播磨・小谷城(はりま・こだにじょう)
●所在地 兵庫県加西市北条町小谷字城山
●高さ 218m(比高110m)
●築城期 不明
●築城者 赤松氏
●城主 赤松直操(竜門院直操)、赤松祐尚等
●遺構 郭・堀切・土塁・竪堀・横堀その他
●登城日 2015年9月23日
◆解説
出雲から関西方面へ向かう際、管理人はときどき中国自動車道を利用するのだが、それまで何度も通っていながら気が付かなかった山城である。
場所は加西SAと加西ICのほぼ中間点に当たり、秋口から初冬にかけて走っていると、瞬間だが北側に本丸に設置された「小谷城跡」と記された看板が見える。以下「播磨・小谷城」を「小谷城」とする。
【写真左】小谷城遠望
南側から見たもので、主郭付近が綺麗に伐採されていることが分かる。
【左図】小谷城要図
現地に掲示してあった図をもとに管理人によって主だった遺構個所を彩色したもの。
現地の説明板
"小谷城主 赤松祐尚とその墓地
嘉吉の乱(1441)後、小谷城は落城したが、応仁の乱(1467~77)によって赤松氏が再興すると、赤松祐尚(すけひさ)が城主となった。祐尚は、敬神、菩提心の厚い武将で寺社の修築、耕地の整理、市場の開設など領内の治世に尽力し、領民から慕われた。
小谷城南山麓の禅寺は、天文元年(1532)祐尚が菩提寺として建立したもので、山門には三つ巴と丸に二引両の紋がすえられている。同寺は、祐尚の名をとって「祐尚山(ゆうしょうざん)」と山号を定め、小谷城の東側に朝夕陽光を受けて立っていた老松より「陽松寺(ようしょうじ)」と名付けたと伝えられる。
しかし、天文11年(1542)に播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ったが敗れて討死し、後にこの地に追善墓として祀られている。この墓の近くには小谷城の戦いで落命した武士たちを供養した五輪塔・一石五輪塔が林立しており、その一角に五輪墓塔の残欠が集められているなど、小谷城の戦いが激しかったことを今に伝えている。
平成26年(2014)1月吉日
祐尚山陽松寺 小谷城跡保存会”
●所在地 兵庫県加西市北条町小谷字城山
●高さ 218m(比高110m)
●築城期 不明
●築城者 赤松氏
●城主 赤松直操(竜門院直操)、赤松祐尚等
●遺構 郭・堀切・土塁・竪堀・横堀その他
●登城日 2015年9月23日
◆解説
出雲から関西方面へ向かう際、管理人はときどき中国自動車道を利用するのだが、それまで何度も通っていながら気が付かなかった山城である。
場所は加西SAと加西ICのほぼ中間点に当たり、秋口から初冬にかけて走っていると、瞬間だが北側に本丸に設置された「小谷城跡」と記された看板が見える。以下「播磨・小谷城」を「小谷城」とする。
【写真左】小谷城遠望
南側から見たもので、主郭付近が綺麗に伐採されていることが分かる。
【左図】小谷城要図
現地に掲示してあった図をもとに管理人によって主だった遺構個所を彩色したもの。
なお、現在の登城コースは左側から進んで、虎口の手前あたりから入城できるようになっている。
現地の説明板
"小谷城主 赤松祐尚とその墓地
嘉吉の乱(1441)後、小谷城は落城したが、応仁の乱(1467~77)によって赤松氏が再興すると、赤松祐尚(すけひさ)が城主となった。祐尚は、敬神、菩提心の厚い武将で寺社の修築、耕地の整理、市場の開設など領内の治世に尽力し、領民から慕われた。
小谷城南山麓の禅寺は、天文元年(1532)祐尚が菩提寺として建立したもので、山門には三つ巴と丸に二引両の紋がすえられている。同寺は、祐尚の名をとって「祐尚山(ゆうしょうざん)」と山号を定め、小谷城の東側に朝夕陽光を受けて立っていた老松より「陽松寺(ようしょうじ)」と名付けたと伝えられる。
しかし、天文11年(1542)に播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ったが敗れて討死し、後にこの地に追善墓として祀られている。この墓の近くには小谷城の戦いで落命した武士たちを供養した五輪塔・一石五輪塔が林立しており、その一角に五輪墓塔の残欠が集められているなど、小谷城の戦いが激しかったことを今に伝えている。
