飛田山城(ひだやまじょう)
●探訪日 2009年10月16日
●所在地 広島県庄原市東城町久代
●築城期 応永6年(1399)
●築城者 宮弾正左衛門尉利吉
●形状 連郭式山城
●遺構 廓11カ所など
◆解説
旧備後と備中の境、つまり広島県と岡山県の境には戦国期を通じて中小規模の山城が点在している。今回探訪したのは、広島県(備後)庄原市東城町の東南部で「久代(くしろ)」というところにある「飛田山城」である。
中国自動車道の東城ICを降りて、国道182号線を成羽川に沿って約2キロ程度南下すると、途中から右に曲がる小さな簡易舗装の道がある。この地点には案内板などはないので、分かりずらいが、この道の行きどまりに、「日東粉化工業」という工場がある。この場所に案内図が建っている。
【写真左】同上工場敷地付近に立っている案内板
写真が小さくて分かりずらいが、この案内板の位置は、同板の下段に「現在地」と書かれている場所である。
そこから上にいくと「駐車場」と書かれているので、これをうのみにして車で上がったのが、とんでもないことになった。
最初は簡易舗装があるが、すぐに岩山状の地面むき出しの道で、ワダチがひどく、しかも七曲りで、何回かハンドルを切りまわししなければ曲がれない道となり、Uターンしようにも幅員が狭く、下手をすると崖に真っ逆さまに車ごと落ちてしまいそうな、とんでもない道を行くことになってしまった。
【写真左】登城道
件の案内図は、駐車場に行ける車をどうやら、林道専用の運搬車として想定しているか、よくて軽自動車の四駆(SUV)が登れるものとして書いたものであろう。
途中で空き地(墓地)があったので、ここに止めてあとは徒歩で登る。
案内図は、この写真の道も「車でいける?」と想定しているが、途中で倒木があったり、おおきな岩石が道に落ちていたりで、とてもじゃないが、無理である。
【写真左】二の丸・本丸直下に設置された説明板
この説明板もだいぶ古くなっているが、何とか文字は読めたので、以下転載する。
”飛田山城跡(ひだやまじょうせき)
この城は、名倉(なぐら)から東西に延びる尾根状の山を削平して築城されたもので、曲輪はややくの字状に一列に並んだ連郭式の山城です。
『久代記』によれば、この城がつくられたのは応永6年(1399)といわれ、今から600年前のことです。初代城主は、宮弾正左衛門尉利吉(としよし)で、以後、景英(かげひで)、利成(としなり)、息成(おきなり)、景行(かげゆき)、景友(かげとも)、高盛(たかもり)と7代、約140年にわたって居城し、天文2年(1533)に西城の大富山に城を移すまで続いたといわれています。
廓の数は11、土塁や空堀などの防御施設は造られておらず、自然の地形を利用した、ごく素朴な形式の城で、東城町内では早い時期の城だと考えられます。
東城川を挟んで対岸に的場(まとば)跡がありますが、この城と一体的に使われていたものと考えられます。
平成11年11月
久代歴史のまちづくり事業実行委員会”
【写真左】案内板その2
この案内板はさらに登城道などを示したもので、今回は「登城路」と書かれたコースを登城した。
下段の写真はそれに沿って歩いた場所のものだが、ほとんど手入れされておらず、写真にもあるように、左側の「裏手道」はまったく歩くことができない状態だった。
【写真左】裏手道への道 御覧のように「道」が不明になっている。
【写真左】二の丸方面に行く道 途中で、江戸期の刻印がされている墓石が並んでいた。一部は倒壊している。
【写真左途中の尾根付近 登城路は、二の丸方面に向かっていくが、途中で尾根にたどり着き、そこから方向を変えて登る。写真は、下のほうを振り返ってみたもうひとつの登城路の一部
【写真左】二の丸跡 この写真ではとても遺構として確認はできないかもしれないが、数段の廓が配置されている。中央部は二の丸の最高所で、短径5m前後か。奥行きは進入困難なため、確認できないが10m前後と思われる。
【写真左】二の丸から本丸方面を見る おそらく、中央左側の樹木が茂っている付近が本丸と思われるが、これ以上進めなかった。
●探訪日 2009年10月16日
