能島城(のしまじょう)・その1
●所在地 愛媛県今治市宮窪町・能島
●指定 国指定史跡
●形態 水軍城
●高さ 31m
●築城期 応永26年(1419)
●築城者 村上山城守雅房
●遺構 郭・柱穴(ピット)その他
●登城日 2015年4月4日
◆解説(参考文献『日本城郭体系』等)
前稿木浦城(愛媛県今治市伯方町木浦)でも少し触れているが、能島村上氏の詰城といわれている能島城を取り上げたい。
能島城は、今治市の大島(越智大島)と木浦城が所在する伯方島の間に浮かぶ能島に築かれた水軍城で、近年特に注目を集めている城砦である。
【写真左】能島城遠望
西側対岸のカレイ山展望台から見たもの。
【写真左】能島城の南側に隣接する鯛崎島の出丸
左側の一部に能島城が見える。
現地の説明板より
"能島城跡の位置
伊予水軍の根拠地であり、八幡船の発祥地でもあって、室町時代以後海外貿易に進出して益々航海術を練り、我が国水軍発達史上重要な役割を果たしている能島城跡は、越智郡大島と伯方島との急潮たぎる海峡に位置し、東経133度5分、北緯34度10分7秒に当たる。
【写真左】能島城と鯛崎出丸の配置図
現地に設置されている見取図を参考に作図したもので、能島城側の灰色の箇所については遺構名は標示されていないが、海岸側の桟橋から上がったあとの駐屯地として使われたのだろう。
而もこの海峡は帆船時代の昔、瀬戸内海を上下する船にとっては、来島海峡より近道の重要な航路であったから、村上氏は源平当時から根拠をすえて、伊予の豪族河野氏の配下に属して瀬戸内海の海上権を握っていたのである。
周囲720m、面積15,043㎡(1町5反2畝)の能島と、その南の周囲240m、面積2,786㎡(2反7畝)の鯛崎島と、東北にある周囲5粁(km)の鵜島とが有機的に連なっている。”
【写真左】宮窪の港から能島城を遠望する。
能島城に上陸することができるのは一年のうちでも限られている。
訪れたこの日(4月4日)は、この近くにある村上水軍博物館の見学が目的だった。館内の見学を終え、駐車場側から能島城を遠望すると、桜が咲いているのが見える。
能島城に渡船で上陸できるのは、毎年「能島の花見」として、島に植えられている桜が開花したときに限られている(2日間程度)らしい。
博物館の係りの方に聞くと、このところ急にあたたかくなり、能島の桜が咲いたことから急きょ、この日と明日に限って、宮窪という港から臨時の船が運航することになったという。これはラッキーと、さっそく向かうことにした。
【写真左】能島運行の渡船
普段は能島以外の島々を航行する船だが、この二日間は臨時に能島花見専用の渡船とされる。
手書の「能島」表示板。普段の運行先名は紙とガムテープで隠し、「能島」⇔「宮窪」専用の表示。この手作り感がいい。
村上水軍博物館のパンフより
“海賊衆・能島村上氏
村上氏は、南北朝から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した一族である。俗に三島村上氏と呼ばれる、能島・来島・因島の三家からなり、互いに強い同族意識を持っていた。
戦国時代になると、村上氏はその強力な海の武力を背景に、瀬戸内海の広い海域を支配し、国内の軍事・政治や海運の動向をも左右した。この後、来島城を本拠とする来島村上氏は、早くから守護大名河野氏と結びつき、因島村上氏は大内氏のち毛利氏の有力な水軍となった。
【写真左】渡船から能島城の桜が見える。
この日はおよそ30分間隔で往来していることもあり、能島城には数十人の花見見学者が上陸していた。
そして、現在の宮窪に本拠を構えた能島村上氏は、三氏の中でもっとも独立性が高く、特に村上武吉は、どの大名にも臣従せず、独自の姿勢を貫いた。
武吉の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は九州から東は塩飽諸島に至る海上交通を掌握していた。戦時には、小早船を巧みに操り、火薬を用いた戦闘を得意とした。その一方で、平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割も果たしたのである。”
【写真左】西側の広場
船着場から上陸すると南北に弓状の広場が設けてある。
おそらく戦国期には、主だった資材や兵力を駐屯する場所として使われていたのだろう。
【写真左】能島城の石碑
昭和39年5月建立とある。
【写真左】二の丸及び本丸方面を見る。
西側の階段から見たもので、この階段を上がると、左手に三の丸があり、そのまま先を進むと二の丸・本丸に繋がる。
【写真左】三の丸
最初に三の丸に向かった。
西端部にある郭で、三角形をなしており、北端部は特に細く突き出した形となっている。
この先から西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の大島大橋が見える。
