観音寺城(かんのんじじょう)
●所在地 滋賀県近江八幡市安土町
●築城期 建武2年(1335)又は応仁・文明年間(1467~87)
●築城者 六角氏頼
●廃城年 永禄11年(1568)
●標高 433m(本丸395m)
●遺構 郭群・石垣・石塁・礎石建物等
●指定 国指定史跡
●備考 日本100名城
●登城日 2008年3月18日
◆解説(参考文献「戦国の山城」全国山城サミット連絡協議会編、「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、その他)
今稿も「西国の山城」ではなく、近江の山城で、前稿「太尾山城」と関わった六角氏(佐々木)の居城・観音寺城を取り上げる。
登城したのが、3年前にもなるので、細かい部分については大分記憶が薄らいでいるが、とにかく当城の麓に立ち止まった時、余りの巨大さに驚いたことを鮮明に覚えている。
所在地は、近江八幡市にあって、東海道本線と南に並行して走る近江鉄道の間に屹立する繖山(きぬがさやま:標高433m)を中心に築城されている。
これまでの調査から特記されることは、郭が100か所以上もあり、いまだに正確な数が確定していないこと、また石塁や5mを越える石垣が無数に点在するという巨大な山城であることである。
しかもこれらの郭は城砦機能を持った一般的な山城とは違い、家臣などが居住するためのものが多いという。
築城期は建武2年(1335)といわれているが、このころは城砦としての機能は整備されていなかったという。城砦として形が出来上がってきたのは、応仁・文明の乱のころ(1467~87)といわれ、合戦に備えた改修がなされたというが、明確な遺構は今のところ発見されていない。
現在のような大規模な城郭施設を設置したのは、天文元年(1532)頃といわれ、室町幕府第12代将軍足利吉晴を迎えるため、繖山全域に居住性の高い郭が配備されたとされている。
そして、鉄砲が使用されるに至って、各所に石垣が増設され今日の形が出来上がった。
【写真左】観音寺城遠望
南側から見たもの。なお、この写真には写っていないが、左側の峰を越えた西方には、織田信長の居城・安土城がある。
登城口は3カ所あり、この日は途中まで車で登ることができる南側の石寺楽市から向かった。
なお、この石寺楽市は、全国で初めて楽市が開かれたところで、観音寺城の城下町である。
【写真左】観音寺に向かう階段
車で途中まで登ると駐車場があり、そこからこの階段を登って行く。
ちなみにこの駐車場までの道は有料道路となっている。入口には手動で操作する遮断機があり、御年配の御夫婦らしき方が常駐していた。
【写真左】観音正寺
当城の城域中心部に建立されている。戦国時代になると、合戦を避けて山麓の方に移されたという。
当城の名前もこの観音寺の名からきている。
以前は、彦根城の欅(けやき)御殿を移築した本堂や、重要文化財の本尊木造千手観音立像などがあったが、平成5年(1993)の火災で全焼してしまった(この火災については、管理人も新聞記事で読んだことがある)。
現在の本堂と本尊は従って平成16年に再建されたものである。
【写真左】案内板
観音寺城へは、観音正寺の境内左側を通り抜けて行く。
ちなみに、眺望がいい場所はこの観音正寺の境内付近ぐらいで、城砦区域ではあまり望めない。
この案内板から観音寺城まで310m、また三角点まで560m、そして北側尾根中腹の桑実寺まで860mと記されている。
【写真左】登城路
傾斜のある登城路には石積みによる階段が設置されている。
【写真左】説明板
以下のように記されている。
“観音寺城跡
観音寺城は、近江の守護佐々木六角氏の本城であって中世の代表ていな大山城である。
築城は永い年月を経て応仁2年(1468)に完成し、さらに弘治年間鉄砲に備えて大々的に石塁が改修されている。
永禄11年9月、織田は当城に入城したが、城は元のまま残し、佐々木氏に守らせたが、天正10年安土城とともに滅亡した。
昭和44・45年、近江風土記の丘の関連として本丸付近を整備し、発掘調査し当時の遺物や遺構が発見された。
