面山城(めんざんじょう)
●所在地 広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府
●別名 免山城
●築城期 鎌倉期もしくは南北朝期
●築城者 佐々部氏
●高さ 標高428m(比高130m)
●遺構 郭・土塁・堀切等
●指定 市指定史跡
●登城日 2010年5月14日及び2011年2月25日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻等』)
このところ備後国の山城が続いたので、今稿は安芸国の山城・面山城を取り上げたい。
【写真左】面山城遠望
この写真は2010年5月に探訪した時のもので、東麓からみたもの。本丸は左側にあるが、登城コースは右側の山から向かう。
所在地は現在の安芸高田市高宮町にあって、江の川の支流生田川北麓にそびえる標高428mの山に築かれている。なお、当城と同名の山である「面山(標高486m)」が、2キロ北方に聳えて紛らわしが、この山は面山城ではない。
現地の説明板より
“高宮町史跡
面山城跡
佐々部氏は、はじめ高階姓を名乗っていたが、ここ佐々部村志部府面山(免山とも)に城を築き、佐々部と称した。
初代若狭守承世(つぐよ)(?~1527)が、佐々部村50貫分の牛首城に移るまでの在城期間は不明であるが、当時志部府は交通の要所で、その後も佐々部の中心地として栄えた。天正19年(1591)の『八箇国御時代分限帳』によると、佐々部市の名が見え、郡内最高額の目代給があげられている。
「蛇多き故に牛首城に移る」と旧記い見えるが、もとより真偽のほどは不明である。
佐々部氏は、近郷の諸豪族、阿須那の高橋氏、甲立の宍戸氏などと姻戚関係を結び、地位の保全を図った。毛利氏台頭後は、その麾下に入り、宍戸氏の配下にあって重んじられた。
城跡は、南に低い丘陵を見下ろす標高428mの山頂にある。遺構は、7つの郭と3条の堀切と1条の竪堀からなる。
西から東に向かってほぼ一張りに張り出した山頂をうまく利用して、3つの郭を設けている。主郭は、東と西に空堀を堀り、一段高い位置にある。
本丸と呼ばれる山頂の郭に立つと、南東に伸びる尾根筋2キロの先端に牛首城を望むことができる。
平成14年3月25日
高宮町教育委員会
高宮町文化財保護審議会”
【写真左】麓に設置してある「面山森林公園」の案内図
この辺り一帯は現在公園としているようだが、麓の施設以外は朽ち果てているような状況だ。
登城コースはこの図でいえば、廃寺となっている荘立寺の脇を通って、まっすぐ登り、鳥居のある右のコースから尾根伝いにまわると面山城に辿り着く。
佐々部氏
佐々部氏については、上掲した説明板や、備前・茶臼山城(岡山県赤磐市周匝)の際に、城主笹部(佐々部)氏をとりあげているが、改めて同氏の出自について概説しておきたい。
当地安芸国は鎌倉期以前、すなわち平安末期まで平家と深い関係を持っていた。このため源氏が平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開くと、それまで平氏方であった安芸国の豪族・社寺などは、土地を没収され、諸族は滅亡していった。
特に厳島神社主職の交替はもっとも衝撃的な処置で、源氏方が安芸国には極めて強勢的な戦後処理を行ったといえる。
【写真左】北側先端部の社
登城口から谷間を登り、北の方へ上って行くと、ピークに差し掛かり、御覧の社が建っている。
ここから尾根伝いに南へ湾曲したコースを進む。
そして、没収された安芸国の領地には関東・畿内から多くの源氏方武士が入国してくる。近在では、以前にも紹介したように、建久3年(1192)に三次市には三吉氏が近江国から、和智氏が双三郡和田村へ地頭として入国してくる。
このほか旧高田郡としては、長田村に内藤氏、三田郷には三田氏、そして以前にも紹介した壬生城(広島県北広島町壬生)の山県(やまがた)氏などがいる。
なお、戦国期中国の覇者となる毛利氏は、これより遅れること50年後の宝治元年(1247)、武蔵国多加谷から吉田荘へ入る。
佐々部氏が当地・高宮に入国した具体的な時期は明らかにされていないが、一般的には同氏が源氏を祖としていることから、恐らく関東あたりから、上掲のごとく建久3年もしくは、承久の乱後ごろ入国したものといわれている。
