳せ参じたメンバーに、錦織氏の名は見えないので、あくまでも想像の域を出ないが…。
【写真左】神代神社入口
 この階段はほぼ直線で、途中から傾斜がきつくなり、階段に使われている石も大分年数を経たものが残っている。




戦国期

 さて、天文8年(1539)には、高瀬城主だった米原綱広(綱寛の父)が、当社境内に八幡神を勧請している。

 これについては、同じ年に「米原新五兵衛尉」名で、神代神社より尾根を越えたところにある学頭諏訪神社にも棟札が上棟されている(斐川町新指定文化財「米原氏関連寄進状、棟札」講演その2参照)。

 元亀年間についていえば、「狼山城」と同じく、米原綱寛の拠る高瀬城の支城のひとつとして使われ、当城には錦織右京介清次(右京進)が米原氏の最前線として戦ったという。清次は、老臣ながら毛利軍と激戦を重ねたといわれている。
【写真左】神代神社本殿
 境内は予想以上に広い。戦国期にはおそらくこの場所も米原・錦織氏が陣を構えていた場所だろう。




 以上のことから、錦織氏と米原氏の繋がりを考えた場合、高瀬城に最初に米原氏が入ったころ(室町期)、すでに錦織氏がこの地区(神庭)の領主としていた可能性が高い。

 そして、神官(神代神社)の身分のまま、高瀬城初代城主・綱広のころに被官し、武士となったと考えられる。
【写真左】登城路
 境内の南隅から写真にみえる道が途中まで整備されている。しばらく南側から迂回していくと、途中からつづら折りの登城路が設置されている。

 現在では、ほとんどこの道は高圧電線の鉄塔管理のために使用されているらしく、要所には階段が設けられているので助かる。
【写真左】本丸跡その1
 神社本殿からは約20分程度で本丸跡にたどり着ける。
 この写真は南側からみたもので、石垣が見える。鉄塔用に築かれたものではなく、むしろ石垣を避けているような配置なので、おそらく戦国期のものだろう。

【写真左】本丸跡その2
 本丸の概要は、2,3段の削平地を構成し、規模は10m四方といったところか。
 なお、島根県遺跡データベースでは、「堀切」の遺構も登録されているが、踏査した範囲では確認できなかった。おそらく、ゴルフ場建設時に消滅したかもしれない。

 この個所周辺は除草が行き届いているが、それ以外は雑木で覆われている。
 なお、この写真の奥から(北方向)ゴルフ場の区域となっているため、ネットや境を示す設備が施されている。

【写真左】本丸跡から西方を見る
 鷹の巣城は山城としては全く管理されていないので、当然眺望も期待できない。
 写真は本丸より少し下がった登城路付近から見えた景観で、西方に少し斐川平野を望むことができる。
 写真左に見える山麓は、仏教山の裾野。

【写真左】寺院跡?
 神代神社の階段途中の北側にみえたもので、「東光寺」という標識の建物がある。この付近はかなり広い平坦地が残り、奥には数基の墓石が建っている。

 史料がないため、なんとも言えないが、往時この場所に「東光寺」という寺院があったようだ。鷹の巣城や神代神社の直下にあることから、錦織氏と関わりのあった寺院かもしれない。

【写真左】神代神社付近から高瀬城を遠望
 高瀬城全景を確認できる場所は意外と少なく、神代神社のある宇屋谷が最もいい場所である。

 最近では、当城の北部に高速道路の山陰道が横切り、中腹部を遮るような景観となった。ただ、この山陰道を車で走る際、高瀬城を非常に近くに見ることができ、これもまた楽しみの一つとなった。

狼山城(島根県簸川郡斐川町直江)

狼山城(おおかみやまじょう)

●所在地 島根県簸川郡斐川町直江 斐川公園
●築城期 戦国期
●築城者 米原氏か
●標高 35m
●遺構 郭等
●登城日 2008年2月18日

◆解説(参考文献「斐川の地名散歩(池田敏雄著)」等)
 以前アップした宍道氏(毛利氏)・鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)でも少し紹介しているが、斐川の高瀬城(島根県斐川町)が落城した際、毛利氏(吉川元春)と米原氏との戦いの前哨戦として使われた山城(丘城)である。
【写真左】狼山城(斐川公園)
 同園は特にツヅジが有名で、地元市民の憩いの場にもなっている。
 この写真に見える個所も郭の痕跡が認められる。




 現在その場所は、斐川公園という施設になっており、野球場・多目的広場・梅林・つづじ園などといったものが設置されている。

 このため、山城としての遺構は明確に残っていないが、同園の北東部にある展望台付近では多少郭らしき痕跡が認められる。

 地元の郷土史家・池田敏雄氏の著書「斐川の地名散歩」によると、この地はその字が示すように昔は草木が生い茂り、狼の棲みかとなっていたという。
 そのため付近の田畠を狼が荒らし、人や家畜にも危害を及ぼしたため、狼退治の祈願をしたところ、姿を見せなくなったので、この森の中に狼神社を祀ったという。
【写真左】公園事務所付近
 この写真の向背に小丘があり、おそらくその場所が主郭として使用されたものと思われる(後段写真参照)






 元亀元年(1570)2月14日、布部要害山城(ふべようがいさんじょう)跡・島根県安来市広瀬町布部において、毛利と尼子再興軍の大激戦が開始された。

 尼子再興軍の一人・斐川高瀬城の米原綱寛は、700余騎を率いて参戦したが、毛利方の大軍の前に、尼子方は惨敗、300余の死者を出した。
 綱寛は尼子勝久・山中鹿助らと共に総退却を余儀なくされる。

