備後・泉山城(びんご・いずみやまじょう)
●所在地 広島県神石郡神石高原町福永
●高さ 547m(比高70m)
●築城期 享禄元年(1528)
●築城者 岡伯耆守信平入道真禅(尼子氏家臣)
●城主 岡氏
●形態 連郭式山城
●遺構 郭等
●登城日 2015年9月7日
◆解説
備後・泉山城(以下「泉山城」とする)は、広島県神石高原町に所在し、以前取り上げた八尾城(広島県神石高原町福永)の南西500mの位置にある。
【写真左】泉山城遠望
南麓には禅宗系の寺院・恩定寺があり、その境内奥に進と坂道があり、そこから向かうようになっている。
現地の説明板より
“泉山城址(いずみやま じょうし)
戦国時代、当地方は対立する出雲の尼子と吉田の毛利との接触地となり、城郭の必要を生じ各地に山城が構築された。
泉山城は、尼子の家来岡伯耆守信平入道真禅(おかほうきのかみのぶひら にゅうどうしんぜん)が、享禄元年(1528)に築城したといわれている。
続いて岡伯耆守景信・同孫三郎・同泉守・同左衛門尉景経が城主となる。
天文21年(1552)と、天文23年(1554)に尼子・毛利の激戦がこの地で繰り広げられた。
弘治3年(1557)には、この城をはじめ神石町内の各城は、毛利元就に従属するようになった。
元就の三男小早川隆景が、この城を巡視して「難攻不落の名城である。」と賞賛したということである。
この城には、軍資金の財宝を埋めかくし、その目印に白南天を植えたとか、天狗が高い松に登って敵情を偵察したという天狗松の口伝が残っている。
神石町教育委員会
神石町文化財保護委員会”
【写真左】恩定寺
当院の縁起等は不明だが、この近くに城主岡氏らの屋敷があったものと思われる。
岡氏
上掲した説明板では、泉山城の築城者は、尼子の家臣・岡信平とされている。管理人の手元には同氏に関する資料がないため詳細は不明だが、唯一尼子分限帳の中で、惣侍衆として因幡に岡左兵衛なる人物が記録として残っている。もちろん、左兵衛と泉山城主の岡氏との繋がりがあるのか不明である。ただ、元々この地は室町時代から続く宮氏が治めていた場所で、岡氏の泉山城入城に当たっては、おそらく宮氏が尼子氏に属した背景もあったものと思われる。
さて、泉山城の築城期は享禄元年(1528)とされているので、丁度同国(備後国)の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を尼子経久が攻略した年に当たる。
経久が備後国に侵攻し始めるきっかけとなったのは、山口の大内義興が石見守護国守護職に任じられた永正14年(1517)ごろからである。具体的な動きが始まるのは、義興が京から本国山口に帰国した翌年(永正15年)からであるが、経久もこのころは細川高国などに京極高清の援護を求められたりするなど、直接大内氏と戦火を交えていない。しかし、大永4年(1524)の7月から8月にかけて、当時大内方であった安芸の銀山城(広島市安佐南区祇園町)を尼子経久が、毛利元就と連合して攻撃し出したころから大きく動いた。
このころ、大内方の主力として奮闘していたのは、陶興房(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)であったが、それまで尼子氏に協力していた毛利元就は、興房の巧みな勧誘もあって、尼子氏を離れ大内氏につくようになった。
この間の詳細については省くが、泉山城を含めた備後国に限定した記録を辿ると、大永7年(1527)8月、経久は陶興房と細沢山に戦い(蔀山城(広島県庄原市高野町新市)・その1参照)、同年11月27日、両者は再び三吉で戦った。そして、冒頭でものべたように、泉山城の築城期となる翌享禄元年(1528)、経久は蔀山城を攻略した。ちなみに、この年の暮(12月20日)、大内義興は没し、嫡男義隆が家督を継いでいる。
【写真左】説明板
登城口付近に設置されている説明板。大分色あせているが、文字はしっかりと読める。
天文20年以後
説明板にもあるように、天文21年及び同23年、泉山城地域で尼子と毛利の激戦が繰り広げられた。その前年となる天文20年(1551)9月、大内義隆は重臣陶晴賢の謀反によって、長門国大寧寺で自害、翌21年3月、晴賢は豊前の大友宗麟の弟晴英を大内氏の後継者とした。