平成26年(2014)1月吉日
祐尚山陽松寺 小谷城跡保存会”
(※下線管理人による)
【写真左】陽松禅寺
小谷城南西麓に建立されている禅寺で、加西市準西国第32番札所でもある。
なお、この日当院より西方に建立されている曹洞宗大安山 正楽寺の方と勘違いし、迷っていたら正楽寺のご住職さんにこちらの寺まで案内してもらった。改めてお礼申し上げたい。
因みに、陽松寺は現在無住のため、件のご住職がこちらのお寺も兼務しておられるというということだった。
小谷城南西麓に建立されている禅寺で、加西市準西国第32番札所でもある。
なお、この日当院より西方に建立されている曹洞宗大安山 正楽寺の方と勘違いし、迷っていたら正楽寺のご住職さんにこちらの寺まで案内してもらった。改めてお礼申し上げたい。
因みに、陽松寺は現在無住のため、件のご住職がこちらのお寺も兼務しておられるというということだった。
赤松祐尚
説明板にもあるように、築城期は不明ながら嘉吉の乱以前にすでに築城されていたとしている。置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも紹介したように、赤松氏再興後当城の城主となった赤松祐尚は、嘉吉の乱の首謀者満祐の兄弟(おそらく弟)に当たる。
因みに、現地に設置されていた城郭研究家・木内内則(ただのり)氏の資料によれば、嘉吉の乱の頃の城主は、赤松満祐の弟直操(なおみち)で、彼は竜門院直操(りゅうもんいん ちょくそう)とも呼ばれた僧侶であったという。将軍足利義教を謀殺した満祐は、その後地元播磨の木山城において山名宗全らによって攻められ自刃、赤松氏惣領家は没落することになる。このとき小谷城主であった直操も自害の道を選んだのだものと思われる。
【写真左】五輪塔・一石五輪塔の墓石群
陽松寺の東側を抜けて山の方に向かうと、途中でご覧の墓石が並んでいる。
天文年間、播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ったものの、破れ討死した部将たちの供養塔といわれている。なお、尼子氏による当城攻めの時期については、後段で考察している。
さて、赤松氏の滅亡の後、当地を治めたのは但馬守護であった山名氏であるが、文明元年(1469)、赤松政則は応仁の乱が始まる頃、再び同家を再興し再び播磨を治めていくことになる。
そして、説明板にもあるように、天文元年(1532)祐尚が菩提寺として小谷城南山麓に禅寺を建てた。これが写真で紹介している「加西市準西国 第三十二番札所 陽松禅寺」である。
また、小谷城の再建についても、木内氏の資料によれば、天文10年(1542とあるが、1541年)赤松祐尚が行い、住吉神社改築、酒見寺講堂の寄進などもおこなったとある。このように祐尚の事績を辿ってみると、彼は当時としてははかなり長命であったと推測される。
【写真左】赤松祐尚の墓
上掲した墓石群とは別に、登城口付近に建立されているもので、赤松祐尚の墓と刻銘されている。
墓の形式を見る限り、当時の墓ではなく、後に改修された墓石のようだ。
【写真左】登城口
墓石群を通り抜けるとやがて前方に登城口の案内標識が設置してある。「小谷城跡遊歩道登山口」並びに「ようこそ小谷城跡ふれあいの森へ」と書かれた看板がある。
ゲートは鳥獣対策として施錠式の門扉となっており、入城後施錠しておく。
尼子氏の播磨侵攻
ところで、冒頭の説明板に天文11年(1542)尼子氏が播磨に侵攻してきた、と記されているが、天文11年は、山口の大内義隆を筆頭に、毛利元就などの大軍が月山富田城攻略のため出雲国に進入してきた年で、尼子氏を中心とする主力部隊は殆ど他国に出陣などできる状況ではなかった。
従って、尼子氏が当城(播磨・小谷城)を攻めたのは、この年(天文11年)ではなく、天文6年(1537)当時詮久(あきひさ)と名乗っていた尼子晴久が、播磨国に入り、翌7年赤松政村(晴政)を淡路に放逐、さらに同8年(1539)晴政を破ったときと思われる(三石城(岡山県備前市三石)参照)。
