2014年5月7日水曜日

近世宇土城(熊本県宇土市古城町)

近世宇土城(きんせい うどじょう)

●所在地 熊本県宇土市古城町
●別名 宇土城、鶴ノ城
●指定 宇土市指定史跡
●築城期 天正17年(1589)
●築城者 小西行長
●城主 小西行長・加藤清正
●形態 水城・平山城
●遺構 本丸・二の丸・三の丸、堀等
●登城日 2013年10月13日

◆解説
 前稿に続いて、宇土市にある近世城郭・宇土城(以下「宇土城」とする)を取り上げる。
 所在地は、前稿の宇土古城から東に約500m程向かった宇土城山公園内にある。築城者はキリシタン大名として名をはせた小西行長である。
【写真左】近世宇土城内に建立された小西行長像
 後段でも述べているように、宇土城は寛永年間のとき、廃城となったが、その際かなりの遺構が破壊されてしまった。

 このため、近代になって公園として整備されたため、見どころは少なくなったが、地元市民に憩いの場として親しまれている。

 この写真は、整備された本丸跡付近に建つ小西行長の銅像で、かなり大きなものである。



現地の説明板より・その1

“近世宇土城跡
宇土市古城町
昭和33年(1958)3月14日 市指定史跡

キリシタン大名・小西行長が築城した近世城郭である。通称「城山」と呼ばれる小高い丘の最高位(標高約16m)に内堀で囲まれた本丸が位置し、二ノ丸や三ノ丸がそれぞれ本丸西側と南側及び東側に配置されている。これらを大規模な外堀が取り囲むという堅固な縄張りで、外堀まで含めた城域は南北500m、東西550m、面積は約20万㎡と広大である。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた行長が処刑された後、肥後一円を治めた加藤清正は、自身の隠居所とするため大規模に改修を行った。しかし、隠居することなく慶長16年(1611)に死去し、翌年、幕命により破却された。

 さらに寛永14年(1637)の天草・島原の乱後も徹底的に破壊されたため、往時の姿はとどめていない。
【写真左】航空写真で見た近世宇土城
 1962年に撮影されたもので、中央やや左下に本丸、その左に二の丸、内堀を挟んで南に三の丸が配置されている。

 家臣屋敷は本丸の北側にあったことから、船ですぐに島原湾に向かうことができたのだろう。城下町は東側にあって、やや距離を置いている。




 昭和40年代、県立宇土高等学校社会部による発掘調査が行われ、石垣などの城郭遺構が検出された。また、本丸跡の公園整備工事に伴う発掘調査(昭和53~57年)が実施され、新事実が次々と明らかになった。

 調査の結果、当初「小西時代」と考えられてきた石垣や門礎、排水溝などの城郭遺構(上層期遺構)の、さらに1.5~2mほど地下から、石塁や礎石建物跡などの下層遺構が発見された。下層期遺構は「小西時代」、上層期遺構は「加藤時代」の城郭遺構に相当するとみられ、宇土城跡の変遷を考えるうえで大きな成果となった。
 出土品は、中国製陶磁器(青磁、白磁、染付)、国産陶磁器(備前焼、瀬戸焼、唐津焼)、銃弾、瓦などがある。なお、本丸周辺では大砲の一部や「慶長十三銘」の滴水瓦が採集されている。”
【写真左】本丸に向かう階段
 旧二ノ丸側に設置されているもので、二ノ丸から本丸までの比高は約10m程度ある。





現地の説明板より・その2

 上掲のものと重複するところもあるが、抄出しておく。

“キリシタン大名・小西行長の居城
 近世宇土城跡(城山)
     昭和33年(1958)3月14日 市指定史跡

■キリシタン大名・小西行長

 永禄元年(1558)に大坂の堺の豪商・小西隆佐(りゅうさ)の子として京都で生まれ、秀吉の側近として水軍を率いて活躍。国衆一揆(肥後の武士層が起こした反乱)後の天正16年(1588)、宇土・益城・八代などの肥後南半部(約14万6千石)の領主として宇土を本拠としました。

 入国翌年の築城開始後、文禄・慶長の役(1592~98)で先鋒として2度にわたり朝鮮半島に出陣しており、実際に宇土で活動した時期は1年半程度と考えられています。慶長5年(1600)、西軍に属した行長は、関ヶ原合戦で敗戦、京都六条河原で処刑され、42歳の生涯をとじました。”
【写真左】本丸・その1
 この日はたまたま地元町内会主催による運動会が開かれていた。
 本丸跡で運動会が開かれているというのも珍しい。



小西行長と加藤清正

 小西行長が最初に仕えたのは西国の梟雄・宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)等参照)といわれている。

