2017年11月20日月曜日

豊前・長野城(福岡県北九州市小倉南区大字長野)

豊前・長野城(ぶぜん・ながのじょう)

●所在地 福岡県北九州市小倉南区大字長野
●高さ H:233m(比高200m)
●築城期 保元2年(1157)又は、それ以前か
●築城者 平康盛又は中原系長野氏
●城主 長野豊前守助氏、長野氏等
●遺構 畝状竪堀群・郭・土塁等
●登城日 2015年10月10日

◆解説(参考資料 HP「北九州のあれこれ」、HP「福岡県の城址」等)
 豊前・長野城(以下「長野城」とする)は、北九州市小倉南区大字長野にあって、城域の北側を現在の東九州自動車道のトンネルが斜めに横断している。当城から東方へおよそ7キロ隔てたところには、豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)が所在する。
【写真左】長野城
 二の丸から本丸にかけて設置された堀切の一つ。









長野氏

 築城者の一人とされる長野氏の出自についてははっきりしない点が多い。その中でも保元2年(1157)平時盛の子・康盛が豊前国司として下向し、長野に築城し長野氏を名乗ったという説があり、築城者の特定は困難としても築城期はおそらくこの頃と思われる。

 室町時代に至ると、この長野氏は長野城の所在する長野を拠点とし、東谷・中谷・西谷を手中に収め、さらに蒲生・徳力まで勢力を拡大し、小倉南区辻三の大三岳(おおみつがたけ)城、小三岳(こみつがたけ)城、稗畑山城などを築いた。
【写真左】登城開始
 登城口は北麓から続く「林道長野線」の起点から始まるが、後段でも紹介するように災害によって車両の通行止めとなっており、手前の空き地に車を停め、歩いて向かう。

 気を付けなくてはならないのは、「マムシ注意」や「イノシシ注意」の看板が設置されているので、特に夏場は避けた方がいいだろう。


  ところで、豊前国及び筑前国(現在の北九州地区)の戦国初期における版図は、北に大内氏、東南に大友氏、西南に少弐氏という大きな勢力に挟まれ、その中に長野氏をはじめ、麻生氏・門司氏といった国人領主たちがいた。

 特に大内氏による支配が強く、天文20年(1551)の陶晴賢による謀叛によって義隆が自害し、陶晴賢が大友氏から義長を迎えて家督をつなぐ辺りまで名目上は大内氏の支配下にあったと推測される。
【写真左】出丸に向かう
 林道を暫く歩いていくと次第に倒木や中小の小石などが崩落した箇所が増えていく。どうりで「通行止め」になるはずだ。

 当城に関するマップなど殆どもっていないため、どのあたりからが城域に入るところなのかまったくわからない。それでも、歩いていくと右側斜面に黄色い札のようなものが木に掛かっていたのでここから登る。すると目の前に大きな岩が見えた。


 前述したように、長野氏は当城(長野城)以外の大三岳城や小三岳城などを領有していたこともあり、大内氏没落後、大友氏と毛利氏との抗争の中で一族がそれぞれ分散していった。さらに秀吉による九州征伐の際はほとんどその名を残していないので、おそらくこの段階で長野氏による長野城は廃城となったと思われる。
【写真左】出丸
 西側の尾根筋に設置された郭段で、出丸とされている。ほとんど整備されていないので、一見すると自然地形にみえるが、尾根の上部まで郭段が構成されていることが分かる。


長野城の概要

 当城の特徴として挙げられるのは、夥しい畝状竪堀群である。

 本丸を持つ頂上部から南に下る二つの尾根筋に郭段を設け、それぞれの尖端部には、二の丸、出丸が配置されている。またこれらの尾根に併せて100本前後の堀切を配置し、二の丸及び本丸の周囲に多くの竪堀を残す。一説にはその数200余りという。
【写真左】郭段
 訪れた時期が悪いことや、標示されたものがほとんどないことから、写真では分かりにくい。
【写真左】「出丸」と書かれた標識
 資料によってはこの出丸を「三の丸」と記しているものもあるが、南から北に向って連続する郭段の最高所に位置している。
【写真左】堀切
 出丸から南に進むと、2,3条の堀切などがあるようだが、現地は鮮明でない。写真はそのうちの一つの堀切。

