三河・野田城(みかわ・のだじょう)
●所在地 愛知県新城市豊島字本城
●別名 根古屋城
●築城期 永正5年(1508)
●築城者 菅沼定則
●城主 菅沼氏
●指定 新城市指定史跡
●高さ 50m(比高10m)
●形態 平山城
●遺構 郭・土塁・堀・井戸等
●登城日 2016年11月5日
◆解説
三河・野田城(以下「野田城」とする。)は、前稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) が所在する位置から、豊川沿いにおよそ10キロ余り下った同市豊島本城に築かれた平城である。
【写真左】野田城の石碑
「野田城址」と筆耕された石碑が建つ。
現地の説明板・その1
‟野田城跡
この城は、永正5年(1508)に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈等がここを居城とした。
城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18年定盈が関東へ入封されるまで続いた。
野田城の城主は、前稿で紹介した長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) と同じく菅沼一族である。もともと今川氏の支配下にあったが、その後徳川氏に属した。
説明板にもあるように、野田城の初代城主・菅沼定則のころは今川氏に属し、東三河の抑えを任されていたが、享禄2年(1529)徳川家康の祖父・清康(三河松平氏)の三河宇利城攻めの際、軍功があり吉田・宇利の二郡を与えられ、この周辺部の国衆らは定則の勧誘によって徳川清康の支配下となった。因みに、このころ清康は一時的ではあったが三河国統一を成し遂げている。
【写真左】入口付近
野田城の入口は当時の三の丸の西側にある。写真はその前を道路が設置されているが、当時はこの道は本丸から三の丸間を連絡する犬走があった可能性が高い。
因みに道路の右側には龍渕と呼ばれる濠が三か所に亘って長く伸びていた。
さて、定則の孫は定盈(さだみつ)である。徳川家康と同じく天文11年(1542)生まれといわれている。因みにこの年は、武田晴信(信玄)が諏訪頼重を甲斐国に幽閉させたのち自害させ、また、出雲国では山口の大内義隆が毛利元就らを引き従わせ、尼子晴久の居城・月山富田城攻めを開始した年でもある。
定盈は19歳のとき家康に属している。定盈の父・定村の頃は今川氏に帰順していたようだが、同氏を含めた山家三方衆の分裂が生じ、この戦いによって定村は弘治2年(1556)に不慮の事故で亡くなっている。享年35歳。
家康に仕えた定盈はその後離反することなく、一貫して家康の忠勤に励んだ。この後、遠江の高天神城攻めや、小牧・長久手の戦いに武功を挙げ、家康の江戸開幕に伴って上野国阿保で1万石を領した。
【写真左】二の丸
入口から入るとすぐに二の丸に至る。奥には既に本丸に祀られている稲荷神社が見えている。
なお、左側には三の丸があるが、どういうわけか管理人は写真に撮っていない。おそらく、この時は整備されていなかったかから撮っていなかったかもしれない。
【写真左】竪堀
二の丸と本丸の間にある竪堀。上述した平面図にもあるように、三の丸・二の丸・本丸の3郭間の接続部は全体に絞られ、両側には竪堀で構成されている。
平面部分の深さは現在では相当埋まったせいか浅いが、当時はもう少し深かったものと思われる。
【写真左】反対側
奥に道路が見えるが、当時はそうしたものはなく、犬走か若しくはそのまま「龍渕」の方へ傾斜した竪堀だったのだろう。
“野田の戦
元亀4年(1573)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。菅沼定盈(さだみつ)の守るこの野田城を攻撃するためであった。
野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。
定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。
"伝 信玄公、狙撃場所
笛の音に誘われた武田信玄をこの付近より火縄銃にて狙撃した。
その銃は銃身だけが設楽原歴史資料館に展示してある。
新城市教育委員会”
【写真左】信玄が狙撃された場所
南側の郭に設置されているので、信玄は野田城の南麓側、即ち龍渕側に居たのだろう。