 のちに秀吉に仕え舟奉行として水軍を率いて活躍することになるが、これは、おそらく直家時代に培ったものだろう。直家は以前にも述べたように、瀬戸内における海賊衆や、瀬戸内を往来して商売を行った商人たち(特に長船)と密接な関係を築いていた。
【写真左】本丸・その2
 運動場としてのトラック全周の大きさは規模が限られているため、小ぶりなものとなっている。
 また、完全に均していないためか、若干起伏が残る。

 開始前の朝だったため、運動会に参加する地元の皆さんと一緒に雑談しながら会場(本丸跡)に向かう。熊本弁というのだろうか、賑やかな会話を楽しんだ後、周辺部の散策に向かう。


 肥後の宇土城を本拠とした行長に対し、前肥後国領主であった佐々成政の執政改易によって、新たに入ったのが熊本城を本拠とする加藤清正である。領国が接するという関係もあったが、行長と清正は度々対立している。行長はキリシタンであり、清正は日蓮宗信者であることから、天正17年の天草国人5人衆の乱(天草国人一揆)において、両者の作戦は一致を見ず後味の悪い戦後処理となった。

 そして関ヶ原の合戦では、行長は西軍方に清正は東軍方にそれぞれ分かれて戦うことになる。京都六条河原で処刑された行長の遺体は、イエズス会宣教師に引き取られ、7年後の1607年イタリアのジェノバで行長を主人公とする音楽劇が創られたという。
【写真左】本丸跡から下方を見る。
 この写真は確か北側の辺りだったと思うが、かなりの傾斜と比高差がある。
 





■近世宇土城跡の概要

 織田信長や豊臣秀吉の時代に築かれた礎石建物や、高石垣などで構成される規格化された城を織豊系城郭と呼んでいます。宇土城は熊本を代表する織豊系城郭で、江戸初期に幕府の命令により2度にわたる破却を受けたため、不明な点はありますが、縄張り(城の測量図)の検討や発掘調査の成果、絵図の検討などから往時の宇土城の姿を推定することができます。
【写真左】帯郭
 本丸の東側部分に当たるところで、帯郭状の遺構が残る。








 宇土城は、幅約20mの堀で囲まれた本丸(標高約16m)を核として、二ノ丸や重臣が居住した三の丸を幅約30~40mの大規模な堀で防御し、本丸北側に家臣屋敷群を整備するなど、本丸を中心とする堅固な城郭でした。さらに、本丸の北側には、緑川河口部に通じる運河が開削され、船が行き来したと考えられています。まさにイエズス会宣教師から「海の司令官」と呼ばれた行長らしい城といえます。

 関ヶ原合戦後、清正は宇土城を自身の隠居所とするために大規模な改修を行いましたが、隠居することなく慶長16年(1611)に亡くなりました。清正の死の翌年、幕命により城は破却され、寛永14年(16379の天草島原の乱後にも徹底的に破壊されました。
【写真左】本丸の南側付近
 西側の二の丸から回り込んで伸びる箇所で、駐車スペースが確保されている。

 この写真の手前には内堀があり、さらにその南方には現在住宅などが建っている三の丸があった。



近世宇土城及び宇土古城周辺の地勢

 説明板にもあるように、この辺りの地勢を見てみると、現在は陸地となっているが、海抜は殆ど0mに近い低さである。両城の北方には緑川河口で合流する浜戸川が湾曲して迫り、緑川との間には、走潟町・新開町といった近世に新たに干拓された陸地が造られている。
 このことから、宇土城及び宇土古城とも元々は、島原湾(有明海)を使った海上交通の要衝とする水城として築城された可能性が高い。
【写真左】近世宇土城跡と城下町想像図
 現地に表示されているもので、南西方向から見た図。

 おそらく堀(濠)の引込は、当時の地勢から考えて施工が順調に行われたのだろう。
 
 

■本丸の発掘調査

 本丸の発掘調査(昭和53~57年)の結果、門跡や礎石建物跡、排水溝跡、石垣などの城郭遺構を検出し、上層期遺構と下層期遺構の2時期の遺構の存在や、本丸の平面プランが概ね明らかになりました。
【写真左】発掘調査地点
 色が薄くなって判然としないが、緑が下層期、青が上層期とされている。
 上方が北を示す。





 上層期遺構は、加藤清正の改修に伴う城郭施設、下層期遺構は小西行長が築城した当時の城郭施設に対応すると考えられます。つまり、小西時代の城郭施設は、加藤期改修に伴う盛土(1m以上)や石垣普請などによって内部に完全に埋め込まれたことが判明しました。
 また、瓦や国内製・中国製の陶磁器など、当時使われていた貴重な品々が豊富に出土しました。
【写真左】石塁遺構の写真
 下層期遺構、即ち小西行長時代のものとされている。