 なお、そのまま尾根伝いに南に向かうと本丸にたどり着くが、現地は相当荒れているため、ここで一旦元の道に戻る。
【写真左】林道を進む。
 林道を進んで行くに従い、段々と荒れた状況になり、ご覧の様に注意喚起のカラーコーンなどが設置されている。

 倒木個所や崩落した石など増えてくるため、歩行が困難になるが、間を潜り抜けながら進む。
 地面はこの箇所でもアスファルト舗装なのだが、殆ど土砂で埋まっている。
【写真左】再び登り口を示す標示が
 出丸(三の丸)から下山した後、常に道路の右側斜面を見ながら登っていくと、ご覧の様な小さな看板とロープを発見。

 以前は木に掛けてあったのだろう、「二の丸」と書かれた標識が斜面に横たわっている。これを頼りにこの斜面を登る。
【写真左】竪堀
 長野城の特徴の一つである竪堀である。ロープを伝って登っていくと、途中からこの道が竪堀の中を通っていることに気付く。
【写真左】隣の竪堀
 この辺りには多くの竪堀が配置されている。途中から左側にも中規模の竪堀が覗きはじめた。
【写真左】空堀
 竪堀終点地点で小郭が介在し、そのあと右側に空堀が見えてきた。

 左側の上を進むと二の丸の頂部にたどり着く。
【写真左】帯郭
 傾斜のある竪堀を過ぎると、窪みは無くなり細長い帯郭となった。
【写真左】二の丸
 帯郭から上を目指すと不揃いな削平地がある。この場所が二ノ丸の中心部。
【写真左】堀切
 二の丸の一画には土塁状のものが残り、その下にはご覧の堀切がある。

 樹木が相当生い茂っているため明瞭な遺構写真を撮ることはやや難があるが、このあたりが一番遺構密度が高い。
【写真左】堀切
 上の堀切とは別のもので、中には堀切の延長線上に竪堀があるものもある。
【写真左】堀切脇の奇木
 二の丸から本丸に向かう途中にも堀切があるが、その脇に佇んでいた奇木。

 名前は分からないが、それぞれに伸びた枝はまるで筋肉隆々の人間の腕にも見える。
【写真左】土塁
 本丸に向かう間には写真のように左側に土塁が奥に向かって伸びている。

 右側はそれぞれ小郭となった段(郭)が階層的に繋がっている。
【写真左】堀切
 本丸直前に設置されたもので、この辺りから傾斜がきつくなっているため、効果は大きい。
【写真左】本丸
 何段かの郭を過ぎるとやがて本丸が見えてくる。

 この付近でも左側に土塁が残っている。東方からの攻めを大分意識しているようだ。
【写真左】基壇
 本丸の一画にのこるもので、高さ2m弱のもの。
【写真左】石仏
 低くなった削平地の一画には大きな石の上に小さな仏像が鎮座している。
 当時は祠などもあったのかもしれない。
【写真左】「本丸跡」の標識
 本丸の中心部にはご覧の標識が木に取り付けられている。

 なお、本丸の規模は不定型な三角形で東側と南側に伸びた形をしているようだが、笹や樹木に覆われていてはっきりしない。
【写真左】三角点
 標高233m余の位置。
【写真左】畝状竪堀群
 写真では不鮮明だが、本丸の南斜面にも多くの畝状竪堀群が散見される。








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法然寺(福岡県築上郡築上町東八田)

2017年11月11日土曜日

稲村山城(広島県三原市小坂町)

稲村山城(いなむらやまじょう)

●所在地 広島県三原市小坂町
●高さ 152m(比高127m)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 田坂義忠か
●城主 田坂氏
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2015年9月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系』第13巻等)
 稲村山城は、前稿安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)から東北東へ4.7キロ、また高山城(広島県三原市高坂町)からは、東方約3キロ余り隔てた小坂町に築かれた城砦である。
【写真左】稲村山城遠望・その1
 南側から見たもので、手前の道路は南北に走る県道344号線。