従って、赤松祐尚が当城を改築して間もなく、尼子氏によって攻略されたものと思われる。
【写真左】登城道
保存会の皆さんによって整備されているのだろう、特に険しい箇所もなく、歩きやすい道である。
【写真左】眼下に中国自動車道
登城途中に見えたもので、右(西)に行けば福崎IC、左(東)に向かうと加西ICに繋がる。
【写真左】視界が開けてきた。
途中までは木立に遮られ、やや暗い道を進むが、この辺りから一挙に明るくなる。
【写真左】南側の入口
上に「小谷城跡」の看板が見える。
【写真左】空堀
横堀ともいえるかもしれないが、南側に東西にわたって長く伸びている。当時はもう少し深く、さらに右側の土塁はもっと高くなっていたのだろう。
【写真左】尾根西側頂部
先ず尾根伝いに西に進んで、頂部と思われる箇所に向かう。
この付近での最高所と思われる箇所で、櫓などがあったかもしれない。
【写真左】改めて本丸方向に向かう。
途中に橋のようなものが見えるが、これが堀切(下の写真参照)。
【写真左】堀切
橋の上から見たもので、北側の斜面。
【写真左】竪堀
小谷城には多くの竪堀が残るが、これはそのうち第5郭の西側にあるもの。
【写真左】第5郭
【写真左】虎口
大分埋まっているようだが、虎口の形状を残している。
【写真左】L字状の空堀
【写真左】西小丸
【写真左】西小丸から東に本丸方面を見る
西小丸から東の郭段に向かうにつれ次第に高くなっていく。
【写真左】堀切
この箇所の堀切は当城の中でも最大のもの。
【写真左】第五郭
さらに東に進んで主郭を目指す。
【写真左】第三郭
【写真左】「ひめじ 官兵衛」の幟
この場所にも官兵衛(黒田)の幟が建っていたのには驚いた。
【写真左】手前第二郭、奥に第一郭(主郭・本丸)
【写真左】本丸跡に建つ看板
本丸から北方を見たもので、奥に見える山並みとの間には谷が広がる。
【写真左】本丸北東端から南西麓を見る。
展望台のような建物がある附近が本丸の位置になるが、そこからさらに高くなった箇所があり、この位置からはさらに視界が広がる。
【写真左】空堀
先ほどの位置から更に北東方向に進むと、尾根は下り、本丸(第一郭)を包むように空堀が囲繞している。この空堀の北東部では一条の竪堀と繋がり、そのまま下に向かっている。
【写真左】本丸から南に中道子山城を遠望する。
小谷城から南におよそ12キロ余り隔てた位置に以前取り上げた、同じく赤松氏の中道子山城(兵庫県加古川市志方町岡)が見える。
説明板にもあるように、築城期は不明ながら嘉吉の乱以前にすでに築城されていたとしている。置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも紹介したように、赤松氏再興後当城の城主となった赤松祐尚は、嘉吉の乱の首謀者満祐の兄弟(おそらく弟)に当たる。
因みに、現地に設置されていた城郭研究家・木内内則(ただのり)氏の資料によれば、嘉吉の乱の頃の城主は、赤松満祐の弟直操(なおみち)で、彼は竜門院直操(りゅうもんいん ちょくそう)とも呼ばれた僧侶であったという。将軍足利義教を謀殺した満祐は、その後地元播磨の木山城において山名宗全らによって攻められ自刃、赤松氏惣領家は没落することになる。このとき小谷城主であった直操も自害の道を選んだのだものと思われる。
【写真左】五輪塔・一石五輪塔の墓石群
陽松寺の東側を抜けて山の方に向かうと、途中でご覧の墓石が並んでいる。
天文年間、播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ったものの、破れ討死した部将たちの供養塔といわれている。なお、尼子氏による当城攻めの時期については、後段で考察している。
さて、赤松氏の滅亡の後、当地を治めたのは但馬守護であった山名氏であるが、文明元年(1469)、赤松政則は応仁の乱が始まる頃、再び同家を再興し再び播磨を治めていくことになる。
そして、説明板にもあるように、天文元年(1532)祐尚が菩提寺として小谷城南山麓に禅寺を建てた。これが写真で紹介している「加西市準西国 第三十二番札所 陽松禅寺」である。