■塩田家臣屋敷群(城山塩田遺跡)について

 家臣屋敷が存在したとされる本丸北側一帯の古城町字塩田には、明治時代の字図や終戦後撮影の航空写真から、碁盤の目状に堀がめぐる屋敷群跡や運河の跡と想定される痕跡が残されていました。

 このことを検証するための発掘調査(平成12年)で、屋敷地を囲む大小の堀跡を検出し、建物の部材や日常生活で使われていたとみられる陶磁器が出土。幻の家臣屋敷の存在が実証されました。

 南北方向の6筋の道は、等間隔(約40間〔約72m〕)で敷設、その道沿いに整然と並ぶ屋敷地は、間口が狭く奥行が長い長方形(短冊形地割)で、極めて計画的な造成が行われたことが判明しました。
【写真左】出土した陶磁器
 行長が宇喜多直家に仕えていたことから、備前焼なども出土している。










■近世城下町の形成と特徴

 宇土城下については、16世紀代の名和氏段階である程度できていたとみられる城の東側の町筋を城とセットとして整備し、本町筋や新町筋沿いには商工業者らが居住していました。

 さらにその東側には、物流の要だったと考えられる宇土川(船場川)や「外構え」として城下町を守る石ノ瀬城(加藤軍による宇土城攻め〔1600年〕の激戦地)が配されました。
【写真左】大砲の破片
 本丸北側低地より出土したとあるから、船戦の際使われたのだろう。






 行長入国以前の肥後においては到底考えられなかった城と家臣屋敷、町屋がセットになり、身分的な階層関係が反映された城下町が、いち早く宇土の地に出現したことは歴史的に重要なことです。

 行長が理想とする領国経営の拠点として機能するはずだった宇土城。宇土を中心とし、九州全体の支配まで視野に入れていたと考えられる行長の夢は、関ヶ原合戦の敗戦により志半ばで途絶えたのでした。

   平成23年12月 宇土市教育委員会”

2014年5月6日火曜日

宇土古城(熊本県宇土市神馬町)

宇土古城(うどこじょう)

●所在地 熊本県宇土市神馬町
●指定 国指定史跡
●形態 丘城(H40m/39m)
●築城期 永承3年(1048)
●築城者 菊池氏一族
●城主 菊池氏、宇土氏、名和氏
●遺構 郭、石垣、虎口、空堀、礎石、その他
●登城日 2013年10月12日

◆解説
 宇土古城は、本稿では初めて取り上げる肥後国の城砦で、歴代城主の中には伯耆の名和長年を祖とする名和氏の名が記録されている。
【写真左】宇土古城
 現地の説明板からのもので、空から見た宇土古城。
 上の海は有明海。







 現地には大変に詳細な説明板が設置されている。少し長いが全文を掲載しておく。

現地の説明板より

“国指定史跡 宇土城跡

位置と歴史
 中世宇土城跡は、通称「西岡台」と呼ばれる標高約39mの小高い丘陵上にあります。西岡台の東約500mにはキリシタン大名・小西行長が16世紀末に築城した近世宇土城跡(城山)があるため、西岡台の宇土城跡を「中世宇土城跡」や「宇土城跡(西岡台)」、「宇土古城」などと呼んで区別しています。
【写真左】宇土古城 案内図
 右方向が北を示す。


 中世宇土城跡南側に位置する西岡神宮の古い記録によれば、平安時代の永承3(1048)年に宇土城が造られて以後、菊池氏の一族が代々城主であったとされています。室町時代には、宇土氏と名和氏が宇土城主となりました。

 宇土氏は、宇土庄(現在の宇土市街地周辺)の荘官の地位にあり、筑地氏の一族と伝えられる武家領主です。古くから宇土に勢力をおいていましたが、文亀3(1503)に守護職・菊池氏との争いに敗れて滅びました。

 一方、名和氏は室町時代の初め頃から八代市附近に勢力をおき、古麓城(八代市古麓町)を本拠としていましたが、文亀4(1504)、相良氏と菊池氏に攻められ、八代を出て宇土へ移り宇土氏滅亡後の宇土城に入城しました。

 以来、80年余り名和氏は宇土城主になりましたが、名和氏が宇土を拠点としてからも、相良氏とは豊福城(宇城市松橋町)をめぐって何度も争いました。
【写真左】北東側
 駐車場が設けられている北東部周辺で、後段で紹介されている「千畳敷」がこの左側の段をあがった所にある。





 相良家の古文書『八代日記』によれば、宇土城跡は天文7(1538)年と同11(1542)年の2度にわたって火災が発生したことが記録されています。

 また、天正3(1575)年に薩摩(鹿児島県)の島津家久公が京都への旅の途中、松橋から道を北へと進んでいるとき、左の方角に「宇土殿の城みえ侍(はべ)り」(宇土殿〔名和氏〕の城が見える)と言ったことが『家久君上京記』に記されています。城を使わなくなった時期は、行長公が近世宇土城の築城を開始した16世紀末頃と考えられます。
【写真左】虎口
 千畳敷側に入っていく入口部分で、南東隅に設けられている。
 手前には堀が巡らされているが、先ず中の方に入る。




