廣峯神社(ひろみねじんじゃ)
●所在地 兵庫県姫路市広嶺山52
●創建 天平6年(734)
●主祭神 素戔嗚尊・五十猛命
●社格 県社・別表神社
●指定 国指定重要文化財(本殿・拝殿)
●札所 神仏霊場巡拝の道74番等
●神事 御田植祭、疫神祭、御柱祭
●備考 廣峯山城・黒田家屋敷跡
●高さ 300m
●登城参拝日 2014年9月3日
◆解説(参考資料 兵庫県産業労働部国際局観光振興課編「あいたい兵庫ガイドブック2014春夏・秋冬版」等)
廣峯神社は姫路市にあって、姫路城から北へ約6キロほど向かった廣峯山に建立された神社である。
後段でも述べるように、当社の大別当が黒田官兵衛の主君・小寺政職の弟であったことや、黒田家という御師屋敷があったことから、官兵衛ゆかりの地とされている。
【写真左】廣峯神社
一般の者は直接この位置まで自家用車で来ることは出来ない。
下の方に専用の駐車場(下段案内図参照)に停めて、そこから徒歩で向かう。
【写真左】案内図
中央に廣峯神社があり、駐車場は下の方に図示されている。黒田家はこの図でいえば左上の方に御師家の一つとして赤地で示されている。
【写真左】参道登り口
駐車場から暫く歩くとご覧の箇所に出る。左の道は車道だが、車で往来できるのは地元の方のみのようだ。
一般参拝者・観光客は徒歩で左の車道を通ってもよいが、このコースでは途中の史跡探訪ができない。
このため、案内標識に従って右側の表参道といわれる道を進む。
パンフ・ひめじ官兵衛プロジェクト推進協議会編より
“廣峯神社の由縁
廣峯神社は2千年以上前に素戔嗚尊がご鎮座され、奈良時代にこの山を訪れた吉備真備が、御神託を受けて社殿を建立したと伝わっています。唐で陰陽道を極めた真備が、この学問を日本に広めたいと考え、素戔嗚尊を「星の運行を司る神」で「祇園精舎の守り神である牛頭(ごず)天王の化身」であるとして、日本の暦を司る神としました。
【写真左】階段脇の石垣
表参道は暫く階段の道が続くが、このあたりから脇に石垣が見える。
50家以上もあったとされる御師屋敷跡のもので、井上家跡のもの。
【写真左】井上家屋敷跡・石碑
裏には、
「元禄時代以前より代々廣峯神社に仕え奉り。思い出深い住まいを神社並びに先祖に報告祈願をし、屋敷を清らかな明るい平地となし、いこいのところとなす。 平成15年吉月吉日」
の碑文が刻まれている。
【写真左】土塀跡
大分朽ち果てているが、当時の御師屋敷はこうした土塀で囲まれていたのだろう。
牛頭天王は疫病の神として崇められ、平安時代に都で疫病が流行ったとき、清和天皇の夢枕にお告げがあり、廣峯の御分霊を京都にお迎えしたところ疫病が収まり、それを祝って始められたのが祇園祭で、その後建立されたのが八坂神社です。
鎌倉時代より廣峯神社は祇園本社として崇敬を集め、室町時代には熊野にも劣らぬほどの参詣者が山を訪れたと記されています。”
【写真左】天祖父社
井上屋敷跡を過ぎると、同じく右側に当社が祀られている。
境内は参道より約2m程石垣で高くしてある。
黒田官兵衛と廣峯神社
江戸時代の「夢幻物語」によれば、官兵衛の祖父重隆は廣峯神社に参詣。御師・井口大夫から黒田秘伝の目薬を依頼され、ほどなく艶福長者となったとされています。
当時の廣峯神社の大別当は官兵衛の主君・小寺政職の弟であり、廣峯神社の御師の中に官兵衛と同じ家紋を持つ黒田姓の家があることからも、黒田家と廣峯神社の深い関係がうかがえます。
廣峯神社は農耕の神として崇められ、農業指導なども行っていました。備中高松城の水攻めや普請など土木工事に長けていたのは、御師達が農地改革など土木工事の知識を持っていたからでしょう。”
御師屋敷の黒田家
この廣峯神社には社家や下級神官で組織された御師(おし)制度があり、彼ら御師は、東は若狭から西は安芸までの御札を配って廻ったといわれる。
下段で紹介するように、廣峯神社本殿の裏山に繋がる一角には、これら御師の屋敷跡が残され、黒田官兵衛の時代には50家以上もあったとされる。その中の一つに、黒田家という屋敷跡があり、この家が御師をしながら目薬を売っていたといわれていた官兵衛の祖父・重隆と関係があったのではないかといわれている。
