二上山城(ふたがみやまじょう)・ その1
●登城日 2009年5月19日
●所在地 鳥取県岩美町岩常
●築城期 文和年中(1352~55)
●築城者 山名時氏
●別名 岩常城
●標高 346.6m
●遺構 堀切、土塁、一の平、二の平、三の曲輪等
◆解説
二上山城は、前稿で取り上げた山名氏の居城のひとつで、因幡地方を拠点とした山城である。所在地である岩美町岩常は、国道9号線から南に延びる37号線(岩美八東線)を少し入ったところにある。
【写真左】二上山城遠望
東側の37号線(岩美八東線)より見る。 左側の高いほうに一の平(本丸)があり、右側の低いほうには三の曲輪などがある。
登城した時期が5月の半ばを過ぎていたことから、登城道の雑草の繁茂を予想していたが、おもったほどひどくなく、本丸までたどり着くことができた。
【写真左】登城口付近
説明板がある下の駐車場から登るコースが正規のようだが、ここの道(農道)峠を越え東の鳥取市側まで伸び、二上山の麓まで行けることから、途中の空き地(第2駐車場)に止めて、この場所からスタートした。
この場所は鳥取県でもっとも東方に位置し、隣の但馬地方(兵庫県)と接している。二上山城の登城口付近と、本丸跡地に丁寧な説明板が設置してあり、当城の沿革が記されている。
少し長いが原文のまま下記に転載する。なお、最初の説明板は、麓の駐車場(2か所あり、一番下のトイレなどが完備してある方で、もう一か所は中腹付近まで伸びた道の空き地が駐車場代わりとなっているが、ここには何もない)
“史跡 二上山城跡
二上山城は、南北朝時代、北朝年号で表すと文和年間(1352~56)に、そのころ因幡の国(鳥取県東部)に勢力をのばしていた山名氏により築城されたと推定されており、後に因幡の国守護所とされました。
現在、標高346.6mの山頂にある一の平を起点とし、北東方向へ二の平、三の曲輪と展開する主要部のほか、8か所の出城の跡が残されています。
巨濃(この)郡(ぐん)(現在の岩美町・福部村)で産出される金・銀・銅といった鉱産資源、当時の因幡の国の中心地であった現在の国府町方面への交通路の確保、そして古くからの海運で栄えていた岩本の湊をおさえるといった経済的な面を持つ一方で、二上山城は軍事的・戦略的にも非常に優れた立地条件を備えていたと考えられます。
【写真左】登城途中の階段
二上山城へ登る道は、御覧の通り急峻な場所にはすべてこうした木製の階段が設置されている。本丸にたどり着くまで、かなりの数の階段が設置されている。
身体の負担から考えると、大変にありがたいが、場所によっては延々と階段が続くところもあり、途中で次の階段が見えるとうんざりしたくもなる。
日本中を争乱の渦に巻き込んだ南北朝時代には、全国各地に数多くの山城が築かれましたが、その一つである二上山城は、戦いのための機能のみを備え、住居施設としての役割が完全に分離された典型的な南北朝期の山城といえます。
しかし、標高300mを超える山城は、麓の館と離れていて不便であること、また因幡守護所としては位置的にあまりに但馬の国(兵庫県西部)寄りであることなどから、やがて守護所移転という事態を迎えました。
また戦国時代の半ばになると、城は軍事面以上に、政治・経済といった社会的中心地としての性格を、よりはっきりと持つようになりました。また鉄砲の出現に代表される戦術の変化なども追い打ちをかけ、やがて二上山城は城としての機能を失っていくことになります。“
【写真左】登城途中から見た城下の岩常や高住の町並み
奥の山並みを越えると、但馬(兵庫県)の新温泉町に出る。
さらに、本丸跡には遺構の説明板があり、詳細に記されているので、これも転載する。
“二上山城の位置する二上山は、標高346.6m、所々に位置する巨岩と、標高200m前後から急勾配をもつきわめて険阻な山です。城は山頂部の一の平及び、一の平帯曲輪を中心とし、北東方面へ向かって二の平、そして大小8か所の削平地からなる三の曲輪と続く主要部からなっています。
このほぼ一直線に並んだ城の状況をみると、二上山城は北側からの寄せ手を意識して築城されていたように思われます。東西両斜面はかなり険しく、この方面からの攻撃は不可能と思われます。一方で、他の斜面に比べゆるやかな南側の尾根伝いのルートは、非常時に逃げ道となっていたようで、こちらからの攻撃は少ないものと考えられていた様子がうかがわれます。