名和氏

 肥後の宇土城(古城)を訪ねる動機となったのが、前掲の説明板にもあるように、室町初期から約80年間城主として名和氏が記録されていたからである。
 名和氏については、これまでの投稿(下段参照)をご覧いただきたいが、伯耆国(鳥取県)の名和長年がもっとも有名である。

名和氏先祖墓所・長田城跡(神社)付近(鳥取県西伯郡大山町長田)
再び冬の名和氏館跡を訪ねる
凸富長城・荒松氏(名和町)
「司馬遼太郎 因幡・伯耆のみち檮原街道 街道をゆく27」より
名和長年(3)三人五輪・名和一族郎党の墓
加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)
名和長年(2)名和神社
小波城・三輪神社(米子市淀江町)
名和長年(6)富士名判官義綱古墓
名和長年(5)船上山周辺の動き
【写真左】虎口を抜ける。
 虎口に入ると、途中で右に直角に曲がる。
ここからが千畳敷となる。







 さて、宇土古城に入る前に名和氏が居たのが、宇土より南方にある八代市の古麓城であったとされる。

 当城の初代城主は、名和長年の長男・義高といわれている。義高が肥後八代荘の地頭に任じられたのは建武元年(1334)正月とされる。任じたのは後醍醐天皇と思われるが、当初義高は直ぐには肥後に渡らず、重臣の内河彦三郎義真(よしさね)を代官として派遣している。従って、最初に築城を手掛けたのはこの内河彦三郎義真となる。

 翌2年5月15日、まだ伯耆国にあった義高は、杵築大社(出雲大社)に対し、肥後国八代荘高田郷の土地を寄進している(『千家文書』)。
【写真左】千畳敷・その1
 文字通り広々とした郭で、当城の中心部の遺構である。








縄張り-城の構造-

 戦国時代(15世紀後半から16世紀後半)を中心に、日本列島に数多く造られた中世城は、自然地形をできる限り活かし、重要な場所や守りが弱い場所に堀や土塁などを造って敵の侵入を防いでいました。熊本城のように石垣を備える近世城は「石造りの城」と呼ばれるのに対し、中世城は「土造りの城」と呼ばれる理由となっています。

 また、「曲輪」と呼ばれる堀や柵で防御された広場には、天守閣のような立派な建物はなく、瓦さえも使わない掘立柱建物が建てられているのが普通で、中世宇土城も例外ではありませんでした。
【写真左】千畳敷・その2
 千畳敷も含め、当城にはご覧のような掘立柱建物跡が20数棟残る。

 この写真はそのうちの17号建物跡で、桁行4間(総長8.0m)・梁行2間(総長4.4m)のもの。


 西岡台の頂上部には東西に並ぶ2つの曲輪があります。東側の曲輪は「千畳敷」と呼ばれており、周囲に人工的に削り出した切岸という崖や堀を配置し、敵の進入を防ぐ工夫をしています。

 同じく西側は「三城」と呼ばれ、堀は確認されていませんが、切岸で守りを固めています。また、三城の西側には幅約10m、深さ約7mの巨大な堀と、その西側に並行して土塁が築かれています。
【写真左】未完成の堀跡
 千畳敷上部から再び下の外周部に降りると、堀跡がある。
 興味深いことに、これらの堀は未完成の箇所があり、「小間割」と呼ばれる工区分けの掘削途中の姿を残している。

 現場ではこの姿を残すため、表面をモルタルのようなもので被覆し、劣化を防いでいる。

 
 西岡台の南側斜面は、幅広い平坦地が連続しており、「オオテ」(大手)と伝えられる地点や麓には中世以来の古道「三角道」があります。この周辺に、領主(殿様)や家臣が生活していたと考えられます。
【写真左】堀に残る石塔
 虎口付近の堀では、大量の石塔が発見されている。五輪塔や宝篋印塔などだが、これらが内堀から大量に出てきたという。

 説明板では、これは意図的に投げ込まれたものと推定され、石塔の投機は、「城破り(わり)」すなわち、「城の生命を断ち切る儀礼・儀式」がこの行為で示されたのではないかとしている。
 この発見は九州では初めてで、全国的にも数例しか確認されていない貴重なものである。