【写真左】二の丸附近
能島にある桜の木はいつ植えられたのか分からないが、かなりの年数を経ているものもある。
見学客の中にはゴザも用意して楽しんだ人もいた。
【写真左】本丸に向かう。
本丸の下段にある二の丸は、ほぼ本丸を囲むような配置となっており、当城の中でもっとも面積が多い。
【写真左】本丸
ほぼ南北に伸びる楕円形の形状をなし、長径30m前後か。
郭(本丸)を写すつもりが、ついつい桜の方に目が行ってしまう。それぐらい本丸にある桜は見事なものだ。
【写真左】本丸から北側の二の丸に降りる。
本丸の東側に階段があり、それを降りると北側の二の丸に繋がる。
この付近の桜は特に見事。
【写真左】堀切
手前が二ノ丸側に当たり、その先に矢櫃(矢倉)があるが、その間には人為的に高度を下げ、幅を萎めた箇所がある。
現在木製の階段やタラップなどで道を確保しているが、堀切としては施工精度が高く、要害性に富む。
【写真左】矢櫃
奥行約10m×幅3~4m前後の規模。全周囲は切崖となっている。
【写真左】鵜島
能島城の東約100m程介して鵜島という島がある。この鵜島と伯方島及び、大島の間を舟折瀬戸というが、そのうち、能島と鵜島の間は特に狭く、この箇所の潮の流れも速い。
鵜島にも水軍城が記録されているが、おそらくこの写真で少し見える階段部も遺構(矢倉・見張台)の一部だろう。
このあとここでUターンし、南側の出丸方面に向かう。
【写真左】本丸東側の二の丸付近
このあたりは幅が狭くなっており、細長い。
【写真左】二の丸から出丸を見る。
二の丸南端部から少し降りると、細長い道が介在している。その先に出丸が控え、能島の南端部になる。
なお、その先には鯛崎島が見えている。
【写真左】出丸
右下の道は渡船の発着場に繋がる。
【写真左】鯛崎出丸遠望
能島と鯛崎島の間はおよそ20m程の幅を持つ狭い瀬戸だが、底は大分浅く、探訪したとき、底の岩肌が見えていた。
また、鯛崎島側にも石積された桟橋のようなものが見え、頂部には宮が祀られている。ただ、一般人は上陸できないようだ。
桟橋の高さを考えると、このときは低潮時だったようで、さらに潮は大島大橋側に向かってかなり早く流れていた。
中世(戦国期)の船が、帆船や手漕ぎ船であったことを考えると、能島城に船を接岸させるには高度な技術が必要だったのだろう。
本稿はここまでとし、次稿では城主であった能島村上氏などを中心に述べたいと思う。
●所在地 愛媛県今治市宮窪町・能島
●指定 国指定史跡
●形態 水軍城
●高さ 31m
●築城期 応永26年(1419)
●築城者 村上山城守雅房
●遺構 郭・柱穴(ピット)その他
●登城日 2015年4月4日
◆解説(参考文献『日本城郭体系』等)
前稿木浦城(愛媛県今治市伯方町木浦)でも少し触れているが、能島村上氏の詰城といわれている能島城を取り上げたい。
能島城は、今治市の大島(越智大島)と木浦城が所在する伯方島の間に浮かぶ能島に築かれた水軍城で、近年特に注目を集めている城砦である。
【写真左】能島城遠望
西側対岸のカレイ山展望台から見たもの。
【写真左】能島城の南側に隣接する鯛崎島の出丸
左側の一部に能島城が見える。
現地の説明板より
"能島城跡の位置
伊予水軍の根拠地であり、八幡船の発祥地でもあって、室町時代以後海外貿易に進出して益々航海術を練り、我が国水軍発達史上重要な役割を果たしている能島城跡は、越智郡大島と伯方島との急潮たぎる海峡に位置し、東経133度5分、北緯34度10分7秒に当たる。
【写真左】能島城と鯛崎出丸の配置図
現地に設置されている見取図を参考に作図したもので、能島城側の灰色の箇所については遺構名は標示されていないが、海岸側の桟橋から上がったあとの駐屯地として使われたのだろう。
而もこの海峡は帆船時代の昔、瀬戸内海を上下する船にとっては、来島海峡より近道の重要な航路であったから、村上氏は源平当時から根拠をすえて、伊予の豪族河野氏の配下に属して瀬戸内海の海上権を握っていたのである。
周囲720m、面積15,043㎡(1町5反2畝)の能島と、その南の周囲240m、面積2,786㎡(2反7畝)の鯛崎島と、東北にある周囲5粁(km)の鵜島とが有機的に連なっている。”
【写真左】宮窪の港から能島城を遠望する。
能島城に上陸することができるのは一年のうちでも限られている。
訪れたこの日(4月4日)は、この近くにある村上水軍博物館の見学が目的だった。館内の見学を終え、駐車場側から能島城を遠望すると、桜が咲いているのが見える。
能島城に渡船で上陸できるのは、毎年「能島の花見」として、島に植えられている桜が開花したときに限られている(2日間程度)らしい。
博物館の係りの方に聞くと、このところ急にあたたかくなり、能島の桜が咲いたことから急きょ、この日と明日に限って、宮窪という港から臨時の船が運航することになったという。これはラッキーと、さっそく向かうことにした。
【写真左】能島運行の渡船
