秋庭氏累代の墓(あきばし るいだいのはか)
●所在地 岡山県高梁市有漢町有漢茶堂
●探訪日 2012年3月28日
◆解説(参考史料「サイト:高梁歴史人物辞典」、『日本城郭体系第13巻』等)
前稿台ヶ鼻城(岡山県高梁市有漢町有漢字上有漢)の築城者とされる秋庭氏の墓は、台ヶ鼻城のある位置から少しさかのぼった有漢茶堂という「有漢常山城」に近い場所に祀られている。
【写真左】現地の写真
右側に見える道路は県道49号線で、奥に向かうと「有漢常山城」につながる。
なお、この位置から左の集落に向かうと、「秋庭氏館跡」があるが、管理人は帰宅してから分かったため訪れていない。
幸いサイト『城郭放浪記』氏がすでに登城され、紹介されているのでご覧いただきたい。
「秋庭氏居館跡」の近くにある保寧寺という寺院には、後段に示す後期秋庭氏5代:元重の位牌が残されているという。
現地の説明板より
“医王堂秋庭氏の墓 比丘尼橋
医王堂は出雲の一畑薬師を勧請したもので、薬師如来をまつってある古い堂です。
堂の中にかかっている「医王堂記」の額は享保2年(1717)のもので町指定の文化財です。
堂の東側に並ぶ五輪塔は、松山城主であった秋庭氏歴代の墓で、東側の田の中に散在していたものを昭和25年、この地にまとめられました。このうち4基には、地輪にその没年が彫られています。
堂の西側の小川には明治の頃まで、比丘尼橋という大きな石橋がかかっていました。この橋には、秋庭氏最後の城主元重の戦死にまつわる悲話が残っています。
有漢町教育委員会”
【写真左】医王堂
写真左の堂が医王堂で、この建物の裏に秋庭氏の墓がある。
秋庭氏については、前稿でも簡単に触れているが、承久の乱の戦功により備中国に地頭職として補任してきた一族には、同氏の他に信濃国から来た赤木忠長(滝谷城・しらげか城(岡山県高梁市宇治町本郷・宇治)参照)が記録されている。
忠長は同国川上郡穴田郷(現高梁市宇治町)に補任し、中野村本郷(同市宇治町本郷)に屋敷を構え、滝谷城を築いた。赤木氏は以後尼子氏、大内氏そして毛利氏と主君を変え、輝元の時代にあっては各地に転戦し武名をとどろかせたという。
【写真左】秋庭氏累代の墓
左が医王堂
秋庭氏系譜
ところで、秋庭氏については、初代重信は台ヶ鼻城に在城したのは18年間といわれている。その後、延応2年:仁治元年(1240)、備中松山の大松山に砦を築き、現在の備中松山城の基礎をつくったといわれる。
重信の代のあとの系譜(100年前後)としては、「台が鼻城」でも記したように、次の通りとなっている。
南北朝期に至ると、秋庭重明の名が見え、この代から「後期秋庭氏」とし、重明を初代としている。
今稿の「医王堂」に祀られている墓としてはっきりしているのは、
後期秋庭氏
【写真左】五輪塔群
中小の五輪塔群がまとめられている。
一畑薬師
ところで、備中に出雲の一畑薬師が勧請されている場所があるとは驚いた。一畑薬師は現在の島根県出雲市小境町(旧平田市)にある古刹で、寛平6年(894)に補然が創建したとされる。
【写真左】一畑薬師・総本山
所在地 島根県出雲市
開創 寛平6年(894)
出雲国神仏霊場第3番、出雲10大薬師霊場第1番札所、出雲観音霊場特別札所、中国観音霊場第26番札所。
臨済宗妙心寺派
山号は「医王山」であるので、この「医王堂」もそこから来たものだろう。地元出雲では通称「一畑さん」と呼ばれ、「目のお薬師様」として知られている。
私事で恐縮だが、長男が4歳のとき健康祈願として「御礼参り」をしたことがある。
医王堂の建立期は分からないが、備中有漢に住んでいた人が出雲の一畑薬師に祈願を行い、成就したお礼に当地に勧請したのかもしれない。
【写真左】説明板
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●所在地 岡山県高梁市有漢町有漢茶堂
●探訪日 2012年3月28日
◆解説(参考史料「サイト:高梁歴史人物辞典」、『日本城郭体系第13巻』等)