また、小谷城の再建についても、木内氏の資料によれば、天文10年(1542とあるが、1541年)赤松祐尚が行い、住吉神社改築、酒見寺講堂の寄進などもおこなったとある。このように祐尚の事績を辿ってみると、彼は当時としてははかなり長命であったと推測される。
【写真左】赤松祐尚の墓
上掲した墓石群とは別に、登城口付近に建立されているもので、赤松祐尚の墓と刻銘されている。
墓の形式を見る限り、当時の墓ではなく、後に改修された墓石のようだ。
【写真左】登城口
墓石群を通り抜けるとやがて前方に登城口の案内標識が設置してある。「小谷城跡遊歩道登山口」並びに「ようこそ小谷城跡ふれあいの森へ」と書かれた看板がある。
ゲートは鳥獣対策として施錠式の門扉となっており、入城後施錠しておく。
尼子氏の播磨侵攻
ところで、冒頭の説明板に天文11年(1542)尼子氏が播磨に侵攻してきた、と記されているが、天文11年は、山口の大内義隆を筆頭に、毛利元就などの大軍が月山富田城攻略のため出雲国に進入してきた年で、尼子氏を中心とする主力部隊は殆ど他国に出陣などできる状況ではなかった。
従って、尼子氏が当城(播磨・小谷城)を攻めたのは、この年(天文11年)ではなく、天文6年(1537)当時詮久(あきひさ)と名乗っていた尼子晴久が、播磨国に入り、翌7年赤松政村(晴政)を淡路に放逐、さらに同8年(1539)晴政を破ったときと思われる(三石城(岡山県備前市三石)参照)。
従って、赤松祐尚が当城を改築して間もなく、尼子氏によって攻略されたものと思われる。
【写真左】登城道
保存会の皆さんによって整備されているのだろう、特に険しい箇所もなく、歩きやすい道である。
【写真左】眼下に中国自動車道
登城途中に見えたもので、右(西)に行けば福崎IC、左(東)に向かうと加西ICに繋がる。
【写真左】視界が開けてきた。
途中までは木立に遮られ、やや暗い道を進むが、この辺りから一挙に明るくなる。
【写真左】南側の入口
上に「小谷城跡」の看板が見える。
【写真左】空堀
横堀ともいえるかもしれないが、南側に東西にわたって長く伸びている。当時はもう少し深く、さらに右側の土塁はもっと高くなっていたのだろう。
【写真左】尾根西側頂部
先ず尾根伝いに西に進んで、頂部と思われる箇所に向かう。
この付近での最高所と思われる箇所で、櫓などがあったかもしれない。
【写真左】改めて本丸方向に向かう。
途中に橋のようなものが見えるが、これが堀切(下の写真参照)。
【写真左】堀切
橋の上から見たもので、北側の斜面。
【写真左】竪堀
小谷城には多くの竪堀が残るが、これはそのうち第5郭の西側にあるもの。
【写真左】第5郭
【写真左】虎口
大分埋まっているようだが、虎口の形状を残している。
【写真左】L字状の空堀
【写真左】西小丸
【写真左】西小丸から東に本丸方面を見る
西小丸から東の郭段に向かうにつれ次第に高くなっていく。
【写真左】堀切
この箇所の堀切は当城の中でも最大のもの。
【写真左】第五郭
さらに東に進んで主郭を目指す。
【写真左】第三郭
【写真左】「ひめじ 官兵衛」の幟
この場所にも官兵衛(黒田)の幟が建っていたのには驚いた。
【写真左】手前第二郭、奥に第一郭(主郭・本丸)
【写真左】本丸跡に建つ看板
本丸から北方を見たもので、奥に見える山並みとの間には谷が広がる。
【写真左】本丸北東端から南西麓を見る。
展望台のような建物がある附近が本丸の位置になるが、そこからさらに高くなった箇所があり、この位置からはさらに視界が広がる。
【写真左】空堀
先ほどの位置から更に北東方向に進むと、尾根は下り、本丸(第一郭)を包むように空堀が囲繞している。この空堀の北東部では一条の竪堀と繋がり、そのまま下に向かっている。
【写真左】本丸から南に中道子山城を遠望する。
小谷城から南におよそ12キロ余り隔てた位置に以前取り上げた、同じく赤松氏の中道子山城(兵庫県加古川市志方町岡)が見える。
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