美作・矢筈城(みまさか・やはずじょう)・その1
●所在地 岡山県津山市加茂町山下矢筈山
●別名 高山城、高山南城、草刈城
●高さ 756m
●築城期 天文元年(1532)~2年(1533)
●築城者 草刈衡継
●城主 草刈衡継、景継
●指定 岡山県指定史跡
●遺構 郭・土塁・堀切・石垣等
●登城日 2014年9月20日、2016年3月21日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
美作・矢筈城の存在を知ったのは10数年前で、紹介された資料やHPなどを見て、いずれは登城したいと思っていた。ただ標高750m余りで、比高も400mを超え、城域が東西1.5キロ、南北500mという桁違いの規模に圧倒され、二の足を踏んでいた。このため、先ず2014年9月に、登城せずに下見のみということで麓を散策、その折城主草刈景継墓所を訪れた。このとき、麓から見上げた矢筈城の独特な山容と壮大さに感動を覚えた。
【写真左】矢筈城遠望・その1
北麓の河井西付近から見たもので、この位置からは古城といわれている東郭群がよく見える。
最高所の左側には、右の本丸(大筈)と左の小筈の間に険しい切込みが見え、文字通り「矢筈」の景観を成す。
出雲に在住する管理人にとって、中国5県内の主だった山城は、道路事情もよくなって、ほとんど日帰りで可能となったが、矢筈城の場合は麓から頂上まで相当時間がかかることを覚悟し、結局2年近くも過ぎたこの日(2016年3月21日)いつもより早めに家を出た。
【写真左】矢筈城縄張図
登城口付近に置かれていたパンフレットに載っていたもの。
矢筈城はご覧の通り、二つの区域に分けられ、左側(西)が西郭群(新城)、右側が東郭群(古城)とされている。
現地説明板
“矢筈城跡(高山城跡)
岡山県指定史跡
平成18年3月17日指定
矢筈城跡は、標高756mの矢筈山に、天文元年(1532)から翌2年にかけて当時、美作国と因幡国に勢力を有した国人領主の草刈衡継(ひらつぐ)によって築かれた東西1600m、南北500mの壮大な規模を誇る県下最大の中世の山城跡です。
また、全国でも屈指の高地にある山城で、山頂に「本丸」を置き、その北方に続く尾根上に「土蔵郭」「馬場」を、西方に続く尾根上には「二の丸」「三の丸」「石垣段」「腰郭」「成興寺丸(じょうこうじまる)」等、数多くの曲輪を配した典型的な連郭式山城で、石垣や礎石をはじめ、土塁、石塁、堀切、狼煙場等の遺構がよく残っています。
【写真左】矢筈神社と千磐神社
登城口の一つで、西麓に祀られているもの。矢筈神社は草刈氏の守護神として城内に奉祀されていたもので、その後現在地に移転された。
千磐神社は王時権現と称し矢筈城主の信仰が厚かった神社である。
矢筈山の北西山麓に位置する大ヶ原(だいがはら)には「内構(うちがまえ)」と呼ばれる、城主草刈氏の大規模な居館跡が、また城跡の北東にあたる山下(さんげ)には、第2代城主景継の墓所があり、北から西に流れる加茂川は、矢筈城の堀の役目を果たしていました。
第3代城主重継は、毛利氏に属したため、矢筈城は宇喜多氏や織田方の羽柴秀吉等の軍勢からたびたび攻撃を受けましたが、その都度撃退し、「本能寺の変」の後、毛利輝元らの要請によって天正12年(1584)に重継が退城するまで、矢筈城は築城以来、一度も落城することのなかった難攻不落の堅城として知られています。
矢筈城跡保存会”
【写真左】「本丸まで2,300m」の看板
千磐神社側から登城し、少し行くと「本丸まで2,300m」の看板が設置してある。
これまで登城した中で本丸までが2キロを超える城郭は殆どなく、しかも急勾配の多い山城である、いつも以上に気を引き締めた。
