2009年10月20日火曜日

天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)

天神山城(てんじんやまじょう)

●探訪日 2009年10月12日
●所在地 鳥取県鳥取市湖山町南
●遺構  井戸、櫓跡、堀
●出土品 土器、中国製陶磁器、備前焼、古銭、下駄、曲げ物等
●指定 鳥取県指定史跡(昭和51年)
●標高 25m、南北幅170m、東西幅100m
●築城期 文政元年(1466)
●築城者 山名勝豊
●形式 平山城(水城)

解説(参考:「鳥取県史2中世」等)
 天神山城は鳥取市の西にある湖山池の東岸部に設置された小ぶりな平山城で、室町時代山名氏の居城であった。「鳥取県史2中世」によると、当時の城域は現在地を含め南東部まであったものと思われ、同史に当時の当城付近の図が示されている(下写真参照)。

 これによると、城域南端部は現在の布勢運動公園の北端部まで(21号線:鳥取鹿野倉吉線)、東端部は湖山停車場布勢線(181号線)までに広がっていた。外堀も天神山および布勢卯山を含めたものになる。従って当時の城域は、現在の天神山の約5倍の大きさを誇っていたものと思われる。

 ちなみに、県史には書かれていないが、天神山の北を北東に流れている湖山川は、現在湖山池と日本海をつないでいるが、当時は川幅も広く、現在の鳥取港を河口とせず、千代川に流れていたものと思われる。つまり、水運に重きを置く「水城」ではなかったかと考えられる。
【写真左】天神山城遠望
 南西部にある湖山池公園側から撮ったもの。








 総じて天神山城は、総構えの南部には多数の寺院や高級給人の居館を配し、東域には釣山城・北尾山城・鍋山城・吉山城といった出城・砦を多く配置している。
 
 また、近世城下町のような明確な都市計画ではないが、すでにこの時、ある程度の城下町としての都市プランをもった先駆的な事例だと同史は伝えている。

 なお、当城は築城後、天正元年(1573)山名豊国が鳥取城に本拠を移すまで約100年にわたって同氏の因幡国支配の拠点となった。

【写真左】布勢天神山城付近図(推定)(『鳥取県史2中世』より転載)
 これで見ると、北部の天神山より、南部の城域がだいぶ大きい。
 









【写真左】現地説明板にある絵図












【写真左】本丸付近
 外から見る以上に、郭の規模が大きい。




【写真左】井戸跡
北側の入口から上がったところにある。
【写真左】本丸付近
 段の高さは1.5m程度だが、全体に郭平面の削平が丁寧である。

【写真左】石垣の跡
 個所は多くないものの、はっきりと確認できる。

【写真左】堀切跡 堀切そのものの規模は、当城の規模が小さいこともあって、小ぶりなものになっている。
【写真左】本丸南部より西に湖山池を見る。
 手前に見える島は青島で、その奥の対岸には「防己尾城」がある。

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