高尾城(たかおじょう)
●所在地 島根県安来市伯太町下十年畑
●高さ 270m(比高90m)
●築城期 不明
●築城者 不明(高尾氏か)
●城主 足立(高尾)右馬允
●遺構 郭・堀切・竪堀・櫓台等
●備考 尼子十砦、城福寺
●登城日 2014年4月12日
◆解説(参考文献 「出雲の山城」、サイト「城郭放浪記」・「島根県遺跡データベース」等)
高尾城は以前取り上げた赤屋城山城(島根県安来市伯太町赤屋)や、前稿川手要害山城(島根県安来市上吉田町)でも紹介したように、「尼子十砦」の一つで、十砦の中でも最も南方に配置された城砦である。そして、高尾城の支城とされるのが、赤屋城山城である。
【写真左】高尾城遠望
東麓を流れる伯太川対岸から見たもので、高尾城の登城口付近となる個所には高尾氏(足立氏)ゆかりの城福寺がある(後段参照)。
境目の城
高尾城の東麓を走る県道9号線を4キロほど南下していくと、分岐点となり、西に向かう258号線を進むと比田に繋がり、奥出雲すなわち当時の三沢氏の支配地にたどり着く。
これに対し、9号線をそのまま南下していくと、寺坂峠を越え伯耆国に繋がり、そのままJR伯備線沿いにコースをとれば、寺坂峠から約25キロ余りで備中国(岡山県)に繋がる。まさに境目の城である。
【写真左】城福寺
登城口は城福寺山門をくぐり、境内左側の位置にあるが、山門の右側には「高尾城跡」の石碑が建立されている。
当院は後述する高尾城主であった足立右馬允が尼子氏滅亡直前に小庵を建てたのに始まるという。
【写真左】歴代住職の墓と宝篋印塔
登城口手前には墓地があり、歴代住職の墓と並んで脇に宝篋印塔一基が祀られている。高尾氏(足立氏)のものだろう。
高尾氏
当城の城主は足立右馬允(うまのじょう)といわれている。
天文10年(1541)1月13日、安芸吉田郡山城にて尼子・毛利軍が激突した。大内方の陶晴賢の援軍を得た毛利方は、猛攻してきた尼子氏を降し、詮久(後の晴久)の叔父・久幸は討死した。
この戦いで高尾久友という武将も戦死しているが、おそらく久友は経久から偏諱を受けていた家臣と思われ、久友の一族には高尾縫殿允(ぬいどのじょう)がいた。縫殿允の子には、右馬允がいたが、この右馬允が高尾(足立)右馬允と考えられる。
【写真左】登城道
先ほどの墓地の左側から道があるが、案内板などはない。城福寺の裏側の崖の上を道なりに進む。
定期的に整備されているせいか、傾斜はあるものの登城にはさほど難はない。
また、米子城(鳥取県米子市久米町)でも紹介したように、元亀年間、毛利方吉川元春の家臣・福頼元秀が守備していた湊山城(後の米子城)を、尼子方の和久羅山城主・羽倉孫兵衛が大将となって攻めているが、この中に目加田采女・同弾右衛門と併せ、高尾右馬允等の名が見えている。
さらに、永禄年間になると山中鹿助はじめ尼子勝久らが尼子再興を期して、中海の北方に聳える忠山城(島根県松江市美保関町森山)に兵を挙げた時、高尾右馬允らも馳せ参じた。
【写真左】堀切
登城口からおよそ15分程度で城域に入るが、途中で左手に見える傾斜地側に堀切が見える。
これは後ほど下山したときのコースで紹介するが、この右側にも堀切があるので、二重堀切の一つ。
先ずは主郭方面を目指して進む。かなり傾斜がきつくなる。
【写真左】主郭・その1
登りつめていくと、堀切の延長部となった小規模な平坦地があるが、そこから右(東側)に角度を変えると、さらに傾斜を伴った踏み跡がある。この辺りから砂礫を多く含んだ土質になっており、結構足元が救われる。
登りつめるとご覧の最高所・主郭にたどり着く。長径20m×短径10m規模のもの。片隅には祠が祀られている。
【写真左】主郭・その2