草刈氏
城主とされる草刈氏についは、以前岩屋城(岡山県津山市中北上)・その1で紹介しているが、『萩藩閥閲録』等によれば、その出自は本姓は藤原氏から発して藤原秀郷の後、9代を経て氏家基近に至り、寛元年間(1243~47)に陸奥国斯波郡草刈郷(現在の岩手県紫波郡紫波町草刈付近)の地頭職となって、はじめて草刈氏と称したとされる。そして、南北朝期の暦応年間(1338~42)、足利尊氏から因幡国智頭郡を与えられて移り住んだといわれるから、北軍として活躍したことになる。
【写真左】堀切
尾根筋にたどり着くと、さっそく堀切が現れた。ここからしばらく尾根筋を辿るコースとなる。
戦国期、同氏11代衡継に至って、天文元年(1532)から翌2年にかけて美作に矢筈城を築城、それまでの居城であった因幡淀山城(鳥取県智頭町)から移ったという。
ただ、鵯尾城(鳥取県鳥取市玉津)の稿で紹介したように、『因幡民談記』によれば、天正6年8月の山名豊国による武田高信謀殺の際、智頭の草刈伊豆守追い打ちを理由に、河原町の大義寺に本陣を置いていることから、天文元年前後の草刈氏移住は、一部は因幡(淀山城)に残り、主だったものが美作(矢筈城)に移ったのではないかと推察できる。
【写真左】「大岩まで450m、本丸まで1,900m」の地点
尾根筋を伝って直登するコースで、予想通り次第に傾斜がきつくなっていく。
尼子氏の部将
ところで、『日本城郭体系第13巻』(以下『城郭体系』とする)によれば、尼子氏の部将草刈衡継が天文元年に築城した、と記されている。因みに、現地の説明板では衡継を「ひらつぐ」と呼称しているが、『城郭体系』では、「もとつぐ」とルビしている。
以前にも述べたが、『江北記』によれば、天文5年(1536)暮、尼子経久は近江の浅井亮政(近江・小谷城・その3参照)に対し、備中・美作の戦況を報告している。尼子氏が最初に侵入したのは永正17年(1520)ごろといわれている。
これは当時美作国に強力な支配者がいなかったこともあり、尼子氏の他、赤松氏(置塩城参照)や浦上氏(三石城参照)なども先を争うように同国に触手を伸ばした。そのなかでも最も有名なのが、三浦氏の居城であった美作・高田城(岡山県真庭市勝山)であるが、ここを基点に尼子氏は東方へも進出、天文元年(1532)ごろには美作の中央部から東部をほぼ制圧したとされる。草刈衡継はこのとき尼子氏に帰順したものと思われる。
【写真左】急登
九十九折れでないコースのため、適当な休憩場がない。このため、腰を下ろすようなところがなく、立ったままで呼吸を整える。
毛利氏に忠節
永禄2年(1559)衡継は草刈城を嫡男景継に譲った。景継はそれまでの主君であった尼子氏を離れ、毛利氏についた。このころ尼子氏は晴久の代であったが、毛利元就の台頭には著しいものがあった。
しかし、天正2年(1574)播磨・但馬に進出をし始めた織田信長の勢力を怖れた景継は、秀吉の誘いもあって密かに織田方についた。これを小早川隆景に知られることになり、追い詰められた景継は責めを負い矢筈城内で自刃した。景継亡き後、矢筈城の主は弟の重継が継ぎ、改めて毛利氏への忠節を誓った。
【写真左】武者隠し
大岩を過ぎて、しばらく行くと中規模な腰郭がある。そのあと、やや傾斜は緩やかになり、「武者隠し」と呼ばれる郭が出てくる。
「隠れる」ような死角があると思ったが、特に際立つものは見えない。
もちろん、これによって織田方が諦めたわけではなく、その後の天正6年(1578)から翌年にかけてしばしば重継に織田方に帰順するよう勧誘されたが、重継はその都度断った。
