2014年1月10日金曜日

安徳天皇西市陵墓(山口県下関市豊田町地吉)

安徳天皇西市陵墓(あんとくてんのう にしいちりょうぼ)

●所在地 山口県下関市豊田町地吉
●指定 天皇陵墓参考地(昭和3年指定)
●探訪日 2007年3月14日


◆解説
 前稿に続いて、今稿も山口県にある安徳天皇の陵墓参考地(以下「西市陵墓」とする)、並びに追加として、但馬(兵庫県)に残る平家落人伝説地を紹介したい。


阿弥陀寺御陵(安徳天皇陵墓)

 ところで、前稿も含めて取り上げているのはいずれも「参考地」という注釈がついた墓所である。これに対し、「参考地」と付記されていない、いわば公式に安徳天皇の陵墓とされているのが、壇ノ浦の近くにある阿弥陀寺御陵である。

 残念ながら管理人は当地及び、その近くに帝を祀った「赤間神宮」は参拝していない。いずれ機会があったら是非参拝したいと思っている。
【写真左】安徳天皇西市陵墓参考地・その1
 所在地は下関市だが、旧豊田町の北端部にあり、長門市との境界に接している。
 北側に隣接する長門市側から流れてきた木屋川が、下流部の豊田町大河内で堰き止められ、ダム湖(豊田湖)ができている。
 陵墓はその上流部に所在する。

 戦いのあった壇ノ浦からは歩いて北へ約44キロほどの位置に当たる。



 さて、今稿で取り上げた山口県(長門国)にある西市陵墓を訪れたのは7年も前のことで、確か大内義隆の墓がある長門市の大寧寺参拝のあと、時間があったためこちらに寄ったと記憶している。

 この陵墓も参考地とされているものだが、高知県越知町のものとは違い、壇ノ浦で亡くなった直後こちらに埋葬されたというものである。
【写真左】安徳天皇西市陵墓参考地・その2 宮内庁の看板
 他の宮内庁管轄のものと同じく、一般人は中には入れない。




その他の参考地

 参考までに、宮内庁によって指定されている安徳天皇の陵墓(参考地)とされているものは、この二つの他に、
  1. 宇倍野陵墓参考地(鳥取県鳥取市)
  2. 佐須陵墓参考地(長崎県)
  3. 花園陵墓参考地(熊本県)
と合計5ヵ所ある。
 5ヵ所とも天皇陵墓として長い間伝えられてきたことを考えると、安徳帝の有無はともかく、平家一門が関わった場所なのだろう。

 どちらにしても800年以上前のことである。今となってはどれが本当のものか分からない。


安徳帝亡骸の引揚げ
 
 今稿の西市陵墓も、地元に残る伝承では、安徳天皇が入水し戦いが終わったのち、義経らは幼帝(安徳天皇)及び、三種の神器の回収を懸命になって探し、その結果、安徳帝は潮の流れが速かったのか、関門海峡から一旦西の響灘(日本海)へ流れ、その後対馬海流に乗り、大津郡三隅町沢江浦(現在の長門市)の漁師の網に、亡骸が掛かったという。
【写真左】旧沢江浦附近(現山口県長門市)
 詩人・金子みすずで有名な長門市仙崎の東方にあるが、現在の仙崎の湾岸部で引き揚げられたことになる。



 壇ノ浦の戦いは、元暦2年(1185)3月24日に行われている。船戦が始まったのはその日の朝からといわれ、このころ潮の流れは、西から東へと流れ、平氏にとって有利な条件だった。

 しかし後半になると潮の流れが変わり、逆に東から西へと向きを変えた。これに合わせるかのように、源氏方の優位が決定的になった。

【写真左】下関側壇ノ浦PAから関門海峡を望む。
 向いに門司の港が見え、この辺りがもっとも潮の流れが速くなる箇所である。




 参考までに、第七管区海上保安部のHPが紹介している「潮流推算」の推算海域:瀬戸内沿岸で、戦い当時の日時(元暦2年・1185年、3月24日)を入力してみると、確かにこの日は、午前9時すぎまでは西から東へと流れ、10時を過ぎると、潮が変わり東から西へと流れている。