発掘調査からわかったこと

 中世宇土城跡は、昭和49年度から平成23年度まで計24回におよぶ発掘調査が行われ、多くの成果が得られています。

 千畳敷の調査では、掘立柱建物跡・柵列跡・門跡・井戸跡・横堀跡・竪堀跡が見つかりました。なかでも、千畳敷を囲む堀が未完成であり、小間割と呼ばれる掘削単位が残されていたことや、曲輪の出入口である虎口付近で、城の生命を断ち切る儀礼行為「城破り」を確認するなど重要な成果が得られています。三城の調査でも、掘立柱建物跡・門跡・道跡・溝跡などが見つかっています。
【写真左】南西部から千畳敷を見る。
 千畳敷の全周法面と手前の間には上掲した外堀が巡っており、そこから西に向かうと、少し下がる傾斜面が続く。
 さらに西に向かう。



 建物の柱穴や、堀に堆積した土の中から、土師質土器や擂鉢・火鉢などの瓦質土器、備前焼や瀬戸焼、中国で焼かれた白磁・青磁・染付などの13~16世紀を中心とする陶磁器が出土しました。

 これらの出土品から、中世宇土城における人々の生活の様子を思い浮かべることができます。また、中国製だけでなく、朝鮮半島やタイ製陶磁器の出土は、東アジア規模で行われた当時の交易を物語ります。その他の遺物として、鉄砲玉や鉛などの金属を溶かす容器の坩堝(るつぼ)などが出土しています。
【写真左】掘立柱建物跡(SB20)
 三城周辺に残るもので、ここからは瓦が出土していないことから、屋根は板葺か茅葺だったとされている。

 なお、この区域では柱穴が重なっている箇所があり、4つの時期(Ⅰ~Ⅳ期)にわたって建物群が存在していたという。

 この写真のSB20は、そのうち最も新しいⅣ期(16世紀後半)のもので、南北5.0m×東西5.6m(面積28㎡)のもの。
 特徴的なのは、「布掘り建物」で、当城で唯一確認されているもの。


 なお、古墳時代前期(4世紀)には、千畳敷に「首長居館」と呼ばれる、豪族の住まいがありました。周囲を断面「Vの字形」をした大きな壕で防御しており、敷地の広さは東西80m、南北約93mと九州の首長居館でも最大規模を誇ります。首長居館の壕からは、生活に使った土師器の壺・甕(かめ)・高坏(たかつき)などが出土しています。
【写真左】土塁と堀
 上掲の建物がある三城区域に残るもので、当城の中ではもっとも土塁の高さがある。
また、面白いことに、小規模な堀が内側に造られている。


 また、居館が使われなくなった5世紀には古墳が造られ、埴輪や副葬品とみられる鏡が出土しました。

 首長居館の建物跡や古墳は、中世の城造りで大規模に土地が削られたために無くなったと考えられています。西岡台の西の端には、西岡台貝塚(縄文時代)があり、発掘調査でドングリを貯蔵した穴が5基見つかっています。
  
     平成24年1月 宇土市教育委員会”
【写真左】三城の西端部
 三城からさらに西の方へ向かった位置で、左側に上掲の郭が見える。

 なお、三城の南西部に伸びる横堀・土塁遺構については夕暮れ時でもあったため、当日は探訪していない。

2014年4月30日水曜日

安芸・出張城(広島県安芸郡府中町宮の町)

安芸・出張城(あき・でばりじょう)

●所在地 広島県安芸郡府中町宮の町3
●別名 府城・国府城・芸府城
●高さ 35m(比高25m)
●形態 丘城(水軍城)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 白井加賀守胤時
●城主 白井氏
●遺構 郭等
●備考 長福寺、多家神社
●登城日 2014年1月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 安芸・出張城(以下「出張城」とする)は、前稿でとりあげた仁保城(広島県広島市南区黄金山町)から北東方面へ約4キロほど向かった多家神社えの宮の南方に所在した丘城(水軍城)である。

 築城期・築城者は、仁保城と同じく応永年間に下総国(現在の千葉県北部)から下向してきた白井氏(胤時)といわれている。
【写真左】出張城遠望
 ご覧の通り現在は周囲の住宅に囲まれて本丸付近のみがかろうじて残る。







 現地の説明板より

“出張城跡と白井氏

 出張城跡は、室町時代中頃の応永年間(1394~1427)に下総国から安芸国に移り、瀬戸内海水軍となった白井氏の城跡と伝えられている。

 出張城の呼称は、現在の宮の町一丁目と同三丁目境の古山陽道沿いを出張市と呼んでいたことから、字の名にちなんで近世に命名されたものと思われ、中世の史料には府城・国府城・芸府城などと記されている。
【写真左】出張城位置図
 左図では出張城の規模は長径100m足らずのものとなっているが、当寺は東側(右)の丘陵地も何らかの遺構があったものと思われる。

