2012年4月26日木曜日

三ツ城(広島県東広島市西条中央7 三ツ城古墳)

三ツ城(みつじょう)

●所在地 広島県東広島市西条7 三ツ城古墳
●指定 国指定史跡
●形態 丘城
●高さ 237m(比高10m)
●城主 平賀広相
●登城日 2011年7月27日
●備考 三ツ城古墳

◆解説
前稿でも述べたように東広島市には多くの古墳が点在している。今稿の三ツ城はその中でも代表的な古墳でもある。古墳が城砦として使われたものとしては、今月とりあげた美作の「美和山城」がある。
【写真左】三ツ城古墳・第1号古墳
 前方後円墳で全長92m






従って、史跡名でいえば「三ツ城古墳」といい、城砦というよりも「古墳」の扱いが一般的となっている。このため、現地にある説明板には城砦の記述はまったくなく、山城ファンとしては残念だが、致し方ないだろう。

所在地は前稿「鏡山城」と同じく、東広島市内にあって、鏡山城から北東へ約2キロの三ツ城小学校の南・三ツ城公園内にある。
【写真左】2号古墳
 中央左のお椀型のもの。











現地の説明板より

“史跡 三ツ城古墳
史跡三ツ城古墳は、丘陵を利用して造られた3基の古墳からなる古墳群です。
第1号古墳は、かぎ穴のかたちをした全長約92mの前方後円墳で、広島県内では最大の古墳です。墳丘は3段に築かれ、斜面は葺石で覆われています。それぞれの段には、円筒埴輪と朝顔形埴輪が約1,800本立て並べられています。後円部の頂上には、箱型石棺を中に入れた石槨が2基と、箱型石棺が1基設けられています。
【写真左】3号古墳


 葬られた人は、大きさなどから考えて、安芸の地域をまとめていた大豪族と思われます。
 第2号古墳は、お椀を伏せたかたちの円墳で、斜面には葺石がありますが、埴輪はありません。


 第3号古墳は、楕円形の古墳です。尾根と第2号古墳とを分ける溝の中に造られています。墳丘の中央には箱型石棺が1基あります。


 三ツ城古墳は、昭和26年(1951)に最初の発掘調査が行われ、戦後における広島県の古墳研究の出発点のひとつとなりました。この古墳は、この地域の歴史を考えるのに、欠くことのできない重要な文化財です。


 このため、昭和57年(1982)6月3日に史跡に指定されました。東広島市では、これらの古墳を、永く保存し活用していくため、昭和62年(1987)度から5年にわたり古墳整備のための調査をすすめ、平成2年(1990)度から平成5年(1993)度にかけて、文化庁の史跡等活用特別事業により、古墳が造られた当時の姿に復元しました。また、古墳以外の部分は、建設省の補助事業により、公園として整備しています。”
【写真左】周辺部
 公園として整備されたため、戦国期当時の状況は全く不明だが、この写真の右側のような底部は濠として使われたのかもしれない。





平賀氏

当城にかんする史料はほとんどなく、城主が「平賀広相」であったという記録が残る。

平賀氏については、以前「平賀氏の墓地」・「御薗宇城」(2010年6月18日投稿)で既に紹介しているが、同氏は出羽国(秋田県)平賀郡の出で、初期には現在の東広島市高屋町高屋堀に「御薗宇城」を築き、文亀3年(1503)には、白山城に移っている。
【写真左】3号墳の後部
 郭跡にも見えないことはないが…。

平賀広相(ひろすけ)は、戦国期当初大内義隆につき、その後毛利元就に属した。

なお、広相は南北朝期、安芸高屋保を本拠とした平賀直宗の後裔である。

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