 特に午前11時から13時過ぎの時間帯は、流速値が最も高く、4.0kn(ノット) overとなっているので、7km/h以上の速さである。そして響灘に入ると、対馬海流が南から北に向かって進んでいるので、喧伝された件の話は強ち虚構とはいえないだろう。

【写真左】安徳天皇西市陵墓参考地・その3
 入口付近には車が4,5台駐車できるスペースが設けられてる。







複数の安徳帝身代わり

 源平合戦の最終戦となる壇ノ浦の戦いの前、平氏方の戦力は、平知盛を大将とし、松浦党、山鹿秀遠らの軍勢を併せ約500艘といわれている。

 これに対し、源氏方は義経を総大将として、水軍では伊予水軍、熊野水軍、阿波水軍、讃岐水軍などが加勢して840艘に及び、さらには陸上の門司海岸に源範頼軍が3万もの大軍を構え布陣していた。

 文字通り平家方にとっては背水の陣であるが、実態はその前の屋島の戦いで制海権を失い、既に勝負は見えていたはずである。この段階で、なおも安徳天皇を奉じて戦いに臨むという平家の思惑はどこにあったのだろう。
【写真左】安徳天皇西市陵墓参考地・その4
 附近には「古刀出土の地」「御衣濯の池 左前方凡30m崖下湖底」とされた石碑が建つ。

 ダムができる昭和55年(1980)ごろまで湖底には70軒の集落があり、「先帝祭り」という神事が行われてきたという。


 穿った見方をすれば、場合によっては、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇が安徳天皇陵墓参考地・横倉山(高知県高岡郡越知町五味・越知)でも紹介されたように、身代わりとして使われたということも十分考えられる。
 
 さらにはその先に予想される執拗なまでの源氏方による追討の手が伸びることも当然平家方にとって予想できたはずである。とすれば、先ずは壇ノ浦の船上に身代わりの帝を乗せ、一方ではそれが発覚した際に備え、源氏方を混乱させるべく、さらに複数の身代わりを立てていたのではないかとも思える。


才の神奉斎の古址
 ところで、安徳天皇とは別に、平家一門が全国に四散し、各地に落人伝説があるが、その中の一つ、但馬(兵庫県)の日本海岸部にあるものを紹介しておきたい。
【写真左】才の神奉斎の古址・その1
所在地:兵庫県豊岡市竹野町田久日

 








現地の説明版より

“才の神奉斎の古址

  田久日部落は日本海岸に点在する○○地にある平家部人の集落の一つと伝えられている。
 古くから種々の伝承が残されているが、このあたりを才の神といって現在は立詞も残っていないが、立木だけを目印として里人等は才の神についていろいろの云い伝えをしている。

 才の神は塞神と云って八街(やちまた)彦神・八街姫神・久那戸(くなと)神の三神を云い、道の要衝に祭って道行く人馬の安全を祈る道路の守護神である。此所に才の神を奉斎した。
 古址は田久日部落と海上を一望に見はらかし平家の落人等が外部との一切の折衝を断って、陸の孤島と呼ばれた。
【写真左】才の神奉斎の古址・その2
 切り立った断崖が複雑に絡み、いまでこそ道路が整備されているが、当時はさすがに人も寄せ付けないような場所だったと思われる。


 この地に住みつき外来の者を警戒し、その侵入を防ぎ止めるために塞神を鎭斉したものと考えられる。

 外来の者を警戒する行事として、今も村の入口の高所から見張り「合図を互いにかわす呼び合い」の行事が正月に行われているが、これとも深い関係があると考えられる。
 昭和22年北但開発海岸道路が開発されることになり、この一帯を陸上自衛隊によって掘り拓された際、地中より多数の祭具と思われる土器の破片を発掘したところである。
        竹野町”

2014年1月3日金曜日

安徳天皇陵墓参考地・横倉山(高知県高岡郡越知町五味・越知)

安徳天皇陵墓参考地・横倉山
        (あんとくてんのうりょうぼ さんこうち・よこくらやま)

