北田城(きただじょう)
●所在地 広島県広島市安佐北区白木町井原
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 井原氏か
●形態 丘城
●高さ 標高195m(比高35m)
●登城日 2011年2月25日
◆解説
北田城は広島市安佐北区の北東部井原にあって、北隣の安芸高田市の向原町と接する位置に築かれた山城である。
当城に関する詳細な記録はあまりないが、説明板にもあるように当城南方にあった鍋谷城主・井原氏と関連する城と考えられている。
【写真左】北田城の東にある大堀切側から櫓台を見上げる。
現地の説明板より
“本城址は神之倉山山系から北西にのびる低丘陵の先端にあり、郭の構成は主郭から北西方面に大小8郭を並べるが、中途から2方向に分かれてY字型を呈している。
また、主郭の後方(現在、道が通っている場所)には大堀切を置いて尾根を分断している。
城主については不明であるが、鍋谷城主井原氏関連の城とも考えられている。
参考文献「山城」”
【写真左】縄張図
現地に設置された遺構配置を主体とした縄張り図で、小規模な山城ながら密度の高い遺構を持つ。
【写真左】大堀切
冒頭で示した東麓部を走る林道となっている箇所で、左側が城砦だが、右の尾根にも竪堀跡が少し残っている。
駐車は写真にあるように、奥に向かったところに少しスペースがあるので、1台は確保できる。
【写真左】西側の斜面
登城するにはこの西側に道が設置されている。比高はあまり高くないものの、切崖としての要害性は十分あるだろう。
【写真左】本丸から東方に櫓台を見る。
登るとすぐに本丸にたどり着くが、その奥(東方)には、櫓台がある。
本丸の規模は幅15m前後で、奥行は25m前後か。平坦な仕上げとなっている。
【写真左】櫓台から本丸を見る。
櫓台は3~4m四方の楕円型で、大きくはない。
このあと、本丸から下の方に向かう。
【写真左】本丸から下の郭を見下ろす。
本丸から下の郭を見ると予想以上に高いことが分かる。おそらく10m前後あるだろう。
下の郭は説明板にもあるようにY字に分かれた配置をとり、中央部にはなだらかな窪みを持たせている。
【写真左】西側の郭の土塁
下の郭のうち、西側部については保存度の良好な土塁が残る。
幅・高さとも1m前後のもので、この左下の麓からの侵入を防いでいる。
【写真左】本丸直下の郭部の土塁
本丸直下の郭の東西には土塁が連続し、さらにその間を3本程度の小土塁が区画している。
この郭から簡単に本丸へ向かうことを防ぐ目的としているものだが、連続する堀をこれだけ細かく区画しているのも珍しい。
【写真左】Y字型の郭
郭として定義はしているが、防御性を考えると、当時はもっと深く掘った空堀もしくは巨大な竪堀ではなかったかと思われる。
竪堀に入った敵を左右の高い郭段から敵を攻撃する際、有利となるからだ。
【写真左】北田累代之墓
Y字郭の東に延びた先端部に設置されたもので、大正12年5月建立とされ、「酒井某」と刻銘されている。
写真にみえる散在した石は、おそらく五輪塔だったものだろう。酒井氏がそれらをまとめて新たに供養したと思われる。
神之倉山
ところで、北田城の周りにはこのほか、南方には鍋谷城・見張城及び井原氏居館跡などがあり、おそらくこれらも井原氏に関連したものだろう。
【写真左】神之倉山遠望
写真中央部には、ハングライダーのテイクオフする場所がある。
このうち、今稿の北田城と鍋谷城・井原氏居館跡などは、いずれも神之倉山の西麓にあり、これら諸城の後陣として神之倉山が戦略的にも含まれていたと思われる。
当然情報連絡のルートとして当山が大きな役目を負っていたことは十分推察できる。
【写真左】神之倉山山頂部
標高561mの地点。
●所在地 広島県広島市安佐北区白木町井原
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 井原氏か
●形態 丘城
●高さ 標高195m(比高35m)
●登城日 2011年2月25日
◆解説
北田城は広島市安佐北区の北東部井原にあって、北隣の安芸高田市の向原町と接する位置に築かれた山城である。
当城に関する詳細な記録はあまりないが、説明板にもあるように当城南方にあった鍋谷城主・井原氏と関連する城と考えられている。
【写真左】北田城の東にある大堀切側から櫓台を見上げる。
現地の説明板より
“本城址は神之倉山山系から北西にのびる低丘陵の先端にあり、郭の構成は主郭から北西方面に大小8郭を並べるが、中途から2方向に分かれてY字型を呈している。
また、主郭の後方(現在、道が通っている場所)には大堀切を置いて尾根を分断している。
城主については不明であるが、鍋谷城主井原氏関連の城とも考えられている。
参考文献「山城」”
【写真左】縄張図
現地に設置された遺構配置を主体とした縄張り図で、小規模な山城ながら密度の高い遺構を持つ。
【写真左】大堀切
冒頭で示した東麓部を走る林道となっている箇所で、左側が城砦だが、右の尾根にも竪堀跡が少し残っている。
駐車は写真にあるように、奥に向かったところに少しスペースがあるので、1台は確保できる。
【写真左】西側の斜面
登城するにはこの西側に道が設置されている。比高はあまり高くないものの、切崖としての要害性は十分あるだろう。
【写真左】本丸から東方に櫓台を見る。
登るとすぐに本丸にたどり着くが、その奥(東方)には、櫓台がある。
本丸の規模は幅15m前後で、奥行は25m前後か。平坦な仕上げとなっている。
【写真左】櫓台から本丸を見る。
櫓台は3~4m四方の楕円型で、大きくはない。
このあと、本丸から下の方に向かう。
【写真左】本丸から下の郭を見下ろす。
本丸から下の郭を見ると予想以上に高いことが分かる。おそらく10m前後あるだろう。
下の郭は説明板にもあるようにY字に分かれた配置をとり、中央部にはなだらかな窪みを持たせている。
【写真左】西側の郭の土塁
下の郭のうち、西側部については保存度の良好な土塁が残る。
幅・高さとも1m前後のもので、この左下の麓からの侵入を防いでいる。
【写真左】本丸直下の郭部の土塁
本丸直下の郭の東西には土塁が連続し、さらにその間を3本程度の小土塁が区画している。
この郭から簡単に本丸へ向かうことを防ぐ目的としているものだが、連続する堀をこれだけ細かく区画しているのも珍しい。
【写真左】Y字型の郭
郭として定義はしているが、防御性を考えると、当時はもっと深く掘った空堀もしくは巨大な竪堀ではなかったかと思われる。
竪堀に入った敵を左右の高い郭段から敵を攻撃する際、有利となるからだ。
【写真左】北田累代之墓
Y字郭の東に延びた先端部に設置されたもので、大正12年5月建立とされ、「酒井某」と刻銘されている。
写真にみえる散在した石は、おそらく五輪塔だったものだろう。酒井氏がそれらをまとめて新たに供養したと思われる。
神之倉山
ところで、北田城の周りにはこのほか、南方には鍋谷城・見張城及び井原氏居館跡などがあり、おそらくこれらも井原氏に関連したものだろう。
【写真左】神之倉山遠望
写真中央部には、ハングライダーのテイクオフする場所がある。
このうち、今稿の北田城と鍋谷城・井原氏居館跡などは、いずれも神之倉山の西麓にあり、これら諸城の後陣として神之倉山が戦略的にも含まれていたと思われる。
当然情報連絡のルートとして当山が大きな役目を負っていたことは十分推察できる。
【写真左】神之倉山山頂部
標高561mの地点。
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