【一の平及び一の平帯曲輪】
東西50m、南北29.4m、面積953㎡の規模を持つ一の平は、近世の城でいえば「本丸」にあたり、有事の際にはここから指揮・指令が発せられました。
また一の平の周囲にはおよそ200mにわたる帯曲輪が設けられ、一の平の守備・防衛に役だっていたようです。
【二の平】
二の平は二上山城でもっとも面積の大きい削平地で、東西およそ100m、幅は最も広いところで24mで、ここから陶器片をはじめとする生活用品の遺物が出土していることから、屋敷等の生活のための施設があったと考えられます。
その他にも、東端の土塁から始まる三の曲輪方向への意図的な急勾配や、西端に位置する一の平入口の守りを固めるための櫓跡のような壇、また南側に9m隔てた場所に設けられた東西78mにわたる帯曲輪など、戦略面での工夫も各所に見受けられます。
【写真左】二の平といわれているところ
【三の曲輪】
城の北東守備のために設けられた7つの曲輪群は、籠城の際に敵勢と向かい合う最前線となった場所で地形を巧みに利用しつつ、各曲輪が互いに連携して防御されては、この方面からの攻撃は非常に難しかったでしょう。なお、二上山城の各遺構の正式な名称は、一の平、二の平以外に伝わっておらず、「三の曲輪」は使用上の仮称です。
【写真左】三の曲輪?
記憶違いでなければ、この付近が同上の場所と思われる。写真にあるように、土塁の跡がしっかりと残っている。
【写真左】一の平(本丸)の上り口付近
下の部分は帯曲輪の形状を残しているが、竹や雑木が多く、かろうじて歩行部分のみが確認できる。
【写真左】一の平(本丸)
説明板にもあるように、1,000㎡ 近い面積を持つもので、北東部の尾根に向かって伸びている。
削平された施工もかなり丁寧な仕上がりになっており、予想以上の大きさを感じた。
【写真左】一の平(本丸)から北方を見る。
この写真中央部に見える小山は、道竹城で、戦国期(1541)三上兵庫頭が山名氏に攻めれ落城している。
【写真左】一の平(本丸)に設置してある説明板
二上山城の位置図
【写真左】二上山城の概略図
●登城日 2009年5月19日
●所在地 鳥取県岩美町岩常
●築城期 文和年中(1352~55)
●築城者 山名時氏
●別名 岩常城
●標高 346.6m
●遺構 堀切、土塁、一の平、二の平、三の曲輪等
◆解説
二上山城は、前稿で取り上げた山名氏の居城のひとつで、因幡地方を拠点とした山城である。所在地である岩美町岩常は、国道9号線から南に延びる37号線(岩美八東線)を少し入ったところにある。
【写真左】二上山城遠望
東側の37号線(岩美八東線)より見る。 左側の高いほうに一の平(本丸)があり、右側の低いほうには三の曲輪などがある。
登城した時期が5月の半ばを過ぎていたことから、登城道の雑草の繁茂を予想していたが、おもったほどひどくなく、本丸までたどり着くことができた。
【写真左】登城口付近
説明板がある下の駐車場から登るコースが正規のようだが、ここの道(農道)峠を越え東の鳥取市側まで伸び、二上山の麓まで行けることから、途中の空き地(第2駐車場)に止めて、この場所からスタートした。
この場所は鳥取県でもっとも東方に位置し、隣の但馬地方(兵庫県)と接している。二上山城の登城口付近と、本丸跡地に丁寧な説明板が設置してあり、当城の沿革が記されている。
少し長いが原文のまま下記に転載する。なお、最初の説明板は、麓の駐車場(2か所あり、一番下のトイレなどが完備してある方で、もう一か所は中腹付近まで伸びた道の空き地が駐車場代わりとなっているが、ここには何もない)
“史跡 二上山城跡
二上山城は、南北朝時代、北朝年号で表すと文和年間(1352~56)に、そのころ因幡の国(鳥取県東部)に勢力をのばしていた山名氏により築城されたと推定されており、後に因幡の国守護所とされました。
現在、標高346.6mの山頂にある一の平を起点とし、北東方向へ二の平、三の曲輪と展開する主要部のほか、8か所の出城の跡が残されています。
巨濃(この)郡(ぐん)(現在の岩美町・福部村)で産出される金・銀・銅といった鉱産資源、当時の因幡の国の中心地であった現在の国府町方面への交通路の確保、そして古くからの海運で栄えていた岩本の湊をおさえるといった経済的な面を持つ一方で、二上山城は軍事的・戦略的にも非常に優れた立地条件を備えていたと考えられます。