 その後、綱寛は直ぐに居城・高瀬城に戻り、北方の出雲林木の鳶ヶ巣城に陣取る吉川元春の攻撃を阻止すべく、直江の狼山に出城を整備した。
 狼山はちょうど鳶ヶ巣城と高瀬城の中間地点に当たり、戦略的に両者にとって重要な位置を占めていた。
【写真左】公園案内図
 左側は、野球場や多目的広場となっているので、遺構は消滅していると思われるが、右側の方は多少遺構を残しているようだ。






 毛利方が最初に狼山城を落としたのは、同年(元亀元年)7月といわれている。これを裏付けるのが次の史料である。

“8月17日付 吉川元春・小早川隆景、直江・国富(平田)を往古のごとく、守護不入として寄進すると、鰐淵寺衆徒に伝える(鰐淵寺文書)”

 しかし、その後態勢を立て直した米原勢は、狼山城を奪取すべく、度々反撃に転じたので、毛利軍は同城を捨てて、新たに平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)その1や布崎城(場所不明)に陣替え(同年11月18日「萩閥100」)し、改めて三方(鳶ヶ巣城・平田城・布崎城)から攻め入ることとした。

 その後の経緯については度々記しているので省略するが、高瀬城が陥落したのは翌元亀2年3月19日である。
【写真左】主郭跡と思われる個所
 同園内で最高所と思われる高台にたつ社があるが、元は狼神社であったのを、明治23年東方の北田波地区にあった八幡社と合祀し、改めて「大神神社」としたという。
 現地にはこの社と、戦没者の忠魂碑が建っている。

 比高はさほどないものの、眺望が予想以上に望める。この写真では分かりずらいが、当時北方に聳える鳶ヶ巣城が手に取るように見えたものと思われる。

【写真左】北側にあった祠
 元亀年間の戦を祀ったものか分からないが、ひっそりと安置してある。







 なお、この狼山の南を東西に走る道路の南に「ほりぎり(堀切)」という地名がある。
 距離的には少し離れているが、当時は狼山城の尾根も南麓側と連続していたので、当城の築城の際、城砦施設として堀切があったと考えられる。

2011年2月7日月曜日

霜北城(島根県出雲市小境町)

霜北城(しもきたじょう)

●所在地 島根県出雲市小境町
●築城期 南北朝時代
●築城者 伊藤氏
●標高 74m
●別名 松尾山城・要害城
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀等
●登城日 2011年1月10日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」等)
 前稿「平田城」と同じく、旧平田市にあった山城で、築城期は南北朝時代とされている。
【写真左】霜北城東麓付近
 訪れたのが残雪のあった時期でもあり、登城までは至っていない。
 登城路らしきものが付近に見当たらなかったので、踏破するには藪こぎを覚悟しなければならないだろう。

 所在地は、平田城から北東へ約5キロほど向かった小境という地にある。

 現在では霜北城という山城よりも、その東麓に祀られた酒の神様として知られる「松尾神社(佐香神社)」の方が有名で、霜北城を標記するものは現地にほとんどない。

 鎌倉時代、このあたりを小境保といい、地頭・小境二郎が23町9反の領地を治めていたという。
【写真左】松尾神社鳥居
 霜北城の城域規模は不明だが、松尾神社本殿から直線距離で150m程度のところに本丸が位置しているので、神社境内も南北朝期から室町期にかけて城砦の役目も兼ねていたかもしれない。

 標高74mで、比高はおそらく40m程度しかないが、写真に見える階段の傾斜は予想以上のものがある。この部分(階段)の周囲も山城特有の郭段を構成している。

 南北朝期になると、小境郷一分地頭・伊藤次郎義明が領地し、建武の新政後、出雲守護であった塩冶高貞に従って北朝方として戦い、大和・河内を転戦したという。その後、高貞が追討された際は、義明の子・頼明がその追討軍に加わったという。

 頼明の子・元智の代になった正平5年(1350)の8月19日、足利直冬に与し、小境に隣接した領主・多久中太郎入道らと、松江の白潟橋上で武家方軍を相手に終日合戦している(萩閥66)。

 これは、以前にも紹介したように、石見国にあった足利直冬が正平5年兵を挙げ、7月20日、鰐淵寺に祈祷を命じ(鰐淵寺文書)、これに応じた出雲国の佐々木信濃五郎左衛門尉が動いたことからで、当時出雲国では多くの武将が一時的であったが、直冬の下に馳せ参じている。

【写真左】松尾神社本殿
 霜北城はこの写真の向背の崖をよじ登って行けばたどり着くはずだ。

 その後、応仁の乱(1467~77)が起こると、(伊藤)四郎左衛門尉は山名方に属したため、文明2年(1470)に、その所領を没収されたという。

 その処置をとったのは当然、出雲守護代であった尼子清定であるが、この年(文明2年)6月2日には、最強の国人領主であった三沢対馬守の所領も押収している(佐々木文書)。

 霜北城は戦国期には記録が見えないので、おそらく、このとき(文明2年)に廃城となったものと思われる。
【写真左】霜北城の東麓部
 御覧の通り、今冬の雪で竹や樹木が大分なぎ倒され、侵入を阻む。






小境土居跡(こざかいどいあと)

 ところで、霜北城から北方500mほどの位置には、小境土居跡という遺跡が認められている。
 おそらくこの場所は、霜北城に拠った伊藤氏などの居館跡と思われる。

 現地を確認してはいないが、現在は資材置き場となっているようだ。

大林寺(島根県出雲市平田町496-2)