主郭の南側下段には小郭が確認できる。
ここから、東側に見えた堀切に向かう。
【写真左】堀切
滑るように降りると、予想以上に保存状態のいい堀切が残っている。
この堀切はそのまま北に伸びて、タタラ跡とされる遺構部まで繋がる。
【写真左】タタラ跡
堀切の北端部から西側にかけて残るもので、一見堀切のように見えるが、野ダタラ操業のための採石・砂跡。
この地域(上・下十年畑)だけでも、少なくとも10か所以上のタタラ跡や鍛冶屋跡などが伯太川沿いに残っている。
そもそも野ダタラの歴史は、戦国時代以前から始まっているので、高尾城が築城される以前からあった可能性もある。
そうなると、城主高尾氏は武士でありながら、鉄山師という二つの顔を持つ領主であったかもしれない。
ここから再び主郭側に戻り、登城途中に見えた二重堀切に向かう。
【写真左】主郭の東側郭に向かう。
本来はこちら側から進んで主郭に向かうルートのようだが、主郭下で屈曲した道に枝分かれしていて、初めて来た者にはこのルートは分かりづらい。
【写真左】小郭の祠
最初に登りきると小郭があるが、ここにも祠が祀られている。
さらにここから下山方向に進む。
【写真左】振り返る
少し段がついた2,3段の小郭が連続している。
【写真左】3番目の祠がある郭
2番目からこの3番目の祠まで凡そ50m程度の距離で、元々尾根状となっていた部分を加工している。
このあと、尾根先端部で道は180度折れて尾根の北側斜面にある郭に向かう。
【写真左】尾根下の腰郭
当城の中ではもっともまとまった規模の郭で、手前を頂点とした細長い三角形のもの。長径30m程度。
このあと、最初に主郭に向かった登城道との合流点に向かって下山する。
【写真左】下山道
左側斜面の上に城域があるが、比高の低さの割に急傾斜となっており、天険の要害ともいえる。
●所在地 島根県安来市伯太町下十年畑
●高さ 270m(比高90m)
●築城期 不明
●築城者 不明(高尾氏か)
●城主 足立(高尾)右馬允
●遺構 郭・堀切・竪堀・櫓台等
●備考 尼子十砦、城福寺
●登城日 2014年4月12日
◆解説(参考文献 「出雲の山城」、サイト「城郭放浪記」・「島根県遺跡データベース」等)
高尾城は以前取り上げた赤屋城山城(島根県安来市伯太町赤屋)や、前稿川手要害山城(島根県安来市上吉田町)でも紹介したように、「尼子十砦」の一つで、十砦の中でも最も南方に配置された城砦である。そして、高尾城の支城とされるのが、赤屋城山城である。
【写真左】高尾城遠望
東麓を流れる伯太川対岸から見たもので、高尾城の登城口付近となる個所には高尾氏(足立氏)ゆかりの城福寺がある(後段参照)。
境目の城
高尾城の東麓を走る県道9号線を4キロほど南下していくと、分岐点となり、西に向かう258号線を進むと比田に繋がり、奥出雲すなわち当時の三沢氏の支配地にたどり着く。
これに対し、9号線をそのまま南下していくと、寺坂峠を越え伯耆国に繋がり、そのままJR伯備線沿いにコースをとれば、寺坂峠から約25キロ余りで備中国(岡山県)に繋がる。まさに境目の城である。
【写真左】城福寺
登城口は城福寺山門をくぐり、境内左側の位置にあるが、山門の右側には「高尾城跡」の石碑が建立されている。
当院は後述する高尾城主であった足立右馬允が尼子氏滅亡直前に小庵を建てたのに始まるという。
【写真左】歴代住職の墓と宝篋印塔
登城口手前には墓地があり、歴代住職の墓と並んで脇に宝篋印塔一基が祀られている。高尾氏(足立氏)のものだろう。
高尾氏
当城の城主は足立右馬允(うまのじょう)といわれている。
天文10年(1541)1月13日、安芸吉田郡山城にて尼子・毛利軍が激突した。大内方の陶晴賢の援軍を得た毛利方は、猛攻してきた尼子氏を降し、詮久(後の晴久)の叔父・久幸は討死した。