伝承では、城内から美しい笛の音が流れ、それに誘われた信玄が本陣を抜け出した途端、定盈の家臣鳥居三左衛門の銃によって狙撃されたという。この鳥居三左衛門は、前稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) で紹介した鳥居強右衛門と同姓だが、その関係は分からない。
この戦いのあと、信玄は亡くなるのだが、そのきっかけがこのときの狙撃によるものという説もある。ただ、最近では信玄が亡くなる6年前から患っていた胃がんが原因とされている。
【写真左】井戸・その1
本丸と侍屋敷の境に当たる南東部に井戸が設けられている。
他の城郭では水源の確保が困難な場所が多く、城域から離れた場所に設けられることが多いが、この場所に井戸を確保できたことは菅沼氏らにとって大いに助かったことだろう。
【写真左】井戸・その2
だいぶ埋まってはいるが、直径は3m近くはあるだろう。
●所在地 愛知県新城市豊島字本城
●別名 根古屋城
●築城期 永正5年(1508)
●築城者 菅沼定則
●城主 菅沼氏
●指定 新城市指定史跡
●高さ 50m(比高10m)
●形態 平山城
●遺構 郭・土塁・堀・井戸等
●登城日 2016年11月5日
◆解説
三河・野田城(以下「野田城」とする。)は、前稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) が所在する位置から、豊川沿いにおよそ10キロ余り下った同市豊島本城に築かれた平城である。
【写真左】野田城の石碑
「野田城址」と筆耕された石碑が建つ。
現地の説明板・その1
‟野田城跡
この城は、永正5年(1508)に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈等がここを居城とした。
城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18年定盈が関東へ入封されるまで続いた。
昭和56年3月1日 新城市教育委員会”
【写真左】野田城の平面図
この図は縄張図ではないが、もともと平城であるため郭間の高低差もさほどないため、現在では険峻さを感じない。
しかし、当城の特徴は南北に配置された連続する渕と呼ばれた濠が最大の防御だったのだろう。
菅沼定盈この図は縄張図ではないが、もともと平城であるため郭間の高低差もさほどないため、現在では険峻さを感じない。
しかし、当城の特徴は南北に配置された連続する渕と呼ばれた濠が最大の防御だったのだろう。
野田城の城主は、前稿で紹介した長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) と同じく菅沼一族である。もともと今川氏の支配下にあったが、その後徳川氏に属した。
説明板にもあるように、野田城の初代城主・菅沼定則のころは今川氏に属し、東三河の抑えを任されていたが、享禄2年(1529)徳川家康の祖父・清康(三河松平氏)の三河宇利城攻めの際、軍功があり吉田・宇利の二郡を与えられ、この周辺部の国衆らは定則の勧誘によって徳川清康の支配下となった。因みに、このころ清康は一時的ではあったが三河国統一を成し遂げている。
【写真左】入口付近
野田城の入口は当時の三の丸の西側にある。写真はその前を道路が設置されているが、当時はこの道は本丸から三の丸間を連絡する犬走があった可能性が高い。
因みに道路の右側には龍渕と呼ばれる濠が三か所に亘って長く伸びていた。
さて、定則の孫は定盈(さだみつ)である。徳川家康と同じく天文11年(1542)生まれといわれている。因みにこの年は、武田晴信(信玄)が諏訪頼重を甲斐国に幽閉させたのち自害させ、また、出雲国では山口の大内義隆が毛利元就らを引き従わせ、尼子晴久の居城・月山富田城攻めを開始した年でもある。
定盈は19歳のとき家康に属している。定盈の父・定村の頃は今川氏に帰順していたようだが、同氏を含めた山家三方衆の分裂が生じ、この戦いによって定村は弘治2年(1556)に不慮の事故で亡くなっている。享年35歳。
家康に仕えた定盈はその後離反することなく、一貫して家康の忠勤に励んだ。この後、遠江の高天神城攻めや、小牧・長久手の戦いに武功を挙げ、家康の江戸開幕に伴って上野国阿保で1万石を領した。
【写真左】二の丸
入口から入るとすぐに二の丸に至る。奥には既に本丸に祀られている稲荷神社が見えている。
なお、左側には三の丸があるが、どういうわけか管理人は写真に撮っていない。おそらく、この時は整備されていなかったかから撮っていなかったかもしれない。
