楠公誕生地(なんこうたんじょうち)
●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分
●別名 楠木正成生誕地
●遺構 堀・建物跡
●遺物 土器
◆解説(参考文献 『南朝研究の最前線』監修日本史史料研究会 編者 呉座勇一 洋泉社刊等)
前稿河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園) で少し触れているが、烏帽子形城は楠木正成をはじめとする楠木氏の七城の一つであった。
今稿ではその楠木正成ゆかりの史跡として多く所在する河内長野市の東隣・千早赤阪村の主だった史跡をとり上げたい。
今稿ではその中から「楠木正成の誕生地」、及び「楠公産湯の井戸」を紹介したい。
【写真左】「楠公誕生地」と筆耕された石碑
千早川とその支流・水越川が合流する位置に所在する。隣接して「郷土資料館」・「くすのきホール」などが建っているが、当時はこの辺り一帯が館跡だったと考えられる。
また、ここから南へおよそ200mほど向かった位置には「赤土山城」という丘城もあり、これらも楠木氏と関わる城館と思われる。
【写真左】案内図
現地にあった案内図で、文字が小さくて分りづらいため、管理人で少し補正している。
中央左側に誕生地の位置を赤字で示している。
現地の説明板より・その1
‟「楠公誕生地遺跡」
ここは楠木正成が生誕したという伝承の残る地です。くすのきホール建設に伴い発掘調査を行った際には、2重の堀を周囲にめぐらせる建物跡を検出、出土遺物も14世紀のものが認められ、周囲の中世山城群と合わせて考えると楠木氏との関連も推定することが可能です。
また、付近には楠公産湯の井戸の伝承地も残ります。
千早赤阪村教育委員会”
【写真左】楠公誕生地入口
写真は入口付近で、中の方は公園のような形に整備されている。
【写真左】「至誠一貫」の文字が筆耕された石碑。
近くには御覧の石碑が建立されている。その右下には「楠公父子別れの桜井駅」と題する小さな彫り物?もついている。
「桜井駅」とは、現在の大阪府三島郡島本町にある奈良時代の駅(うまや)のことで、当時京から西国に向かう街道の駅の一つであった摂津国嶋上郡大原駅」(「続日本書紀」)を指す。
この駅で延元元年(1336)、足利尊氏の大軍を迎え撃つために、京都を発った正成が、桜井駅で嫡男・正行に遺訓を残し、彼を参陣させず河内へと引き帰らせたことが太平記に記されている。
【写真左】村立郷土資料館
楠公誕生地の南隣に建てられている施設で、写真左側にはくすのきホールが隣接している。
この辺りから14世紀ごろの土器群、二重の堀に囲まれた建物跡が検出されている。
地元では、正成は「楠公さん」と呼ばれ親しまれており、この井戸の水を産湯に使ったといわれています。
千早赤阪村”
【写真左】楠公産湯井戸
楠公誕生地から北へおよそ150mほど向かったところにある。
楠木氏の出自
楠木正成は戦前から南北朝時代に後醍醐天皇の忠臣の一人として活躍した武将として著名である。赤阪城や千早城に拠って幕府軍と戦った話などは、戦前の皇国史観のシンボルの一人、あるいは、忠臣の鑑として修身教育でも度々とり上げられてきた。
【写真左】大楠公(楠木正成)の像
以前紹介した河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市) に建立されている正成の像で、当城も南北朝期正成らが南朝方として戦った場所と伝えられている。
そして上掲したように、地元河内の千早赤阪村には彼が当地で誕生したとされる「産湯の井」などが史跡として紹介されている。しかしながら、正成自身の出生地はともかく、楠木氏自身の出自などについては確定しておらず、千早赤阪村の出という説は否定されつつあるのが実情である。
駿河国の楠木氏
ところで、2016年に『南朝研究の最前線』(監修日本史史料研究会 編者 呉座勇一 洋泉社刊)という書籍が発刊された。この中で同氏の出自に関する興味深い事項があり、そこで同書を基に少し考察してみたい。
正応6年(1293)7月、鎌倉幕府は鶴岡八幡宮に駿河国の入江荘(静岡市清水区)内の「長崎郷」三分の一と、「楠木村」を寄進した(「鶴岡八幡宮文書」)。
正応6年は永仁元年でもあるが、この年の4月、霜月騒動を起点として幕府の実権を握っていた内管領平頼綱が北条貞時の命によって討死、7年にわたる頼綱の専制はここに幕を下ろした。これを「平禅門の乱」という。
既述した駿河国の入江荘内の地は、頼綱の所領地で、平禅門の乱後、幕府が没収し鶴岡八幡宮へ寄進した可能性が高い。また、同乱(平禅門の乱)後、幕府内で絶大な権力を持ったのが、得宗内管領長崎氏で、「長崎郷」はこの長崎氏の出自元という。