【写真左】登城途中の階段
二上山城へ登る道は、御覧の通り急峻な場所にはすべてこうした木製の階段が設置されている。本丸にたどり着くまで、かなりの数の階段が設置されている。
身体の負担から考えると、大変にありがたいが、場所によっては延々と階段が続くところもあり、途中で次の階段が見えるとうんざりしたくもなる。
日本中を争乱の渦に巻き込んだ南北朝時代には、全国各地に数多くの山城が築かれましたが、その一つである二上山城は、戦いのための機能のみを備え、住居施設としての役割が完全に分離された典型的な南北朝期の山城といえます。
しかし、標高300mを超える山城は、麓の館と離れていて不便であること、また因幡守護所としては位置的にあまりに但馬の国(兵庫県西部)寄りであることなどから、やがて守護所移転という事態を迎えました。
また戦国時代の半ばになると、城は軍事面以上に、政治・経済といった社会的中心地としての性格を、よりはっきりと持つようになりました。また鉄砲の出現に代表される戦術の変化なども追い打ちをかけ、やがて二上山城は城としての機能を失っていくことになります。“
【写真左】登城途中から見た城下の岩常や高住の町並み
奥の山並みを越えると、但馬(兵庫県)の新温泉町に出る。
さらに、本丸跡には遺構の説明板があり、詳細に記されているので、これも転載する。
“二上山城の位置する二上山は、標高346.6m、所々に位置する巨岩と、標高200m前後から急勾配をもつきわめて険阻な山です。城は山頂部の一の平及び、一の平帯曲輪を中心とし、北東方面へ向かって二の平、そして大小8か所の削平地からなる三の曲輪と続く主要部からなっています。
このほぼ一直線に並んだ城の状況をみると、二上山城は北側からの寄せ手を意識して築城されていたように思われます。東西両斜面はかなり険しく、この方面からの攻撃は不可能と思われます。一方で、他の斜面に比べゆるやかな南側の尾根伝いのルートは、非常時に逃げ道となっていたようで、こちらからの攻撃は少ないものと考えられていた様子がうかがわれます。
【一の平及び一の平帯曲輪】
東西50m、南北29.4m、面積953㎡の規模を持つ一の平は、近世の城でいえば「本丸」にあたり、有事の際にはここから指揮・指令が発せられました。
また一の平の周囲にはおよそ200mにわたる帯曲輪が設けられ、一の平の守備・防衛に役だっていたようです。
【二の平】
二の平は二上山城でもっとも面積の大きい削平地で、東西およそ100m、幅は最も広いところで24mで、ここから陶器片をはじめとする生活用品の遺物が出土していることから、屋敷等の生活のための施設があったと考えられます。
その他にも、東端の土塁から始まる三の曲輪方向への意図的な急勾配や、西端に位置する一の平入口の守りを固めるための櫓跡のような壇、また南側に9m隔てた場所に設けられた東西78mにわたる帯曲輪など、戦略面での工夫も各所に見受けられます。
【写真左】二の平といわれているところ
【三の曲輪】
城の北東守備のために設けられた7つの曲輪群は、籠城の際に敵勢と向かい合う最前線となった場所で地形を巧みに利用しつつ、各曲輪が互いに連携して防御されては、この方面からの攻撃は非常に難しかったでしょう。なお、二上山城の各遺構の正式な名称は、一の平、二の平以外に伝わっておらず、「三の曲輪」は使用上の仮称です。
【写真左】三の曲輪?
記憶違いでなければ、この付近が同上の場所と思われる。写真にあるように、土塁の跡がしっかりと残っている。
【写真左】一の平(本丸)の上り口付近
下の部分は帯曲輪の形状を残しているが、竹や雑木が多く、かろうじて歩行部分のみが確認できる。
【写真左】一の平(本丸)
説明板にもあるように、1,000㎡ 近い面積を持つもので、北東部の尾根に向かって伸びている。
削平された施工もかなり丁寧な仕上がりになっており、予想以上の大きさを感じた。
【写真左】一の平(本丸)から北方を見る。
この写真中央部に見える小山は、道竹城で、戦国期(1541)三上兵庫頭が山名氏に攻めれ落城している。
【写真左】一の平(本丸)に設置してある説明板
二上山城の位置図
【写真左】二上山城の概略図
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