大林寺(だいりんじ)

●所在地 島根県出雲市平田町496-2
●宗旨 臨済宗(妙心寺派)
●本尊 阿弥陀如来 境内宇(鎮守木野山大明神・木野山堂は明治17年建立)
●寺宝 兆殿司筆仏画 一山国師跡 松平直政公拝領物
●探訪日 2008年8月30日、2010年3月13日

◆解説
 平田城の南麓にある寺院で、南北朝期に創建され、戦国時代にはこの付近で、伯耆・八橋城主であった杉原景盛父子が毛利氏の怒りに触れ自害した。また、その墓石が建立されている。
【写真左】大林禅寺
 左側に見えるのが平田城の南麓部になる。








 現地の説明板より

“当寺略伝

 当山は応永5年(1398)、後醍醐天皇の皇孫・重興(しげおき)親王を開基とし、京都南禅寺の鷹室禅師を開山に、高松山栄崇寺として開創された重興親王(字名は文之)は、乱をこの地に避け、当山後峰に草庵を結んで、日夜修禅の日々を過ごされた。

 この間、在位28年にして我が亡き後は此所に仏寺を建立し、国泰民安を祈念せよと遺して此の地にて薨死された。後に正三品の位階が追贈された。

 往時の当山は、南北8丁(872m)、東西7丁半(712m余)の広大なる寺域に、仏殿・方丈等の七堂伽藍を構え、七景の観堂を擁して盛大を極めたという。永享7年(1435)には、室町幕府により十刹に準じた寺格に列せられた。
【写真左】山門

 その後、永禄3年(1560)及び、享保14年(1729)の二度、堂宇悉く炎上し、寛延元年(1748)に至って、現地に移転建立され、宝暦元年(1751)に寺号を大林寺と改めた。

 開山鷹室禅師より13世までは、南禅寺派に属し、14世中興龍関禅師より妙心寺派になった。
 龍関禅師は、松江藩主松平直政公の帰依厚く、松江萬壽寺の開基にして、寛文8年(1668)6月、当山に転住し諸山の経営に努められ、延宝6年(1678)10月、当山にて弟子単髄和尚に住持を譲り、閑居す。此所をその塔所とされた。
 師は当山中興の祖と称す。また松平公より数点に及ぶ寄進がある。
【写真左】杉原景盛父子墓所
 当院の東奥にあり、境内から少し外れた場所に建立されている。









追記

 寺域内に開基高松院殿並びに、鳥取八橋城主・杉原又次郎景盛公父子の墓所がある。
 景盛公は、毛利氏の家臣であったが、その怒りに触れ逃れて幸い、遺書諸具一切を寄進して自害して果てた。

右 平成20年7月吉日
  謹白”


 上記説明板の中で、「永享7年(1435)には、室町幕府により十刹に準じた寺格に列せられた。」とあるが、この頃の大林寺は、「崇禅寺(そうぜんじ)」と呼ばれていた。同年11月16日付として、
“足利義教、出雲国崇禅寺を十刹に準じる”(大林寺文書)
とある。
【写真左】杉原景盛父子墓その1
 現地には3基据えられている。父子のものとすれば、2基は景盛の子供二人となるが、1基については、景盛の正室とも考えられる。



  ところで、永禄3年に炎上したとあるが、この火災も当時の状況から考えて、戦のために焼失した可能性が高い。

杉原景盛

 さて、説明板の追記事項として、八橋城主・杉原又次郎景盛公父子の墓所が紹介されている。
 杉原氏は、備後国(広島県尾道市)の鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)でも紹介したように、建武年間、足利尊氏に従って、戦功を挙げた杉原信平・為平兄弟を祖とする。
【写真左】 杉原景盛父子墓その2











 戦国期で有名なのは、盛重のときであるが、その勇猛ぶりが吉川元春に認められ、後に備後国の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)の城主となる。
 
 その後、伯耆国の八橋城城番としてその任を担った(永禄7年:1564)が、天正9年の秀吉による鳥取城攻め(鳥取城・その1(鳥取県鳥取市東町2)参照)から2カ月後、病死した。

 盛重の子には、嫡男元盛、二男景盛がいた。景盛は嫡男元盛が家督を継いだことに異を唱え、兄元盛を殺害、それに対し毛利氏は杉原氏の相続を認めず、所領は吉川元春によって取り上げられた。

 嫡男が相続するということは、常識的な処置と思われるが、それでも異を唱えたということは、よほど弟・景盛にとって承知しがたい理由があったのだろう。

 そして、景盛の最後の抵抗が当地平田城下・大林寺付近で行われ、無念の自害となったと思われる。景盛が果てたのは、天正10年(1582)9月1日とある。この年の3カ月前の6月2日、京都では明智光秀が本能寺を急襲、織田信長が亡くなっている。

 なお、この大林寺の前を流れる平田船川付近には、「横撫城」という沼城があったようだが、現在は消滅している。おそらくこれは杉原景盛と関わりのあったものだろう。
 戦国期まで平田城のある愛宕山や、大林寺のある丘陵地の前(南岸)は宍道湖の入江が迫っていたようで、元亀年間の斐川高瀬城攻略の際は、多くの軍船が停泊していたと思われる。

◎関連投稿

2011年2月6日日曜日

平田城・その2(島根県出雲市平田町)

平田城・その2


●登城日 2012年2月12日


◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」その他)
今稿では、平田城の戦国期について概説しておきたい。