前稿台ヶ鼻城(岡山県高梁市有漢町有漢字上有漢)の築城者とされる秋庭氏の墓は、台ヶ鼻城のある位置から少しさかのぼった有漢茶堂という「有漢常山城」に近い場所に祀られている。
【写真左】現地の写真
右側に見える道路は県道49号線で、奥に向かうと「有漢常山城」につながる。
なお、この位置から左の集落に向かうと、「秋庭氏館跡」があるが、管理人は帰宅してから分かったため訪れていない。
幸いサイト『城郭放浪記』氏がすでに登城され、紹介されているのでご覧いただきたい。
「秋庭氏居館跡」の近くにある保寧寺という寺院には、後段に示す後期秋庭氏5代:元重の位牌が残されているという。
現地の説明板より
“医王堂秋庭氏の墓 比丘尼橋
医王堂は出雲の一畑薬師を勧請したもので、薬師如来をまつってある古い堂です。
堂の中にかかっている「医王堂記」の額は享保2年(1717)のもので町指定の文化財です。
堂の東側に並ぶ五輪塔は、松山城主であった秋庭氏歴代の墓で、東側の田の中に散在していたものを昭和25年、この地にまとめられました。このうち4基には、地輪にその没年が彫られています。
堂の西側の小川には明治の頃まで、比丘尼橋という大きな石橋がかかっていました。この橋には、秋庭氏最後の城主元重の戦死にまつわる悲話が残っています。
有漢町教育委員会”
【写真左】医王堂
写真左の堂が医王堂で、この建物の裏に秋庭氏の墓がある。
秋庭氏については、前稿でも簡単に触れているが、承久の乱の戦功により備中国に地頭職として補任してきた一族には、同氏の他に信濃国から来た赤木忠長(滝谷城・しらげか城(岡山県高梁市宇治町本郷・宇治)参照)が記録されている。
忠長は同国川上郡穴田郷(現高梁市宇治町)に補任し、中野村本郷(同市宇治町本郷)に屋敷を構え、滝谷城を築いた。赤木氏は以後尼子氏、大内氏そして毛利氏と主君を変え、輝元の時代にあっては各地に転戦し武名をとどろかせたという。
【写真左】秋庭氏累代の墓
左が医王堂
秋庭氏系譜
ところで、秋庭氏については、初代重信は台ヶ鼻城に在城したのは18年間といわれている。その後、延応2年:仁治元年(1240)、備中松山の大松山に砦を築き、現在の備中松山城の基礎をつくったといわれる。
重信の代のあとの系譜(100年前後)としては、「台が鼻城」でも記したように、次の通りとなっている。
- 1代 秋庭 重信
- 2代 秋庭 四郎信村
- 3代 秋庭 平六重連
- 4代 秋庭 小三郎義継
- 5代 秋庭 三郎重知
今稿の「医王堂」に祀られている墓としてはっきりしているのは、
後期秋庭氏
- 1代 重明(南北朝期)
- 2代 頼重(南北朝後期~室町時代初期)
- 3代 頼次(室町時代前期)
- 4代 元明(室町時代) 位牌は保寧寺(ほうねいじ)
- 5代 元重(室町時代後期)
【写真左】五輪塔群
中小の五輪塔群がまとめられている。
一畑薬師
ところで、備中に出雲の一畑薬師が勧請されている場所があるとは驚いた。一畑薬師は現在の島根県出雲市小境町(旧平田市)にある古刹で、寛平6年(894)に補然が創建したとされる。
【写真左】一畑薬師・総本山
所在地 島根県出雲市
開創 寛平6年(894)
出雲国神仏霊場第3番、出雲10大薬師霊場第1番札所、出雲観音霊場特別札所、中国観音霊場第26番札所。
臨済宗妙心寺派
山号は「医王山」であるので、この「医王堂」もそこから来たものだろう。地元出雲では通称「一畑さん」と呼ばれ、「目のお薬師様」として知られている。
私事で恐縮だが、長男が4歳のとき健康祈願として「御礼参り」をしたことがある。
医王堂の建立期は分からないが、備中有漢に住んでいた人が出雲の一畑薬師に祈願を行い、成就したお礼に当地に勧請したのかもしれない。
【写真左】説明板
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近所の者です。詳しく紹介していただき、ありがとうございます。
返信削除こちらこそ、ありがとうございます。
削除今後ともご笑覧のほどお願いいたします。
トミー拝