●所在地 高知県高岡郡越知町五味・越知
●高さ 780m前後
●遺構 陵墓、行在所など
●探訪日 2013年12月24日

◆解説(参考サイト「土佐の歴史散歩」越知町編など)
 今稿は山城の話題と少し逸れるが、土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)の稿で少しふれたように、越知町にある平家落人伝説の残る安徳天皇陵墓参考地を中心に紹介したいと思う。
【写真左】横倉山遠望・その1
 東麓の越知町町並みから見たもの。

 周辺部の山々に対し、横倉山は特に険しい山容を見せる。



平家落人伝説
 
 平家の滅亡を描いた「平家物語」は、これまで多く語られ、特に壇ノ浦での源氏との戦いで敗北が決定的となったとき、清盛の妻・二位尼時子が孫の安徳天皇に向かって、「これから極楽浄土といういいところに参りましょう」と死を覚悟して海に飛び込む場面などは、無垢の幼帝であったがゆえになおさら読者をして涙を誘うところである。

 そして、安徳天皇らの入水に続いて、平家一門の主だった武将も、激しく流れる関門海峡の中に飛び込んだ。ここに栄華を誇った平家一門が終焉することになる。
【写真上】横倉山案内マップ
 上が北を示す。文字が小さいため読みにくいが、安徳天皇陵墓参考地を中心としたところまでは、徒歩の道が整備されていて助かる。また、車でも第3駐車場までたどり着けるため管理人のように体力のない者にとってもありがたい。

 ただ、時期によっては崩落によって道路が通行止めになっていることもあるようなので、事前に調べておくことが必要。
 今回は、車で最高所の「第3駐車場」まで行き、そこから歩いて向かった。



 ところで、この船戦(ふないくさ)で平家が滅びることになるのだが、幸か不幸か、入水・自害することができず生き残った武将らがいた。

 これら残党はその後各地に四散し、のちに全国に残る「平家落人」伝説として語られることなる。管理人の住む島根県では、以前取り上げた石見の三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)などがあるが、四国地方でよく知られるのは、「かずら橋」で有名な徳島県の祖谷地区(三好市)などが挙げられる。
【写真左】横倉山第3駐車場側登山口
 3か所ある駐車場のうち、一番高い位置にある駐車場から向かう。

 この位置から約1.3キロほど登っていくと参考地にたどり着く。


 今稿でとりあげるのは、そのうち、亡くなったといわれる安徳天皇本人をはじめ、随臣者たちが生き残って逃れた場所である。つまり、壇ノ浦で入水したのは安徳天皇の身代わりであって、本物の帝はこちらに落ち延びたというものである。
【写真左】第3駐車場
 12月24日という最も昼の時間が短い日に訪れ、しかも駐車場に着いたのが午後3時40分という時間帯だったが、向かうことにした。
 麓では全く雪がなかったのだが、さすがに標高700m辺りになると残雪があった。



 そこで、先ずはその経緯を綴った当地の説面板から紹介しておきたい。

 現地の説明板より

“安徳天皇陵墓参考地
 文治元年(1185)の屋島壇ノ浦の戦いで天皇の身代わりを立てた本隊を下関壇ノ浦に向かわせ、幼帝安徳天皇を擁した平家一門は、ひそかに四国に上陸した。

 1年数か月の潜幸の後、ここ横倉山に辿り着き終焉の地としたが、正治2年(1200)に御歳23歳で崩御し、この地に奉葬される。

 天皇が従臣らと蹴鞠(けまり)をされた所と伝えられ、地元では「鞠ヶ奈呂(まりがなろ)陵墓参考地」ともいう。ここ西隣は、天皇が乗馬の練習をされた「御馬場跡」といわれている。

 明治16年「御陵伝説地」に、昭和元年「陵墓参考地」に指定。正式には「越知陵墓参考地」。県内では唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している。
【写真左】飛騨守景家之墓
 しばらく歩いていくと、最初にこの墓が出てくる。
 文治3年(1187)8月、安徳天皇に随勤し横倉山へ来た平家一門八十八士の1人という。