 多賀氏のあと、飯野氏が平田城に入ったとしているが、これは尼子氏による処置である。飯野氏については、尼子氏家臣団などの史料にも見えず、出自が不明である。
【写真左】平田城の西2郭から、南方に高瀬山城及び、狼山城を見る。
 この写真は、2012年2月12日撮影のもの。丁度南側斜面の雑木の伐採作業が行われていたため、視界が良くなっていた。


【写真左】平田城
 本丸跡北方にある郭に設置された社で、戦国期の関係のものではない。










 この飯野氏を入れたのが大永8年(享禄元年:1528)といわれている。それから30数年後の永禄5年(1562)になると、毛利氏が出雲に侵攻し、当城は同氏のものとなった。

 それまでの城主が件の飯野氏だったかどうかは不明であるが、天文元年(1532)8月、尼子経久の子で塩冶氏に養子となった塩冶興久が父・経久に反旗を翻し、佐陀城(伝:薦津殿山城といわれている:松江市薦津町:未投稿)で敗れ、備後の山内直通(甲山城(広島県庄原市山内町本郷)参照)のもとへ敗走した頃、当地平田は興久らの軍に挟まれた場所であったので、城主飯野氏に何らかの変化が起こったかもしれない。

 平田城が毛利氏の手におちたといわれる永禄5年(1562)の状況を見てみると、この年は実に大きな動きを見せている。
 その兆候を引き起こしたのは、2年前の永禄3年(1560)12月に、尼子晴久が急逝し、嫡子・義久が継いだことから始まっているとみてよい。このころから尼子氏の陰りが見え始める。
【写真左】平田城から東方を見る。
 右側に宍道湖が見え、写真中央部の丘陵地は布崎地区になる。平田城とともに、斐川高瀬山城を攻略する際の城砦として、「布崎城」が記録されているが、比定が確定していないものの、写真に示した辺りにあったのではないかと考えられる。


 また、写真にみえる手前の田圃(新田)などは、戦国期はもとより、近年まで宍道湖であった。




 平田城付近でこの時期の記録を見ると、義久は永禄4年(1561)7月20日、家臣・坪内宗五郎に対し、天文21年(1552)に遣わした林木荘(平田の西部で、出雲市との境)内の遊屋名・内道名半分を安堵し(坪内文書)、9月には先例にならって鰐淵寺領を安堵(鰐淵寺文書)、10月には、日御碕社に宇龍浦を安堵し、舟役を定めている(日御碕神社文書)。(宇龍城(島根県出雲市大社町宇龍)参照)。

 義久としては、当初父・晴久の手法を踏襲すべく政務を行っていたが、永禄4年から翌5年(1562)にかけて、将軍足利義輝による和睦調停(雲芸和議)に応じたため、尼子一族及び与党の国人領主の動揺と離反を惹起させ、その後毛利氏はこの和睦を破って、石見から出雲にかけて一気に攻め入ることになる。
【写真左】高瀬城遠望
 左側が本丸で、右に二ノ丸・三の丸と続く








 平田城が毛利氏によって奪取された月日は不明だが、上記の動きの中で、それまで尼子方だった三沢氏・三刀屋氏・赤穴氏及び、南隣りの斐川高瀬城主・米原綱寛も義久を見限り、毛利方についたので、平田城主であったと思われる飯野氏も、彼らと同じ行動をとったと思われる。

この年(永禄5年)9月4日付の「岩国藩中諸家古文書纂」によれば、

「吉川元春、石見福屋氏が杵築に隠れているとの連絡があったとして、安楽寺・森脇氏以下の鳶ヶ巣城の番衆に注意するよう伝える」
とある。
【写真左】鳶ヶ巣城遠望










 これから推察すると、平田城も鳶ヶ巣城と同じころ(同年の春季か)に毛利氏のものとなっていたと考えられる。また、同年12月になると、毛利元就は松江市にあった荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を築き、尼子方の富田城と白鹿城の連絡を断っている。

 また翌永禄6年の記録としては、「益田家文書」5月9日付に次のような記録がある。

 「吉川元春、益田藤兼に対し、明日は尼子方が大東へ出張った後、牛尾に退却し、今朝は中蔵(宍道)へ攻勢をかけたので、増援したこと、また、平田の動静について、藤兼の助言を元就に伝えたことなどを賞す」

 とある。これから推察すると、尼子方の勢力範囲が大分狭められ、宍道湖南岸から東方へ後退していることが分かる。

 それでも義久は、寄進や安堵の手段を用いて、奪われつつあった出雲西方の地になんとか繋ぎの手を打っている。
  • 5月29日 尼子義久、黒田浦を日御碕社に新寄進する(日御碕神社)。
  • 5月29日 尼子義久、宇龍浦を山海とともに守護不入の地として日御碕社に寄進する(日御碕社)。
  • 6月2日 尼子氏、坪内重吉に対し、富田城籠城を賞して杵築内(大社)で給地を与え、石見銀山・荒木の権益を安堵する(坪内文書)。
  • 6月25日 尼子義久、御碕検校に対し、宇龍津に着岸した船には、その商売の実態に即して、諸役を課すよう命じる(日御碕神社)。
【写真左】白鹿城本丸跡
 いずれ当城も投稿する予定だが、現在の松江市法吉町にある山城で、北方には真山城(島根県松江市法吉町)が隣接する。







 しかし、こうした義久の努力もあまり効果がなかったと見え、その年(永禄6年)の10月29日、松江白鹿城(島根県松江市法吉町)が毛利氏に攻略され、永禄9年(1566)11月21日、ついに尼子方本城・富田城が落城、尼子義久・秀久・倫久が降伏した。