なお、全山いたるところに昔をしのぶ遺構が数多く残っている。”
【写真左】石垣及び郭
多数の郭群のうち、本丸付近には特に広大な郭が連続している。
北端から南端部にかけて
この写真がそのうちどれだったか忘れてしまったが、こうした景観の個所が続く。
【写真左】平井丸か
このような広大な削平地であることから、当然この中に礎石建物が有ったものと思われ、その棟数も多数あったのだろう。
【写真左】石塁
高さはさほどないものの、石塁の総延長はかなりのものになるだろう。
なお、この日は踏査していないが、観音正寺の北方には、数百メートルにわたって東西に伸びる「大土塁」が残っているという。
当城北方からの攻めを意識した城砦施設と思われ、単一の遺構としては当城で最大のものかもしれない。
【写真左】大井戸跡
井戸跡は数カ所あるらしいが、この井戸はそのうち最も大きなもので、「大井戸」とよばれるもの。
設置場所は、本丸の北端部を少し降りたところにあるので、専ら本丸用として用いられたのだろう。
近江源氏・六角氏
太尾山城の稿でも同氏について少し触れているが、六角氏は鎌倉・室町時代を通じて近江守護職を独占してきている。
そして、戦国期になると、江北の同じ佐々木氏の嫡流である京極氏・浅井氏と対峙しながら当地を治めていった。
六角氏を支えてきた家臣は、琵琶湖の東部から南部にある村々を根拠とする在地土豪が主流である。その中でも、東近江市中羽田町を根拠とする後藤氏は、当地に館を置きながら、一方で観音寺城内にも同氏の館跡といわれる郭を持っていた。
このような形式をとった家臣は他にもあったらしく、そうしたことから、当城には夥しい郭の数がある。
永禄6年(1563)、六角氏は家臣との不和が元で、観音寺騒動(重臣・後藤賢豊父子殺害)を起こし、統制が揺らぎ、そのため5年後の永禄11年(1568)、織田信長が近江侵攻を行った際は、まったく抗戦する体制もとれず、落城した。
◎関連投稿
近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)
●所在地 滋賀県近江八幡市安土町
●築城期 建武2年(1335)又は応仁・文明年間(1467~87)
●築城者 六角氏頼
●廃城年 永禄11年(1568)
●標高 433m(本丸395m)
●遺構 郭群・石垣・石塁・礎石建物等
●指定 国指定史跡
●備考 日本100名城
●登城日 2008年3月18日
◆解説(参考文献「戦国の山城」全国山城サミット連絡協議会編、「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、その他)
今稿も「西国の山城」ではなく、近江の山城で、前稿「太尾山城」と関わった六角氏(佐々木)の居城・観音寺城を取り上げる。
登城したのが、3年前にもなるので、細かい部分については大分記憶が薄らいでいるが、とにかく当城の麓に立ち止まった時、余りの巨大さに驚いたことを鮮明に覚えている。
所在地は、近江八幡市にあって、東海道本線と南に並行して走る近江鉄道の間に屹立する繖山(きぬがさやま:標高433m)を中心に築城されている。
これまでの調査から特記されることは、郭が100か所以上もあり、いまだに正確な数が確定していないこと、また石塁や5mを越える石垣が無数に点在するという巨大な山城であることである。
しかもこれらの郭は城砦機能を持った一般的な山城とは違い、家臣などが居住するためのものが多いという。
築城期は建武2年(1335)といわれているが、このころは城砦としての機能は整備されていなかったという。城砦として形が出来上がってきたのは、応仁・文明の乱のころ(1467~87)といわれ、合戦に備えた改修がなされたというが、明確な遺構は今のところ発見されていない。
現在のような大規模な城郭施設を設置したのは、天文元年(1532)頃といわれ、室町幕府第12代将軍足利吉晴を迎えるため、繖山全域に居住性の高い郭が配備されたとされている。
そして、鉄砲が使用されるに至って、各所に石垣が増設され今日の形が出来上がった。
【写真左】観音寺城遠望
