2014年12月17日水曜日

備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)

備中・高松城(びっちゅう・たかまつじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区高松
●築城期 天正年間
●築城者 石川氏
●城主 清水宗治(石川氏の娘婿)
●高さ 海抜0m
●形態 平城(沼城)
●遺構 本丸跡など
●指定 国指定史跡
●登城日 2009年5月7日、2014年3月15日、その他

◆解説(参考資料「サイト おかやま観光コンベンション協会HP」等)
 今稿は、前稿冠山城につづいて、高松城の水攻めとして有名となった備中高松城を取り上げたい。
【写真左】高松城・その1
 当時の遺構がどの程度残っているのか分からないが、現在は公園として整備されている。





  現地の説明板より

“国指定史跡 高松城跡 
    附水攻築堤跡
       昭和4年12月17日指定

高松城とは

 高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として有名である。
【写真左】高松城攻めにおける両軍の配置図
 現地にある資料をもとに、管理人によって作図したもの。

 なお、左図以外に秀吉方及び毛利方それぞれ陣した場所が記録されているが、この図はそのうち主だった武将の陣場所を記している。
 

 城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。
 城の周囲には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。

 縄張は、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。
 本丸跡は、江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
【写真左】高松城要図
 高田馬治氏の原図を基に、管理人によって作図したもの。

 水攻めをされる前の高松城の様子を想像して描いたもので、沼城であったことから、外周部もこのように湿地帯や沼が多かったのだろう。
【写真左】高松城遠望
 北西に聳える鬼の城から見たもの。
 鬼の城については近日にアップする予定。





中国役とは…

 全国統一を目指した織田信長は、西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境目7城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。
【写真左】高松城・その2













 織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に3万の軍勢をもって同国東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。
【写真左】宗治蓮
 昭和57年に歴史公園として整備した際、復元された沼。
 高松城攻めの当時も、本丸・二の丸の間に「蓮池」という地名があったようで、それにちなんで、この池を自刃した城主・清水宗治から「宗治蓮」と命名された。



 籠城1か月余を経て、城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と、開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。

 本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
 築堤跡は蛙ヶ鼻に現在も一部残存している。
   平成8年3月  岡山市教育委員会”
【写真左】高台・その1
 本丸・二の丸を模して造成したものだろう。石碑や説明板などが設置してある。
【写真左】高台・その2
【写真左】高台・その3
 築山頂部に墓石のようなものが建立されている。
【写真左】宗治の辞世の句
 宗治が自刃する際、家人難波伝兵衛、高市之丞、小者の七郎次郎、加勢の軍将末近左衛門尉と共に船に乗り、秀吉の陣表まで漕ぎ出した。

 そのあと、秀吉側からは堀尾茂助、すなわち後の松江藩初代城主となる吉晴が、小舟に乗って宗治に対面し、秀吉からの伝言を申し渡し、美酒を与えた。

 そして、末期の盃を交わした後、誓願寺の詩を舞い、

〝浮世をば  今こそ渡れ 
     武士の名を    高松の苔に残して”

 と辞世の句を詠んだ。
 市之丞が介錯をし、ここに46歳を一期として自刃した。
【写真左】清水宗治が自刃したといわれる場所
 高松城公園の右側に向かう道があり、そこに向かうとご覧の広場が見えてくる。
 この場所で宗治が自刃したといわれている。
【写真左】清水宗治公自刃之址と記された石碑
 
 
【写真左】ごうやぶ遺跡
 高松城で自刃した城主清水宗治を追って、家臣らが互いに刺し違えて殉死した場所といわれている。
【写真左】花房家菩提所
 宗治が自刃した場所の近くには花房家の菩提所がある。
 花房氏は、宇喜多氏の家老で、高松城が落城した後、当城に入城した。(美作・荒神山城(岡山県津山市荒神山)参照)



◎関連投稿
真浄庵土居屋敷(広島県三原市久井町羽倉)

2014年12月13日土曜日

備中・冠山城(岡山県岡山市北区下足守)