 さて、それから4年後の元亀元年(1570)、山中鹿助をはじめとする尼子再興軍が蜂起した時、平田城の南方に聳える高瀬城には、毛利方として九州にあった米原綱寛が尼子方に寝返り、この城に拠った。

毛利方は、吉川元春が主力となって、鳶ヶ巣城を本拠とし、平田城には家臣・岡又十郎元長及び、牛尾大蔵左衛門らが陣した。
 このころ、平田城附近に関する記録を拾ってみると、元亀元年(1570)8月16日付で次のように記されている(萩閥107)。

 “毛利元就、末次城への兵糧100俵を、18日に杵築から平田へ積み出すので、杵築在陣衆・鳶ヶ巣在陣衆と相談して、警護にあたるよう、祖式賢兼に命ずる”

 そして、11月22日になると、

 “吉川元春、口羽通良・宍戸隆家らに対し、18日に平田へ陣替えしたこと、満願寺城へは日吉・大庭あたりに進出している富田城の兵を待ってから行くつもりであること、口羽・宍戸らも満願寺城へ向けて渡海すべきことなどを伝える”(萩閥100)
 と記録されている。
【写真左】新山城(真山城)本丸跡









 こうした態勢をとった毛利氏は、翌元亀2年(1571)3月19日、毛利から再び尼子方に寝返った米原綱寛の拠る斐川の高瀬城(島根県斐川町)を落としていくことになる。

 上記の記録からみると、斐川高瀬城を落とした毛利方戦力は、平田城を主力として吉川元春が自ら先頭に立って攻め入ったと考えられる。

 高瀬城陥落の際、城主・米原綱寛は宍道湖北東部の新山城へ逃げ込んだ。なお、新山城もその年8月21日、落城し、尼子勝久は隠岐国へ逃走した。
【写真左】西2郭といわれている箇所。
 伐採されたことにより、南面の険しい切崖が確認できる。
【写真左】南麓から見上げる。
 写真左の墓地は南麓にある「極楽寺」のもので、写真中央部奥に主郭があり、その左の展望台は、「西1郭」といわれる箇所。

2011年1月31日月曜日

平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)その1

平田城(ひらたじょう)・その1

●所在地 島根県出雲市平田町極楽寺山
●築城期 応永年間(1394~1427)ごろ
●築城者 多賀氏か
●標高 53m
●別名 山崎城・薬師城・手崎城
●遺構 郭・帯郭・腰郭・堀切等
●登城日 2011年1月10日、及び数回

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「島根県の歴史 県史32:山川出版」その他)
  前稿「旅伏山城」の旅伏山東麓にある通称愛宕山に築かれた山城である。地元では、普段「平田のアタゴさん」と呼んでいる山である。
【写真左】平田城遠望
 南麓からみたもの。平田城の標高はわずか53mであるため、山城というよりは、平城に近い。





 現地の説明板より

“平田城跡
 平田城は別名を手崎城・薬師城と呼ばれる中世の山城です。
 応永から大永年間(1394~1528)まで、京極氏の家臣多賀氏が根拠としていましたが、その後尼子氏が再興をはかって根拠としていた高瀬城(簸川郡斐川町荘原)に対して、毛利方が入城したことにより、このあたりで両者による合戦が行われたといわれています。

 この場所が主郭のあったところであり、周囲にも付属する郭が築かれ、西1の郭・西2の郭などに当時の面影を残しています。また、郭の附近には堀切があり、当時の城郭構造を知ることができます。
 平田市”
【写真左】中腹の駐車場付近
 平田城跡は、愛宕山公園という市民の憩いの場や、鹿や鳥などを飼育した施設が設置されている。

 本丸跡はこの写真の右側にあるが、当時はこの山全体が城域だったと考えられる。





出雲国守護職・京極氏

 出雲国の南北朝・室町期に守護職としてあったのは、塩冶高貞を皮切りに、前半では京極氏と山名氏の両氏が、対立しながらもほぼ交互に務めていった。しかし、明徳2年(1391)に山名氏が幕府に反旗を翻した「明徳の乱」が起こると、翌3年から京極氏が、同国守護職として任を負うことになる。

 最初に任じられたのが、京極高詮である。同年(明徳3年)3月2日付の「佐々木文書」に次のように記されている。

“足利義満、佐々木(京極)高詮に、出雲・隠岐の本領・新恩地を領地させる”

 新守護となった高詮は、さっそく守護職としての対応を取っていった。
 先ず、その年の6月8日には、千家・北島を杵築大社に寄進(出雲大社文書)し、10月7日、杵築大社内佐木(鷺)浦を、国造に安堵する(千家文書)。
 そして、次に鰐淵寺に対しては、寺領高浜郷・遙堪郷の土地を安堵する(10月16日・千家文書)。
もっともこれについては、杵築大社及び鰐淵寺といった伝統的な在地勢力に対する「気配り」的なもので、守護職として強力な出雲国支配を貫徹するというところまでは至っていない。

 その上、高詮自身は、幕府の命によって、「在京」を義務付けられ、飛騨の国も兼ねた守護職であったため、直接出雲国に赴任せず、専ら京都にいた。

朝山氏

 ところで、高詮は翌4年(1393)3月20日、出雲国朝山郷の土地を神西三川六郎に与え、同年6月6日には、高詮の父・高秀の名によって、神西三川六郎に朝山郷内の稗原左京亮跡(地)を給与している(春日文書)。
【写真左】本丸遠望
 全体が公園になっているため、要所には写真に見える階段が設置され、標高も低いこともあって、登城には散歩気分で登れる。






