手島屋敷・小早川神社
(てじまやしき・こばやかわじんじゃ)
●所在地 広島県竹原市 東野町・新庄町
●探訪日 2008年3月15日
◆解説(参考文献「本郷町史」等)
前稿「木村城」の西麓に、今回取り上げる「手島屋敷」と「小早川神社(和賀神社)」がある。
木村城のある地域は、旧名「都宇・竹原荘」といっていたところで、京都の賀茂御祖(みおや)社(下賀茂社)の荘園で、このことから当地の中央を流れる川名が賀茂川となっている。
賀茂川の支流田万里川が合流するところが新庄の中心地で、寛治4年(1090)の官符により、所領40町が賀茂御祖社に寄進され成立している。
小早川神社
当社は木村城の西麓432号線脇に建立された神社で、近世初期に創建された。
【写真左】小早川神社
規模やその威容などなかなかのものだが、現在は朽ち果てている。
最初に訪れたのは2008年だが、その後今年もその脇の道路を走った際にも、全く手が加えられておらず、なんともさみしい限りである。
現地の説明板より
“和賀神社(小早川神社)
昭和20年の豪雨による山津波で損壊。小早川隆景を祀る神社。
慶長2年(1597)6月、隆景が三原城で没したので、新庄ほか数カ村の人々が木村城跡の若宮社(前稿木村城参照)に、隆景を祀り、陰暦9月13日を祭日として、旧竹原8カ村の村役人や、毛利家からも度々参拝し、祭りは300年間続いたが、明治維新後中止となり、若宮社も衰退しようとしたので、城の元に明治22年に社殿を建立、同23年に県社となる。
明治12年12月に毛利家の三子三郎を迎えて小早川家を再興した。
大正12年、献納の灯篭に小早川四郎の名が見える。
竹原市観光協会”
手島屋敷
木村城の西麓には、手島屋敷跡などがある。
現地の説明板より
“手島屋敷
間口50m、高さ3mの石垣、石垣の両隅は枡形が切られ、中世の武家屋敷の遺構である。かつては「西殿(にしどん)屋敷」(西の殿屋敷)と呼んでいた。
小早川氏が竹原を去って以後、竹原小早川家の家臣であった手島氏がその屋敷と居館を受け継いだものと想像される。
中世城館調査では「居館候補地」としてあげられている。
竹原市観光協会”
【写真左】手島屋敷配置図および、東野町北部案内図
手島屋敷から北方へ数分歩くと、小早川家墓地がある(下段写真参照)
また、南方には青田古墳や、毘沙門岩などがある。
【写真左】手島屋敷跡に残る石垣群
【写真左】小早川家墓地
前稿でも紹介したように 、同氏は正嘉2年(1258)から天文19年(1550)までの約300年間、木村城を本拠にして当地を治めた。
参考までに、初代政景から以降の歴代当主を掲げておく。
政景⇒景宗⇒祐景⇒重景⇒重宗⇒実義⇒義春⇒仲義⇒弘景⇒盛景⇒弘景⇒弘平⇒興景
最後の興景のあと、沼田小早川16代・繁平の後を相続した毛利隆景が、沼田の小早川17代となり、併せて竹原小早川も引き継ぎ、小早川隆景となった。
赤字の「弘景」は、前稿で紹介したように、沼田本家の高山城を文明年間に攻めている。
また、話が遡るが、初代政景のとき、竹原小早川家が所領していた地域は、当地(都宇・竹原荘)、沼田荘内梨子羽郷地頭門田5町が主なものだが、これ以外には、四国讃岐国(香川県)与田郷(大川郡大内町)もあったが、その後代が進むにつれてはっきりしなくなる。
(てじまやしき・こばやかわじんじゃ)
●所在地 広島県竹原市 東野町・新庄町
●探訪日 2008年3月15日
◆解説(参考文献「本郷町史」等)
前稿「木村城」の西麓に、今回取り上げる「手島屋敷」と「小早川神社(和賀神社)」がある。
木村城のある地域は、旧名「都宇・竹原荘」といっていたところで、京都の賀茂御祖(みおや)社(下賀茂社)の荘園で、このことから当地の中央を流れる川名が賀茂川となっている。
賀茂川の支流田万里川が合流するところが新庄の中心地で、寛治4年(1090)の官符により、所領40町が賀茂御祖社に寄進され成立している。
小早川神社
当社は木村城の西麓432号線脇に建立された神社で、近世初期に創建された。
【写真左】小早川神社
規模やその威容などなかなかのものだが、現在は朽ち果てている。
最初に訪れたのは2008年だが、その後今年もその脇の道路を走った際にも、全く手が加えられておらず、なんともさみしい限りである。
現地の説明板より
“和賀神社(小早川神社)
昭和20年の豪雨による山津波で損壊。小早川隆景を祀る神社。
慶長2年(1597)6月、隆景が三原城で没したので、新庄ほか数カ村の人々が木村城跡の若宮社(前稿木村城参照)に、隆景を祀り、陰暦9月13日を祭日として、旧竹原8カ村の村役人や、毛利家からも度々参拝し、祭りは300年間続いたが、明治維新後中止となり、若宮社も衰退しようとしたので、城の元に明治22年に社殿を建立、同23年に県社となる。
明治12年12月に毛利家の三子三郎を迎えて小早川家を再興した。
大正12年、献納の灯篭に小早川四郎の名が見える。
竹原市観光協会”
手島屋敷
木村城の西麓には、手島屋敷跡などがある。
現地の説明板より
“手島屋敷
間口50m、高さ3mの石垣、石垣の両隅は枡形が切られ、中世の武家屋敷の遺構である。かつては「西殿(にしどん)屋敷」(西の殿屋敷)と呼んでいた。
小早川氏が竹原を去って以後、竹原小早川家の家臣であった手島氏がその屋敷と居館を受け継いだものと想像される。
中世城館調査では「居館候補地」としてあげられている。
竹原市観光協会”
【写真左】手島屋敷配置図および、東野町北部案内図
手島屋敷から北方へ数分歩くと、小早川家墓地がある(下段写真参照)
また、南方には青田古墳や、毘沙門岩などがある。
【写真左】手島屋敷跡に残る石垣群
【写真左】小早川家墓地
前稿でも紹介したように 、同氏は正嘉2年(1258)から天文19年(1550)までの約300年間、木村城を本拠にして当地を治めた。
参考までに、初代政景から以降の歴代当主を掲げておく。
政景⇒景宗⇒祐景⇒重景⇒重宗⇒実義⇒義春⇒仲義⇒弘景⇒盛景⇒弘景⇒弘平⇒興景
最後の興景のあと、沼田小早川16代・繁平の後を相続した毛利隆景が、沼田の小早川17代となり、併せて竹原小早川も引き継ぎ、小早川隆景となった。
赤字の「弘景」は、前稿で紹介したように、沼田本家の高山城を文明年間に攻めている。
また、話が遡るが、初代政景のとき、竹原小早川家が所領していた地域は、当地(都宇・竹原荘)、沼田荘内梨子羽郷地頭門田5町が主なものだが、これ以外には、四国讃岐国(香川県)与田郷(大川郡大内町)もあったが、その後代が進むにつれてはっきりしなくなる。
0 件のコメント:
コメントを投稿