現地の説明板より

“稲村城の由来

 田坂右馬允義忠公この地に築城5万石の城主となる。応永元年(1394)
 その後喜範 喜政 善親 善詮(善慶)と小早川家の執権職となる。

 5代 田坂摂津守善慶公高山城内に於て日名内玄心の奸計により討たれ非業の死を遂げる。天文16年正月16日(1547)
 5代150年余り続いた稲村城も落城す。
 歴代城主家臣を偲び鎮魂の祈りをこめてこの碑を建立す。
   稲村城址顕彰会   平成18年11月吉日”
【写真左】稲村山城遠望・その2
 北側からみたもので、手前の道路は同じく県道344号線。

 なお、当城の北西麓で344号線と東西に走る県道155号線(三原本郷線)が交差している。



田坂氏

 城主といわれる田坂氏は、『芸藩通志』によれば下野国から来住して小早川氏に属したと記されている。現地の説明板では始祖と思われる義忠が応永元年(1394)、当城を築城したとされている。
【写真左】登城口
 北麓を走る県道155号線側にあって、入口付近にはロープのようなもがかけてあるが、この手前に1台分の駐車スペースがある。





 応永元年の頃の沼田小早川氏は、仏通寺を創建した春平(米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)、梨羽城(広島県三原市本郷町上北方)参照)の時代である。

 春平の父は、貞平である。長子が春平で、次男に土倉(はぐら)夏平がいたとされる。田坂氏はその土倉氏の分流と推察され、小早川惣領家の家政及び奉行人を統轄する政所を勤め、さらに高山在城奉行をも勤めた重要な一族であったといわれる。

 土倉氏については、雲雀城(広島県尾道市御調町市)でも少し触れているが、雲雀城にあった土倉氏はその後当城周辺の支配が長く続かなかったとされている。
【写真左】登城道
 後段で紹介する若宮神社が本丸跡に設置された際、作業道が併せて施工されたらしく、この道は新たに設置されたもの。

 重機などで幅員も広げられ、歩きやすくなっている。ただ、遺構部分も一分消滅した可能性もある。



沼田小早川家の継嗣と竹原小早川家との合一

 さて、安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その2で既に述べているが、毛利元就が三男・徳寿丸(のちの隆景)を最初に養子縁組させたのは、惣領家沼田から分かれた竹原小早川家(木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)参照)である。ときに、天文13年(1544)、徳寿丸11歳の頃である。もっともこの縁組は、元就自身はあまり乗り気でなく、当時元就の主君であった大内家(義隆)が推し進めたものであった。
【写真左】尾根にたどり着く。
 登城した時期が早すぎたため、周辺の樹木に覆われて視界は良くない。







 これと相前後して、惣領家沼田の小早川家第14代正平は、天文12年(1543)出雲の月山富田城攻めにおいて、殿(しんがり)をつとめ討死した(小早川正平の墓(島根県出雲市美談町) 参照)。このため、正平の子又鶴丸が家督を継ぎ、繁平と名乗った。しかし、彼は3歳の時眼病を患い失明していた。

 盲目の当主が小早川惣領家を受け継ぐという異例な処置に対し、当然ながら家臣達には不安と動揺が走った。おそらく大内氏は当初からそれを想定していたのと思われ、結局繁平は高山城から下城させ隔離する処置をとった。そして、竹原小早川家の養子となっていた隆景を繁平の妹と結婚させ、併せて沼田小早川家と竹原小早川家の両家合一を計ることにした。
【写真左】本丸が近くなってきた。
 作業道として改修されたようで、右側の方も大分削られたようだ。ただ、登城する分には楽になるが…



 これに対し、沼田惣領家の家臣の間に争論が生じた。両家合一に異を唱えていた者の一人が稲村山城主・田坂摂津守善慶である。

 彼はこの縁組が小早川惣領家としての威信にかかわるとし、またそれまで対立していた竹原小早川家に対する反駁があり、さらには大内・毛利氏らによる干渉にも同意できないものがあったとされる。