 この記録と関係すると思われるのが、前稿「旅伏山城」でも述べた「朝山氏」の動きである。同氏は、応永元年頃(1394)ごろまで、当地を本領としていたが、その後室町幕府奉公衆として京都に上っている。

 朝山氏は、京極高詮が出雲国守護となる前、旧国衙在庁官人のリーダーであったわけで、京極氏が出雲守護職となれば、それまでの社家奉行としてあった朝山氏の存在は必要なくなる。朝山氏自らの選択かもしれないが、京に上って、室町幕府の奉公衆となったのは、多分に幕府の意向が働いているとも考えられる。

 というのも、任命権者である幕府自身、守護職が強大な領国支配することを恐れていたことも、事実で、いわば朝山氏は、幕府内に置いて守護職・京極氏をけん制する役目を担ったものと思われる。

【写真左】平田城縄張図
 現地本丸跡に設置されているもので、遺構の数としては少ない表示だが、実際にはこの北方から繋がる峰の辺りも城郭だったと思われ、現在の平田高校付近まで何らかの城砦施設があったものと思われる。



三刀屋(諏訪部)氏への安堵など

 さて、出雲国守護職としての京極氏の事績をもう少し追ってみる。
 明徳4年(1393)2月5日、明徳の乱で敗れた山名方の山名満幸が、三刀屋城を攻め、城主諏訪部菊松丸は一旦退却するも、3月には諏訪部一族が奪還した。
 それに対し、応永3年(1396)9月29日、諏訪部菊松丸に三刀屋郷地頭職・庶子分・下熊谷の土地を安堵し、2年後の応永5年9月9日、幕命によって諏訪部三郎に同国三刀屋郷総領方地頭職を安堵する(三刀屋文書)。

 ところで、出雲の領地を受けてから、7年後の応永6年(1399)に次の文書が見える。

“足利義満、佐々木(京極)高詮を出雲国守護職に任命する(佐々木文書:応永6年11月15日)”

【写真左】西1郭付近
 幅は4,5m、奥行きは15m程度ある。










 この時期に、こうした文書が見えるのは、不自然だが、これは、おそらく、途中から守護代として隠岐国守護代であった隠岐氏が、絶大な支配力を持ち、その結果、京極氏の介入を許さなかったためと思われ、右の文書は事実上「隠岐国守護職の解任」とも受け止められる。

 高詮は、その後応永8年(1401)8月に、出雲・(隠岐)・飛騨三国の守護職と、所領、総領分をすべて嫡子高光に譲り、翌月(9月)の7日、死去する。享年49歳。

【写真左】堀切
 西1郭から西2郭に降りる位置にあるもので、現在は公園を散策する散歩道になっている。







多賀氏

 さて、平田城の築城期ははっきりしないが、おそらく上述したように、京極高詮が出雲守護職となった明徳3年から応永年間の初期(1394)頃と思われる。
 このころの出雲国守護代についてはあまり記録が残っていない。その中でも、14世紀後半から15世紀前半では、多賀氏と宇賀野氏の名が残る。

 ただ、それより前の健治2年(1276)2月、杵築大社の領家・藤原顕嗣が杵築大社総検校・中原実高を罷免し、国造・義孝を同職に補任し、造営を急がせる(北島家文書)、というのがあり、この中の中原実高は、多賀氏の祖である中原とも推察されることから、すでにこのころ多賀氏系譜の一族が出雲国に在住していた可能性もある。
【写真左】西2郭
 西端部のもので、4,5m四方の大きさがある。










 多賀氏は、もともと鎌倉幕府の北条氏に寄進して鎌倉御家人となり、多賀社(滋賀県)の神官となり、その後京極氏(佐々木氏)の被官となって、元弘・建武の頃は京極高氏(佐々木導誉)の下で活躍している。
【写真左】多賀大社
所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地

伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美命(いざなみ)の二柱を祀る。

参拝日:2007年10月17日



 このことから、守護職・京極氏としては、守護代は多賀氏に指名し、出雲国に下向させたのであろう。

 「平岡文書」という史料に次の記録が見える。

“明徳3年(1392)10月8日、隠岐守某、多賀弾正右衛門に対し、杵築大社権検校職・大庭田尻保内田畠・揖屋庄内崎田村平岡分田畠を平岡氏に打ち渡すよう命ずる”

 この記録から推察すると、この年(明徳3年)、「隠岐守某」(守護職と同等の権限を持った者か)の命によって、多賀弾正右衛門なるものが、すでに守護代として活躍していると思われる。なお、文中の「平岡氏」というのは、おそらく千家・北島といった国造一族の一人と思われる。

【写真左】旅伏山城遠望
 本丸跡から西方に見たもの。










 現地の説明板によると、この平田城を居城とした多賀氏は、応永から大永年間(1394~1528)までの130年余り当地にあったことになる。この間の記録として主なものをあげると次のものがある。
 
 最初に挙げるものは、文明4年(1472)3月20日付の「日御碕文書」にある「幕府奉行人奉書」である。

 これは、杵築大社が日御碕神社の社領を横領していることに対する停止を命令したもので、布達先には、当時すでに出雲国守護代となっていた尼子清定をはじめ、牛尾、熊野、佐世、湯、馬来、広田、佐々木塩冶五郎左衛門尉、松田三河守、村井信濃守らと並んで、多賀次郎左衛門尉の名が見える。
【写真左】南方に高瀬城遠望
 写真中央のやや右に見える山が斐川町にある高瀬城である。