この戦いで高尾久友という武将も戦死しているが、おそらく久友は経久から偏諱を受けていた家臣と思われ、久友の一族には高尾縫殿允(ぬいどのじょう)がいた。縫殿允の子には、右馬允がいたが、この右馬允が高尾(足立)右馬允と考えられる。
【写真左】登城道
先ほどの墓地の左側から道があるが、案内板などはない。城福寺の裏側の崖の上を道なりに進む。
定期的に整備されているせいか、傾斜はあるものの登城にはさほど難はない。
また、米子城(鳥取県米子市久米町)でも紹介したように、元亀年間、毛利方吉川元春の家臣・福頼元秀が守備していた湊山城(後の米子城)を、尼子方の和久羅山城主・羽倉孫兵衛が大将となって攻めているが、この中に目加田采女・同弾右衛門と併せ、高尾右馬允等の名が見えている。
さらに、永禄年間になると山中鹿助はじめ尼子勝久らが尼子再興を期して、中海の北方に聳える忠山城(島根県松江市美保関町森山)に兵を挙げた時、高尾右馬允らも馳せ参じた。
【写真左】堀切
登城口からおよそ15分程度で城域に入るが、途中で左手に見える傾斜地側に堀切が見える。
これは後ほど下山したときのコースで紹介するが、この右側にも堀切があるので、二重堀切の一つ。
先ずは主郭方面を目指して進む。かなり傾斜がきつくなる。
【写真左】主郭・その1
登りつめていくと、堀切の延長部となった小規模な平坦地があるが、そこから右(東側)に角度を変えると、さらに傾斜を伴った踏み跡がある。この辺りから砂礫を多く含んだ土質になっており、結構足元が救われる。
登りつめるとご覧の最高所・主郭にたどり着く。長径20m×短径10m規模のもの。片隅には祠が祀られている。
【写真左】主郭・その2
主郭の南側下段には小郭が確認できる。
ここから、東側に見えた堀切に向かう。
【写真左】堀切
滑るように降りると、予想以上に保存状態のいい堀切が残っている。
この堀切はそのまま北に伸びて、タタラ跡とされる遺構部まで繋がる。
【写真左】タタラ跡
堀切の北端部から西側にかけて残るもので、一見堀切のように見えるが、野ダタラ操業のための採石・砂跡。
この地域(上・下十年畑)だけでも、少なくとも10か所以上のタタラ跡や鍛冶屋跡などが伯太川沿いに残っている。
そもそも野ダタラの歴史は、戦国時代以前から始まっているので、高尾城が築城される以前からあった可能性もある。
そうなると、城主高尾氏は武士でありながら、鉄山師という二つの顔を持つ領主であったかもしれない。
ここから再び主郭側に戻り、登城途中に見えた二重堀切に向かう。
【写真左】主郭の東側郭に向かう。
本来はこちら側から進んで主郭に向かうルートのようだが、主郭下で屈曲した道に枝分かれしていて、初めて来た者にはこのルートは分かりづらい。
最初に登りきると小郭があるが、ここにも祠が祀られている。
さらにここから下山方向に進む。
【写真左】振り返る
少し段がついた2,3段の小郭が連続している。
【写真左】3番目の祠がある郭
2番目からこの3番目の祠まで凡そ50m程度の距離で、元々尾根状となっていた部分を加工している。
このあと、尾根先端部で道は180度折れて尾根の北側斜面にある郭に向かう。
【写真左】尾根下の腰郭
当城の中ではもっともまとまった規模の郭で、手前を頂点とした細長い三角形のもの。長径30m程度。
このあと、最初に主郭に向かった登城道との合流点に向かって下山する。
【写真左】下山道
左側斜面の上に城域があるが、比高の低さの割に急傾斜となっており、天険の要害ともいえる。
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