高尻城と石水寺(たかじりじょうとせきみずじ)
●所在地 島根県鹿足郡吉賀町上高尻
●探訪日 2011年6月8日
◆解説(参考文献『益田市誌上巻』等)
小松尾城(島根県益田市匹見町紙祖石組)の稿でも述べたように、文安3年(1446)、吉賀郷高尻の河野氏、広石の上領氏が、小松尾城の大谷佐膳を攻めたと記したが、今稿ではその河野氏及び「高尻城」、並びに同氏の菩提寺とされている「石水寺」を取り上げたい。
【写真左】石水寺・その1
吉賀匹見線(42号線)沿いに建立されている。
ただ、冒頭に掲げた菩提寺・石水寺からさらに数百メートル遡ったところに、河野氏を祀る「三島大明神」という社が建立されているので、この周辺に築かれていると思われる。
石水寺
前稿三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)で、現地に向かう際、南方の吉賀町の高尻川沿いに車を走らせたが、その途中にある上高尻に建立された寺院で、吉賀河野氏の菩提寺とされている。
竜洞山・石水寺といい、曹洞宗の寺院となっている。
呼称を「せきみずじ」としているが、あるいは「せきすいじ」かもしれない。
【写真左】石水寺・その2
本堂
吉賀河野氏
吉賀郷高尻の河野氏については、『益田市誌上巻』によれば、嘉吉3年、すなわち三葛の合戦3年前(1443年)に、伊予河野氏の子孫・孫十郎入道が、吉見成頼を頼って高尻村に住み、高尻城主となり、その嫡男久米丸に至った、としている。
これに対し、『六日市町史(吉賀記)』では、これより遡る100年余り前の鎌倉末期、すなわち、正和4年(1315)、伊予国の河野弥十郎通弘が、吉見氏の命によって安蔵寺山中に寺を建立し、阿弥陀仏を安置し安蔵寺と名付け(安蔵寺山はこのとこから由来する)、安蔵寺はその後焼失して本尊は、麓の上高尻石水寺に移した、とある。
さらに、この後河野氏は第9代・河野次郎四郎通信まで高尻城主であったとしている。
前記『益田市誌上巻』の内容と照合すると、来住時期や高尻城主になった時期などに差異が認められ合致しない点が多いが、少なくとも来住時期については、正和4年(1315)と推察される。
【写真左】石水寺の裏から本堂を見る
写真左を更に遡って行くと、前稿の「三葛の屋敷跡」がある匹見町につながる。
石見吉見氏
そこで、伊予河野氏を招いたのは吉見氏とある。このころの吉見氏とは、頼行もしくは、頼直の時代である。
吉見頼行が、石見国津和野に三本松城(津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原))を築いたのは永仁3年(1295)とされている(『吉見由来記』)。頼行の死没年は史料によって諸説があるが、南北朝初期である元弘3年(1333)、頼行は長門探題・北条直元の城を攻めている。ただ、嫡男頼直は父と早くから諸所で転戦を行い、父頼行の後半期の実績は頼直によるところが多い。
伊予河野氏
さて、石見に来住したとされる河野弥十郎通弘については、詳細は不明である。
伊予河野氏は、通信のとき、源平合戦の壇ノ浦の戦いで強力な水軍を率いて源氏方の勝利を導き、伊予国において絶大な勢力を得た。
しかし、承久の乱(1221年)で一族のほとんどが後鳥羽上皇側についたため、河野通信は幕府側に追われ、伊予の高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)で籠城し防戦するが衆寡敵せず落城、通信は奥州へ配流、一族は離散、所領はほとんど没収された。
【写真左】高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)
伊予河野氏が最初の本拠とした山城で、標高986m。ただ、実際にはこの山は河野氏の本拠城ではなく、麓の諸城とする説が多い。
いずれ当城についても紹介する予定である。
しかし、幕府の重鎮・北条時政の娘を母とする河野通久だけが生き残り、孫の通有(みちあり)の代になって元寇の乱の際、伊予水軍の将として活躍する。ここから再び伊予河野氏が復活することになる。
このことから、河野通有は伊予河野氏の中興の祖と呼ばれた。通有は、建長2年(1250)に生まれ、応長元年(1311)に没しているが、かれには多くの子がいたといわれる。
おそらく、石見吉賀郷に来住した通弘は、それら多くの子たちの中の一人だろう。
来住の理由
では、なぜ伊予の河野氏である通弘が、遠国である石見の吉賀郷へ来たのだろうか。今のところこれを明らかにする史料がないため詳細は不明である。
ただ、この時期(正和年間・1312~16)から鎌倉北条執権体制の瓦解が始まりだしたころで、正和4年(1315)7月に北条基時が執権となるも、翌年には北条高時に執権を譲り、諸国では悪党の反乱や、朝廷における文保の和談(大覚寺・持明院両統の迭立)不調などがあり、数年後には正中の変が勃発する頃である。
そして、その後起こる南北朝動乱は、他国がそうであったように両派に分かれた戦いが繰り広げられている。
河野通弘が石見国吉賀に来住した理由は、そうした中央政権の混迷と何らかの関係があったものかもしれない。
【写真左】本堂裏の墓地にあった墓石
石水寺本堂裏は少し高くなった段があり、もとは墓地だったと思われる箇所に写真に見えるように、宝篋印塔もしくは五輪塔の一部と思われるものが見えた。
河野氏の墓
初代通弘の墓については、近くの畑の畦際に宝篋印塔があるとされているが、確認できなかった。
『益田市誌上巻』によると、河野氏一族の墓地は「石水寺の上にある」とされているが、当寺の裏山はあまり整備されておらず、上の方へは登っていない。
●所在地 島根県鹿足郡吉賀町上高尻