備中・冠山城(びっちゅう・かんむりやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区下足守
●高さ 40m
●形態 丘城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 河津左衛門尉氏明、守福寺某
●遺構 郭
●登城日 2014年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 本年のNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」もいよいよ残すところあと一回の最終回となったが、件のドラマで冠山城が少し紹介されていたことを御存じの方も多いと思う。

 このときの内容は、主として備中高松城攻めを中心としたものだったが、この一連の戦いにおいて、当城もまた戦火を交えた城砦であった。特に、官兵衛の息子・長政が初陣を挙げた城であることも知られている。当然ながら冠山城は、備中高松城に近い場所で、高松城から北へ足守川沿いに約4キロ余り向かった下足守に所在する。
【写真左】冠山城遠望・その1
 南側から見たもので、ご覧の通り小規模な城砦で、現在田圃や住宅地に囲まれた中にポツンと見える小丘である。
【写真左】冠山城遠望・その2
 冠山城の西方に聳える古代山城・鬼の城(H:400)から見たもの。
 手前は鬼の城ゴルフ倶楽部のゴルフ場。




現地の説明板より

“冠山合戦を偲ぶ

 天正10年4月17日冠山城は、織田軍2万、宇喜多勢1万に囲まれ、下足守の山や谷は陣馬で埋まった。
 守りは城主林三郎左衛門、祢屋七郎兵衛、松田左衛門尉、鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木興五郎、難波惣四郎、岩田多郎兵衛、権寂和尚、祢屋興七郎、佐野和泉守、守屋新之丞、祢屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など300騎、総勢3,600人で、羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。
【写真左】配置図
 附近に設置された観光マップだが、これには当城は記載されていなかったため、管理人によって付け加えた。
 参考までに、中央部に「高松城」などがあり、その上に「冠山城」、そしてさらに、北には同じく宇喜多勢などが戦った「鍛冶山城」「宮地山城」などの位置を図示した。



 城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。
 4月25日、不幸にして城内より出火し、火は燃え拡がり城中大混乱となった。城主林三郎左衛門は、最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木興五郎、難波惣四郎、権寂和尚など将兵139人は、自刃或いは壮烈な討死を遂げた。
【写真左】冠山城鳥瞰図
 かなりデフォルメした絵だが、管理人によって作成してみたもの。

 特に、この図は当時の周囲の状況を想像して描いたもので、西方を流れる足守川がおそらく当時堤防などなかったものと思われ、これが事実上の濠の役目をしていたのではないかと考える。

 なお、三ノ壇の西側に「虎口」を図示しているが、『日本城郭体系第13巻』では、これは「隠し虎口」ではなかったか、とされている。残念ながら、登城したこの日、この個所の確認はできなかった。


 加藤清正一番乗りの功名話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。

 小山ながら難攻の冠山城も遂に落城した。林三郎左衛門は、行年51歳、備中の国を半国与えようという羽柴秀吉の誘いも断り、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。
 武士道に徹した冠山の城主、及び将兵を心から称えたい。

 昭和58年11月吉日
  冠山城址四百年記念事業奉賛会”
【写真左】葦守八幡宮・八幡神社鳥居付近
 当城東麓にある個所で、古木がある個所が「足守一里塚跡」である。
 登城口はこの写真の左側になり、ここから西に向かって細い道が続き、大手道に繋がる。
【写真左】登城口
 先ほどの箇所からほぼ真っ直ぐに道がついている。奥に見える小山が冠山城。
 なお、この先まで民家が立ち並んで、狭い道のため、この日は大分離れた空き地に車を停めて歩いて向かった。



秀吉(信長)備中攻めの前哨戦

 秀吉らが備中に入ったのは、天正10年(1582)3月下旬である。そして有名な高松城攻めで、城主・清水宗治が城兵の命と引き替えに自刃したのが、同年6月4日といわれている。

