炬口城(たけのくちじょう)
●所在地 兵庫県洲本市炬口97-1外
●高さ 96m(比高80m)
●指定 兵庫県指定史跡
●築城期 永正年間(1504~20)
●築城者 安宅氏か
●城主 安宅秀興、安宅吉安、秀益等
●遺構 郭、土塁等
●高さ 96m(比高80m)
●指定 兵庫県指定史跡
●築城期 永正年間(1504~20)
●築城者 安宅氏か
●城主 安宅秀興、安宅吉安、秀益等
●遺構 郭、土塁等
●備考 万歳山・秋葉山
●登城日 2017年9月9日
●登城日 2017年9月9日
洲本市教育委員会の資料を元に、管理人が想像して描いたもので、北郭から二の丸にかけてはかなり大きな堀切があり、東斜面の竪堀とは別に西側斜面にも畝状竪堀群が構成されている。
また、本丸は左図にもあるように、中央部の低くなったところが本郭で、その南及び北にも一段高くなった郭(南郭・北郭)が本郭を囲むようになっている。
虎口は図では東斜面のみしか描かれていないが、西側にもある。
安宅八家衆
炬口城についてはこれまで洲本城や河内・飯盛山城、並びに丹波・八木城・その1で少し触れてきたように、三好長慶が畿内を支配したころの主だった城郭の一つで、長慶の実弟安宅冬康が淡路島を支配下に治めていた居城の一つである。
ところで室町後期、それまで淡路国守護であった細川氏が、阿波の三好氏に滅ぼされたのは永正16年(1519)といわれる。
永正14年の三好之長(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)による淡路侵攻によって一旦和泉に逃れた淡路守護第7代の細川尚春は、その2年後の永正16年阿波国において之長によって殺害され、ここに淡路守護細川家は没落した。
【写真左】炬口八幡神社 炬口城の南麓に鎮座する社で、境内側から炬口城へ向かうコースが設定されている。
この後同国内(島内)では各地の国人領主が台頭する状況が出たが、その中でも最強の勢力を誇ったのが安宅氏である。
安宅氏については、すでに白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)の稿でも紹介したように、阿波水軍を率いた水軍領主で、同氏はその後淡路島内の主だった要所に8か所の城を築いた。これが「安宅八家衆の城」と呼ばれている。
【写真左】案内図現地に設置された里山防災林整備事業の説明板に炬口城を示す万蔵山を中心とした地図があったので、参考までに添付して置く。
安宅八家衆の城
- 洲本城 洲本城(兵庫県洲本市小路谷・三熊山)(参照)
- 炬口城 洲本市炬口97
- 由良古城 洲本市由良町由良古城山
- 猪鼻城 洲本市千種丙字猪鼻
- 白巣城 白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)(参照)
- 安乎城(城腰城) 洲本市安乎町
- 岩屋城 淡路市岩屋
- 湊城 南あわじ市湊
境内を抜けて奥の方に向かうと、左側に階段が見えてくる。手前に標柱が見えているが、これに「万蔵山、炬口城跡登山口」と書かれている。
安宅冬康・信康
白巣城の稿でも述べたように、天文18年(1549)三好長慶は、実弟の冬康を安宅氏に入れ、淡路水軍をより強固なものとしていった。しかし、のちに長慶がその冬康を殺害するという事態が生じると、次第に三好一族の瓦解が始まることになる。
冬康が亡くなったあとを引き継いだのが信康といわれる。このころはすでに三好一族の基盤は松永久秀や三好三人衆にとって代わり、三好氏惣領家の力は微力なものとなっていた。
【写真左】東側の虎口に向かう分岐点 登城したのが9月だったこともあり、登城道の前半は草丈が伸びていたが、途中からしっかりした道になった。