 “高山城内に於て日名内玄心の奸計により討たれ…と説明板に書かれているが、この縁組を強力に推し進めていたのは、当事者の一人である毛利氏は勿論だが、小早川両家合一をさらに後押していた大内氏の力もあったのだろう。そして、具体的に動いたのは、沼田小早川家一族であった乃美隆興(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照) である。
【写真左】本丸にたどり着く。
 右側が登ってきた道で、右下に見えるのは簡易便所。








 ところで、これに先立つ天文14年(1545)11月、元就の正室妙玖が47歳で亡くなった。そして後妻として入ったのが、この乃美隆興の娘である。

 隆興の置かれた立場を考えると、彼がもっとも両家合一を推進する役目を担ったものだろう。従って「日名内某の奸計」は、隆興による指示が背景にあったものと思われる。
【写真左】稲村城址の石碑
 本丸跡にはご覧の石碑が建立されている。
【写真左】稲村城址顕彰会会員名簿
 石碑の脇に設置されているもので、この中には「田坂」姓の方が、4名見える。田坂氏の末裔と思われる。
【写真左】若宮社
 本丸の奥には平成15年から18年にかけて再建された若宮社拝殿が建立されている。

 おそらく以前からあったものが朽ち果てたため再建されたものだろう。
【写真左】拝殿側から石碑方向を見る。
 当城の遺構としてはめぼしいものはあまり残っていない。主郭と思われる最高所が、北側にあり、ここから南にかけて少し下がった位置にも2段の郭が残る。

 これらを合わせた長軸は70m程で、この場所から東方200mの位置にもピーク(H:140m)もあり、物見櫓的な遺構もあったものと思われる。
【写真左】2段目の郭
 奥に主郭(本丸)が見える。
【写真左】3段目の郭
 雑木などがあって分かりにくいが、3m前後低くなった段である。
【写真左】高山城遠望
 西方には小早川氏の居城高山城が見える。

 なお、後に移ることになる新高山城は高山城の裏側にあたるが、この位置からでは高山城に隠れて見えない。

2017年11月8日水曜日

安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)

安芸・高木山城(あき・たかぎやまじょう)

●所在地 広島県三原市本郷町下北方
●別名 沼田城
●築城期 不明(平安時代後期か)
●築城者 不明(沼田氏か)
●城主 沼田次郎、内藤実豊
●高さ 30m
●形態 丘城
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2015年9月30日

◆解説(参考文献 『中世武士団』石井進著、HP 「城郭放浪記」等)
 安芸・高木山城(以下「高木山城」とする)は、広島県三原市本郷町下北にあって、沼田川の支流梨和川の北岸に築かれた城館である。別名沼田城ともいわれる。

 元暦年間に伊予国の河野通信が、母方の伯父沼田次郎を頼り、安芸国に渡りこの城に籠って平教経の攻撃に防戦したが破れたという。
【写真左】高木山城遠望・その1
 西側から見たもので、北側から伸びる細尾根先端部に遺構が残る。

 右側に少し見える道路が旧山陽道だが、平安末期のころは道路などはなく、沼地の景観だったと推測される。



沼田荘

 南北朝期、九州を席巻し始めた南朝方菊池武光(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)を制圧するため、幕府は九州探題に今川了俊(多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)参照)を任命西下させた。このころ、都から九州方面に向かう際、瀬戸内を使った船旅はすでに定番になっていた。そして瀬戸内航路の途中には、鞆の浦をはじめとする潮待ち湊などが多くできた。
【写真左】高木山城配置図
 現地に設置してあった案内板をもとに、管理人によって当城の位置を追加したもので、左図の沼田川本流を北に登ると、小早川氏の高山城(広島県三原市高坂町)・新高山城(広島県三原市本郷町本郷)などがあり、支流の梨和川を西に向かうと、梨羽城(広島県三原市本郷町上北方)に繋がる。