●探訪日 2011年6月8日
◆解説(参考文献『益田市誌上巻』等)
小松尾城(島根県益田市匹見町紙祖石組)の稿でも述べたように、文安3年(1446)、吉賀郷高尻の河野氏、広石の上領氏が、小松尾城の大谷佐膳を攻めたと記したが、今稿ではその河野氏及び「高尻城」、並びに同氏の菩提寺とされている「石水寺」を取り上げたい。
【写真左】石水寺・その1
吉賀匹見線(42号線)沿いに建立されている。
高尻城
河野氏は石見国吉賀高尻に来住し高尻城を築いたとされているが、以前にも記したように、この高尻城の所在地については、島根県遺跡データベースにも記載されおらず不明である。
石水寺
前稿三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)で、現地に向かう際、南方の吉賀町の高尻川沿いに車を走らせたが、その途中にある上高尻に建立された寺院で、吉賀河野氏の菩提寺とされている。
竜洞山・石水寺といい、曹洞宗の寺院となっている。
呼称を「せきみずじ」としているが、あるいは「せきすいじ」かもしれない。
【写真左】石水寺・その2
本堂
吉賀河野氏
吉賀郷高尻の河野氏については、『益田市誌上巻』によれば、嘉吉3年、すなわち三葛の合戦3年前(1443年)に、伊予河野氏の子孫・孫十郎入道が、吉見成頼を頼って高尻村に住み、高尻城主となり、その嫡男久米丸に至った、としている。
これに対し、『六日市町史(吉賀記)』では、これより遡る100年余り前の鎌倉末期、すなわち、正和4年(1315)、伊予国の河野弥十郎通弘が、吉見氏の命によって安蔵寺山中に寺を建立し、阿弥陀仏を安置し安蔵寺と名付け(安蔵寺山はこのとこから由来する)、安蔵寺はその後焼失して本尊は、麓の上高尻石水寺に移した、とある。
さらに、この後河野氏は第9代・河野次郎四郎通信まで高尻城主であったとしている。
前記『益田市誌上巻』の内容と照合すると、来住時期や高尻城主になった時期などに差異が認められ合致しない点が多いが、少なくとも来住時期については、正和4年(1315)と推察される。
【写真左】石水寺の裏から本堂を見る
写真左を更に遡って行くと、前稿の「三葛の屋敷跡」がある匹見町につながる。
石見吉見氏
そこで、伊予河野氏を招いたのは吉見氏とある。このころの吉見氏とは、頼行もしくは、頼直の時代である。
吉見頼行が、石見国津和野に三本松城(津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原))を築いたのは永仁3年(1295)とされている(『吉見由来記』)。頼行の死没年は史料によって諸説があるが、南北朝初期である元弘3年(1333)、頼行は長門探題・北条直元の城を攻めている。ただ、嫡男頼直は父と早くから諸所で転戦を行い、父頼行の後半期の実績は頼直によるところが多い。
伊予河野氏
さて、石見に来住したとされる河野弥十郎通弘については、詳細は不明である。
伊予河野氏は、通信のとき、源平合戦の壇ノ浦の戦いで強力な水軍を率いて源氏方の勝利を導き、伊予国において絶大な勢力を得た。
しかし、承久の乱(1221年)で一族のほとんどが後鳥羽上皇側についたため、河野通信は幕府側に追われ、伊予の高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)で籠城し防戦するが衆寡敵せず落城、通信は奥州へ配流、一族は離散、所領はほとんど没収された。
【写真左】高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)
伊予河野氏が最初の本拠とした山城で、標高986m。ただ、実際にはこの山は河野氏の本拠城ではなく、麓の諸城とする説が多い。
いずれ当城についても紹介する予定である。
しかし、幕府の重鎮・北条時政の娘を母とする河野通久だけが生き残り、孫の通有(みちあり)の代になって元寇の乱の際、伊予水軍の将として活躍する。ここから再び伊予河野氏が復活することになる。
このことから、河野通有は伊予河野氏の中興の祖と呼ばれた。通有は、建長2年(1250)に生まれ、応長元年(1311)に没しているが、かれには多くの子がいたといわれる。
おそらく、石見吉賀郷に来住した通弘は、それら多くの子たちの中の一人だろう。
来住の理由
では、なぜ伊予の河野氏である通弘が、遠国である石見の吉賀郷へ来たのだろうか。今のところこれを明らかにする史料がないため詳細は不明である。
ただ、この時期(正和年間・1312~16)から鎌倉北条執権体制の瓦解が始まりだしたころで、正和4年(1315)7月に北条基時が執権となるも、翌年には北条高時に執権を譲り、諸国では悪党の反乱や、朝廷における文保の和談(大覚寺・持明院両統の迭立)不調などがあり、数年後には正中の変が勃発する頃である。
そして、その後起こる南北朝動乱は、他国がそうであったように両派に分かれた戦いが繰り広げられている。
河野通弘が石見国吉賀に来住した理由は、そうした中央政権の混迷と何らかの関係があったものかもしれない。
【写真左】本堂裏の墓地にあった墓石
石水寺本堂裏は少し高くなった段があり、もとは墓地だったと思われる箇所に写真に見えるように、宝篋印塔もしくは五輪塔の一部と思われるものが見えた。
河野氏の墓
初代通弘の墓については、近くの畑の畦際に宝篋印塔があるとされているが、確認できなかった。
『益田市誌上巻』によると、河野氏一族の墓地は「石水寺の上にある」とされているが、当寺の裏山はあまり整備されておらず、上の方へは登っていない。
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