 随勤した八十八士については後段で紹介しているが、当地に入ったのが文治3年とされているので、丁度義経が頼朝の追討から逃れ、陸奥の藤原秀衡の元に辿りついた年でもある。


平家の栄華盛衰

 平清盛が亡くなったのは治承5年(1181)年である。通説では清盛が没した後、平家の凋落が始まったことになっているが、現実には清盛が最も期待をかけていた長男・重盛が、治承3年(1179)に亡くなってからの清盛自身の変化が原因ともいわれている。

 自らが築き上げた組織のリーダーは、概ね晩年になると、明晰な予見・判断力に衰えがでてくるものである。有能なリーダーは現役時代から後継者の育成に努め、自らの引き際を冷厳に定めている。
【写真左】杉原神社
 飛騨守の墓からさらに進んで行くと、広い削平地が出てくるが、その右側には大杉に守られたかのような神社が現れる。

 平家の守護神熊野権現その他を祀り、杉の巨木が多いところから社名・杉原神社となったという。
 社殿はこれまで度々改築され、現在残るものは明治30年頃のものという。
【写真左】大杉・南株
 当社神木の一つで、幹周り5.92m、推定樹齢500年、高さ51mという。







 清盛亡き後、総帥となったのは三男宗盛である。だが、父ほどの才覚・指導力を身に着けることができなかった宗盛にとって、平家存亡の危機を脱するには余りにも荷が重かった。
 
 さらにこのころ既に源氏を中心とした平家打倒の機運が盛り上がり、寿永2年(1183)の北陸における源義仲との俱利伽羅峠の戦いを皮切りに、平家は西へ西へと追われることになった。
【写真左】平家の宮
 周辺部にあった従臣たち80余名の墓祠があり、横倉宮の摂社未社として祭礼が行われてきたが、戦後新たに御霊を一つの宮に合祀招霊し、昭和57年10月に新たに建立したもの。




ファイル:Ageha-cho.svg【写真左】平氏の代表的な家紋:揚羽蝶


当社に祀られている随勤した88名の内、横倉山中に埋葬されていた78名の名簿

安芸馬之助能行、源太夫判官李国、中納言律師中快、淡路守清秀、皇后宮亮経正、治部卿の局、新井田紀四郎親清、小松少将有盛、戸瀬宗則、伊賀平内兵衛清家、小松新三位中将資盛、名和太郎廣綱、伊江橋草清、子山吹姫、中村清光、乳母虎岡姫、後藤内貞経、二位若姫、浮巣三郎重親、佐馬守行盛、二位僧都専親、越前三位通盛、桜間之介能遠、備中守師盛、越中次郎兵衛盛継、桜間之介局、能登守教経、海老次郎盛方、讃岐中将時実、兵部少輔正明、大森太郎左衛門義盛、座頭岩見検行、兵部少輔雅明、尾張守清貞、佐府道仙、飛騨太夫判官景高、門脇中納言教盛、正四位大和守基盛、飛騨三郎左衛門景経、片岡太郎経繁、執行能圓、平井衛門尉道廣、上総守忠清、白佐太郎兵衛頼実、平内佐右衛門家長、上総太夫判官忠綱、攝津判官盛澄、藤内左衛門尉信康、河内判官李国、藤内兵衛尉有則、上総悪七兵衛景清、、真下四郎重直、花山院中納言兼政、橘内左衛門秀康、真野辺次郎、上総五郎兵衛忠光、高橋判官長綱、三河守知度、蔵人太夫業盛、高倉園之助康清、武蔵三郎左衛門有国、粟賀道仙、丹後侍従忠房、山鹿兵衛藤次秀遠、粟賀平次郎、玉の前姫、大和小次郎兵衛高直、蔵人守忠清、滝口時貞、若狭守経俊、黒田五郎兵衛景直、内蔵頭信基、大納言資房、経誦坊阿闍梨祐円、
※平経盛、※平大納言時忠、※平知盛、
※※田口成良

【註】これらの名簿は出典元は明記されていないため、当然ながら公式な記録ではない。
 ※印の3人については、それぞれ経盛は壇ノ浦にて弟教盛と入水、時忠は文治5年(1189)配流先の能登で生涯を終えている。知盛については「平家物語」にもあるように、壇ノ浦の総指揮をとった武将で、主だった平家一門の入水を見届けたのち、最期に自ら浮かび上がらないよう鎧を二着身に着けて入水したとされる。