高階氏
ただ、説明板にもあるように、同氏が高階姓を名乗っていたとすると、上述したような一般的な地頭職による入部とは違うことも考えられる。というのも、鎌倉開幕期の高階といえば、どうしても高階泰経を思い起こすからである。
高階泰経は、後白河法皇の院近臣として、常に源氏方武家との交渉役を担い、公家方の既得権を主張する余り解任され、さらに復帰した後は、源義経や行家との共同謀議の嫌疑をかけられ、伊豆に流罪。その後鎌倉幕府発足前年に赦免によって復帰し、建久8年(1197)に出家している。
もし、佐々部氏の祖がこの高階泰経の系譜とすれば、東国から入国してきたいわゆる論功行賞による一族とはまったく経緯が違うことになり、おそらく高宮に最初に入ったころは、恩賞なき一開拓入植者のような状況だったかもしれない。
【写真左】「面山城」と書かれた標識
北端部の郭に設置されたもので、瞬間この場所が本丸かと勘違いしてしまった。
おそらく北側から登った場合の最初の遺構として、この場所に設置されたものだろう。
この場所から再び南の尾根伝いに向かって進む。
さて、佐々部氏は入国したのち、安芸国北部から石見国にかけて扶植していた高橋氏に仕えていくが、高橋氏に仕えた経緯は今のところ不明である。
高橋氏については、これまで生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)・琵琶甲城(びわこうじょう)・口羽氏 その1(島根県邑南町下口羽)・本城常光(ほんじょうつねみつ)のことでも述べたように、南北朝期に高師泰・師直に仕えていた高橋光国を祖とし、庶流の一人高橋師光が正平6年(1351)、備中松山城から石見に入国したのが始まりとされる。
従って、先に入国した佐々部氏が、あとから入国(南北朝期)した高橋氏に仕えたいきさつを考えると、佐々部氏の初期は限定的な所領の支配しかできないまま、北方を支配下とした高橋氏の勢威に対抗するすべもなく、服属していったと考えられる。
【写真左】整備された尾根道
幅1m弱の尾根道で、両端部は切崖となっている。土橋として加工されたものだろうか。
戦国期佐々部氏の系譜
同氏の初期のものから始まる系譜は残念ながら残っていないが、戦国期に残された一部のものがあるので下段に示す。
光祐の子(下段)
祐賢(上記の祐賢とは別人) 宮千代丸・兵部少輔・式部少輔
祐賢(家祐)の子(下段)
家茂
女子
元宗 千法師八郎・五郎右衛門尉・実山内元通嫡
元宗の子(下段)
通久 実児玉・八郎左衛門男
【写真左】土塁
さきほどの尾根道の延長上にあって、本丸が近くなった場所であるが、左側(東側)に土塁遺構が残る。
上掲した承世の妻は、高橋大九郎興光の女である。そして嫡子通祐の妻は、宍戸悪四郎元家の女で、このころは北方の高橋氏と東方の宍戸氏との姻戚関係を通じて、佐々部氏の安泰を図っている。
また、さらには隣国備後の山内氏との縁組を行っていることから、同氏ができるだけ武力を避け、和議によって一族の存続と勢力拡大を狙っていた節がうかがえる。
しかし、こうした一見全方位外交的手法は時として、根底から基盤を揺るがす事態を起こすことがある。佐々部氏が縁組していた高橋氏と宍戸氏は、大永年中(1521~27)からしばしば戦闘を交え始めた。
元々佐々部氏は承世の妻が高橋氏から嫁いでいることから、高橋氏に仕えていたが、主君である大九郎統種の悪政に佐々部氏は哀想がつき、次第に嫡男通祐の妻の実家・宍戸氏に接近し始めた。
【写真左】馬場及び二の丸・三の丸入口付近
本丸まで120m手前の付近で、階段を上がると面山城側へ、左に向かうと「もみじの森」というところへ向かうように示してあるが、もみじの森の方向は近年管理されていないようだ。
大永5年(1525)、宍戸元源は叔父三田玄蕃充元忠を大将に、高橋氏の拠る原田猪掛城(高宮町原田字宍戸城)を攻め立てた。
この戦いで原田猪掛城は落城したが、その最大の理由が、当城で高橋氏に与していた佐々部氏が、途中から宍戸氏に寝返ったからだといわれている。
この落城後、佐々部氏は宍戸氏に属していき、最後は毛利氏に仕えて行くことになるが、途中で本拠城を面山城から、南東2キロ下ったところに丘城型式の牛首城(広島県安芸高田市高宮町佐々部五十貫部)へ移ることなる。