その1ヶ月後の4月2日、尼子晴久は将軍足利義輝より、本国出雲をはじめ、隠岐・因幡・伯耆・備前・備中・備後・美作の8か国の守護職に補任され、事実上大内氏に代わる中国地方の雄としてその名を誇示することになる。
【写真左】登城道
登り始めてしばらくは簡易舗装となっていたが、途中から無くなり、歩きにくくなる。
写真右側は墓地で、泉山城へは左側の道を進む。
しかし、この年の尼子晴久の8か国守護職補任や、朝廷から授かった従五位下修理大夫といった官位は、敵対し出した毛利元就にとっては脅威となるものでもなく、翌天文22年(1553)元就は尼子方であった江田隆通を攻めた(備後・旗返山城(広島県三次市三若町)参照)のはじめ、次第に備後国の進出を企てていった。
そして、説明板にもあるように、「弘治3年(1557)には、この城をはじめ神石町内の各城は、毛利元就に従属するようになった。」と記されている。勿論この理由は元就が次第に尼子氏を圧迫していった結果でもあるが、これとは別にこの年(弘治3年)の4月、曲がりなりにも長門国を治めていた大内義長を同国・勝山城を攻略し、義長を自害に追い込んだことも大きな要素ともいえる。
【写真左】八尾城
北側は神石小学校のグランドなどがあり、その南側が八尾城址となっているが、当時は小学校も含めたエリアが城域だったと思われる。
そして、以前紹介した泉山城に隣接している八尾城(広島県神石高原町福永)の稿でも示されているように、天文21年から翌年にかけて尼子氏と毛利氏の激戦が繰り広げられ、毛利氏が尼子氏を撃退したとある。
従って、泉山城をはじめ、八尾城及び、泉山城の北西1.5キロの位置にある宮氏の協力者高尾氏居城の宮尾城(城主高尾氏)もこの段階で毛利氏に属したものと思われる。
【写真左】途中の斜面
簡易舗装が無くなったころから途端に道が歩きにくくなる。
【写真左】藪化した道
次第に草丈は高くなり、おまけに雨が降り出してしまった。
9月初旬の気候である。蒸し暑くなり、おまけにやたらと蚊に食われる。本丸まで遠くない距離とは思うが、今回は無理と判断し断念。
●所在地 広島県神石郡神石高原町福永
●高さ 547m(比高70m)
●築城期 享禄元年(1528)
●築城者 岡伯耆守信平入道真禅(尼子氏家臣)
●城主 岡氏
●形態 連郭式山城
●遺構 郭等
●登城日 2015年9月7日
◆解説
備後・泉山城(以下「泉山城」とする)は、広島県神石高原町に所在し、以前取り上げた八尾城(広島県神石高原町福永)の南西500mの位置にある。
【写真左】泉山城遠望
南麓には禅宗系の寺院・恩定寺があり、その境内奥に進と坂道があり、そこから向かうようになっている。
現地の説明板より
“泉山城址(いずみやま じょうし)
戦国時代、当地方は対立する出雲の尼子と吉田の毛利との接触地となり、城郭の必要を生じ各地に山城が構築された。
泉山城は、尼子の家来岡伯耆守信平入道真禅(おかほうきのかみのぶひら にゅうどうしんぜん)が、享禄元年(1528)に築城したといわれている。
続いて岡伯耆守景信・同孫三郎・同泉守・同左衛門尉景経が城主となる。
天文21年(1552)と、天文23年(1554)に尼子・毛利の激戦がこの地で繰り広げられた。
弘治3年(1557)には、この城をはじめ神石町内の各城は、毛利元就に従属するようになった。
元就の三男小早川隆景が、この城を巡視して「難攻不落の名城である。」と賞賛したということである。
この城には、軍資金の財宝を埋めかくし、その目印に白南天を植えたとか、天狗が高い松に登って敵情を偵察したという天狗松の口伝が残っている。
神石町教育委員会
神石町文化財保護委員会”
【写真左】恩定寺
当院の縁起等は不明だが、この近くに城主岡氏らの屋敷があったものと思われる。
岡氏
上掲した説明板では、泉山城の築城者は、尼子の家臣・岡信平とされている。管理人の手元には同氏に関する資料がないため詳細は不明だが、唯一尼子分限帳の中で、惣侍衆として因幡に岡左兵衛なる人物が記録として残っている。もちろん、左兵衛と泉山城主の岡氏との繋がりがあるのか不明である。ただ、元々この地は室町時代から続く宮氏が治めていた場所で、岡氏の泉山城入城に当たっては、おそらく宮氏が尼子氏に属した背景もあったものと思われる。