【写真左】廣峯神社が見えてくる。
手前の両側に土塀が見えるが、この箇所にもそれぞれ西脇家・肥塚家といった御師屋敷跡が残る。
奥には廣峯神社の休憩所が見え、さらに後方に白弊山が鎮座している。
【写真左】廣峯神社・入口付近
この階段を登ると、本殿拝殿などに至る。
【写真左】宝篋印塔
階段途中の右側に祀られているもので、国指定重要文化財。
無銘であるが様式上から考えて室町時代初期のものといわれるもの。もともと廣峯神社の背後、俗称「吉備ツ様」といわれている地に埋没していたのを現在に移転したという。「吉備ツ様」というのは、後段で紹介する吉備社がまつられている白弊山付近と思われる。
【写真左】随神門(表門)
姫路市指定重要有形文化財(昭和42年指定)
元禄10年(1697)頃のものとされ、同時期の代表的名工・大古瀬十郎兵衛の大棟鬼瓦が使われている。
【写真左】本殿・拝殿
現地の説明板より
“本殿 附宮殿三基
国指定重要文化財(昭和35年6月9日指定)
構造形式:桁行11間、梁間3間、一重、入母屋造、正面1間通り庇付き、檜皮葺
ここに社殿が建てられたのはかなり古く、京都祇園の八坂神社は、貞観11年(896)ここより遷座されたとされている。なお、本殿床下には平安時代初期の一間社流造社殿の掘立方柱の遺構がある。現本殿は文安元年(1444)の再建で、正面幅が神社本殿建築として我が国最大級の規模である。(以下略)…”
【写真左】本殿及び拝殿平面図
下段が拝殿で、上段が本殿
拝殿
国指定重要文化財(昭和35年6月9日指定)
構造形式:桁行10間、梁間4間、一重、入母屋造、本瓦葺
本殿の前面に軒を接して建っており、本殿に相応した大規模な建物である。敷地が本殿に向かって上り斜面となっているため、建物前面は一種の舞台造りとなっている。現拝殿は寛永3年(1626)姫寺城主本多忠政が再建した。(以下略)…”
【写真左】大河ドラマ「軍師官兵衛」ロケの写真
昨年放映されていたNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のとき、紹介された広峯明神での撮影風景写真。
初回の平成26年1月5日放映されたもので、御師が供を二人連れて地方に旅立つシーンなどが撮影された。
【写真左】廣峯神社から姫路市内を俯瞰する。
奥に見えるのは姫路港と播磨灘。姫路城はこの写真のほぼ中央部に当たるが、未だこの頃は改修工事中であったためか、確認できなかった。
【写真左】廣峯神社の裏側
境内の隅からぐるっと回り込むと裏側にも小祠が2,3基祀られている。
このあと、吉備社などが祀られている白弊山を目指す。
【写真左】家守家跡
御師屋敷の一つで、すでに建物などは朽ち果てているが、瓦片などがそのまま残っている。
なお、この付近には家守家のほか、藤井家跡や内海家跡などがある。
ここからさらに上を目指すが、傾斜が段々ときつくなり、山城らしき雰囲気が感じられる。
【写真左】吉備社
白弊山山頂部に祀られているもので、冒頭で紹介したように、廣峯神社を建立した吉備真備を祀る。
なお、この地には右隣りに素戔嗚尊を祭神とする荒神社が祀られ、両社の間には磐座という石が鎮座する。
なお、白弊山を山城とすれば、この位置が主郭となるのだろうが、これ以外の山城遺構らしきものは殆ど確認できない。
このあと、下りは黒田家や魚住家などがあるルートを使った。
【写真左】黒田家屋敷跡・その1
かなり傾斜のある下り坂の途中に残るもので、母屋とされる敷地は、間口10m余×奥行30m弱程度の規模となっている。
見方によっては、山城の郭段跡に屋敷が建てられたのではないかとも考えられる。
【写真左】黒田家屋敷跡・その2
黒田家の標識
【写真左】黒田家屋敷跡・その3
現地には瓦片が散在し、礎石らしきものもみえるが、ほとんど整備されていないようだ。
【写真左】黒田家屋敷跡・その4
左側が黒田家屋敷になるが、ご覧の通り土塀と石積を混在させたような基礎で屋敷が建てられていたようだ。
なお、この下の段も日常生活のためにつかわれたような空き地が残る。
●所在地 兵庫県姫路市広嶺山52