 冠山城の戦いはこの高松城攻めの前哨戦であるが、当城を攻め落とす前に秀吉方の備前勢(宇喜多氏ら)が拠ったのが、冠山城の北方にあった宮地山城である(上の配置図参照)。
 この城には毛利方の乃美少輔七郎元信がいたが、対岸の鍛冶山城にあった備前勢は乃美らに城の明け渡しを迫り、元信を追放した。
【写真左】祠
 登城道脇に祀られている。
自刃した城主や、討死した城兵を供養したものだろう。






 ところで、秀吉方は宮地山城を奪取した後、冠山城を攻めたという説と、宮地山城に最後まで抵抗した乃美氏は、冠山城が落城したため降伏したという説の二つがあり、どちらが事実なのかよく分からないが、備中国における戦いの前哨戦であった。

 そして、節目々で常に黒田官兵衛らが毛利氏(安国寺恵瓊など)と粘り強い交渉を行っている。
【写真左】三の丸と大手門跡手前
 現在残る登城道は大手道を基軸としたもののようだが、麓の周囲はご覧のような竹林などに覆われ、容易に中に入ることは出来ない。

 写真の左側には、「三の丸跡」と記した標柱が建っている。上段の鳥瞰図でいえば、「三ノ壇」に当たる。左側に向かうコースのようだが、藪コギで無理のようだ。
 なお、道中途中の左側には「溜め井(戸)」があるようだが、これも確認できない。

 そのまま真っ直ぐに向かうと、大手門跡がある。
【写真左】二の丸(二ノ壇)・その1
 大手門を過ぎると、先ず二の丸の郭段が左右に拡がる。
 奥の階段を上がると本丸(一ノ壇)にたどり着く。
【写真左】二の丸(二ノ壇)・その2
 本丸に向かう階段の右下(北東麓)側の箇所で、奥に進むにしたがって細くなり、途中で消滅する。
 なお、この右下にも不定型な郭段が残る。
【写真左】二の丸(二ノ壇)・その3
 今度は反対側(南側)に伸びる箇所で、二ノ丸の主要部になる。
 少し踏み込んでみたが、倒竹が多く、途中で断念。

 階段を上がり本丸に向かう。
【写真左】本丸(一ノ壇)・その1
 殆ど方形で、東西42m×南北21mの規模を持つ。
【写真左】本丸(一ノ壇)・その2
 石碑
「天正10年 4月25日落城 冠山合戦戦死将兵慰霊碑」と刻銘されたかなり大型の石碑。
 昭和58年11月吉日 建立されている。

 このあと、本丸周囲で歩行が可能な箇所を無作為に踏査する。
【写真左】本丸(一ノ壇)・その3
 本丸中心部から西の方向に進んだ箇所で、平滑な施工跡が見える。
【写真左】本丸北側から東側に進んだ箇所
 本丸から時計回りに進み、次第に降りて行った箇所で、この辺りにも郭段があったのかもしれないが、大分崩落している。
【写真左】本丸・二の丸の東隣の段
 鳥瞰図でいえば、「郭」と図示した箇所で、左側にも削平地が伸びているが、整備されている箇所はここまで。
【写真左】北側外周部
 下山後、東麓から北側に回り込み外周部を散策。
 左側のこんもりとした林が冠山城だが、外周部にはご覧のようなコンクリート製の小川と、田圃が広がる。
 おそらく当時はこのあたりは足守川の川床だったと思われる。
【写真左】外周西端部の切崖
 冠山城は標高40mほどの小規模な丘城である。このため、緒戦で攻めた宇喜多勢は、最初「片手を掛けるだけで落とせる」と思っていたという。

 しかし、侮った宇喜多勢は予想をはるかに超える犠牲者を出し、退却を余儀なくされたという。
 この個所の切崖をみても、そんな雰囲気が感じられる。
【写真左】南麓部
 手前左側から右に向かって二ノ壇・三ノ壇の切崖箇所に当たる。

 現在南麓部には寺院が建っているため、この辺りの遺構がどの程度残っているか不明だが、この箇所の傾斜も当時とほとんど変わらないものだったと思われる。

2014年12月10日水曜日

荒平山城(岡山県総社市秦)