「牛首城」については次稿で紹介したい。
【写真左】馬場跡
左側平坦部が馬場跡で、右の高い位置に二の丸や三の丸が控える。
馬場跡の長さは、二の丸と三の丸を合わせた長さとほぼ同じで、約50mほどか。幅は5.6m程度のため、馬場としては規模が小さい。
【写真左】二の丸
馬場跡から5m前後の高さにあって、長径20m余り、短径7.8m程度の削平地となっている。
【写真左】三の丸
記録上は二の丸と三の丸が区分されているが、現地では既にその区分けされていたとおもわれる空堀が埋まり、二つの郭は一体のものとなっている。
なお、明治30年代の調査によれば、三の丸の上壇に井戸が設けられていたというが、現地にはそれらしきものが見当たらなかった。
規模は二の丸とほぼ同規模の大きさ。
【写真左】二の丸から本丸を見る
二の丸と本丸の間には空堀があったというが、完全に埋まっている。
現在ではそのため、二の丸から本丸までの高さは5mもないだろう。
【写真左】本丸
本丸の幅は二の丸や三の丸に比べて少し長く10m前後あり、長さは15m程度か。
【写真左】本丸から南西部に続く郭から、本丸切崖を見る。
二の丸側と反対の方向には、10m近い高低差をもたせた切崖が控え、その後3,4段の郭群が連続している。
この写真は本丸から最初に下りた位置からみたもので、以前には規模の大きな堀切があったという。そのため今でもなかなか見ごたえのある切崖である。
【写真左】南西部に伸びる郭群
上掲した郭群の一部だが、下るにつれて次第に幅が狭くなっていく。
現状では、段差が大分緩和されているが、当時は明確な高低差を持たせ、堀切等もあったかもしれない。
なお、この郭群の先端部まで踏査したが、総延長は恐らく100m以上はあったと思われる。
【写真左】おまけ
本丸で「お宝発見?」
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備前・茶臼山城(岡山県赤磐市周匝)
●所在地 広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府
●別名 免山城
●築城期 鎌倉期もしくは南北朝期
●築城者 佐々部氏
●高さ 標高428m(比高130m)
●遺構 郭・土塁・堀切等
●指定 市指定史跡
●登城日 2010年5月14日及び2011年2月25日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻等』)
このところ備後国の山城が続いたので、今稿は安芸国の山城・面山城を取り上げたい。
【写真左】面山城遠望
この写真は2010年5月に探訪した時のもので、東麓からみたもの。本丸は左側にあるが、登城コースは右側の山から向かう。
所在地は現在の安芸高田市高宮町にあって、江の川の支流生田川北麓にそびえる標高428mの山に築かれている。なお、当城と同名の山である「面山(標高486m)」が、2キロ北方に聳えて紛らわしが、この山は面山城ではない。
現地の説明板より
“高宮町史跡
面山城跡
佐々部氏は、はじめ高階姓を名乗っていたが、ここ佐々部村志部府面山(免山とも)に城を築き、佐々部と称した。
初代若狭守承世(つぐよ)(?~1527)が、佐々部村50貫分の牛首城に移るまでの在城期間は不明であるが、当時志部府は交通の要所で、その後も佐々部の中心地として栄えた。天正19年(1591)の『八箇国御時代分限帳』によると、佐々部市の名が見え、郡内最高額の目代給があげられている。
「蛇多き故に牛首城に移る」と旧記い見えるが、もとより真偽のほどは不明である。
佐々部氏は、近郷の諸豪族、阿須那の高橋氏、甲立の宍戸氏などと姻戚関係を結び、地位の保全を図った。毛利氏台頭後は、その麾下に入り、宍戸氏の配下にあって重んじられた。
城跡は、南に低い丘陵を見下ろす標高428mの山頂にある。遺構は、7つの郭と3条の堀切と1条の竪堀からなる。
西から東に向かってほぼ一張りに張り出した山頂をうまく利用して、3つの郭を設けている。主郭は、東と西に空堀を堀り、一段高い位置にある。
本丸と呼ばれる山頂の郭に立つと、南東に伸びる尾根筋2キロの先端に牛首城を望むことができる。