 戦国期の元亀年間、平田城と鳶ヶ巣城に陣した毛利方と、米原綱寛(尼子再興軍)が拠った高瀬城との間で激しい戦が行われた。
 主に毛利方が高瀬城に攻め入った記録が多いが、米原方も数回、船を使ってこの平田城に攻め入ったとの記録がある。



 さらに10年後の文明14年(1482)、鰐淵寺に西西郷(平田市西郷町)の経田を寄進(「鰐淵寺文書」8月18日付)した、とある多賀次郎左衛門尉秀長は、おそらく、同上の人物と同一と思われる。

 さらに下った永正18年(1521)には、多賀次郎左衛門尉が、寿峰院(のちの平田市大林寺)に寺領を寄進(代林寺文書)している。

 多賀氏が当地・平田城に拠っていた記録は以上のようなものだが、その期間に守護職であった京極氏の状況が変わって行く。
 高詮から数えて5代目となる持高が、嗣子を残さず39歳で亡くなる(永享11年・1439、1月13日、又は14日)と、叔父であった高数が引き継いだが、彼も「嘉吉の乱」(嘉吉元年:1441年、6月24日)で誅殺された。
 このため、半年間は出雲国守護職が定まらず、その年の12月20日になって、幕府は京極持清を補任している。
【写真左】本丸より南東方向に丸倉山城及び大平山城を見る。
 丸倉山城については、2009年11月1日投稿、大平山城は、同年11月6,7日投稿しているので参照していただきたいが、最終的には毛利方の支城として使われた山城である。





 京都の室町幕府自体がそうした不安定な状況下でもあったことから、次第にそのころから出雲国守護代として頭角を現してきたのが尼子氏である。

 史料によっては、尼子氏が出雲国に入ったのは、多賀氏と同じころとされ、初代尼子持久とされるが、具体的な史料はほとんど見られない。

 出雲国における尼子氏の活躍が初見されるのは、持久の子・清定の代になってからで、特に応仁の乱が始まった応仁元年(1467)の11月7日に次の記録が見える。

“細川勝元、尼子清定の出雲での戦功を賞する(佐々木文書)。”

 また、翌年5月になると、守護職・持清は、尼子清定に論功行賞を与え、出雲国を掌握させる(佐々木文書)、とある。
 こうなると、ほとんど尼子氏が事実上の出雲国支配者と思えるが、実態は同国の在地国人領主であった松田氏や三沢氏などの反京極・尼子勢との抗争の始まりで、このころがもっとも激しくなったころである(「十神山城」2010年2月13日投稿参照)。
【写真左】東方に和久羅山城を遠望する。
 平田城の東方には宍道湖があり、この湖とさらに東方にある中海との中間地点に聳える和久羅山城も、以前紹介(2009年10月28日投稿)したように戦国期に山城として使用された。






 ところで、このころ多賀氏の行動については、尼子氏がより京極氏を後ろ盾としたこともあり、反尼子・京極の色を鮮明にし始めている。もっともその兆候が出たのが、尼子経久の子で、塩冶氏に養子に行った興久との抗争である。

 このとき、反尼子(興久側)として連合したのは、杵築大社、鰐淵寺、三沢氏、真木氏、備後山内氏、但馬山名氏などがあり、この中には多賀氏も入っていた。 ただ、多賀氏については、すでにこの段階(天文元年:1532)では、平田城を追われた形で、その時期は享禄元年(1528)といわれている。
 さて、多賀氏は飯石郡掛合へ移され、平田城にはそのあと飯野氏が入った、と記されている。

2011年1月9日日曜日

旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)

旅伏山城(たぶしやまじょう)

●所在地 島根県出雲市美談町旅伏山
●築城期 南北朝
●築城者 不明
●標高 458m
●遺構 郭
●備考 多夫志熢
●登城日 2010年10月19日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」等)
 このところ石見国の山城が続いてきたので、久しぶりに出雲国の山城をとりあげたい。
 
【写真左】旅伏山城遠望
 南東部麓からみたもの。










 旅伏山は古代の「出雲風土記」にも書かれた多夫志熢(たぶしのとぶひ)という狼煙の台が置かれたという古い歴史を持つ山である。

 出雲平野から北に目を移すと、東西に長く伸びた連山が見える。この連山は、通称北山とも呼ばれ、地元市民の手軽な登山コースとしても親しまれている。昭和55年(1980)には、中国自然歩道の一部として登山道も整備された。
 主だった山としては、今稿の旅伏山を東端に、西に向かって、鼻高山・万ヶ丸山・弥山と続く。

 旅伏山城が記録に出てくるのは、南北朝期である。旅伏山の北麓にある古刹・鰐淵寺の文書によれば、興国2年・暦応4年(1341)4月22日付で、以下のものが記されている。

“朝山景連、鰐淵寺南北衆徒に対し、塩冶高貞誅伐のため、急ぎ旅臥城(旅伏城)に陣を構えるよう命ずる。”

 とある。
【写真左】案内図
 旅伏山に登るコースはいろいろあるが、今回は当山東麓の康国寺付近のスタート地点から登った。


 朝山景連は、元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇が隠岐から脱出し、伯耆船上山において倒幕の声を挙げた時、出雲守護の塩冶高貞はじめ、金持一族・大山衆徒・三隅一族らと参画している人物である。

 その後、建武元年(1334)5月になると、足利尊氏が景連に対し、備後への出兵を命じ、翌建武2年(1335)に、備後国守護職に任じられ、現在の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)を築いている。
【写真左】鰐淵寺
 旅伏山の北麓に建立されている古刹。