そしてここでもっとも注目されるのは、この長崎郷内にあった楠木村である。楠木氏が長崎氏の後援を得て幕府内の御家人・得宗被官となっていったと思われ、楠木氏がこの楠木村に所在した楠木氏ではないかということである。
【写真左】当時の駿河国長崎郷と楠木村
現在の静岡市清水区に当たり、巴川中流域にあった長崎郷の一部で、因みに、長崎郷の東隣は、 入江荘吉川という地区で、安芸北西部から石見にかけて版図を広げた駿河丸城(広島県山県郡北広島町大朝胡子町) の吉川氏の領地である。
では楠木氏がどういう経緯で駿河国から河内国に移住したのだろうか。正成が河内に入った最初の頃、拠点の一つとしたのが同国の観心寺(楠木氏の菩提寺:大阪府河内長野市寺元)だが、それ以前に当院は幕府の有力御家人安達氏の所領地で、霜月騒動の折、同氏は平頼綱によって討たれた。
その後、得宗領に組み込まれたものの、前述した「平禅門の乱」の結果、今度は楠木氏が得宗家から地頭(代)として現地に送り込まれたという(おそらく長崎氏の命によるものだろう)流れが最も説得力を持つ。
河内楠木氏の出自を駿河国に求めるこれらの推論は、いわば間接的な傍証史料に基づくものだが、当時の中世武士の姓名は概ねその土地に由来する形で名乗ってきたことを考えると、そもそも河内国に楠木という地名もなく、また、これまでよくいわれてきた河内国のいわゆる「悪党」という在地野武士団のようなイメージは、後代の人たちによる脚色によるところが大きいと思われる。
安芸・吉川氏との接点
なお、上図にもあるように、長崎・楠木の地区の東隣には戦国期毛利元就の二男・元春が養子として入った吉川氏の出身地吉川地区がある。
安芸国で最初に築いた駿河丸城 の築城者・吉川経高がこの地(駿河国吉川)から安芸大朝に入ったのが正和2年(1313)といわれている。
楠木氏が駿河国から河内に入った時期ははっきりしないが、いずれにしても駿河国にあった両氏との接点を証明する史料はないが、物理的に考えても十分にあったものと思われる。
●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分
●別名 楠木正成生誕地
●遺構 堀・建物跡
●遺物 土器
●備考 楠公産湯の井戸、村立郷土資料館
●探訪日 2016年10月12日
◆解説(参考文献 『南朝研究の最前線』監修日本史史料研究会 編者 呉座勇一 洋泉社刊等)
前稿河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園) で少し触れているが、烏帽子形城は楠木正成をはじめとする楠木氏の七城の一つであった。
今稿ではその楠木正成ゆかりの史跡として多く所在する河内長野市の東隣・千早赤阪村の主だった史跡をとり上げたい。
今稿ではその中から「楠木正成の誕生地」、及び「楠公産湯の井戸」を紹介したい。
【写真左】「楠公誕生地」と筆耕された石碑
千早川とその支流・水越川が合流する位置に所在する。隣接して「郷土資料館」・「くすのきホール」などが建っているが、当時はこの辺り一帯が館跡だったと考えられる。
また、ここから南へおよそ200mほど向かった位置には「赤土山城」という丘城もあり、これらも楠木氏と関わる城館と思われる。
【写真左】案内図
現地にあった案内図で、文字が小さくて分りづらいため、管理人で少し補正している。
中央左側に誕生地の位置を赤字で示している。
現地の説明板より・その1
‟「楠公誕生地遺跡」
ここは楠木正成が生誕したという伝承の残る地です。くすのきホール建設に伴い発掘調査を行った際には、2重の堀を周囲にめぐらせる建物跡を検出、出土遺物も14世紀のものが認められ、周囲の中世山城群と合わせて考えると楠木氏との関連も推定することが可能です。
また、付近には楠公産湯の井戸の伝承地も残ります。
千早赤阪村教育委員会”
【写真左】楠公誕生地入口
写真は入口付近で、中の方は公園のような形に整備されている。
【写真左】「至誠一貫」の文字が筆耕された石碑。
近くには御覧の石碑が建立されている。その右下には「楠公父子別れの桜井駅」と題する小さな彫り物?もついている。
「桜井駅」とは、現在の大阪府三島郡島本町にある奈良時代の駅(うまや)のことで、当時京から西国に向かう街道の駅の一つであった摂津国嶋上郡大原駅」(「続日本書紀」)を指す。
この駅で延元元年(1336)、足利尊氏の大軍を迎え撃つために、京都を発った正成が、桜井駅で嫡男・正行に遺訓を残し、彼を参陣させず河内へと引き帰らせたことが太平記に記されている。
【写真左】村立郷土資料館
