◆記録によると、後醍醐天皇は元弘3年(1333)閏2月24日に隠岐島を脱出し、4日後の28日、伯耆の海岸に漂着のような形でたどり着いた、とある。
温暖化になった今でも、冬の日本海は凍てつくような寒さである。当時後醍醐天皇が乗った船は、数人が乗れる粗末なものだったということ、しかも、暖房などなく、寒風吹きすさぶ荒海の日本海で、四日間も持ちこたえるのだろうか?。常識的にはそんな環境では凍死してしまう。
◆太平記や伯耆巻などには、一切記されていないが、私なりに大胆な推理をすると、ひょっとして、名和長年は、後醍醐天皇が隠岐配流前にコンタクトをとっていて、一年後にこのチャンスを見計らい、名和の港から、廻船業者でもあった長年が、隠密裏に隠岐まで迎えに行ったのではないか、と思えるのだが、どうだろう。
【写真】冬の赤崎の浜から荒れる日本海に佇むトミー(りりしく見えますが、12歳の熟女?犬です)
温暖化になった今でも、冬の日本海は凍てつくような寒さである。当時後醍醐天皇が乗った船は、数人が乗れる粗末なものだったということ、しかも、暖房などなく、寒風吹きすさぶ荒海の日本海で、四日間も持ちこたえるのだろうか?。常識的にはそんな環境では凍死してしまう。
◆太平記や伯耆巻などには、一切記されていないが、私なりに大胆な推理をすると、ひょっとして、名和長年は、後醍醐天皇が隠岐配流前にコンタクトをとっていて、一年後にこのチャンスを見計らい、名和の港から、廻船業者でもあった長年が、隠密裏に隠岐まで迎えに行ったのではないか、と思えるのだが、どうだろう。
【写真】冬の赤崎の浜から荒れる日本海に佇むトミー(りりしく見えますが、12歳の熟女?犬です)
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