 現在の三原市沼田町から本郷町にかけて流れる沼田川の下流部にもその当時船を停泊する湊があった。了俊の頃は沼田川が上流部から土砂を運んだため、すでに下流部は湿地帯となっていたが、平安後期の頃はまだ遠浅の海だった。それからおよそ100年後、了俊は西下の途中沼田にしばらく留まり、紀行文『道ゆきぶり』を綴った。

“……このあたりは寿永の昔までは海の底だったというが、なるほど岩石のかたわらにかきの殻等のついたものが見える。

……甑天神の山のならび、道の脇のちょっとした岡に松や竹が繁り、草葺の堂がひとつ建っている。平家の時代に沼田の某が立て籠もった城を、平教経朝臣が攻め落とした場所だそうだ。……”


寿永というのは、元暦元年(1184)の前年のころで、後白河法皇が東海・東山両道の支配権を源頼朝に委任した宣旨を出し、源氏が本格的に平氏打倒の動きを見せる年である。
【写真左】高木山城遠望・その2
 南側から見たもので、高木山城は中央の小丘部。手前が梨和川で、右に下ると沼田川に注ぐ。




沼田氏(ぬたし)

 この沼田荘はそれまで京都の三十三間堂で知られる蓮華王院の所領となっていた。そして、そのこの荘(荘園)の管理監視を司るいわゆる下司としてその職を担っていたのが、地元豪族沼田氏である。

 源平争乱が勃発した際、瀬戸内でもっとも早く反平氏の旗幟を挙げたのが伊予河野氏(高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)参照)である。この河野氏の挙兵に応じたのが縁戚関係を結んでいた沼田氏で、その中心人物が沼田次郎である。
 これに対し、平家方の平教経が沼田次郎の拠る沼田城を攻め落としたという。平教経の父は清盛の異母弟で、清盛の甥にあたる。
【写真左】登城口付近
 左奥の段丘から城域となるが、その手前に旧山陽道が東西に走る。
 写真の中央右には「梨羽城跡←」の看板が設置されている。



 亡びた一族の記録は多くの場合ほとんど残されていないことが多い。高木山城(沼田城)及び平家に滅ぼされた沼田氏は、後の土肥(小早川氏)氏(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)参照)の支配に及ぶと、さらにその痕跡さえも留めなくなった。

 平安時代中期に作成された「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に、律令時代、沼田本郷・船木郷・安直郷・真良郷・梨子羽(梨葉)郷の名があり、その後ほとんどが沼田荘に変わっているが、この段階で沼田の郡司として荘園の寄進などを行っていたのが沼田氏ではないかと思われ、源平合戦の際、生口島の公文や下司たちが、沼田氏(のちに平家に帰順した沼田五郎など)に召集されて門司関まで従軍参戦したといわれる。
【写真左】この階段から登城する。
 南麓部には寺院があり、その裏山である高木山城跡の南側には墓地が点在している。
 登城道は従って墓地に向かう道を使う。
【写真左】墓地
 階段を上がると、直ぐにこの墓地が見える。

 10mにも満たない尾根幅全体を削平し、奥行もさほどない状況だが、おそらく当時高木山城の最先端部に設置された郭だったのだろう。
【写真左】尖端部から南を眺望
 手前の樹木下を旧山陽道が走り、その奥を梨和川が流れている。

 奥に見える山並みを超えると、沼田氏が隆盛の時代、水軍領主でもあったことから当地(沼田荘)以外に支配下に治めていた竹原荘(現竹原市)に繋がる。
【写真左】地蔵及び五輪塔の部位
 墓所の片隅には石仏などが集められているが、中には五輪塔の部位も見える。沼田氏一族のものもこの中にあるのかもしれない。
【写真左】北側から南を見る。
 墓地奥から振り返ってみたもので、奥行は20m弱ほどか。
 このあと、さらに奥に向かう。
【写真左】堀切・その1
 当城の遺構として残るのは、この郭跡に残る墓地のみと思っていたが、さらに奥に進むと、墓地は無くなり、尾根を遮断するような切り込みが見える。堀切である。
【写真左】堀切・その2
 下りてみると、予想以上に堀切としての良好な遺構を残す。