織田方による直接の交渉が不首尾になった途端、備前で急激に力をつけてきた宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)が毛利氏を離れ、織田方につくと、直家は天正7年4月、新免宗貞(竹山城(岡山県美作市下町)参照)に矢筈城の攻略を命じた。この戦いでは、黒岩吉弘、山口太郎右衛門など草刈氏の豪勇たちの働きで新免氏(宇喜多氏)らを退けた。
【写真左】成興寺丸
「武者隠し」を過ぎると、再び急坂となるが、次第に眼下に麓の景色が見えてくる。
登ってきた尾根ともう一つ北西側からの尾根が合流する箇所に開けた段が出てくる。先端部が「成興寺丸」といわれる郭段で、この郭から北西側の尾根に数段中小の郭が連続し、そのまま下がっていくと、草刈氏が居館としていた「内構え」に繋がっていた。
草刈氏一族の退城
その後、備中・高松城攻め(備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)参照)のあと、毛利氏と秀吉による和議によって、矢筈城は秀吉側に明渡すことが決まったが、美作国にあって毛利氏側に属していた草刈氏をはじめとする国人衆らはこれを不服として反発、それぞれの領主たちは猶も抵抗を続けていった。このときの備中国も含めた主だった面々は以下の通りである。
●所在地 岡山県津山市加茂町山下矢筈山
●別名 高山城、高山南城、草刈城
●高さ 756m
●築城期 天文元年(1532)~2年(1533)
●築城者 草刈衡継
●城主 草刈衡継、景継
●指定 岡山県指定史跡
●遺構 郭・土塁・堀切・石垣等
●登城日 2014年9月20日、2016年3月21日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
美作・矢筈城の存在を知ったのは10数年前で、紹介された資料やHPなどを見て、いずれは登城したいと思っていた。ただ標高750m余りで、比高も400mを超え、城域が東西1.5キロ、南北500mという桁違いの規模に圧倒され、二の足を踏んでいた。このため、先ず2014年9月に、登城せずに下見のみということで麓を散策、その折城主草刈景継墓所を訪れた。このとき、麓から見上げた矢筈城の独特な山容と壮大さに感動を覚えた。
【写真左】矢筈城遠望・その1
北麓の河井西付近から見たもので、この位置からは古城といわれている東郭群がよく見える。
最高所の左側には、右の本丸(大筈)と左の小筈の間に険しい切込みが見え、文字通り「矢筈」の景観を成す。
出雲に在住する管理人にとって、中国5県内の主だった山城は、道路事情もよくなって、ほとんど日帰りで可能となったが、矢筈城の場合は麓から頂上まで相当時間がかかることを覚悟し、結局2年近くも過ぎたこの日(2016年3月21日)いつもより早めに家を出た。
登城口付近に置かれていたパンフレットに載っていたもの。
矢筈城はご覧の通り、二つの区域に分けられ、左側(西)が西郭群(新城)、右側が東郭群(古城)とされている。
現地説明板
“矢筈城跡(高山城跡)
岡山県指定史跡
平成18年3月17日指定
矢筈城跡は、標高756mの矢筈山に、天文元年(1532)から翌2年にかけて当時、美作国と因幡国に勢力を有した国人領主の草刈衡継(ひらつぐ)によって築かれた東西1600m、南北500mの壮大な規模を誇る県下最大の中世の山城跡です。
また、全国でも屈指の高地にある山城で、山頂に「本丸」を置き、その北方に続く尾根上に「土蔵郭」「馬場」を、西方に続く尾根上には「二の丸」「三の丸」「石垣段」「腰郭」「成興寺丸(じょうこうじまる)」等、数多くの曲輪を配した典型的な連郭式山城で、石垣や礎石をはじめ、土塁、石塁、堀切、狼煙場等の遺構がよく残っています。
【写真左】矢筈神社と千磐神社