●所在地 広島県庄原市東城町久代
●築城期 応永6年(1399)
●築城者 宮弾正左衛門尉利吉
●形状 連郭式山城
●遺構 廓11カ所など
◆解説
旧備後と備中の境、つまり広島県と岡山県の境には戦国期を通じて中小規模の山城が点在している。今回探訪したのは、広島県(備後)庄原市東城町の東南部で「久代(くしろ)」というところにある「飛田山城」である。
中国自動車道の東城ICを降りて、国道182号線を成羽川に沿って約2キロ程度南下すると、途中から右に曲がる小さな簡易舗装の道がある。この地点には案内板などはないので、分かりずらいが、この道の行きどまりに、「日東粉化工業」という工場がある。この場所に案内図が建っている。
【写真左】同上工場敷地付近に立っている案内板
写真が小さくて分かりずらいが、この案内板の位置は、同板の下段に「現在地」と書かれている場所である。
そこから上にいくと「駐車場」と書かれているので、これをうのみにして車で上がったのが、とんでもないことになった。
最初は簡易舗装があるが、すぐに岩山状の地面むき出しの道で、ワダチがひどく、しかも七曲りで、何回かハンドルを切りまわししなければ曲がれない道となり、Uターンしようにも幅員が狭く、下手をすると崖に真っ逆さまに車ごと落ちてしまいそうな、とんでもない道を行くことになってしまった。
【写真左】登城道
件の案内図は、駐車場に行ける車をどうやら、林道専用の運搬車として想定しているか、よくて軽自動車の四駆(SUV)が登れるものとして書いたものであろう。
途中で空き地(墓地)があったので、ここに止めてあとは徒歩で登る。
案内図は、この写真の道も「車でいける?」と想定しているが、途中で倒木があったり、おおきな岩石が道に落ちていたりで、とてもじゃないが、無理である。
【写真左】二の丸・本丸直下に設置された説明板
この説明板もだいぶ古くなっているが、何とか文字は読めたので、以下転載する。
”飛田山城跡(ひだやまじょうせき)
この城は、名倉(なぐら)から東西に延びる尾根状の山を削平して築城されたもので、曲輪はややくの字状に一列に並んだ連郭式の山城です。
『久代記』によれば、この城がつくられたのは応永6年(1399)といわれ、今から600年前のことです。初代城主は、宮弾正左衛門尉利吉(としよし)で、以後、景英(かげひで)、利成(としなり)、息成(おきなり)、景行(かげゆき)、景友(かげとも)、高盛(たかもり)と7代、約140年にわたって居城し、天文2年(1533)に西城の大富山に城を移すまで続いたといわれています。
廓の数は11、土塁や空堀などの防御施設は造られておらず、自然の地形を利用した、ごく素朴な形式の城で、東城町内では早い時期の城だと考えられます。
東城川を挟んで対岸に的場(まとば)跡がありますが、この城と一体的に使われていたものと考えられます。
平成11年11月
久代歴史のまちづくり事業実行委員会”
【写真左】案内板その2
この案内板はさらに登城道などを示したもので、今回は「登城路」と書かれたコースを登城した。
下段の写真はそれに沿って歩いた場所のものだが、ほとんど手入れされておらず、写真にもあるように、左側の「裏手道」はまったく歩くことができない状態だった。
【写真左】裏手道への道 御覧のように「道」が不明になっている。
【写真左】二の丸方面に行く道 途中で、江戸期の刻印がされている墓石が並んでいた。一部は倒壊している。
【写真左途中の尾根付近 登城路は、二の丸方面に向かっていくが、途中で尾根にたどり着き、そこから方向を変えて登る。写真は、下のほうを振り返ってみたもうひとつの登城路の一部
【写真左】二の丸跡 この写真ではとても遺構として確認はできないかもしれないが、数段の廓が配置されている。中央部は二の丸の最高所で、短径5m前後か。奥行きは進入困難なため、確認できないが10m前後と思われる。
【写真左】二の丸から本丸方面を見る おそらく、中央左側の樹木が茂っている付近が本丸と思われるが、これ以上進めなかった。
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