【写真左】竪堀
二の丸と本丸の間にある竪堀。上述した平面図にもあるように、三の丸・二の丸・本丸の3郭間の接続部は全体に絞られ、両側には竪堀で構成されている。
平面部分の深さは現在では相当埋まったせいか浅いが、当時はもう少し深かったものと思われる。
【写真左】反対側
奥に道路が見えるが、当時はそうしたものはなく、犬走か若しくはそのまま「龍渕」の方へ傾斜した竪堀だったのだろう。
現地の説明板・その2
元亀4年(1573)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。菅沼定盈(さだみつ)の守るこの野田城を攻撃するためであった。
野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。
定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。
新城市教育委員会”
【写真左】本丸へ向かう。
手前は二の丸から本丸へつなぐ通路だが、当時は土橋で繋がれていたのかもしれない。
【写真左】本丸・その1
北西の角に稲荷の鳥居が見えるが、その右側は少し下がった段になっており、次第に南東部に郭が伸びる。
【写真左】野田城稲荷
菅沼一族の家紋は複数あるようだが、この家紋はそのうちの「菅沼三つ目」といわれるもの。
【写真左】侍屋敷
本丸からさらに南に下がると、侍屋敷といわれる郭がある。
主だった家臣たちの住居は主として南を流れる豊川沿いに配置されていたのだろう。
【写真左】切岸
侍屋敷の北側斜面に当たる箇所で、この付近になると、桑渕は途切れているが、切岸の下方に最下段の郭を置き、その周りを杉川という豊川の支流が流れている。
狙撃された信玄
本丸から少し南に下がった郭の一角に「伝 信玄公、狙撃場所」と書かれた場所がある。
これは元亀4年・天正元年(1573)1月から2月にかけて行われた武田軍と徳川軍の戦いで信玄が野田城を包囲していた時、城内から信玄を標的にして火縄銃が放たれ、疵を負ったといわれるものである。
手前は二の丸から本丸へつなぐ通路だが、当時は土橋で繋がれていたのかもしれない。
【写真左】本丸・その1
北西の角に稲荷の鳥居が見えるが、その右側は少し下がった段になっており、次第に南東部に郭が伸びる。
【写真左】野田城稲荷
菅沼一族の家紋は複数あるようだが、この家紋はそのうちの「菅沼三つ目」といわれるもの。
【写真左】侍屋敷
本丸からさらに南に下がると、侍屋敷といわれる郭がある。
主だった家臣たちの住居は主として南を流れる豊川沿いに配置されていたのだろう。
【写真左】切岸
侍屋敷の北側斜面に当たる箇所で、この付近になると、桑渕は途切れているが、切岸の下方に最下段の郭を置き、その周りを杉川という豊川の支流が流れている。
狙撃された信玄
本丸から少し南に下がった郭の一角に「伝 信玄公、狙撃場所」と書かれた場所がある。
これは元亀4年・天正元年(1573)1月から2月にかけて行われた武田軍と徳川軍の戦いで信玄が野田城を包囲していた時、城内から信玄を標的にして火縄銃が放たれ、疵を負ったといわれるものである。
現地の説明板・その3
笛の音に誘われた武田信玄をこの付近より火縄銃にて狙撃した。
その銃は銃身だけが設楽原歴史資料館に展示してある。
新城市教育委員会”
【写真左】信玄が狙撃された場所
南側の郭に設置されているので、信玄は野田城の南麓側、即ち龍渕側に居たのだろう。
伝承では、城内から美しい笛の音が流れ、それに誘われた信玄が本陣を抜け出した途端、定盈の家臣鳥居三左衛門の銃によって狙撃されたという。この鳥居三左衛門は、前稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) で紹介した鳥居強右衛門と同姓だが、その関係は分からない。
この戦いのあと、信玄は亡くなるのだが、そのきっかけがこのときの狙撃によるものという説もある。ただ、最近では信玄が亡くなる6年前から患っていた胃がんが原因とされている。
本丸と侍屋敷の境に当たる南東部に井戸が設けられている。
他の城郭では水源の確保が困難な場所が多く、城域から離れた場所に設けられることが多いが、この場所に井戸を確保できたことは菅沼氏らにとって大いに助かったことだろう。
【写真左】井戸・その2
だいぶ埋まってはいるが、直径は3m近くはあるだろう。
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