平成14年3月25日
高宮町教育委員会
高宮町文化財保護審議会”
【写真左】麓に設置してある「面山森林公園」の案内図
この辺り一帯は現在公園としているようだが、麓の施設以外は朽ち果てているような状況だ。
登城コースはこの図でいえば、廃寺となっている荘立寺の脇を通って、まっすぐ登り、鳥居のある右のコースから尾根伝いにまわると面山城に辿り着く。
佐々部氏
佐々部氏については、上掲した説明板や、備前・茶臼山城(岡山県赤磐市周匝)の際に、城主笹部(佐々部)氏をとりあげているが、改めて同氏の出自について概説しておきたい。
当地安芸国は鎌倉期以前、すなわち平安末期まで平家と深い関係を持っていた。このため源氏が平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開くと、それまで平氏方であった安芸国の豪族・社寺などは、土地を没収され、諸族は滅亡していった。
特に厳島神社主職の交替はもっとも衝撃的な処置で、源氏方が安芸国には極めて強勢的な戦後処理を行ったといえる。
【写真左】北側先端部の社
登城口から谷間を登り、北の方へ上って行くと、ピークに差し掛かり、御覧の社が建っている。
ここから尾根伝いに南へ湾曲したコースを進む。
そして、没収された安芸国の領地には関東・畿内から多くの源氏方武士が入国してくる。近在では、以前にも紹介したように、建久3年(1192)に三次市には三吉氏が近江国から、和智氏が双三郡和田村へ地頭として入国してくる。
このほか旧高田郡としては、長田村に内藤氏、三田郷には三田氏、そして以前にも紹介した壬生城(広島県北広島町壬生)の山県(やまがた)氏などがいる。
なお、戦国期中国の覇者となる毛利氏は、これより遅れること50年後の宝治元年(1247)、武蔵国多加谷から吉田荘へ入る。
佐々部氏が当地・高宮に入国した具体的な時期は明らかにされていないが、一般的には同氏が源氏を祖としていることから、恐らく関東あたりから、上掲のごとく建久3年もしくは、承久の乱後ごろ入国したものといわれている。
高階氏
ただ、説明板にもあるように、同氏が高階姓を名乗っていたとすると、上述したような一般的な地頭職による入部とは違うことも考えられる。というのも、鎌倉開幕期の高階といえば、どうしても高階泰経を思い起こすからである。
高階泰経は、後白河法皇の院近臣として、常に源氏方武家との交渉役を担い、公家方の既得権を主張する余り解任され、さらに復帰した後は、源義経や行家との共同謀議の嫌疑をかけられ、伊豆に流罪。その後鎌倉幕府発足前年に赦免によって復帰し、建久8年(1197)に出家している。
もし、佐々部氏の祖がこの高階泰経の系譜とすれば、東国から入国してきたいわゆる論功行賞による一族とはまったく経緯が違うことになり、おそらく高宮に最初に入ったころは、恩賞なき一開拓入植者のような状況だったかもしれない。
【写真左】「面山城」と書かれた標識
北端部の郭に設置されたもので、瞬間この場所が本丸かと勘違いしてしまった。
おそらく北側から登った場合の最初の遺構として、この場所に設置されたものだろう。
この場所から再び南の尾根伝いに向かって進む。
さて、佐々部氏は入国したのち、安芸国北部から石見国にかけて扶植していた高橋氏に仕えていくが、高橋氏に仕えた経緯は今のところ不明である。
高橋氏については、これまで生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)・琵琶甲城(びわこうじょう)・口羽氏 その1(島根県邑南町下口羽)・本城常光(ほんじょうつねみつ)のことでも述べたように、南北朝期に高師泰・師直に仕えていた高橋光国を祖とし、庶流の一人高橋師光が正平6年(1351)、備中松山城から石見に入国したのが始まりとされる。
従って、先に入国した佐々部氏が、あとから入国(南北朝期)した高橋氏に仕えたいきさつを考えると、佐々部氏の初期は限定的な所領の支配しかできないまま、北方を支配下とした高橋氏の勢威に対抗するすべもなく、服属していったと考えられる。
【写真左】整備された尾根道
幅1m弱の尾根道で、両端部は切崖となっている。土橋として加工されたものだろうか。
戦国期佐々部氏の系譜