荒平山城(あらひらやまじょう)

●所在地 岡山県総社市秦
●高さ 190m(比高170m)
●築城期 永享年間(1429~41)以前
●築城者 川西(河西)氏
●城主 川西之秀
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・堀切・城井戸等
●備考 式内石畳神社
●登城日 2014年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 荒平山城は、前稿備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)のある位置から、東方約6キロほど向かった高梁川西岸に築かれた山城である。
【写真左】荒平山城遠望
 東麓の高梁川を挟んで、国道180号線から見たもの。








現地の説明板より

“荒平山城
 荒平山城は永享年間(1429~40)に地元の豪族・河西氏によって築城されたといわれる。
 平時の居館の山裾にあり、戦時の山城と対になっていた。城は尾根上にあり、全長は150mにおよぶ。各々の壇には、石を使わず土盛のみで成形しており、西の「尼子谷」に井戸が残る。
【写真左】麓の案内板
 北東部に伸びる尾根の先端部分にあって、この箇所に車が3台程度駐車できるようになっている。
【写真左】石畳神社
 駐車場の脇には石畳神社が祀られている。なお、登城口はここから始まるが、後段で紹介するように、途中で当社の御神体とされる磐座が高梁川縁に祀られている。


 天正年間(1573~85)の備中兵乱期には、河西氏が三村氏に味方したため、天正3年(1575)に毛利方の小早川隆景に攻められた。
 城兵はよく奮戦したが、城主河西之秀は城兵の助命を条件に降伏、開城し、讃岐へ落ち延びた。これ以降、破城となったものと思われる。

備中兵乱

 説明板にもあるように、備中国において戦国期もっとも激しく揺れ動いたのが、「備中兵乱」である。この乱についてはすでに、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)で紹介しているが、この当時の荒平山城主は、河西三郎左衛門之秀である。
【写真左】案内図
 登城口には、「秦の郷 散策コース案内図」というパンフレットが置かれている。

 これを見ると、荒平山城登城コースとは別に、西方にある正木山コース、金子池コースなどといった散策コースが整備されている。
 こういう案内図があると、とても重宝する上に、周辺部の史跡も確認できるので嬉しい。


 三村家親が永禄9年(1566)、宇喜多直家によって謀殺されると、途端に同国に動揺が走った。そして、家親の跡を元親が継いだものの、暗殺した直家が毛利氏に属したことにより、それまで毛利方についていた三村氏は毛利を離れ、織田につくことを元親が選んだ。

 これに対し、鶴首城主であった三村親成・親宣父子はこの決断に猛反発、元親から離反し、毛利方についた。そして、かれら父子は毛利方の先陣として、同族の三村氏らの諸城を攻めていくことになる。諸城の一つが前稿の備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)や、今稿の荒平山城である。
【写真左】登城開始
 殆ど尾根筋を辿るコースとなっているため、短距離になるが、傾斜が次第にきつくなる。






 さて、荒平山城の城主・河西三郎左衛門之秀は、毛利から織田に鞍替えした三村元親の親族であり、また、荒平山城から高梁川を挟んで東方に聳える経山城(岡山県総社市黒尾)主・中島大炊介の一族でもあった。
【写真左】お地蔵さん
 所々にこうしたお地蔵さんが祀られている。
【写真左】秦パノラマ展望台
 途中で尾根の東側を登る道になるが、再び尾根筋に戻り、登城口から10分程度進むと、ご覧の展望台が現れる。

 当城の要図には描かれていないが、小規模な出丸若しくは物見櫓などがあったのかもしれない。
【写真左】展望台から東方を俯瞰する。
 左側から高梁川が蛇行し、南(右)の倉敷市方面に流れている。
【写真左】展望台から北方を俯瞰する。
 高梁川上流部で、この川を遡ると、備中松山城や、支流成羽川の麓にある鶴首城に繋がる。
 このあと、さらに上の方に進む。
【写真左】小郭と小岩
 尾根をしばらく進むと、途中小さなピークを迎えるが、その手前にはご覧の石がある。