写真はこの位置から左に登ると炬口城の主郭に繋がり、そのまま奥の道を進むと、炬口二町目、戎神社方面へ繋がる。
信康は元亀3年(1572)織田信長に降り、信長の臣下となって戦い続けた。中でも天正4年(1576)の第一次木津川河口の戦いを皮切りに、織田VS毛利の戦いに参戦した。
信康の名はおそらくこの時信長から偏諱を受けたものだろう。しかし、この信康も天正6年(1578)にわずか30歳で死去したとされる。
もっとも信康以降の安宅氏の動きについては、一次史料で実在そのものを示すものがなく、今のところ詳細は不明である。
【写真左】虎口 分岐点から登坂を上がっていくと虎口が見えてきた。
草丈が伸びているため、周辺部は不明瞭だが、右側に向かうと一段高くなった北郭があり、左に向かうと、同じく一段高くなった南郭がある。
虎口を過ぎると、本郭の中央部に向かう。
縄張り
炬口城はおよそ南北に伸びる尾根筋に本丸、二の丸、そして北端部に出丸を配置する縄張構成となっている。本丸は方形による区画がなされ、南北約50m×東西約50mの郭を中央に配し、周囲には土塁が囲繞している。この土塁の外側南北尾根筋にはそれぞれ堀切が配置されより効果が高まっている。
【写真左】本郭 ほぼ四角形の形をした郭で、写真はその中心部に当たる。
東西の虎口以外は土塁で囲繞されている。
本丸の中は中央部が低く、南と北にそれぞれ高くなった段(南郭・北郭)で構成されている。また、虎口が東西にそれぞれ1か所づつ設けられ、中央に向かうようになっているが、東側のものは入ってすぐに北郭にアクセスするようにもなっている。
本丸の北端部はかなり大規模な堀切が配置され、その北側に二の丸が控える。洲本市教育委員会によれば、この堀切は淡路島の中でも最大規模のものとされる。
なお、本丸・二の丸から少し隔てた北側には東西に延びた削平地を持つ出丸が控えているが、現状はあまり整備されていないようだ。
奥に土塁が見える。このあとその土塁に上がることにする。
【写真左】土塁に上がる。 ちょうど手前(虎口の南隅)に階段があったので、ここから土塁に上がる。
【写真左】土塁天端から本郭を見る。 木々や雑草が繁茂しているため、分かりずらいが、左側が西の方に伸びる土塁で、右下に北郭が見える。
このあと、土塁の上をぐるっと時計回りに進んでみる。
土塁の保存度は木立が生えているものの良好で、この位置からは中がよく見える。
【写真左】切岸 土塁の外側を見たもので切岸となっている。
【写真左】土塁の角を曲がって北側を見る。 土塁から中の郭に降りてみたもので、この位置から見ると土塁の高さが予想以上にあることが分かる。
順番が前後するが、西側の土塁の一角には竪堀の始点と思われる個所が見える。
ただ、見方によっては馬出しにも見える。
【写真左】竪堀 空堀の方へ向かう途中に竪堀もある。
【写真左】空堀 当城の見どころの一つで、この空堀の遺構は見ごたえがある。
【写真左】石碑の残骸? 花崗岩のような石材で、角型の石造物の一部と思われるが、屋根のような形もあるので灯篭のようなものだったかもしれない。
【写真左】空堀から土塁を見る。【写真左】二の丸 空堀を越えてさらに北に登ると二の丸が控える。
本丸ほどの丁寧な普請は感じられないが、広さはかなりのものだ。
このあと再び本丸に戻る。
本丸の北部にある郭で、おそらくこの辺りが最高所だろう。
このあと本丸周辺を散策した後、一旦登城道の分岐点まで戻り、もう少し奥の方へ向かう。
安宅氏が支配していた頃、両城間で烽火などを使って連絡し合っていたのだろう。
【写真左】再び空堀 先ほど本丸と二の丸の間にあった空堀が、北に進むこの登城道まで延びてきていた。
かなり長い規模の空堀である。
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