天台宗 浮浪山 一乗院
 鰐淵寺

開山 知春上人推古2年(594)
本尊 千手観音菩薩 薬師如来


 鰐淵寺は、伯耆国(鳥取県)の大山寺と並んで、山陰有数の天台宗の古刹である。創建時期ははっきりしないが、少なくとも平安後期には修験の道場として中央にも広く知られていた。
 
【写真左】登城口
 写真手前の場所には、駐車場があり、およそ10台程度のスペースが設けられている。






 元弘3年の5月の段階で、この鰐淵寺の頼源が六波羅攻めに加わり、初期の段階から他の諸族と同様、後醍醐天皇に加担していることが記録に見える。
 このころから、大山寺のように、多数の僧兵がいたわけである。余談ながら、武蔵坊弁慶はこの鰐淵寺の出身だという伝承も残る。

 その後、知られているように、後醍醐天皇が、鎌倉北条幕府を倒した後、建武新政を執行するも、破たんによって再び世は乱れていった。

 ところで、上掲の塩冶高貞についてはこれまで、塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)、加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)でも触れてきた。

 塩冶高貞が京都から逃走を図り、出雲国宍道の佐々布で自刃したのは、「太平記」によれば、興国2年3月と記されている。しかし、その期日は、上掲の「鰐淵寺文書」にも見られるように、どうも符合しない。
【写真左】鹿除け用ゲート
 登城口からしばらく登ると、網状のゲートが設置してある。

 以前、宍道氏(毛利氏)・鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)の際も経験したが、北山には野生の鹿が住んでおり、最近では麓まで降りてきて被害をもたらすことから、この写真のようなゲートが設置されている。
 このゲートをきっと閉めてから、再び進む。



 「佐草家・鰐淵寺文書」という史料でも、
“足利直義、佐草五郎左衛門尉と鰐淵寺北谷衆徒に対し、塩冶高貞が陰謀を企て、逃走したとして誅伐を命ずる”
 と同あり、この日付も(興国2年・1341)3月24日付となっている。

 さらに補完する別の史料として、「小野家文書」の中に、
“大野庄祢宇村地頭・北垣光昌、塩冶高貞誅伐に下向した幕府方に着到状を提出する”
というのがあり、この日付は4月となっている。

 最初に紹介した鰐淵寺文書のものはさらに遅く、4月22日付である。このことから、「太平記」に記されている3月には無理があり、早くても4月の後半であることが予想できる。

 朝山氏については、姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)でも述べたように、建久3年(1192)、征夷大将軍となった源頼朝が、出雲八幡宮八社を新造したとき、朝山郷一社の祠官兼帯を命じられている。
 また、文永8年(1271)の頃の同氏の所領は、神門郡から楯縫郡の西側、東郷、御津荘まで及び、規模は167町5反を占め、隣接する守護職・佐々木塩冶氏に次ぐ領地を所有していた。
【写真左】中腹にある鳥居
 登城口から40分程度登って行くと、鳥居が見える。この鳥居はおそらく頂上付近にある都武自神社のものだろうが、このあたりで南方に眺望が望める。


 なお、朝山氏はその後出雲国においては、応永元年(1394)ごろまで、当地を相伝本領としていたが、仔細は不明なものの、召し放たれて幕府御料所になり、同氏はそれ以後、室町幕府将軍直属の奉公衆として京都に拠点を移したとある(朝山肥前守清綱申状)。
【写真左】2番目の鳥居
 先ほどの位置からさらに傾斜がきつくなり、500m程度進むと、2番目の鳥居が見える。
 この写真の右側の斜面の上は、東端の郭跡になる。
 また、南面は切崖状が連続し、要害性は十分に認められる。
【写真左】郭その1
 東の尾根に沿って段を構成しているが、帯郭を持たせているのは南面が多い。

【写真左】都武自神社とその下の削平地
 先に登城路を進み、写真に見える都武自神社の下にある広い削平地に着く。
 この場所から再び東方の尾根伝いに下がって郭段を確認していく。
【写真左】郭その2
 神社から東に伸びる郭の最東端までは約200m程度に見え、その間には3,4段の郭が構成されている。
 ただ、遺構である郭そのものの管理は、ほとんどなされていない。竹や倒木が全体を占め、歩くのにも苦労する。
【写真左】堀切か
 大分埋まっているように見えるが、南北に溝のような痕跡が認められることから、堀切だったと思われる。
【写真左】都武自(つむじ)神社
 祭神は、速都武自命で出雲風土記に出てくる社である。
 南北朝期は、おそらく当社も戦の施設として兼ねていたかもしれない。
【写真左】境内南端部の切崖
 下に見える道が東方から登ってきた道であるが、全体に南側の谷が深くなり、要害性が高い。
【写真左】展望台
 都武自神社を過ぎてさらに脇の道を登ると、御覧のような整備された展望台がある。
 この位置からは、南麓(右側)及び北方(左)も眺望を楽しめる。

【写真左】南方に出雲・斐川平野を望む
 この日は少し靄がかかっており、今一つだったが、条件がよいと、西に三瓶山、東に宍道湖・中海・大山を望むことができる。

【写真左】西下に「鳶ヶ巣城」を遠望する。
 鳶ヶ巣城側に向かう道もあるが、この日は断念した。 
 以前には、旅伏山城も戦国期に使用されたとあったが、現在は南北朝期のみという説が主流だ。
【写真左】斐伊川を見る
 川を挟んで右側が出雲市、左が斐川町になる。
【写真左】北方に十六島(うっぷるい)湾・日本海を見る。
 最近ではこの山並みに風力発電の風車が10数基設置された。