2017年5月10日水曜日

多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)

多治比・猿掛城(たじひ・さるかけじょう)

●所在地 広島県安芸高田市吉田町多治比
●指定 国指定史跡
●別名 猿掛城・多治比城
●高さ 432m(物見櫓)(186m)
●築城期 不明(明応年間か)
●築城主 毛利弘元か
●城主 毛利弘元
●遺構 郭、堀切、土塁等
●登城日 2014年11月14日

◆解説(参考資料 『知将 毛利元就』池亨著、HP『城郭放浪記』等)
 多治比・猿掛城(以下「猿掛城」とする)は、毛利元就が居城とした吉田郡山城から、多治比川沿いに西へ徒歩でおよそ5キロほど向かった多治比に所在する。
【写真左】猿掛城遠望
 西側から見たもので、出丸の左(北)麓は多治比川が流れている。
 また、本丸の西麓には現在教善寺という寺院が建っている。


 
現地説明板
“多治比 猿掛城跡

  名称 毛利氏城跡多治比猿掛城跡
  指定年月日 昭和63年2月16日

 多治比猿掛城は、郡山城跡から多治比川に沿って、北西4km上流にある。石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にあった。築城から廃城までの歴史的な経過は明らかでないが、毛利元就が青少年期を過ごした城として知られている。

 元就は4歳のとき、明応9年(1500)家督を長子興元い譲り、隠居した父弘元に連れられ、郡山城からこの城に移り住んで以来、大永3年(1523)27歳の時に、甥の幸松丸夭折のあとをうけて、毛利家の家督を継承し郡山城に入城するまで、この城に居た。

 遺構は、標高376m、比高120mの急峻な山上に長大な平坦面と櫓台、土塁などを持った本丸、二の丸、三の丸などからなる。中心部曲輪群を置き、その背後には深い堀切、尾根続きに物見丸、中心部から北下方に寺屋敷曲輪群があり、竪堀も見られ、谷をはさんで出丸がある。
 山麓には悦叟院(えそういん)の寺跡があって、そこに毛利弘元・同夫人の墓所がある。

 城跡は、良好に保存されており、戦国期の毛利氏の城のあり方をよく示す貴重な城跡である。

    平成元年3月
     吉田町教育委員会”
【写真左】登城口付近
 当城の西麓付近で、左側に「猿掛城」、右側には麓に創建されている「猿掛山 教善寺」の石碑が建っている。




元就の青少年期

 説明板にもあるように、多治比・猿掛城は元就が青少年期を過ごした城である。筆まめであった元就が晩年、嫡子隆元へ送った手紙の中でこの猿掛城時代のことを記している。

 この手紙を送った動機は、当時弱音を吐く、愚痴っぽい嫡男隆元へ叱咤激励の意味も込めたもので、父である元就が自らの経験を踏まえて書いたものといわれている。そういう経緯から書かれた父子間の手紙であるので、少し誇張も混じっているが、当時の元就が置かれた立場が理解できる。
【写真左】毛利弘元の墓所に向かう。
 登城口正面の奥には元就の父・弘元と母の墓が建立されている。
 なお、この周辺部は元々弘元の菩提寺であった悦叟院(えそういん)跡でもある。



 これによると、元就は5歳で母(福原広俊娘)を亡くし、10歳で父(弘元)にも死に別れ、翌年には兄興元が京都に出陣(永正4年:1507年・明応の政変)し、孤児同然になった。その姿を不憫に思った父の側室・大方(おおかた)殿が、多治比に残って自分を育ててくれた。

 その間、父から譲り受けた多治比の土地を後見人であった井上元盛が奪い取ってしまったが、幸い元盛が亡くなったあと、同族の井上俊久・俊秀らが尽力してくれたおかげで取り戻してくれた。しかし、京から帰ってきた兄・興元は、自分が19歳のとき早逝してしまった。それ以後、自分は親・兄弟・伯父・甥を一人も持たず一人で頑張ってきた。それに比べ、お前は頼りになる親・兄弟がいるではないか等と書いている。

 しかし、実際には弘元と正室(福原家)の間にできた男子は、興元と元就の二人だが、これとは別の異母弟として相合(あいおう)元綱がおり、女子では、長女・宮姫が武田某室、次女が御調郡八幡城主渋川兵部義正室、三女が井上右衛門大夫元光室、以下四女、五女等々がいた。