●創建 天平6年(734)
●主祭神 素戔嗚尊・五十猛命
●社格 県社・別表神社
●指定 国指定重要文化財(本殿・拝殿)
●札所 神仏霊場巡拝の道74番等
●神事 御田植祭、疫神祭、御柱祭
●備考 廣峯山城・黒田家屋敷跡
●高さ 300m
●登城参拝日 2014年9月3日
◆解説(参考資料 兵庫県産業労働部国際局観光振興課編「あいたい兵庫ガイドブック2014春夏・秋冬版」等)
廣峯神社は姫路市にあって、姫路城から北へ約6キロほど向かった廣峯山に建立された神社である。
後段でも述べるように、当社の大別当が黒田官兵衛の主君・小寺政職の弟であったことや、黒田家という御師屋敷があったことから、官兵衛ゆかりの地とされている。
【写真左】廣峯神社
一般の者は直接この位置まで自家用車で来ることは出来ない。
下の方に専用の駐車場(下段案内図参照)に停めて、そこから徒歩で向かう。
【写真左】案内図
中央に廣峯神社があり、駐車場は下の方に図示されている。黒田家はこの図でいえば左上の方に御師家の一つとして赤地で示されている。
【写真左】参道登り口
駐車場から暫く歩くとご覧の箇所に出る。左の道は車道だが、車で往来できるのは地元の方のみのようだ。
一般参拝者・観光客は徒歩で左の車道を通ってもよいが、このコースでは途中の史跡探訪ができない。
このため、案内標識に従って右側の表参道といわれる道を進む。
パンフ・ひめじ官兵衛プロジェクト推進協議会編より
“廣峯神社の由縁
廣峯神社は2千年以上前に素戔嗚尊がご鎮座され、奈良時代にこの山を訪れた吉備真備が、御神託を受けて社殿を建立したと伝わっています。唐で陰陽道を極めた真備が、この学問を日本に広めたいと考え、素戔嗚尊を「星の運行を司る神」で「祇園精舎の守り神である牛頭(ごず)天王の化身」であるとして、日本の暦を司る神としました。
【写真左】階段脇の石垣
表参道は暫く階段の道が続くが、このあたりから脇に石垣が見える。
50家以上もあったとされる御師屋敷跡のもので、井上家跡のもの。
【写真左】井上家屋敷跡・石碑
裏には、
「元禄時代以前より代々廣峯神社に仕え奉り。思い出深い住まいを神社並びに先祖に報告祈願をし、屋敷を清らかな明るい平地となし、いこいのところとなす。 平成15年吉月吉日」
の碑文が刻まれている。
【写真左】土塀跡
大分朽ち果てているが、当時の御師屋敷はこうした土塀で囲まれていたのだろう。
牛頭天王は疫病の神として崇められ、平安時代に都で疫病が流行ったとき、清和天皇の夢枕にお告げがあり、廣峯の御分霊を京都にお迎えしたところ疫病が収まり、それを祝って始められたのが祇園祭で、その後建立されたのが八坂神社です。
鎌倉時代より廣峯神社は祇園本社として崇敬を集め、室町時代には熊野にも劣らぬほどの参詣者が山を訪れたと記されています。”
【写真左】天祖父社
井上屋敷跡を過ぎると、同じく右側に当社が祀られている。
境内は参道より約2m程石垣で高くしてある。
黒田官兵衛と廣峯神社
江戸時代の「夢幻物語」によれば、官兵衛の祖父重隆は廣峯神社に参詣。御師・井口大夫から黒田秘伝の目薬を依頼され、ほどなく艶福長者となったとされています。
当時の廣峯神社の大別当は官兵衛の主君・小寺政職の弟であり、廣峯神社の御師の中に官兵衛と同じ家紋を持つ黒田姓の家があることからも、黒田家と廣峯神社の深い関係がうかがえます。
廣峯神社は農耕の神として崇められ、農業指導なども行っていました。備中高松城の水攻めや普請など土木工事に長けていたのは、御師達が農地改革など土木工事の知識を持っていたからでしょう。”
御師屋敷の黒田家
この廣峯神社には社家や下級神官で組織された御師(おし)制度があり、彼ら御師は、東は若狭から西は安芸までの御札を配って廻ったといわれる。
下段で紹介するように、廣峯神社本殿の裏山に繋がる一角には、これら御師の屋敷跡が残され、黒田官兵衛の時代には50家以上もあったとされる。その中の一つに、黒田家という屋敷跡があり、この家が御師をしながら目薬を売っていたといわれていた官兵衛の祖父・重隆と関係があったのではないかといわれている。
【写真左】廣峯神社が見えてくる。
