狼山城(おおかみやまじょう)
●所在地 島根県簸川郡斐川町直江 斐川公園
●築城期 戦国期
●築城者 米原氏か
●標高 35m
●遺構 郭等
●登城日 2008年2月18日
◆解説(参考文献「斐川の地名散歩(池田敏雄著)」等)
以前アップした宍道氏(毛利氏)・鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)でも少し紹介しているが、斐川の高瀬城(島根県斐川町)が落城した際、毛利氏(吉川元春)と米原氏との戦いの前哨戦として使われた山城(丘城)である。
【写真左】狼山城(斐川公園)
同園は特にツヅジが有名で、地元市民の憩いの場にもなっている。
この写真に見える個所も郭の痕跡が認められる。
現在その場所は、斐川公園という施設になっており、野球場・多目的広場・梅林・つづじ園などといったものが設置されている。
このため、山城としての遺構は明確に残っていないが、同園の北東部にある展望台付近では多少郭らしき痕跡が認められる。
地元の郷土史家・池田敏雄氏の著書「斐川の地名散歩」によると、この地はその字が示すように昔は草木が生い茂り、狼の棲みかとなっていたという。
そのため付近の田畠を狼が荒らし、人や家畜にも危害を及ぼしたため、狼退治の祈願をしたところ、姿を見せなくなったので、この森の中に狼神社を祀ったという。
【写真左】公園事務所付近
この写真の向背に小丘があり、おそらくその場所が主郭として使用されたものと思われる(後段写真参照)
元亀元年(1570)2月14日、布部要害山城(ふべようがいさんじょう)跡・島根県安来市広瀬町布部において、毛利と尼子再興軍の大激戦が開始された。
尼子再興軍の一人・斐川高瀬城の米原綱寛は、700余騎を率いて参戦したが、毛利方の大軍の前に、尼子方は惨敗、300余の死者を出した。
綱寛は尼子勝久・山中鹿助らと共に総退却を余儀なくされる。
その後、綱寛は直ぐに居城・高瀬城に戻り、北方の出雲林木の鳶ヶ巣城に陣取る吉川元春の攻撃を阻止すべく、直江の狼山に出城を整備した。
狼山はちょうど鳶ヶ巣城と高瀬城の中間地点に当たり、戦略的に両者にとって重要な位置を占めていた。
【写真左】公園案内図
左側は、野球場や多目的広場となっているので、遺構は消滅していると思われるが、右側の方は多少遺構を残しているようだ。
毛利方が最初に狼山城を落としたのは、同年(元亀元年)7月といわれている。これを裏付けるのが次の史料である。
“8月17日付 吉川元春・小早川隆景、直江・国富(平田)を往古のごとく、守護不入として寄進すると、鰐淵寺衆徒に伝える(鰐淵寺文書)”
しかし、その後態勢を立て直した米原勢は、狼山城を奪取すべく、度々反撃に転じたので、毛利軍は同城を捨てて、新たに平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)その1や布崎城(場所不明)に陣替え(同年11月18日「萩閥100」)し、改めて三方(鳶ヶ巣城・平田城・布崎城)から攻め入ることとした。
その後の経緯については度々記しているので省略するが、高瀬城が陥落したのは翌元亀2年3月19日である。
【写真左】主郭跡と思われる個所
同園内で最高所と思われる高台にたつ社があるが、元は狼神社であったのを、明治23年東方の北田波地区にあった八幡社と合祀し、改めて「大神神社」としたという。
現地にはこの社と、戦没者の忠魂碑が建っている。
比高はさほどないものの、眺望が予想以上に望める。この写真では分かりずらいが、当時北方に聳える鳶ヶ巣城が手に取るように見えたものと思われる。
【写真左】北側にあった祠
元亀年間の戦を祀ったものか分からないが、ひっそりと安置してある。
なお、この狼山の南を東西に走る道路の南に「ほりぎり(堀切)」という地名がある。
距離的には少し離れているが、当時は狼山城の尾根も南麓側と連続していたので、当城の築城の際、城砦施設として堀切があったと考えられる。
●所在地 島根県簸川郡斐川町直江 斐川公園