 瀬戸内に力を誇示した沼田氏は水軍領主として船戦に長けていたこともあり、本格的な城砦(海城)は残さなかったかもしれないが、この堀切だけは貴重なものと思われる。
 


横見廃寺跡

 ところで、上掲した高木山城配置図にも記しているが、当城の周辺には多くの史跡が点在している。特に当城西麓には白鳳時代に建立されたといわれる横見廃寺跡がある。
【写真左】横見廃寺跡
 高木山城の西麓に残るもので、現在畑地などになっている。









現地説明板より

“国指定史跡
 横見廃寺跡
     昭和53年5月22日 指定

 横見廃寺跡は、いわゆる火炎文軒丸瓦を出土する広島県最古の寺跡として知られている。昭和48年以降、広島県教育委員会が行った発掘調査によって、北側に山を背負った南面する微高地に講堂、塔、築地などの遺構が残存していることが明らかになった。建物の数が未調査であるため不明な部分も多いが、寺域は東西約100m、南北80m前後と考えられる。
【写真左】横見廃寺跡平面図
 高木山城はこの図の右側に当たる。
左側は本郷中学校。







 講堂跡は寺跡の東寄りに位置し西面する。基壇は、南北28.8m、東西19.1mの規模で、建物は桁行7間メ梁行4間と推定されている。
 基壇は平瓦をたてならべて化粧し、この基壇の南側には回廊がとりつく。講堂の西北方には塔(または北金堂か)の遺構が検出され、西向きの特異な伽藍配置となる。

 瓦類は山田寺式単弁蓮華文軒丸瓦(火炎文瓦)や、忍冬唐草文軒丸瓦をはじめとし、優美な白鳳時代のものが多数出土しており、特に火炎文瓦は飛鳥地方との直接的な交流を物語るものとして注目されている。
【写真左】瓦類発掘調査状況











 なお、本寺跡の西約200mには、県内最大の横穴式石室をもつ梅木平古墳(県史跡)があり、さらに西約2kmには、切石積の石室で知られる御年代古墳(国史跡)がある。
 いずれも畿内政権との交流を示すものであり、当時のこの地域が畿内と密接に関係していたことがわかる。
          三原市教育委員会”


楽音寺

 上掲した高木山城配置図にも記されているが、梨和川を挟んで南側には古刹・楽音寺がある。

 承平・天慶の乱(935~941年)で流罪されていた藤原倫実(ともざね)は、藤原純友を追討する大将に任命され、髻(もとどり)に込めた一寸二分の薬師像のお蔭で窮地を脱し、純友を滅亡させた。この功によって沼田七郷を賜り、感謝をこめて建立したのが薬師如来を祀る楽音寺である。
【写真左】楽音寺・その1
 現在は真言宗だが、かつては天台宗の古寺で、盛時は仁王門から内側の谷いっぱいに多くの坊が建ち並んでいたという。
 
参拝日 2014年5月8日


 歴史学者・石井進は、その著書『中世武士団』の中で、倫実が中央からの流人であったというのは、家系を飾るための虚構であって、おそらく本来の在地豪族か、あるいは国衙の在庁官人が土着して開発領主となっていったのではないか、と記している。
【写真左】楽音寺・その2
 写真の階段を登ったところが現在の本堂で、この位置まで長い坂が続く。おそらくその間に段があり多くの坊が建っていたものと思われる。

※なお、当院は境内及び本堂等の写真撮影は禁止されているため、周辺部のみのものとなった。


 当寺に伝えられた鎌倉中期の文書(「楽音寺文書」3〔『広島県史』古代中世資料編4〕に、この寺は天慶年中(938~947)に沼田氏が建立した氏寺である、と書きつけられ、鎌倉末期に至るまで楽音寺の院務職は、代々倫実の子孫が連綿として相伝してきたとされている。このため、この倫実こそが沼田氏の祖と仰がれてきた人物であったという。
【写真左】楽音寺下の景観
 この写真でいえば、左側に梨和川や高木山城がある。