同氏の初期のものから始まる系譜は残念ながら残っていないが、戦国期に残された一部のものがあるので下段に示す。
- 承世(つぐよ) 播磨守・若狭守
- 通祐 兵部少輔美作守 (妻:宍戸元家女) 後に自害
- 光祐 千代丸⇒元祐・就祐 美作守・若狭入道・又右衛門
- 祐賢 家祐 美作守 (妻:深瀬隆兼女)
光祐の子(下段)
祐賢(上記の祐賢とは別人) 宮千代丸・兵部少輔・式部少輔
祐賢(家祐)の子(下段)
家茂
女子
元宗 千法師八郎・五郎右衛門尉・実山内元通嫡
元宗の子(下段)
通久 実児玉・八郎左衛門男
【写真左】土塁
さきほどの尾根道の延長上にあって、本丸が近くなった場所であるが、左側(東側)に土塁遺構が残る。
上掲した承世の妻は、高橋大九郎興光の女である。そして嫡子通祐の妻は、宍戸悪四郎元家の女で、このころは北方の高橋氏と東方の宍戸氏との姻戚関係を通じて、佐々部氏の安泰を図っている。
また、さらには隣国備後の山内氏との縁組を行っていることから、同氏ができるだけ武力を避け、和議によって一族の存続と勢力拡大を狙っていた節がうかがえる。
しかし、こうした一見全方位外交的手法は時として、根底から基盤を揺るがす事態を起こすことがある。佐々部氏が縁組していた高橋氏と宍戸氏は、大永年中(1521~27)からしばしば戦闘を交え始めた。
元々佐々部氏は承世の妻が高橋氏から嫁いでいることから、高橋氏に仕えていたが、主君である大九郎統種の悪政に佐々部氏は哀想がつき、次第に嫡男通祐の妻の実家・宍戸氏に接近し始めた。
【写真左】馬場及び二の丸・三の丸入口付近
本丸まで120m手前の付近で、階段を上がると面山城側へ、左に向かうと「もみじの森」というところへ向かうように示してあるが、もみじの森の方向は近年管理されていないようだ。
大永5年(1525)、宍戸元源は叔父三田玄蕃充元忠を大将に、高橋氏の拠る原田猪掛城(高宮町原田字宍戸城)を攻め立てた。
この戦いで原田猪掛城は落城したが、その最大の理由が、当城で高橋氏に与していた佐々部氏が、途中から宍戸氏に寝返ったからだといわれている。
この落城後、佐々部氏は宍戸氏に属していき、最後は毛利氏に仕えて行くことになるが、途中で本拠城を面山城から、南東2キロ下ったところに丘城型式の牛首城(広島県安芸高田市高宮町佐々部五十貫部)へ移ることなる。
「牛首城」については次稿で紹介したい。
【写真左】馬場跡
左側平坦部が馬場跡で、右の高い位置に二の丸や三の丸が控える。
馬場跡の長さは、二の丸と三の丸を合わせた長さとほぼ同じで、約50mほどか。幅は5.6m程度のため、馬場としては規模が小さい。
【写真左】二の丸
馬場跡から5m前後の高さにあって、長径20m余り、短径7.8m程度の削平地となっている。
【写真左】三の丸
記録上は二の丸と三の丸が区分されているが、現地では既にその区分けされていたとおもわれる空堀が埋まり、二つの郭は一体のものとなっている。
なお、明治30年代の調査によれば、三の丸の上壇に井戸が設けられていたというが、現地にはそれらしきものが見当たらなかった。
規模は二の丸とほぼ同規模の大きさ。
【写真左】二の丸から本丸を見る
二の丸と本丸の間には空堀があったというが、完全に埋まっている。
現在ではそのため、二の丸から本丸までの高さは5mもないだろう。
【写真左】本丸
本丸の幅は二の丸や三の丸に比べて少し長く10m前後あり、長さは15m程度か。
【写真左】本丸から南西部に続く郭から、本丸切崖を見る。
二の丸側と反対の方向には、10m近い高低差をもたせた切崖が控え、その後3,4段の郭群が連続している。
この写真は本丸から最初に下りた位置からみたもので、以前には規模の大きな堀切があったという。そのため今でもなかなか見ごたえのある切崖である。
【写真左】南西部に伸びる郭群
上掲した郭群の一部だが、下るにつれて次第に幅が狭くなっていく。
現状では、段差が大分緩和されているが、当時は明確な高低差を持たせ、堀切等もあったかもしれない。
なお、この郭群の先端部まで踏査したが、総延長は恐らく100m以上はあったと思われる。
本丸で「お宝発見?」
関連投稿
備前・茶臼山城(岡山県赤磐市周匝)
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