●築城期 戦国期
●築城者 米原氏か
●標高 35m
●遺構 郭等
●登城日 2008年2月18日
◆解説(参考文献「斐川の地名散歩(池田敏雄著)」等)
以前アップした宍道氏(毛利氏)・鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)でも少し紹介しているが、斐川の高瀬城(島根県斐川町)が落城した際、毛利氏(吉川元春)と米原氏との戦いの前哨戦として使われた山城(丘城)である。
【写真左】狼山城(斐川公園)
同園は特にツヅジが有名で、地元市民の憩いの場にもなっている。
この写真に見える個所も郭の痕跡が認められる。
現在その場所は、斐川公園という施設になっており、野球場・多目的広場・梅林・つづじ園などといったものが設置されている。
このため、山城としての遺構は明確に残っていないが、同園の北東部にある展望台付近では多少郭らしき痕跡が認められる。
地元の郷土史家・池田敏雄氏の著書「斐川の地名散歩」によると、この地はその字が示すように昔は草木が生い茂り、狼の棲みかとなっていたという。
そのため付近の田畠を狼が荒らし、人や家畜にも危害を及ぼしたため、狼退治の祈願をしたところ、姿を見せなくなったので、この森の中に狼神社を祀ったという。
【写真左】公園事務所付近
この写真の向背に小丘があり、おそらくその場所が主郭として使用されたものと思われる(後段写真参照)
元亀元年(1570)2月14日、布部要害山城(ふべようがいさんじょう)跡・島根県安来市広瀬町布部において、毛利と尼子再興軍の大激戦が開始された。
尼子再興軍の一人・斐川高瀬城の米原綱寛は、700余騎を率いて参戦したが、毛利方の大軍の前に、尼子方は惨敗、300余の死者を出した。
綱寛は尼子勝久・山中鹿助らと共に総退却を余儀なくされる。
その後、綱寛は直ぐに居城・高瀬城に戻り、北方の出雲林木の鳶ヶ巣城に陣取る吉川元春の攻撃を阻止すべく、直江の狼山に出城を整備した。
狼山はちょうど鳶ヶ巣城と高瀬城の中間地点に当たり、戦略的に両者にとって重要な位置を占めていた。
【写真左】公園案内図
左側は、野球場や多目的広場となっているので、遺構は消滅していると思われるが、右側の方は多少遺構を残しているようだ。
毛利方が最初に狼山城を落としたのは、同年(元亀元年)7月といわれている。これを裏付けるのが次の史料である。
“8月17日付 吉川元春・小早川隆景、直江・国富(平田)を往古のごとく、守護不入として寄進すると、鰐淵寺衆徒に伝える(鰐淵寺文書)”
しかし、その後態勢を立て直した米原勢は、狼山城を奪取すべく、度々反撃に転じたので、毛利軍は同城を捨てて、新たに平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)その1や布崎城(場所不明)に陣替え(同年11月18日「萩閥100」)し、改めて三方(鳶ヶ巣城・平田城・布崎城)から攻め入ることとした。
その後の経緯については度々記しているので省略するが、高瀬城が陥落したのは翌元亀2年3月19日である。
【写真左】主郭跡と思われる個所
同園内で最高所と思われる高台にたつ社があるが、元は狼神社であったのを、明治23年東方の北田波地区にあった八幡社と合祀し、改めて「大神神社」としたという。
現地にはこの社と、戦没者の忠魂碑が建っている。
比高はさほどないものの、眺望が予想以上に望める。この写真では分かりずらいが、当時北方に聳える鳶ヶ巣城が手に取るように見えたものと思われる。
【写真左】北側にあった祠
元亀年間の戦を祀ったものか分からないが、ひっそりと安置してある。
なお、この狼山の南を東西に走る道路の南に「ほりぎり(堀切)」という地名がある。
距離的には少し離れているが、当時は狼山城の尾根も南麓側と連続していたので、当城の築城の際、城砦施設として堀切があったと考えられる。
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