 ※※田口成良:「平家物語」では、成良は壇ノ浦の戦いの最中に平家を裏切り、源氏方に寝返ったとあるが、「吾妻鏡」では捕らわれた平家の中に名がみえ、また別の史料では、安徳天皇を当地横倉山まで案内した人物として、現地にも「田口社」(下段写真参照)が祀られている。
【写真左】安徳帝行在所(あんざいしょ)跡案内図
 杉原神社からさらに登っていくと、安徳天皇が仮の住まいとした行在所、すなわち御座所跡がある(下の写真参照)。
【写真左】行在所(あんざいしょ)跡
 上図にもあるように、安徳天皇陵墓に向かう道の左側から逸れて、少し上ったところだが、なだらかな谷間の上段部で、奥行50m×幅30m程度の規模を持つ。

 谷の下方先端部は人工的に落差を設け、侵入を防止したような跡が見える。かなりの広さと平坦地が確保されているので、宮殿とはいえないまでも5,6間四方の建物が建っていたのではないかと思わせる。


 そして、元暦2年・寿永4年(1185)2月、瀬戸内の屋島における戦いでは、支配地域であった四国のほどんども奪われ、1か月後、ついに関門海峡の壇ノ浦にて最後の決戦を迎えることになる。

 この場所で戦いが繰り広げられたのは、のちに石見の津和野城主・吉見頼行(吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)参照)の祖となる源範頼の働きがあったからである。彼は、壇ノ浦の戦いの前に、九州の諸将を源氏方に引込み、門司海峡の九州側でこのときすでに3万もの軍勢を布陣させていた。このため、平家はこれ以上西下できず、退路を断たれたため止む無くこの壇ノ浦での戦いとなったわけである。
【写真左】田口社
 上述した田口成良を祀る社で、行在所のすぐ上に祀られている。








横倉山

 壇ノ浦の戦いから1年数か月後、安徳天皇はじめ随従者たちが、当地横倉山に辿りついたとされている。それまでの足取りははっきりしないが、おそらく落ち延びる場所を盛んに探していたことだろう。

 ところで、この越知町にある横倉山は、帝が辿りつく前から土佐国唯一の修験道場の霊場として栄えていたという。確かに麓から当山の山容を仰ぎ見ると、その独特の切り立った岩山から容易に人を寄せ付けない姿を見せる。霊場としての遺構も多数残り、保安3年(1122)の経筒や剣などが出土している。
【写真左】横倉宮入口付近
 再び本道に戻りさらに上に向かうと、途中で左に脇道があり、そこから急な階段を上ったピークに横倉宮が祀られている。





 さて、屋島の戦いが終わった段階で、前述したように四国のほとんどが源氏に支配されたと書いたが、厳密には瀬戸内に面した国々、すなわち、讃岐・阿波・伊予の三国で、土佐国は入っていない。

 治承3年(1179)、頼朝から後に「大天狗(おおてんぐ)」と評された後白河法皇は、驕る平家の打倒をめざし転覆を謀った。これに激怒した清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉する事件が起きた。丁度この頃、平家直轄の知行国は30国を越え、荘園は500か所以上にもなったという。まさに絶頂期である。四国における知行国は、前述した三国(讃岐・阿波・伊予)である。
【写真左】横倉宮本殿
 現地の説明板より

“横倉宮

 祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流造りです。
 由緒は正治2年(1200)8月8日、安徳天皇は23歳で山上の行在で亡くなられ、鞠ヶ奈路に葬られた。同年9月8日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祀る。

 歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。現在の建物は明治30年(1892)頃の改築で、以前は横倉権現といったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月23日、天皇崩御750年祭のときに横倉宮と改められた。”