 北方には下段で紹介する白井氏の菩提寺といわれる長福寺があり、その北に多家神社がある。



 城は本丸を中心として数段の郭を設けていますが、現在では宅地や畑となって往時の面影はつかめません。

 城主の白井氏は、初め守護武田氏に属していました。そのため出張城は一族の拠る仁保城(広島市黄金山)とともに、広島湾頭において銀山城の防禦線の役割を果たしていた。ところが、周防大内氏の支配権が及んできた大永年間末(1527)にはその支配下となり、佐東郡牛田・山本などに領地を与えられ、海上でも一層活躍しています。
 しかし、天文20年代以後(1551~)は、次第に毛利氏に領地を奪われ、活動の拠点もこの地から離れていったものと思われます。
   府中町教育委員会”
【写真左】五輪塔
 登城口は南側と北側の二か所あるが、いずれも標識らしきものはない。この日は、地元の御婦人に入口を尋ね、南側の住宅の路地からむかった。

 なお、付近は住宅が建て込んでおり、駐車スペースはほとんどない。このため、北側の多家神社境内の駐車場においてから向かった。


安芸・白井氏

 出張城の築城者白井氏については、すでに前稿仁保城でも少し述べているが、同氏が最初に安芸国に下向して築いたのがこの出張城といわれている。

 なお、後段で紹介している田所氏は、白井氏が当地に下向する前の在庁官人であったというから、おそらく平安後期から鎌倉期に当地に赴いた一族だったのだろう。

 応永年間(1394~1427)、下総国から下向した白井加賀守胤時が築き、以後同氏は8代170年にわたって府中地域を支配したといわれる。
 応永元年は、丁度足利幕府第3代将軍・義満が征夷大将軍を辞任し、代わってその子・義持が任命されたときである。しかし、これは形式的なもので、実態は義満が隠然たる権力をしばらく誇示していくことになる。白井氏が室町幕府(足利氏)の御家人であったことは確かのようだが、下総国から安芸国に下向した経緯ははっきりしない。
【写真左】登城口付近
 上記五輪塔がある個所から見たもので、付近は畑地になっている。おそらくこの辺りも郭があったものと思われる。

 写真左奥に白い小さなものが見えるのが、案内板で、その箇所から登り口がある。

 ただ、最近は余り管理されていないようで、竹などが増え藪化してきている。


 安芸・白井氏はその後、太田川河口・広島湾頭に支配を広げ、さらに西の周防、南の伊予灘方面にも進出、瀬戸内西方の水軍領主として君臨し始める。説明板にもあるように、当初同氏は安芸守護職であった武田氏の麾下にあったようで、海上権益の取得は武田氏の支援があったことが大きく影響していると思われる。
【写真左】武田元信知行安堵状


 現地には、明応4年(1495)時の安芸守護・武田元信が白井光胤に宛てた知行安堵状が記されているが、これには、仁保島海上における公事徴収権や、大河・府中・古市等の支配権を認めるというものが記されている。

 その後、大永年間以降になると、大内氏に属し活躍することになるが、厳島合戦の際は大内義長、すなわち陶晴賢に与していたため、敗戦後毛利氏によって所領を奪われるものの、許されて毛利氏の配下になったといわれている。
【写真左】登城道
 ご覧の状態だが、比高があまりないため、すぐに本丸にたどり着く。
【写真左】本丸・その1
 長径30m×短径20m程度のもので、予想以上に大きい。
【写真左】本丸・その1
 写真では分からないが、歩いてみるとほぼフラットな削平地となっており、加工精度は高いようだ。
【写真左】北側斜面
 本丸から北側に降りてみる。南側に比べ傾斜はこちらの方がきつい。

 北東麓にも小郭跡らしき削平地が残るが、大分改変されているようで、はっきりしない。
【写真左】長福寺
 白井氏の菩提寺といわれている寺院で、山号は天龍山。

 この写真では、出張城は左側にあり、本堂裏の林の裏には多家神社がある。


 現地の説明板より

“長福寺と田所墓所

 長福寺は天龍山と号し、曹洞宗国泰寺末である。本尊は阿弥陀如来で、昭和初年頃まで釈迦灌仏会(甘茶祭)、孟蘭盆会(うらぼんえ)などがおこなわれていた。本堂、開山堂、禅堂、鎮守堂、庫裡および築山庭園などがあった。
【写真左】長福寺から南方の丘を見る。
 この写真でいえば、出張城は右側になるが、写真奥の丘状の辺りも当時の城域ではなかったかと思わせる雰囲気がある。

 ちなみに、この写真の左側にも尾根筋状に伸びた丘陵部があり、現在残る出張城は西端部の出丸のような役目をもった部分ではなかったかと思われ、このことから当時はこの位置から東にむかって城域を構成していたのではないかと想像される。

 