 ところで、愚痴っぽい性格だったとされ嫡男隆元は、ある面では父元就の性格の一面を受け継いでいたのかもしれない。元就の別の手紙の中では「当家のことをよかれと思うものは、他国はもちろん、自国にも誰もいない」と記している。
 猿掛城時代に培った経験、すなわち簡単に他人を信用しないこと、常に状況を冷静に見定め警戒することなどは、こうした被害妄想や愚痴をこぼす性癖から生じた結果かもしれない。元就が少年期に猿掛城ですごした経験は、後に戦国大名として飛躍する上で重要なものとなったといえるだろう。
【写真左】毛利弘元と夫人の墓
 弘元は応仁2年(1468)に生まれ、9歳で毛利家を相続し郡山城主となった。明応9年(1500)長男興元に家督を譲り、当時4歳だった次男元就を連れ多治比猿掛城に隠居した。その6年後の永正3年(1506)39歳で急逝する。

 夫人は鈴尾城主福原広俊の娘で、弘元が亡くなる5年前の文亀元年(1501)、福原城内で34歳の若さで亡くなった。夫人の墓がこの地に移葬されたのは近世のことで、大正10年(1921)とされている。


概要

 猿掛城は、元就の居城であった吉田郡山城に比べれば、コンパクトなものだが、山城としての要件をすべて具備したものといえるだろう。
 下図にも示すように、
  1. 出丸
  2. 寺屋敷郭群
  3. 本丸
  4. 物見丸
の4区分に分けられる。
【左図】猿掛城配置図
 現地に設置されていた図で、色が大分劣化していたため、管理人によって修正したもの。

 猿掛城の北麓から奈良谷川沿いに石見に繋がる県道6号線があり、この道を北に進むと、以前紹介した高橋氏の居城の一つ生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)に繋がる。この居城から元就の兄・興元へ正室として雪の方が嫁いでいる。

 さらに、北に進むと、同じく高橋氏の居城であった松尾城(未投稿)があり、天下墓(広島県美土里町)を超えると、石見国(島根県)に入る。
【左図】出丸跡
 上図配置図にも示されているが、北西端には出丸が設けられている。
【写真左】出丸に向かう。
 

【写真左】出丸
 猿掛城の主郭部分から完全に離れた位置に配置されているもので、2から3段の郭で構成されている。
 なお、出丸頂部は標高292m(比高40m)で、主郭に比べればかなり低いが、東・北・西方面の様子がよく分かる位置である。


【写真左】寺屋敷曲輪群
 寺屋敷曲輪群は上図で示したように、主郭に至るまでの中間地点に設けられたもので、麓側に建立されている教善寺も含めた範囲が曲輪群の区域に当初から入っていたとされる。

 上段の曲輪(寺屋敷)は860㎡を中心に北方に4段、帯曲輪が8段、上方に3段、計15段から構成されている。
【写真左】本丸を目指す。
 寺屋敷曲輪群付近の傾斜はさほどないが、途中から急坂道となる。特に本丸直下の付近ではかなり足元をすくわれる。雨天直後は先ず無理だろう。
【写真左】本丸・その1
 南北に長軸を取り、長さ40m×幅10m前後の規模を持つ削平地を中心に、東・北西・南西端にそれぞれ小規模な腰郭を備える。
【写真左】本丸・その2 土壇
 北端部には人工的に盛り上げた土壇がある。北方を中心とした物見櫓として利用されたものだろう。

 なお、本丸から更に尾根を南に上がっていくと、「物見丸」という当城の最高所(H:432m)にあたる郭群があるが、この日は連合い共々ここまでで疲れ切ってしまい、登るのを断念した。
【写真左】本丸から吉田郡山城を遠望する。
 本丸から東方に元就が後に居城する吉田郡山城が見える。
【写真左】堀切
 本丸から物見丸に向かう途中の尾根には大きな堀切が50mほどの間隔をあけて2か所設置され、その間には小規模な連続堀切・竪堀などが配置されている。
【写真左】連続堀切
【写真左】教善寺
 先ほどの寺屋敷曲輪群の最下段曲輪の位置とされる箇所に建てられている。
 出丸側から見たもので、樹齢400年の見事な銀杏が色を添える。

 本堂峰瓦に「四ツ目結」の寺紋が見えたので驚いた。尼子氏との関わりがあったのだろうか。
 天文5年(1536)天台宗より浄土真宗に改宗され、永禄7年(1564)本願寺より寺號許可されたという。
【写真左】「四つ目結」の寺紋
 峰瓦に設置された寺紋


 天文5年といえば、本願寺の光教が尼子氏(経久)らと極めて強い関係を持ったころだが、これより先立つ享禄4年(1531)に、尼子詮久(のち晴久)が元就の希望を受け入れ「兄弟」の契を結んでいるので、このとき建てられたものかもしれない。

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