楠公誕生地の南隣に建てられている施設で、写真左側にはくすのきホールが隣接している。
この辺りから14世紀ごろの土器群、二重の堀に囲まれた建物跡が検出されている。
現地の説明板より・その2
‟楠公産湯の井戸
楠木正成(1294~1336)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した人物です。ここ水分山の井で生まれたといわれています。正成が生まれた楠公誕生地からは、同時代の中世館城を確認しています。地元では、正成は「楠公さん」と呼ばれ親しまれており、この井戸の水を産湯に使ったといわれています。
千早赤阪村”
【写真左】楠公産湯井戸
楠公誕生地から北へおよそ150mほど向かったところにある。
楠木正成は戦前から南北朝時代に後醍醐天皇の忠臣の一人として活躍した武将として著名である。赤阪城や千早城に拠って幕府軍と戦った話などは、戦前の皇国史観のシンボルの一人、あるいは、忠臣の鑑として修身教育でも度々とり上げられてきた。
【写真左】大楠公(楠木正成)の像
以前紹介した河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市) に建立されている正成の像で、当城も南北朝期正成らが南朝方として戦った場所と伝えられている。
そして上掲したように、地元河内の千早赤阪村には彼が当地で誕生したとされる「産湯の井」などが史跡として紹介されている。しかしながら、正成自身の出生地はともかく、楠木氏自身の出自などについては確定しておらず、千早赤阪村の出という説は否定されつつあるのが実情である。
駿河国の楠木氏
ところで、2016年に『南朝研究の最前線』(監修日本史史料研究会 編者 呉座勇一 洋泉社刊)という書籍が発刊された。この中で同氏の出自に関する興味深い事項があり、そこで同書を基に少し考察してみたい。
正応6年(1293)7月、鎌倉幕府は鶴岡八幡宮に駿河国の入江荘(静岡市清水区)内の「長崎郷」三分の一と、「楠木村」を寄進した(「鶴岡八幡宮文書」)。
正応6年は永仁元年でもあるが、この年の4月、霜月騒動を起点として幕府の実権を握っていた内管領平頼綱が北条貞時の命によって討死、7年にわたる頼綱の専制はここに幕を下ろした。これを「平禅門の乱」という。
既述した駿河国の入江荘内の地は、頼綱の所領地で、平禅門の乱後、幕府が没収し鶴岡八幡宮へ寄進した可能性が高い。また、同乱(平禅門の乱)後、幕府内で絶大な権力を持ったのが、得宗内管領長崎氏で、「長崎郷」はこの長崎氏の出自元という。
そしてここでもっとも注目されるのは、この長崎郷内にあった楠木村である。楠木氏が長崎氏の後援を得て幕府内の御家人・得宗被官となっていったと思われ、楠木氏がこの楠木村に所在した楠木氏ではないかということである。
【写真左】当時の駿河国長崎郷と楠木村
現在の静岡市清水区に当たり、巴川中流域にあった長崎郷の一部で、因みに、長崎郷の東隣は、 入江荘吉川という地区で、安芸北西部から石見にかけて版図を広げた駿河丸城(広島県山県郡北広島町大朝胡子町) の吉川氏の領地である。
では楠木氏がどういう経緯で駿河国から河内国に移住したのだろうか。正成が河内に入った最初の頃、拠点の一つとしたのが同国の観心寺(楠木氏の菩提寺:大阪府河内長野市寺元)だが、それ以前に当院は幕府の有力御家人安達氏の所領地で、霜月騒動の折、同氏は平頼綱によって討たれた。
その後、得宗領に組み込まれたものの、前述した「平禅門の乱」の結果、今度は楠木氏が得宗家から地頭(代)として現地に送り込まれたという(おそらく長崎氏の命によるものだろう)流れが最も説得力を持つ。
河内楠木氏の出自を駿河国に求めるこれらの推論は、いわば間接的な傍証史料に基づくものだが、当時の中世武士の姓名は概ねその土地に由来する形で名乗ってきたことを考えると、そもそも河内国に楠木という地名もなく、また、これまでよくいわれてきた河内国のいわゆる「悪党」という在地野武士団のようなイメージは、後代の人たちによる脚色によるところが大きいと思われる。
安芸・吉川氏との接点
なお、上図にもあるように、長崎・楠木の地区の東隣には戦国期毛利元就の二男・元春が養子として入った吉川氏の出身地吉川地区がある。
安芸国で最初に築いた駿河丸城 の築城者・吉川経高がこの地(駿河国吉川)から安芸大朝に入ったのが正和2年(1313)といわれている。
楠木氏が駿河国から河内に入った時期ははっきりしないが、いずれにしても駿河国にあった両氏との接点を証明する史料はないが、物理的に考えても十分にあったものと思われる。
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