普段は能島以外の島々を航行する船だが、この二日間は臨時に能島花見専用の渡船とされる。
手書の「能島」表示板。普段の運行先名は紙とガムテープで隠し、「能島」⇔「宮窪」専用の表示。この手作り感がいい。
村上水軍博物館のパンフより
“海賊衆・能島村上氏
村上氏は、南北朝から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した一族である。俗に三島村上氏と呼ばれる、能島・来島・因島の三家からなり、互いに強い同族意識を持っていた。
戦国時代になると、村上氏はその強力な海の武力を背景に、瀬戸内海の広い海域を支配し、国内の軍事・政治や海運の動向をも左右した。この後、来島城を本拠とする来島村上氏は、早くから守護大名河野氏と結びつき、因島村上氏は大内氏のち毛利氏の有力な水軍となった。
【写真左】渡船から能島城の桜が見える。
この日はおよそ30分間隔で往来していることもあり、能島城には数十人の花見見学者が上陸していた。
そして、現在の宮窪に本拠を構えた能島村上氏は、三氏の中でもっとも独立性が高く、特に村上武吉は、どの大名にも臣従せず、独自の姿勢を貫いた。
武吉の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は九州から東は塩飽諸島に至る海上交通を掌握していた。戦時には、小早船を巧みに操り、火薬を用いた戦闘を得意とした。その一方で、平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割も果たしたのである。”
【写真左】西側の広場
船着場から上陸すると南北に弓状の広場が設けてある。
おそらく戦国期には、主だった資材や兵力を駐屯する場所として使われていたのだろう。
【写真左】能島城の石碑
昭和39年5月建立とある。
【写真左】二の丸及び本丸方面を見る。
西側の階段から見たもので、この階段を上がると、左手に三の丸があり、そのまま先を進むと二の丸・本丸に繋がる。
【写真左】三の丸
最初に三の丸に向かった。
西端部にある郭で、三角形をなしており、北端部は特に細く突き出した形となっている。
この先から西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の大島大橋が見える。
【写真左】二の丸附近
能島にある桜の木はいつ植えられたのか分からないが、かなりの年数を経ているものもある。
見学客の中にはゴザも用意して楽しんだ人もいた。
【写真左】本丸に向かう。
本丸の下段にある二の丸は、ほぼ本丸を囲むような配置となっており、当城の中でもっとも面積が多い。
【写真左】本丸
ほぼ南北に伸びる楕円形の形状をなし、長径30m前後か。
郭(本丸)を写すつもりが、ついつい桜の方に目が行ってしまう。それぐらい本丸にある桜は見事なものだ。
【写真左】本丸から北側の二の丸に降りる。
本丸の東側に階段があり、それを降りると北側の二の丸に繋がる。
この付近の桜は特に見事。
【写真左】堀切
手前が二ノ丸側に当たり、その先に矢櫃(矢倉)があるが、その間には人為的に高度を下げ、幅を萎めた箇所がある。
現在木製の階段やタラップなどで道を確保しているが、堀切としては施工精度が高く、要害性に富む。
【写真左】矢櫃
奥行約10m×幅3~4m前後の規模。全周囲は切崖となっている。
【写真左】鵜島
能島城の東約100m程介して鵜島という島がある。この鵜島と伯方島及び、大島の間を舟折瀬戸というが、そのうち、能島と鵜島の間は特に狭く、この箇所の潮の流れも速い。
鵜島にも水軍城が記録されているが、おそらくこの写真で少し見える階段部も遺構(矢倉・見張台)の一部だろう。
このあとここでUターンし、南側の出丸方面に向かう。
【写真左】本丸東側の二の丸付近
このあたりは幅が狭くなっており、細長い。
【写真左】二の丸から出丸を見る。
二の丸南端部から少し降りると、細長い道が介在している。その先に出丸が控え、能島の南端部になる。
なお、その先には鯛崎島が見えている。
【写真左】出丸
右下の道は渡船の発着場に繋がる。
【写真左】鯛崎出丸遠望
能島と鯛崎島の間はおよそ20m程の幅を持つ狭い瀬戸だが、底は大分浅く、探訪したとき、底の岩肌が見えていた。
また、鯛崎島側にも石積された桟橋のようなものが見え、頂部には宮が祀られている。ただ、一般人は上陸できないようだ。
桟橋の高さを考えると、このときは低潮時だったようで、さらに潮は大島大橋側に向かってかなり早く流れていた。
中世(戦国期)の船が、帆船や手漕ぎ船であったことを考えると、能島城に船を接岸させるには高度な技術が必要だったのだろう。
本稿はここまでとし、次稿では城主であった能島村上氏などを中心に述べたいと思う。
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