登城口の一つで、西麓に祀られているもの。矢筈神社は草刈氏の守護神として城内に奉祀されていたもので、その後現在地に移転された。
千磐神社は王時権現と称し矢筈城主の信仰が厚かった神社である。
矢筈山の北西山麓に位置する大ヶ原(だいがはら)には「内構(うちがまえ)」と呼ばれる、城主草刈氏の大規模な居館跡が、また城跡の北東にあたる山下(さんげ)には、第2代城主景継の墓所があり、北から西に流れる加茂川は、矢筈城の堀の役目を果たしていました。
第3代城主重継は、毛利氏に属したため、矢筈城は宇喜多氏や織田方の羽柴秀吉等の軍勢からたびたび攻撃を受けましたが、その都度撃退し、「本能寺の変」の後、毛利輝元らの要請によって天正12年(1584)に重継が退城するまで、矢筈城は築城以来、一度も落城することのなかった難攻不落の堅城として知られています。
矢筈城跡保存会”
【写真左】「本丸まで2,300m」の看板
千磐神社側から登城し、少し行くと「本丸まで2,300m」の看板が設置してある。
これまで登城した中で本丸までが2キロを超える城郭は殆どなく、しかも急勾配の多い山城である、いつも以上に気を引き締めた。
草刈氏
城主とされる草刈氏についは、以前岩屋城(岡山県津山市中北上)・その1で紹介しているが、『萩藩閥閲録』等によれば、その出自は本姓は藤原氏から発して藤原秀郷の後、9代を経て氏家基近に至り、寛元年間(1243~47)に陸奥国斯波郡草刈郷(現在の岩手県紫波郡紫波町草刈付近)の地頭職となって、はじめて草刈氏と称したとされる。そして、南北朝期の暦応年間(1338~42)、足利尊氏から因幡国智頭郡を与えられて移り住んだといわれるから、北軍として活躍したことになる。
【写真左】堀切
尾根筋にたどり着くと、さっそく堀切が現れた。ここからしばらく尾根筋を辿るコースとなる。
戦国期、同氏11代衡継に至って、天文元年(1532)から翌2年にかけて美作に矢筈城を築城、それまでの居城であった因幡淀山城(鳥取県智頭町)から移ったという。
ただ、鵯尾城(鳥取県鳥取市玉津)の稿で紹介したように、『因幡民談記』によれば、天正6年8月の山名豊国による武田高信謀殺の際、智頭の草刈伊豆守追い打ちを理由に、河原町の大義寺に本陣を置いていることから、天文元年前後の草刈氏移住は、一部は因幡(淀山城)に残り、主だったものが美作(矢筈城)に移ったのではないかと推察できる。
【写真左】「大岩まで450m、本丸まで1,900m」の地点
尾根筋を伝って直登するコースで、予想通り次第に傾斜がきつくなっていく。
尼子氏の部将
ところで、『日本城郭体系第13巻』(以下『城郭体系』とする)によれば、尼子氏の部将草刈衡継が天文元年に築城した、と記されている。因みに、現地の説明板では衡継を「ひらつぐ」と呼称しているが、『城郭体系』では、「もとつぐ」とルビしている。
以前にも述べたが、『江北記』によれば、天文5年(1536)暮、尼子経久は近江の浅井亮政(近江・小谷城・その3参照)に対し、備中・美作の戦況を報告している。尼子氏が最初に侵入したのは永正17年(1520)ごろといわれている。
これは当時美作国に強力な支配者がいなかったこともあり、尼子氏の他、赤松氏(置塩城参照)や浦上氏(三石城参照)なども先を争うように同国に触手を伸ばした。そのなかでも最も有名なのが、三浦氏の居城であった美作・高田城(岡山県真庭市勝山)であるが、ここを基点に尼子氏は東方へも進出、天文元年(1532)ごろには美作の中央部から東部をほぼ制圧したとされる。草刈衡継はこのとき尼子氏に帰順したものと思われる。
【写真左】急登
九十九折れでないコースのため、適当な休憩場がない。このため、腰を下ろすようなところがなく、立ったままで呼吸を整える。