手前の両側に土塀が見えるが、この箇所にもそれぞれ西脇家・肥塚家といった御師屋敷跡が残る。
奥には廣峯神社の休憩所が見え、さらに後方に白弊山が鎮座している。
【写真左】廣峯神社・入口付近
この階段を登ると、本殿拝殿などに至る。
【写真左】宝篋印塔
階段途中の右側に祀られているもので、国指定重要文化財。
無銘であるが様式上から考えて室町時代初期のものといわれるもの。もともと廣峯神社の背後、俗称「吉備ツ様」といわれている地に埋没していたのを現在に移転したという。「吉備ツ様」というのは、後段で紹介する吉備社がまつられている白弊山付近と思われる。
【写真左】随神門(表門)
姫路市指定重要有形文化財(昭和42年指定)
元禄10年(1697)頃のものとされ、同時期の代表的名工・大古瀬十郎兵衛の大棟鬼瓦が使われている。
【写真左】本殿・拝殿
現地の説明板より
“本殿 附宮殿三基
国指定重要文化財(昭和35年6月9日指定)
構造形式:桁行11間、梁間3間、一重、入母屋造、正面1間通り庇付き、檜皮葺
ここに社殿が建てられたのはかなり古く、京都祇園の八坂神社は、貞観11年(896)ここより遷座されたとされている。なお、本殿床下には平安時代初期の一間社流造社殿の掘立方柱の遺構がある。現本殿は文安元年(1444)の再建で、正面幅が神社本殿建築として我が国最大級の規模である。(以下略)…”
【写真左】本殿及び拝殿平面図
下段が拝殿で、上段が本殿
拝殿
国指定重要文化財(昭和35年6月9日指定)
構造形式:桁行10間、梁間4間、一重、入母屋造、本瓦葺
本殿の前面に軒を接して建っており、本殿に相応した大規模な建物である。敷地が本殿に向かって上り斜面となっているため、建物前面は一種の舞台造りとなっている。現拝殿は寛永3年(1626)姫寺城主本多忠政が再建した。(以下略)…”
【写真左】大河ドラマ「軍師官兵衛」ロケの写真
昨年放映されていたNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のとき、紹介された広峯明神での撮影風景写真。
初回の平成26年1月5日放映されたもので、御師が供を二人連れて地方に旅立つシーンなどが撮影された。
【写真左】廣峯神社から姫路市内を俯瞰する。
奥に見えるのは姫路港と播磨灘。姫路城はこの写真のほぼ中央部に当たるが、未だこの頃は改修工事中であったためか、確認できなかった。
【写真左】廣峯神社の裏側
境内の隅からぐるっと回り込むと裏側にも小祠が2,3基祀られている。
このあと、吉備社などが祀られている白弊山を目指す。
【写真左】家守家跡
御師屋敷の一つで、すでに建物などは朽ち果てているが、瓦片などがそのまま残っている。
なお、この付近には家守家のほか、藤井家跡や内海家跡などがある。
ここからさらに上を目指すが、傾斜が段々ときつくなり、山城らしき雰囲気が感じられる。
【写真左】吉備社
白弊山山頂部に祀られているもので、冒頭で紹介したように、廣峯神社を建立した吉備真備を祀る。
なお、この地には右隣りに素戔嗚尊を祭神とする荒神社が祀られ、両社の間には磐座という石が鎮座する。
なお、白弊山を山城とすれば、この位置が主郭となるのだろうが、これ以外の山城遺構らしきものは殆ど確認できない。
このあと、下りは黒田家や魚住家などがあるルートを使った。
【写真左】黒田家屋敷跡・その1
かなり傾斜のある下り坂の途中に残るもので、母屋とされる敷地は、間口10m余×奥行30m弱程度の規模となっている。
見方によっては、山城の郭段跡に屋敷が建てられたのではないかとも考えられる。
【写真左】黒田家屋敷跡・その2
黒田家の標識
【写真左】黒田家屋敷跡・その3
現地には瓦片が散在し、礎石らしきものもみえるが、ほとんど整備されていないようだ。
【写真左】黒田家屋敷跡・その4
左側が黒田家屋敷になるが、ご覧の通り土塀と石積を混在させたような基礎で屋敷が建てられていたようだ。
なお、この下の段も日常生活のためにつかわれたような空き地が残る。
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