筑前・岡城(ちくぜん・おかじょう)
●所在地 福岡県遠賀郡岡垣町吉木字矢口
●高さ 40m(比高30m)
●形態 丘城
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 麻生家延
●城主 麻生氏など
●遺構 郭・堀切等
●指定 岡垣町指定文化財
●登城日 2015年1月11日
◆解説
筑前・岡城(以下「岡城」とする)は、前稿の花尾城(福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾)から東へ約17キロほど向かった汐入川の西岸に築かれた丘城である。
【写真左】岡城遠望
ご覧の通り小丘に築かれた城砦である。
現地説明板より
“岡垣町指定文化財
「岡城」のこと
ここは岡垣町で唯一、中世城郭の跡をとどめる岡城跡です。
岡城は、まだ戦国時代たけなわの文明年間(1469~87)の終わり頃に、この地の領主だった麻生家延(いえのぶ)によって築城されたものです。
麻生氏は下野国(現在の栃木県)宇都宮氏の出で、鎌倉幕府発足の頃、源氏勢力の一翼で九州にきた鎌倉武士の一人です。
麻生氏はその後、北条氏の御家人から室町時代には筑前守護職大内氏に属して、遠賀川の河口一帯を支配する大きな勢力になりました。
【写真左】岡城跡案内図
上が北を示す。
南北120m×東西80mの小丘に築かれており、中央部に本丸を置き、その北側に二の丸、三の丸を配している。
なお、この図には描かれていないが、東麓を南北に流れる汐入川は、外濠の役目を果たし、さらにはこの川を3キロほど下っていくと、響灘に繋がっているので、周辺部には船溜まりがあったものと推察される。
文明10年(1478)、麻生氏の跡取りを巡る内紛で、大内氏が大軍で攻め寄せる「花尾城合戦」が起こりました。この結果、それまで惣領として麻生氏を束ねていた麻生家延が敗れ、その和睦の条件で遠賀川西の岡ノ庄28ヶ村が家延に与えられ、家延はこの吉木の地を選んで城を築きました。
これが「岡城」で、別名を「腰山城」とも言われました。
家延から3代目の麻生隆守のとき、岡城は豊前の大友勢に侵攻され(永禄5=1562年以降)落城、隆守は自刃して吉木麻生氏は絶えました。城跡は、麻生隆守の菩提を弔って建立された「隆守院」境内域になっていて、地元の吉木の人々によって今日まで手厚く保護されてきました。
【写真左】隆守院
麓には、麻生隆守の菩提を弔う「隆守院」が祀られている。
当院には同町指定文化財として木造胎蔵界大日如来像(室町時代)が収蔵されている。
この城跡は、南東に汐入川(しおいりがわ)を配した小丘陵で、最も高い本丸跡の標高は40mしかなく、南東面は急斜面で守られ、北東面に二の丸・三の丸を梯郭式に配置した典型的な山城です。
本丸跡は、南北35m×東西15mの平坦地で、東側に一段下った所にある南北15m×東西8mの平地が二の丸です。
二の丸から北東に4m下に、幅7mほどの三の丸が巡らされています。石垣は用いられず、岩質の山肌がそのまま城構えに利用されています。
城の表口は、本丸の北西山麓で、城主の屋敷跡を示す「門田」地名が現在も残っています。
※注・・「花尾城」は、八幡西区元城町の上にある花尾山(標高・348m)にあった山城です。
平成8年10月10日
岡城築城五百年記念事業実行委員会”
【写真左】登城口
西側の麓に登城口が設置され、この階段から登っていく。
大内政弘と少弐政資
岡城の築城期は、説明板にもあるように文明年間(1467~87)とされている。すなわち長引いた応仁の乱の頃とされている。麻生氏については、前稿花尾城でも紹介したように、この時期惣領家の弘家と、庶子家の家延による対立があり、筑前守護職であった大内政弘がこれに介入、政弘が惣領家弘家を支援し、家延を退けた。文明10年(1478)のことである。
【写真左】登城口
直接本丸に向かう道もあるが、先ずは北に伸びる登城道を進み、二の丸を目指す。