毛利氏に忠節
永禄2年(1559)衡継は草刈城を嫡男景継に譲った。景継はそれまでの主君であった尼子氏を離れ、毛利氏についた。このころ尼子氏は晴久の代であったが、毛利元就の台頭には著しいものがあった。
しかし、天正2年(1574)播磨・但馬に進出をし始めた織田信長の勢力を怖れた景継は、秀吉の誘いもあって密かに織田方についた。これを小早川隆景に知られることになり、追い詰められた景継は責めを負い矢筈城内で自刃した。景継亡き後、矢筈城の主は弟の重継が継ぎ、改めて毛利氏への忠節を誓った。
【写真左】武者隠し
大岩を過ぎて、しばらく行くと中規模な腰郭がある。そのあと、やや傾斜は緩やかになり、「武者隠し」と呼ばれる郭が出てくる。
「隠れる」ような死角があると思ったが、特に際立つものは見えない。
もちろん、これによって織田方が諦めたわけではなく、その後の天正6年(1578)から翌年にかけてしばしば重継に織田方に帰順するよう勧誘されたが、重継はその都度断った。
織田方による直接の交渉が不首尾になった途端、備前で急激に力をつけてきた宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)が毛利氏を離れ、織田方につくと、直家は天正7年4月、新免宗貞(竹山城(岡山県美作市下町)参照)に矢筈城の攻略を命じた。この戦いでは、黒岩吉弘、山口太郎右衛門など草刈氏の豪勇たちの働きで新免氏(宇喜多氏)らを退けた。
【写真左】成興寺丸
「武者隠し」を過ぎると、再び急坂となるが、次第に眼下に麓の景色が見えてくる。
登ってきた尾根ともう一つ北西側からの尾根が合流する箇所に開けた段が出てくる。先端部が「成興寺丸」といわれる郭段で、この郭から北西側の尾根に数段中小の郭が連続し、そのまま下がっていくと、草刈氏が居館としていた「内構え」に繋がっていた。
草刈氏一族の退城
その後、備中・高松城攻め(備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)参照)のあと、毛利氏と秀吉による和議によって、矢筈城は秀吉側に明渡すことが決まったが、美作国にあって毛利氏側に属していた草刈氏をはじめとする国人衆らはこれを不服として反発、それぞれの領主たちは猶も抵抗を続けていった。このときの備中国も含めた主だった面々は以下の通りである。
- 矢筈城(高山城):草刈重継
- 竹山城(岡山県美作市下町:新免弥太郎
- 岩屋城(岡山県津山市中北上):中村則宗
- 備中・丸山城(岡山県高梁市宇治町穴田):赤木忠房
- その他
彼らの抵抗によって毛利氏と秀吉側の和議が終結しないまま、しばらく矢筈城においては宇喜多氏と戦いが続いたが、説明板にもあるように天正12年(1584)、秀吉(宇喜多氏)側の説得により、重継ら草刈氏一族は退城し、矢筈城はここに52年の幕を閉じた。
【写真左】長い郭
冒頭の図でいえば、西尾根曲輪(西郭群)の西方に位置する箇所で、『東作誌』では「腰郭」と命名されている。
幅は10m余りだが、東西100mの長さを持ち、中間部で少し東側が高くなっている。
登城口から1,200mの位置に当たり、ここから本丸(古城)までは、さらに1,200mあるので、丁度中間地点となる。
【写真左】虎口
上掲の腰郭の東側部分に設置されているもので、北側にあるため、おそらく成興寺丸側からの出入口として使われたものだろう。
【写真左】狼煙場に向かう
腰郭を過ぎると再び急坂となり、しかも尾根幅は狭まる。
【写真左】狼煙場跡
少し窪みが残っている。
【写真左】櫓台
この箇所は少し高くなっており、天端から振り返って見たもの。
【写真左】次の郭
