台ヶ鼻城(だいがはなじょう)
●所在地 岡山県高梁市有漢町有漢上有漢
●形態 丘城
●築城期 鎌倉期
●築城者 秋庭氏
●城主 秋庭氏
●指定 高梁市指定史跡
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
前稿備中寺山城(岡山県高梁市川面町)のある川面町から北東に約10キロほど向かった有漢町に築かれた城砦である。
築城者は秋庭氏といわれている。
【写真左】台ヶ鼻城遠望
北東方面から見たもの。
登城口はこの写真の左側の道から向かう。
秋庭氏
備中秋庭氏の名が最も知られているのは、備中松山城(岡山県高梁市内山下)の築城者としてである。
記録によれば、秋庭氏は元は相模国三浦氏の一党で、承久の乱(1221年)のとき、北条義時の軍に属して功を挙げ、その恩賞として当地有漢郷の新補地頭に任ぜられた。
以後、秋庭氏は有漢町の土居を本拠として当地を支配していった。
【写真左】入口付近の標柱
昭和50年5月1日に指定を受けているようだ。
写真の左側の道を進むと城域に向かうが、事実上、中は田圃があるので農道ということになる。
今稿の「台ヶ鼻城」は、初期に築いたといわれる同じ有漢町にある有漢常山城(岡山県高梁市有漢町有漢土居)とほぼ同時期に、麓を流れる有漢川下流の上有漢に築いたとされる。
「松山城主歴代記」によれば、秋庭氏の系譜は次の通り。
【写真左】登城口付近
写真左に石仏地蔵6体が祀られた祠堂がある。右側にはかすかな文字で「伊予□□阿弥陀仏…」と書かれている。
台ヶ鼻城
写真でも分かるように、山城というよりも城館跡といったほうがよさそうな遺構を残している。周辺部の改変によって、当時の状況がはっきりしなくなっているが、北側には有漢川が流れ堀の役目をしていたと考えられ、南側には現在道路が走っているが、おそらく当時はさらに南から伸びていた丘陵を断ち切るように、堀切があったものと思われる。
【写真左】主郭跡
当城の中央部に当たる場所だが、ご覧の通り田圃となっている。
なお、写真の奥を下っていくと、有漢川に至る。
現在城域の中心部は棚田状の田圃が3,4筆残り、南端部は土塁及び櫓のような高台が見られる。
西側は開墾によってできたと思われる畑地があるが、野地に変わりつつある。東面は比高はさほどないものの、ほぼ直角に切り立った切崖として北に伸びている。
目測だが、南北100m、東西70m前後の変形した四角形の形状をなしている。
【写真左】南側の土塁・その1
おそらく当時は全周にわたって土塁状の高まりで囲繞されていたものと思われるが、現在は南側と西側の途中までがその痕跡を残す。
写真は南側の土塁内側に祀られていた祠。
【写真左】南側の土塁・その2
この写真は、先ほどの土塁の外側、つまり南を走る道路側の傾斜部分を移したものだが、ここにも祠が祀られている。
【写真左】南側と西側の接点部
南側にある土塁が最も高く、西に向かって次第に低くなっている。
竹が繁茂しているため、判然としないが、この箇所だけ不定型な土塁配置となって見える。
【写真左】入口部分の南側から見上げる。
外に出て、南側から西に向かう途中の位置から見たものだが、ここもかなりの切崖状となっている。
【写真左】西側から見たもの。
前記したように当城の南側には道路が横断している。
この道路の右側lにさらに山がつながっているので、当時も堀切か切通しがあったものと思われる。
なお、手前の道を下がると下段に示す墓地がある。
【写真左】西麓にある墓地
地元の墓地の間に小規模な五輪塔が3,4基残っている。
なお、秋庭氏累代の墓地については次稿で紹介したいと思う。
●所在地 岡山県高梁市有漢町有漢上有漢
●形態 丘城
●築城期 鎌倉期
●築城者 秋庭氏
●城主 秋庭氏
●指定 高梁市指定史跡
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
前稿備中寺山城(岡山県高梁市川面町)のある川面町から北東に約10キロほど向かった有漢町に築かれた城砦である。
築城者は秋庭氏といわれている。
【写真左】台ヶ鼻城遠望
北東方面から見たもの。
登城口はこの写真の左側の道から向かう。
秋庭氏
備中秋庭氏の名が最も知られているのは、備中松山城(岡山県高梁市内山下)の築城者としてである。
記録によれば、秋庭氏は元は相模国三浦氏の一党で、承久の乱(1221年)のとき、北条義時の軍に属して功を挙げ、その恩賞として当地有漢郷の新補地頭に任ぜられた。
以後、秋庭氏は有漢町の土居を本拠として当地を支配していった。
【写真左】入口付近の標柱
昭和50年5月1日に指定を受けているようだ。
写真の左側の道を進むと城域に向かうが、事実上、中は田圃があるので農道ということになる。
今稿の「台ヶ鼻城」は、初期に築いたといわれる同じ有漢町にある有漢常山城(岡山県高梁市有漢町有漢土居)とほぼ同時期に、麓を流れる有漢川下流の上有漢に築いたとされる。
「松山城主歴代記」によれば、秋庭氏の系譜は次の通り。
- 1代 秋庭 重信
- 2代 秋庭 四郎信村
- 3代 秋庭 平六重連
- 4代 秋庭 小三郎義継
- 5代 秋庭 三郎重知
【写真左】登城口付近
写真左に石仏地蔵6体が祀られた祠堂がある。右側にはかすかな文字で「伊予□□阿弥陀仏…」と書かれている。
台ヶ鼻城
写真でも分かるように、山城というよりも城館跡といったほうがよさそうな遺構を残している。周辺部の改変によって、当時の状況がはっきりしなくなっているが、北側には有漢川が流れ堀の役目をしていたと考えられ、南側には現在道路が走っているが、おそらく当時はさらに南から伸びていた丘陵を断ち切るように、堀切があったものと思われる。
【写真左】主郭跡
当城の中央部に当たる場所だが、ご覧の通り田圃となっている。
なお、写真の奥を下っていくと、有漢川に至る。
現在城域の中心部は棚田状の田圃が3,4筆残り、南端部は土塁及び櫓のような高台が見られる。
西側は開墾によってできたと思われる畑地があるが、野地に変わりつつある。東面は比高はさほどないものの、ほぼ直角に切り立った切崖として北に伸びている。
目測だが、南北100m、東西70m前後の変形した四角形の形状をなしている。
【写真左】南側の土塁・その1
おそらく当時は全周にわたって土塁状の高まりで囲繞されていたものと思われるが、現在は南側と西側の途中までがその痕跡を残す。
写真は南側の土塁内側に祀られていた祠。
【写真左】南側の土塁・その2
この写真は、先ほどの土塁の外側、つまり南を走る道路側の傾斜部分を移したものだが、ここにも祠が祀られている。
【写真左】南側と西側の接点部
南側にある土塁が最も高く、西に向かって次第に低くなっている。
竹が繁茂しているため、判然としないが、この箇所だけ不定型な土塁配置となって見える。
【写真左】入口部分の南側から見上げる。
外に出て、南側から西に向かう途中の位置から見たものだが、ここもかなりの切崖状となっている。
【写真左】西側から見たもの。
前記したように当城の南側には道路が横断している。
この道路の右側lにさらに山がつながっているので、当時も堀切か切通しがあったものと思われる。
なお、手前の道を下がると下段に示す墓地がある。
【写真左】西麓にある墓地
地元の墓地の間に小規模な五輪塔が3,4基残っている。
なお、秋庭氏累代の墓地については次稿で紹介したいと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