 ピークは長さ10m程のものだが、出丸的な機能を持っていたと推察され、この岩もそのための役目を果たしていたのだろう。
【写真左】土橋か
 さらに上に向かうに従って尾根幅が広くなるが、途中に極端に道幅を狭めた箇所が出てくる。

 左右の法面には竪堀のような痕跡が認められることから、土橋として構築されたものだろう。
【写真左】2番目のピーク
 さらに進むと一気に高度を上げる箇所があり、そこには「三角点」が設置されている。

 位置的には、荒平山城の中心より約200m手前になる。
 そろそろ城域が近くなる。
【写真左】荒平山城要図
 現地に説明板と共に付図されているが、線がかすれていたため、管理人によって手を加えている。

 右上の「一ノ壇」と書かれている方向が、この日登ってきた道側になる。
 主郭は、この図では「二ノ壇」に当たる。
【写真左】一ノ壇
 一番手前にある郭で、この先の上部にある二ノ壇(主郭)との比高差は6m。

 ご覧の通りこの箇所は藪コギ状態。規模は、幅15m×長さ30mで、全体に北側に配置されている。
【写真左】一ノ壇と二ノ壇の間にある切崖
 この切崖を登り、主郭以南の遺構に向かう。
【写真左】三ノ壇
 最初に出くわすのが、二ノ壇(主郭)を西側から取り巻いている三ノ壇で、S字状になって、西側で六ノ壇と、南側で四ノ段と接する。

 このあと、ここから比高3mほど高くなった二ノ壇に上がる。
【写真左】二ノ壇(主郭)・その1
 東斜面から撮ったもので、方形壇となっている。およそ一辺が13m前後の規模。

 休憩小屋には、当城の説明板が掲示してある。
【写真左】二ノ壇(主郭)・その2
 三ノ壇南端部から振り飼ってみたもの。


【写真左】三ノ壇と四ノ壇
 ここから長い郭段が続くが、現場には説明板にある呼称(○ノ壇)とは別に、「二丸跡」及び「三丸跡」と書かれた標柱が建っている(下の写真参照)。
【写真左】「荒平城 二丸跡」の標柱
 俗称なのだろうが、できればどちらかに統一した標記の方がいいと思われる。
【写真左】四ノ壇と五ノ壇境付近
 三ノ壇と四ノ壇の境ははっきりしたものはないが、両壇との比高差は50cm程度あり、次第に下がっていく。

 なお、三ノ壇と四ノ壇の西側には比高1m前後下がった六ノ壇が隣接しているが、現状は雑草で覆われている。

 五ノ壇は斜めになった形状で、そのまま一気に降り、七ノ壇に向かう。
【写真左】七ノ壇へ向かう道
 七ノ壇の西側に犬走りがあり、写真にはないが、この左側の上部には五ノ壇の南端部に土塁が構築されている。
【写真左】七ノ壇
 尾根幅とほぼ同じだが、奥行はあまりない。
【写真左】七ノ壇から北の五ノ壇側切崖を見る。
 比高差8mを測るという。
【写真左】堀切
 現地の要図に記されている堀切のイメージと少し違い、尾根側は殆どフラットなもので、浅い箱堀といった感じだ。

 この写真はその脇に繋がる竪堀の跡で、当時はこの竪堀とリンクした薬研堀の形だったかもしれない。

 このあと、さらに南の尾根を進んだが、遺構らしきものはなかったため、一旦戻り、五ノ壇の西斜面にある井戸に向かう。
【写真左】井戸
 現在でも水が溜っているが、この井戸を「尼子井戸」という。

 井戸に「尼子」の名がついていることから、出雲尼子氏がしばらく当城に在城していたと考えられる。

 おそらくその時期は、同氏が備中・美作を席巻していた天文5~8年(1536~39)頃だろう。
【写真左】磐座
 下山途中で立ち寄った箇所で、石畳神社の御神体とされる磐座が高梁川縁に祀られている。






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