櫓台を過ぎてさらに東に向かうと、再び長大な郭が続く。このあたりから予想を越えた桁外れの規模に、もはや感動を通り越し、言葉を失った。まさに驚愕とはこの事をいうのだろう。
連合いも同じテンションで、いつしか驚きと嬉しさが混ざったような、笑いがこみ上げてきた。
【写真左】西郭群中心部が見えてきた。
さきほどの郭を進み、一旦アップした後、見えてきたのは西郭群(新城)の中心部である。
先ず、北側(左)の医王寺跡に向かう。
【写真左】医王寺跡・その1
東西に伸びる尾根軸に対し、北側に設けられたもので、全長約80m×奥行30mの規模。
このうち、東側には「城主居館」といわれる御殿が建ち、その南側には「磐座(いわくら)」や、祭壇などが設置されていた。
おそらく定期的に居館周辺で祭事がおこなわれていたのだろう。
なお、医王寺そのものに「客殿」があったとされるので、医王寺跡全体が麓の内構えとは別に平時の生活の場としても使われたと考えられる。
写真は西側から見たもので、奥には少し高くなった城主居館の段が見える。
【写真左】医王寺跡・その2
北側から見たもので、苔むした中小の石が散在しているが、おそらくこれらは奥の郭段を構成していた石垣の一部や、医王寺の建物につかわれた礎石なども含まれていたと考えられる。
【写真左】御殿(城主居館)
医王寺跡のエリアにあって、東側に配置されている。写真は上(南側)から見たもので、御殿の郭は少し高くなっている。
【写真左】御殿の土塁
北側に設置されたもので、東西に長く配置されている。
【写真左】磐座・その1
東側から見たもので、右側が居館跡で、左側の切崖状の側面には大きな磐が正対している。おそらくこの磐や、後段で紹介する祭壇において、当時の矢筈神社の神石(千磐神社か)として祀り、祭事が行われていたものだろう。
【写真左】磐座・その2
正面から見たもので、左側に大きな石があり、右側など周囲は石垣が積まれている。
【写真左】祭壇
西側の郭(尾根筋)から見たもの。
磐座の上が祭壇となる。かなりの石が周辺部に散乱しているので、当時は殆ど石積によって構築されていたものと思われる。
この祭壇を後にさらに東に進む。
【写真左】再び郭段
祭壇から更に東に向かうと、長さ50m程度の郭があり、その先に一段高くなった郭がある。
【写真左】石垣段
上記の一段高くなった郭で、現地には「石垣段」という標柱が置いてある。
この郭が西郭群(新城)の東端部に当たる。
【写真左】東方に古城(東郭群)の姿が見えてきた。
長大かつ濃密な遺構を誇る西郭群(新城)で充分堪能したのだが、この先にさらに東郭群が待っている。
ただ、この位置(石垣段)から古城の本丸まで水平直線距離では600mほどだが、高低差の激しい尾根伝いなので、歩行距離は1キロを超えるだろう。
ここで体力の回復を図るべく20分程休憩をとる。
【写真左】急直下の堀切へ降りる。
急傾斜の尾根を下りていく。階段があるからなんとか降りられるが、無かったら滑り落ちてしまうだろう。
ここから、三重堀切となっている。
【写真左】堀切
写真は一条目の堀切だが、他の2本も見ごたえのある堀切である。
※次稿に続く
今稿はここまでとし、次稿で「東郭群」(古城)、及び「内構え」など残りの史跡を紹介したいと思う。
【写真左】長い郭
冒頭の図でいえば、西尾根曲輪(西郭群)の西方に位置する箇所で、『東作誌』では「腰郭」と命名されている。
幅は10m余りだが、東西100mの長さを持ち、中間部で少し東側が高くなっている。
登城口から1,200mの位置に当たり、ここから本丸(古城)までは、さらに1,200mあるので、丁度中間地点となる。
【写真左】虎口