 寛政3年(1791)頃に鋳造の梵鐘は戦時中に供出し、今はない。本堂は明和元年(1764)に一度焼失し、天明7年(1787)国泰寺座主智外和尚が再建し、曹洞宗となる。
 再建を記念した際の開山塔がある。現在の本堂は平成11年(1999)に再建され、平成12年(2000)に落慶法要が営まれた。

 長福寺は田所氏の菩提寺であり、田所氏の墓は一族の石井、三宅氏らの墓とともに境内の東方に数十基ある。”
【写真左】仁保城遠望
 長福寺から見たもので、肉眼でもはっきりと見える。
【写真左】多家神社
 長福寺の北方に鎮座する社で由緒は次の通り。









“安芸国開祖
 多家神社(埃宮(えのみや))

主祭神 神武天皇
      安芸津彦命
相殿神 神功皇后
      応神天皇
      大己貴命
摂末社  貴船神社

由緒
 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられたと伝わる。古事記(712年完成)に阿岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が7年坐すとあり。日本書紀(720年完成)には埃宮(えのみや)に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。

 平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。
【写真左】多家神社の宝蔵





 当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。

 中世になると、武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分かれ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。明治7年県社となった。

 その後、多くの村内小社を廃して多家神社に合祀した。大正4年(1915)9月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。

 なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。

 たれその森について   「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。”

2014年4月27日日曜日

仁保城(広島県広島市南区黄金山町)

仁保城(にほじょう)

●所在地 広島県広島市南区黄金山町(黄金山)
●形態 海城(島城)
●築城期 不明(15世紀か)
●築城者 不明
●城主 白井氏、三浦元忠
●遺構 郭・石垣等
●高さ221.7m
●登城日 2013年11月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 仁保城については、以前発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)の中でも紹介したように、現在の広島平野の南東部湾岸地域に所在する黄金山に築かれた城砦(海城)である。
【写真左】仁保城遠望・その1
 南東の発喜城側から見たもの。
 北麓には現在マツダ自動車の宇品工場がある。







現地の説明板より

“数々の伝説を持つ黄金山
 黄金伝説の地

 広島市内のシンボルとして親しまれている黄金山。この山の名前は古くは城山と呼ばれていました。

 山頂付近い城お主要な部分があり、広島湾内を一望できる山頂は戦において重要な位置を占めており、何度となく局地的な戦場ともなりました。
【写真左】配置図
 少し文字が小さいが、中央の赤字「現在地」付近が城域で、北側に「一の丸」南に「二の丸」があり、一の丸から北西へ約500下がった所には、「出丸」があったとされる。



 厳島の合戦の前哨戦として行われた弘治元年(1555年)7月、陶晴賢の武将・三浦房清が攻めてきたとき、城将香川光影が防戦し、撃退したと伝えられています。

 「黄金山」という名前の由来は、観音寺の山号が「黄金山」といったこと、このあたり一帯の麦畑が黄金色に輝いて見えたこと、夕日に黄金色に染まって見えたことなど様々です。地元の古老の中には、白南天の木の根元を掘ると黄金が出るという伝説まで伝わっています。”
【写真左】一の丸跡
 南側の頂部に当たり、現在電波塔や展望台などが設置されている。
 なお、この写真の手前は駐車場となっているが、当時はこの付近が駐屯地となっていたものと思われる。

 先ず一の丸から向かう。


安芸・武田氏と白井氏
 
 仁保城の築城期ははっきりしないが、『白井家文書』によると、明応4年(1495)に白井光胤が、武田元信から仁保島近海における海上諸公事の徴収権を安堵されている。武田元信は、銀山城(広島市安佐南区祇園町)でも紹介したように、仁保城のある位置から北北東へ約11キロ上った太田川の西岸武田山・銀山城を本拠とする鎌倉期から安芸国守護職であった。

 おそらくこの頃(明応4年)当時、白井氏はこの安芸・武田氏の家臣であったと思われ、主に海上権益の守備を任されていたものと思われる。
【写真左】帯郭か
 大幅に改変されているため、遺構の確認は困難だが、一の丸に向かう坂道の下あたりは郭跡ではなかったかと考えられる。




大内氏の進出

 大内氏が仁保城を含む広島湾岸に進出し始めたのが、大永2年(1522)頃といわれている。このころの大内氏とは義興であるが、安芸守護職であった武田氏とは度々対立し、同年3月義興は多賀谷武重・能美弾正らに命じて、仁保島の攻略を開始した。しかし、この戦いでは武田氏(白井氏ら)が防戦し、一旦兵を引いた。

 ところで、之より先立つ永正5年(1508)、周防の大内義興に従って前将軍足利義稙を擁して上洛した際、随従した元就の兄・興元が、同13年、24歳で急死し、急きょ家督を継いだ嫡男・幸松丸もまた大永3年(1523)急死することになる。毛利一族はこうした不安定な状況の態勢ながら、元就がこの年の8月、家督を継いだ。そして、その2年後の大永5年(1525)1月、改めて元就は大内氏と盟約を結んでいる。
【写真左】一の丸から保喜城・矢野城を遠望する。
 一の丸からは南東方向に発喜城・矢野城などが遠望できる。






