2012年6月11日月曜日

天道山城山・赤雁土居跡(島根県益田市赤雁)

天道山城山・赤雁土居跡(てんどうさんしろやま・あかがりどいあと)

●所在地 島根県益田市赤雁
●築城期 永享年間(1430年)ごろ
●築城者 益田弾正忠忠勝
●城主 赤雁益田氏
●高さ 30m
●遺構 郭・土塁・石垣
●登城日 2012年2月28日

◆解説(参考文献『益田市誌』等)
天道山城山・赤雁土居跡は、益田市の中心市街地から北東へ約8キロばかり、三隅町側へ向かった地にあり、麓を沖田川が流れ木部の港から日本海に注いでいる。
【写真左】天道山城山遠望
 現在の遺構は、山城というより丘城といった小規模な城砦である。


 手前麓の平地は(有)赤雁の里の農地。


 この史跡については、以前当ブログの読者登録をしていただいているmitsuzakuraさんから教えていただいていた。

また、現在この場所には、「農業・農村体験ができるふれあい楽校」というユニークな活動をしている(有)赤雁の里がある。

さて、現地の天道山城山には当城に関する説明板はないが、当城から南方200m地点の丘陵地に祀られた中山八幡宮由緒に赤雁益田氏の内容が示されている。
【写真左】中山八幡宮
 沖田川が大きく蛇行した内側に独立した丘陵地があり、この場所に祀られている。


 5代兼豊が建立しているが、その前は赤雁氏の城塞もしくは屋敷跡があったのではないかと思われるような位置にある。


“中山八幡宮由緒
  益田七尾城主代15代益田兼堯公の実弟益田弾正忠忠勝の実子兼治が、赤雁に館を占めてより赤雁益田氏の繁栄は、2代兼治、3代兼綱、4代兼順(かねよし)、5代兼豊へと続き、それぞれの当主は、伊豆守を名乗り七尾城の要職を勤めてきた。
 中山八幡宮は、5代兼豊の勧請により天正13年11月15日(西暦1585年)に創設されたものである。


 祭神
 本殿  誉田別尊
      気長足姫尊
      市杵島姫尊
 末社  大元神社
       圀常立神
      稲荷神社
       宇迦御魂神”
【写真左】中山八幡宮から天道山城山城を見る。
 中山八幡宮から北へ約200mほど向かった丘陵上に見える。







赤雁氏

赤雁氏は益田兼理の次子・忠勝の子・兼治に始まる。兼治は沖田川を挟んで、北岸に居館を設け、代々弾正左衛門尉、又は伊豆守を称した。兼治の長子・兼綱は跡を継ぎ、兼綱の弟宗秀は黒谷氏の祖となった。

参考までに同氏系図を下段に示す。
  1. 初代・弾正忠   忠勝
  2. 2代・伊豆守   兼治(赤雁氏祖)
  3. 3代・弾正忠   兼綱
  4. 4代・伊豆守   兼順(かねそう)
  5. 5代・中大輔   兼豊    ※兼豊の姉妹(女)は高津二郎左衛門の妻
  6. 6代・又右衛門  兼康
  7. 7代・与右衛門  政祥
  8. (以下略)
【写真左】天道山城山城
 東麓部から見たもので、手前左側は畑(「赤雁の里」)で、右側に田圃がある。


 当城の西麓部を沖田川が流れ、その向こうには西から伸びた尾根が川の手前で切断されている。


さて、上掲した中山神社とは別に、『益田市誌』によれば、明応年間に焼失し、兼綱の代に再建されたという「治野尾神社」が紹介されているが、所在地は分からない。

また、沖田川を下った国道9号線沿いにある東伝寺は、天文17年(1548)、4代・兼順が益田の妙義寺の末寺とし、寺領三石を寄進したといわれている。
【写真左】主郭付近
 頂部は小規模な郭群で構成され、北・西・南面は切崖状となっているため、ご覧の通り柵が設置されている。
 幅5m×長さ15m程度の規模。





赤雁兼豊の朝鮮出兵

説明板にもあるように、赤雁氏は代々益田氏の要職を務めていたとあり、藤兼の代には執権職を5代兼豊が任じている。

この兼豊は、秀吉の朝鮮出兵の際、益田元祥に従い従軍している。父・兼順の家督を継いだころ、所領は、地元赤雁村300石、吉田地頭職・領家職、飯田郡の内金地、遠田郷の内山崎、津毛郷の平太夫垣内、岡見郷の半分300石、飯田郷の内小浜浦の知行を得ている。
【写真左】主郭西端部
 既述したように小規模な城砦となっているが、ご覧の通り、西端部はもともと向こう側の尾根と続いていたものと思われ、後にこの尾根を切断し、川違いを行ったものと思われる。


 従って、向こう側の尾根にも城砦遺構があったものと思われる。
 おそらくこの川違いの場所には、堀切のような鞍部があったのではないかと思われる(下の写真参照)。

朝鮮征伐の文禄元年(1592)3月5日、一番渡りとして軍功を挙げ、当地在陣中には黒田長政の陣をしばしば訪れ、囲碁を楽しんだとも言われる。2回目の慶長2年(1597)にも渡海し、翌3年、竹山善棹から薬法の伝授を受け、朝鮮薬の製法についても造詣が深い。
【写真左】沖田川
 上記した箇所で、左側が天道山城山城で、中央に沖田川、右側が尾根


ちなみに、2回目の出兵(朝鮮の役)で、このほか石見から参加した者では、毛利輝元の家臣として従軍した江津の都野三左衛門家頼(「亀山城」2010年7月25日投稿)がいるが、彼はこの年(慶長2年)12月22日、蔚山城の戦いで戦死している。


赤雁土居跡

当城からさらに田圃をこえた丘陵地には、赤雁土居跡がある。現地では「赤雁益田氏屋形跡」と表示された説明板がある。

説明板より

“赤雁益田氏屋形跡
 永享年間の頃(1430年頃、室町時代中期)益田七尾城主第15代兼堯の弟、益田弾正忠忠勝を祖先とする赤雁益田氏が、日向山南麓に土居屋形を構築してから後、毛利氏と共に、萩・須佐に移住するまでの約170年間赤雁益田氏の繁栄は5代にわたって続いた。


 その勢力は東の美都町、北は三隅町岡見、西は益田市飯田町にまで及んだといわれている。
 その墓は「伊豆殿の墓」として称えられ、現在も大事に供養されている。”
【写真左】赤雁土居跡
 奥の山が日向山で、矢印の土居屋形には赤雁益田氏と関係の深い斉藤氏の家が建つ。


 斉藤氏の邸宅の周囲には、「鍛冶屋跡」「土居」「庵寺床」「益田家墓地」「門の下」といった史跡が点在している。 

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