南側から見たもの。なお、この写真には写っていないが、左側の峰を越えた西方には、織田信長の居城・安土城がある。
登城口は3カ所あり、この日は途中まで車で登ることができる南側の石寺楽市から向かった。
なお、この石寺楽市は、全国で初めて楽市が開かれたところで、観音寺城の城下町である。
【写真左】観音寺に向かう階段
車で途中まで登ると駐車場があり、そこからこの階段を登って行く。
ちなみにこの駐車場までの道は有料道路となっている。入口には手動で操作する遮断機があり、御年配の御夫婦らしき方が常駐していた。
【写真左】観音正寺
当城の城域中心部に建立されている。戦国時代になると、合戦を避けて山麓の方に移されたという。
当城の名前もこの観音寺の名からきている。
以前は、彦根城の欅(けやき)御殿を移築した本堂や、重要文化財の本尊木造千手観音立像などがあったが、平成5年(1993)の火災で全焼してしまった(この火災については、管理人も新聞記事で読んだことがある)。
現在の本堂と本尊は従って平成16年に再建されたものである。
【写真左】案内板
観音寺城へは、観音正寺の境内左側を通り抜けて行く。
ちなみに、眺望がいい場所はこの観音正寺の境内付近ぐらいで、城砦区域ではあまり望めない。
この案内板から観音寺城まで310m、また三角点まで560m、そして北側尾根中腹の桑実寺まで860mと記されている。
【写真左】登城路
傾斜のある登城路には石積みによる階段が設置されている。
【写真左】説明板
以下のように記されている。
“観音寺城跡
観音寺城は、近江の守護佐々木六角氏の本城であって中世の代表ていな大山城である。
築城は永い年月を経て応仁2年(1468)に完成し、さらに弘治年間鉄砲に備えて大々的に石塁が改修されている。
永禄11年9月、織田は当城に入城したが、城は元のまま残し、佐々木氏に守らせたが、天正10年安土城とともに滅亡した。
昭和44・45年、近江風土記の丘の関連として本丸付近を整備し、発掘調査し当時の遺物や遺構が発見された。
なお、全山いたるところに昔をしのぶ遺構が数多く残っている。”
【写真左】石垣及び郭
多数の郭群のうち、本丸付近には特に広大な郭が連続している。
北端から南端部にかけて
- 伝本丸
- 伝平井丸
- 伝池田丸
この写真がそのうちどれだったか忘れてしまったが、こうした景観の個所が続く。
【写真左】平井丸か
このような広大な削平地であることから、当然この中に礎石建物が有ったものと思われ、その棟数も多数あったのだろう。
【写真左】石塁
高さはさほどないものの、石塁の総延長はかなりのものになるだろう。
なお、この日は踏査していないが、観音正寺の北方には、数百メートルにわたって東西に伸びる「大土塁」が残っているという。
当城北方からの攻めを意識した城砦施設と思われ、単一の遺構としては当城で最大のものかもしれない。
【写真左】大井戸跡
井戸跡は数カ所あるらしいが、この井戸はそのうち最も大きなもので、「大井戸」とよばれるもの。
設置場所は、本丸の北端部を少し降りたところにあるので、専ら本丸用として用いられたのだろう。
近江源氏・六角氏
太尾山城の稿でも同氏について少し触れているが、六角氏は鎌倉・室町時代を通じて近江守護職を独占してきている。
そして、戦国期になると、江北の同じ佐々木氏の嫡流である京極氏・浅井氏と対峙しながら当地を治めていった。
六角氏を支えてきた家臣は、琵琶湖の東部から南部にある村々を根拠とする在地土豪が主流である。その中でも、東近江市中羽田町を根拠とする後藤氏は、当地に館を置きながら、一方で観音寺城内にも同氏の館跡といわれる郭を持っていた。
このような形式をとった家臣は他にもあったらしく、そうしたことから、当城には夥しい郭の数がある。
永禄6年(1563)、六角氏は家臣との不和が元で、観音寺騒動(重臣・後藤賢豊父子殺害)を起こし、統制が揺らぎ、そのため5年後の永禄11年(1568)、織田信長が近江侵攻を行った際は、まったく抗戦する体制もとれず、落城した。
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