 大内氏としては、いずれ武田氏の本拠・銀山城を北方の安芸吉田郡山城の毛利氏の支援を受けていわばは挟み撃ちにする計画もあったのだろうが、このころは毛利氏自身は一族の支配体制が脆弱なため、具体的に大内氏の命によって兵を動かす余裕はなかった。

厳島合戦

 天文20年(1551)8月、大内義隆の重臣・陶晴賢は大友晴英を擁し、ついに主君義隆追討の兵を挙げた。このとき、毛利元就は一応晴賢に協力する態度を示している。しかし、元就は晴賢に対し具体的な行動は直ぐにとらなかった。この時の判断が、後に中国の雄となる最大の分岐点となることになる。
【写真左】仁保城から厳島を遠望する。
 南西方向を見たもので、仁保城から見ると、以外と厳島が近くに見える。

 厳島の合戦は陸上戦もあったが、兵力の優位性は決定的に水軍力の確保に懸かっていた。
 広島湾岸を夥しい軍船が往来していたことだろう。



 2年後の天文22年(1553)11月、陶晴賢は石見津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)主・吉見正頼を攻めたてた。晴賢が吉見氏を攻撃するきっかけとなったのは、その前月晴賢の兵が吉見正頼らによって破られるという戦があったためであるが、吉見氏はもともと陶晴賢とは遺恨があり、さらに正頼の妻は大内義隆の姉であった。
【写真左】二の丸方面に向かう。
 一の丸から降りて、南側の二の丸に向かう。
この先にもご覧の通り電波塔関連の施設が建っている。




 そして、晴賢は吉見氏討伐の命を芸備の諸領主に発し参陣を促した。しかし、この命に対し毛利家中では何度も軍議を開いたが、なかなか結論が出なかった。
 当初、元就は自ら晴賢の下に参陣する意思を表明したが、嫡男隆元がそれを諌めた。それは次の二つの理由があったからである。

 一つは、毛利氏が石見吉見氏討伐に向かえば、出雲の尼子(晴久)が南下してくることが予想された事。二つ目は、晴賢が参陣を促してから一向に毛利氏が動かないことから、元就に対し晴賢がすでに疑いを持ち始めていたこと、そのため吉見氏討伐後、晴賢が元就を拘束するのではないか、という危惧などがあった。
【写真左】二の丸
 この階段を上がると二の丸頂部になるが、上にまで上がっていない。電波塔関係の施設しかないため、省略してしまった。

 なお、この位置から頂部までの比高が当時のままとすれば、7,8m程度はあったものと思われる。
 現地には、「ここには、城主が住む館や、親族の屋敷が置かれていた云々」と書かれた説明板が設置してある。

 このあと、さらに南側にある三の丸に向かう。


 そうこうしているうちに、陶晴賢が毛利氏へ参陣を促してからすでに足かけ3年の歳月が流れた。この間、晴賢は吉見氏との戦いが膠着状態になっていた。天文23年(1554)3月、晴賢は再び吉見氏討伐に向けて動き出した。おそらく晴賢にとってこの頃の精神状態は、業を煮やした憤りと焦りがあったのだろう。元就はじめ芸備の主だった諸将に対し、晴賢は使僧をそれぞれ遣わし督促した。

 この中で、平賀氏に遣わされた使僧は、平賀氏に拘束され、あげく毛利氏に引き渡された。平賀氏は、以前にも紹介したように、父子対立の結果、父方(広相)が勝利し毛利氏に帰属していた。
【写真左】三の丸跡・その1
 改変されているため、当時の規模は不明だが、幅10m前後×奥行20m程度の大きさが残る。





 この平賀氏の行動は、結果として元就が晴賢に決別することを意味した。

 事ここに至って、元就はついに立ち上がることになる。同年(天文23年)5月11日、元就は嫡男隆元と連名の書状「防芸引分(ぼうげいひきわけ)」、すなわち陶晴賢と全面対決する意志を安芸国人領主たちに送り、すぐさま吉田を出立した。
【写真左】三の丸跡・その2
 南側から見たもので、三の丸南端部にはさらに2m程下がった削平地があり、手前の箇所も腰郭だった可能性がある。




 陶晴賢と最後の攻防となったのが、厳島合戦(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)・宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)だが、その前哨戦の一つとなったのが、今稿の仁保城である。ちなみに、周辺で同じく繰り広げられた戦いは、発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)・草津城・己美城などが挙げられる。
【写真左】仁保城遠望・その2
 西麓の宇品方面の市街地から見たもの。