ところで、この前年(文明9年)10月3日、それまで西軍(応仁の乱)であった大内政弘は、東軍に降り、その代償として幕府は政弘に対し、従前の領国であった周防・長門のほかに、筑前及び豊前の守護職を改めて安堵した。大内氏が西軍から離脱したことにより、他の諸将は次々と帰国した。応仁の乱の終結である。
山口に帰国し筑前・豊前の守護職を安堵された政弘であったが、しかし両国には反大内派であった少弐政資が肥前並びに、筑前を主な領地として留まっていた。
【写真左】二の丸・その1
本丸の北側に配置された郭で、奥行(南北)15m程の規模のもの。
文明10年(1478)9月16日、大内政弘は九州探題の渋川尹繁と共に、幕府からの追討令を受け、少弐政資と戦った。麻生氏の対立はおそらく、惣領家が大内氏に、庶子家が少弐氏に与していた構図だったのだろう。
因みに、大内政弘が少弐政資と戦った際、石見国からは大内の命を受けて、三隅長信(三隅城・その3(島根県浜田市三隅町三隅)参照)・益田兼堯(七尾城・その3(島根県益田市七尾)参照)・福屋是兼(本明城(島根県江津市有福温泉)参照)・周布兼和(周布城(浜田市周布町)参照)らが当地に赴いて戦っている(「正任記」)。
【写真左】二の丸・その2
二の丸の北側から南方向に見たもので、奥には本丸が見える。
このまま、本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸から東方を俯瞰する。
東麓には吉木小学校があり、この校庭の東側を汐入川が流れている。
このあと、南側に一旦降りて、西側に向かう。
【写真左】門田溜池
岡城の西麓には東西270m×南北220mほどの規模を持つ門田溜池が見える。
【写真左】腰郭
本丸及び二の丸の西側には腰郭が配されている。
このあと北に進み三の丸に向かう。
【写真左】三の丸
二の丸の北側を囲繞するような形で残る郭で、帯郭形式のもの。
【写真左】三の丸から燧灘を俯瞰する。
三の丸から北方を俯瞰すると、広大な平地が広がるが、室町時代にはおそらく海浜の景色が広がり、多くの船が往来していたのだろう。
●所在地 福岡県遠賀郡岡垣町吉木字矢口
●高さ 40m(比高30m)
●形態 丘城
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 麻生家延
●城主 麻生氏など
●遺構 郭・堀切等
●指定 岡垣町指定文化財
●登城日 2015年1月11日
◆解説
筑前・岡城(以下「岡城」とする)は、前稿の花尾城(福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾)から東へ約17キロほど向かった汐入川の西岸に築かれた丘城である。
【写真左】岡城遠望
ご覧の通り小丘に築かれた城砦である。
現地説明板より
“岡垣町指定文化財
「岡城」のこと
ここは岡垣町で唯一、中世城郭の跡をとどめる岡城跡です。
岡城は、まだ戦国時代たけなわの文明年間(1469~87)の終わり頃に、この地の領主だった麻生家延(いえのぶ)によって築城されたものです。
麻生氏は下野国(現在の栃木県)宇都宮氏の出で、鎌倉幕府発足の頃、源氏勢力の一翼で九州にきた鎌倉武士の一人です。
麻生氏はその後、北条氏の御家人から室町時代には筑前守護職大内氏に属して、遠賀川の河口一帯を支配する大きな勢力になりました。
【写真左】岡城跡案内図
上が北を示す。
南北120m×東西80mの小丘に築かれており、中央部に本丸を置き、その北側に二の丸、三の丸を配している。
なお、この図には描かれていないが、東麓を南北に流れる汐入川は、外濠の役目を果たし、さらにはこの川を3キロほど下っていくと、響灘に繋がっているので、周辺部には船溜まりがあったものと推察される。
文明10年(1478)、麻生氏の跡取りを巡る内紛で、大内氏が大軍で攻め寄せる「花尾城合戦」が起こりました。この結果、それまで惣領として麻生氏を束ねていた麻生家延が敗れ、その和睦の条件で遠賀川西の岡ノ庄28ヶ村が家延に与えられ、家延はこの吉木の地を選んで城を築きました。
これが「岡城」で、別名を「腰山城」とも言われました。