さて、泉山城の築城期は享禄元年(1528)とされているので、丁度同国(備後国)の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を尼子経久が攻略した年に当たる。
経久が備後国に侵攻し始めるきっかけとなったのは、山口の大内義興が石見守護国守護職に任じられた永正14年(1517)ごろからである。具体的な動きが始まるのは、義興が京から本国山口に帰国した翌年(永正15年)からであるが、経久もこのころは細川高国などに京極高清の援護を求められたりするなど、直接大内氏と戦火を交えていない。しかし、大永4年(1524)の7月から8月にかけて、当時大内方であった安芸の銀山城(広島市安佐南区祇園町)を尼子経久が、毛利元就と連合して攻撃し出したころから大きく動いた。
このころ、大内方の主力として奮闘していたのは、陶興房(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)であったが、それまで尼子氏に協力していた毛利元就は、興房の巧みな勧誘もあって、尼子氏を離れ大内氏につくようになった。
この間の詳細については省くが、泉山城を含めた備後国に限定した記録を辿ると、大永7年(1527)8月、経久は陶興房と細沢山に戦い(蔀山城(広島県庄原市高野町新市)・その1参照)、同年11月27日、両者は再び三吉で戦った。そして、冒頭でものべたように、泉山城の築城期となる翌享禄元年(1528)、経久は蔀山城を攻略した。ちなみに、この年の暮(12月20日)、大内義興は没し、嫡男義隆が家督を継いでいる。
【写真左】説明板
登城口付近に設置されている説明板。大分色あせているが、文字はしっかりと読める。
天文20年以後
説明板にもあるように、天文21年及び同23年、泉山城地域で尼子と毛利の激戦が繰り広げられた。その前年となる天文20年(1551)9月、大内義隆は重臣陶晴賢の謀反によって、長門国大寧寺で自害、翌21年3月、晴賢は豊前の大友宗麟の弟晴英を大内氏の後継者とした。
その1ヶ月後の4月2日、尼子晴久は将軍足利義輝より、本国出雲をはじめ、隠岐・因幡・伯耆・備前・備中・備後・美作の8か国の守護職に補任され、事実上大内氏に代わる中国地方の雄としてその名を誇示することになる。
【写真左】登城道
登り始めてしばらくは簡易舗装となっていたが、途中から無くなり、歩きにくくなる。
写真右側は墓地で、泉山城へは左側の道を進む。
しかし、この年の尼子晴久の8か国守護職補任や、朝廷から授かった従五位下修理大夫といった官位は、敵対し出した毛利元就にとっては脅威となるものでもなく、翌天文22年(1553)元就は尼子方であった江田隆通を攻めた(備後・旗返山城(広島県三次市三若町)参照)のはじめ、次第に備後国の進出を企てていった。
そして、説明板にもあるように、「弘治3年(1557)には、この城をはじめ神石町内の各城は、毛利元就に従属するようになった。」と記されている。勿論この理由は元就が次第に尼子氏を圧迫していった結果でもあるが、これとは別にこの年(弘治3年)の4月、曲がりなりにも長門国を治めていた大内義長を同国・勝山城を攻略し、義長を自害に追い込んだことも大きな要素ともいえる。
【写真左】八尾城
北側は神石小学校のグランドなどがあり、その南側が八尾城址となっているが、当時は小学校も含めたエリアが城域だったと思われる。
そして、以前紹介した泉山城に隣接している八尾城(広島県神石高原町福永)の稿でも示されているように、天文21年から翌年にかけて尼子氏と毛利氏の激戦が繰り広げられ、毛利氏が尼子氏を撃退したとある。
従って、泉山城をはじめ、八尾城及び、泉山城の北西1.5キロの位置にある宮氏の協力者高尾氏居城の宮尾城(城主高尾氏)もこの段階で毛利氏に属したものと思われる。
【写真左】途中の斜面
簡易舗装が無くなったころから途端に道が歩きにくくなる。
【写真左】藪化した道
次第に草丈は高くなり、おまけに雨が降り出してしまった。
9月初旬の気候である。蒸し暑くなり、おまけにやたらと蚊に食われる。本丸まで遠くない距離とは思うが、今回は無理と判断し断念。
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