上掲の腰郭の東側部分に設置されているもので、北側にあるため、おそらく成興寺丸側からの出入口として使われたものだろう。
【写真左】狼煙場に向かう
腰郭を過ぎると再び急坂となり、しかも尾根幅は狭まる。
【写真左】狼煙場跡
少し窪みが残っている。
【写真左】櫓台
この箇所は少し高くなっており、天端から振り返って見たもの。
【写真左】次の郭
櫓台を過ぎてさらに東に向かうと、再び長大な郭が続く。このあたりから予想を越えた桁外れの規模に、もはや感動を通り越し、言葉を失った。まさに驚愕とはこの事をいうのだろう。
連合いも同じテンションで、いつしか驚きと嬉しさが混ざったような、笑いがこみ上げてきた。
【写真左】西郭群中心部が見えてきた。
さきほどの郭を進み、一旦アップした後、見えてきたのは西郭群(新城)の中心部である。
先ず、北側(左)の医王寺跡に向かう。
【写真左】医王寺跡・その1
東西に伸びる尾根軸に対し、北側に設けられたもので、全長約80m×奥行30mの規模。
このうち、東側には「城主居館」といわれる御殿が建ち、その南側には「磐座(いわくら)」や、祭壇などが設置されていた。
おそらく定期的に居館周辺で祭事がおこなわれていたのだろう。
なお、医王寺そのものに「客殿」があったとされるので、医王寺跡全体が麓の内構えとは別に平時の生活の場としても使われたと考えられる。
写真は西側から見たもので、奥には少し高くなった城主居館の段が見える。
【写真左】医王寺跡・その2
北側から見たもので、苔むした中小の石が散在しているが、おそらくこれらは奥の郭段を構成していた石垣の一部や、医王寺の建物につかわれた礎石なども含まれていたと考えられる。
【写真左】御殿(城主居館)
医王寺跡のエリアにあって、東側に配置されている。写真は上(南側)から見たもので、御殿の郭は少し高くなっている。
【写真左】御殿の土塁
北側に設置されたもので、東西に長く配置されている。
【写真左】磐座・その1
東側から見たもので、右側が居館跡で、左側の切崖状の側面には大きな磐が正対している。おそらくこの磐や、後段で紹介する祭壇において、当時の矢筈神社の神石(千磐神社か)として祀り、祭事が行われていたものだろう。
【写真左】磐座・その2
正面から見たもので、左側に大きな石があり、右側など周囲は石垣が積まれている。
【写真左】祭壇
西側の郭(尾根筋)から見たもの。
磐座の上が祭壇となる。かなりの石が周辺部に散乱しているので、当時は殆ど石積によって構築されていたものと思われる。
この祭壇を後にさらに東に進む。
【写真左】再び郭段
祭壇から更に東に向かうと、長さ50m程度の郭があり、その先に一段高くなった郭がある。
【写真左】石垣段
上記の一段高くなった郭で、現地には「石垣段」という標柱が置いてある。
この郭が西郭群(新城)の東端部に当たる。
【写真左】東方に古城(東郭群)の姿が見えてきた。
長大かつ濃密な遺構を誇る西郭群(新城)で充分堪能したのだが、この先にさらに東郭群が待っている。
ただ、この位置(石垣段)から古城の本丸まで水平直線距離では600mほどだが、高低差の激しい尾根伝いなので、歩行距離は1キロを超えるだろう。
ここで体力の回復を図るべく20分程休憩をとる。
【写真左】急直下の堀切へ降りる。
急傾斜の尾根を下りていく。階段があるからなんとか降りられるが、無かったら滑り落ちてしまうだろう。
ここから、三重堀切となっている。
【写真左】堀切
写真は一条目の堀切だが、他の2本も見ごたえのある堀切である。
※次稿に続く
今稿はここまでとし、次稿で「東郭群」(古城)、及び「内構え」など残りの史跡を紹介したいと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