家延から3代目の麻生隆守のとき、岡城は豊前の大友勢に侵攻され(永禄5=1562年以降)落城、隆守は自刃して吉木麻生氏は絶えました。城跡は、麻生隆守の菩提を弔って建立された「隆守院」境内域になっていて、地元の吉木の人々によって今日まで手厚く保護されてきました。
【写真左】隆守院
麓には、麻生隆守の菩提を弔う「隆守院」が祀られている。
当院には同町指定文化財として木造胎蔵界大日如来像(室町時代)が収蔵されている。
この城跡は、南東に汐入川(しおいりがわ)を配した小丘陵で、最も高い本丸跡の標高は40mしかなく、南東面は急斜面で守られ、北東面に二の丸・三の丸を梯郭式に配置した典型的な山城です。
本丸跡は、南北35m×東西15mの平坦地で、東側に一段下った所にある南北15m×東西8mの平地が二の丸です。
二の丸から北東に4m下に、幅7mほどの三の丸が巡らされています。石垣は用いられず、岩質の山肌がそのまま城構えに利用されています。
城の表口は、本丸の北西山麓で、城主の屋敷跡を示す「門田」地名が現在も残っています。
※注・・「花尾城」は、八幡西区元城町の上にある花尾山(標高・348m)にあった山城です。
平成8年10月10日
岡城築城五百年記念事業実行委員会”
【写真左】登城口
西側の麓に登城口が設置され、この階段から登っていく。
大内政弘と少弐政資
岡城の築城期は、説明板にもあるように文明年間(1467~87)とされている。すなわち長引いた応仁の乱の頃とされている。麻生氏については、前稿花尾城でも紹介したように、この時期惣領家の弘家と、庶子家の家延による対立があり、筑前守護職であった大内政弘がこれに介入、政弘が惣領家弘家を支援し、家延を退けた。文明10年(1478)のことである。
【写真左】登城口
直接本丸に向かう道もあるが、先ずは北に伸びる登城道を進み、二の丸を目指す。
ところで、この前年(文明9年)10月3日、それまで西軍(応仁の乱)であった大内政弘は、東軍に降り、その代償として幕府は政弘に対し、従前の領国であった周防・長門のほかに、筑前及び豊前の守護職を改めて安堵した。大内氏が西軍から離脱したことにより、他の諸将は次々と帰国した。応仁の乱の終結である。
山口に帰国し筑前・豊前の守護職を安堵された政弘であったが、しかし両国には反大内派であった少弐政資が肥前並びに、筑前を主な領地として留まっていた。
【写真左】二の丸・その1
本丸の北側に配置された郭で、奥行(南北)15m程の規模のもの。
文明10年(1478)9月16日、大内政弘は九州探題の渋川尹繁と共に、幕府からの追討令を受け、少弐政資と戦った。麻生氏の対立はおそらく、惣領家が大内氏に、庶子家が少弐氏に与していた構図だったのだろう。
因みに、大内政弘が少弐政資と戦った際、石見国からは大内の命を受けて、三隅長信(三隅城・その3(島根県浜田市三隅町三隅)参照)・益田兼堯(七尾城・その3(島根県益田市七尾)参照)・福屋是兼(本明城(島根県江津市有福温泉)参照)・周布兼和(周布城(浜田市周布町)参照)らが当地に赴いて戦っている(「正任記」)。
【写真左】二の丸・その2
二の丸の北側から南方向に見たもので、奥には本丸が見える。
このまま、本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸から東方を俯瞰する。
東麓には吉木小学校があり、この校庭の東側を汐入川が流れている。
このあと、南側に一旦降りて、西側に向かう。
【写真左】門田溜池
岡城の西麓には東西270m×南北220mほどの規模を持つ門田溜池が見える。
【写真左】腰郭
本丸及び二の丸の西側には腰郭が配されている。
このあと北に進み三の丸に向かう。
【写真左】三の丸
二の丸の北側を囲繞するような形で残る郭で、帯郭形式のもの。
【写真左】三の丸から燧灘を俯瞰する。
三の丸から北方を俯瞰すると、広大な平地が広がるが、室町時代にはおそらく海浜の景色が広がり、多くの船が往来していたのだろう。
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