 ではなぜ、この段階で土佐国が入っていなかったのだろうか。おそらくそれは土佐国特有の地理的条件がその要因と思われる。

 平安期の延長8年(930)から承平4年(934)にかけて土佐国司として赴いた紀貫之の記録があるものの、以前にも紹介したように、頼朝の弟・希義や、土御門上皇などが配流されるなど、いわば陸の孤島としての位置づけがしばらく続いた土地である。従って、清盛も土佐国の知行まで考えていなかったのだろう。
【写真左】「馬鹿試し」付近
 横倉宮の脇を奥に進むと、断崖絶壁の目もくらむ場所があり、「馬鹿試し」と呼ばれている箇所がある。途中まで試みたが、早々と手前で恐怖心がわき引き返した。





 このことは、後に源氏(頼朝)が鎌倉政権を立ち上げた際、平氏が治めていた知行国を最優先に奪取することになり、その枠外とされた土佐国についてはしばらく緩衝地帯のような状況だったと思われる。そして、1年余り潜幸・流浪していた安徳帝らに、隠遁の場所として、土佐・横倉山を誰か(田口成良?)が導いたのかもしれない。

 もっとも、土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)で述べたように、安徳天皇らが横倉山に潜幸した段階で、大平氏(藤原氏)が監視を始めていたとすれば、話は大分違ってくることになるが。
【写真左】安徳天皇陵墓参考地の登り階段
 横倉宮から再び本道に戻り、更に上に向かっていくと、いよいよ陵墓参考地の階段が見えてくる。

 ここに至るまでも荘厳な雰囲気はあったが、この階段部からはさらにその思いを強くした。
【写真左】安徳天皇陵墓参考地・その1
 宮内庁所管地のため、一般人は回廊部分は入ることができるが、中央には入れない。
【写真左】安徳天皇陵墓参考地・その2
 ぐるっと回って右側から見たもの。
 凡そ20m四方の大きさで、中には数本の木が生え、4,50cm程度の盛土のような箇所が見える。
【写真左】南麓部遊行寺附近から見上げる。
 横倉山の南麓部遊行寺という谷間からさらに上に登っていくと、以前にも紹介した「中大平」「大平」という地区に向かう。

 蓮池城の後の城主大平氏(藤原氏)が、この場所で監視していた可能性も考えられるのだが。

2013年12月30日月曜日

姫倉城(高知県香南市香我美町岸本)

姫倉城(ひめくらじょう)

●所在地 高知県香南市香我美町岸本
●築城期 不明
●高さ 68.3m(比高60m)
●城主 姫暮氏、桑名丹後(長宗我部氏)等
●遺構 土塁、郭
●備考 土御門上皇歌碑・仙跡碑、こどもの森公園・月見山
●登城日 2013年8月4日

◆解説
 姫倉城は高知県の旧香我美町(現香南市)にあって、安芸氏の武将姫倉氏の居城とされている。
 
 位置的には、戦国期土佐の雄となった長宗我部氏の居城(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)と、前稿土佐・安芸城(高知県安芸市土居)の間にあることから、両氏による戦いがもっとも激しくなったところといわれている。
【写真左】姫倉城遠望
 姫倉城の南端部を国道55号線と、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線が走り、その南(左側)は土佐湾(太平洋)の長い海岸線が伸びる。
 写真は東側の国道55号線沿いのコンビニから撮ったもの。

 
現地の説明板より

“史跡の森(姫倉城跡)
 大忍荘は南北朝期から熊野新宮の領地で、戦国時代一部を除いて安芸氏の勢力下に入り、姫倉城は安芸の武将・姫倉右京の居城であった。

 長宗我部元親の大忍討入りの時、長宗豊前が奪取して、姫倉豊前守と称した。天正14年、豊前守が九州戸次川で討死すると、嫡子太郎右衛門があとをついだ。

 元親は天正の頃、家臣の持城の破壊を命じ、以来400年の幕を下ろすこととなった。
    香我美町教育委員会”
【写真左】配置図
 姫倉城(月見山)は、「四国のみち」という四国全土を歩く自然歩道のルートにも含まれているが、この図では上部に月見山が描かれている。

 なお、中央部の香宗川岸に「香宗城」が描かれているが、別名「香宗我部城」といわれ、香宗我部氏の居城とされている。管理人は訪れていないが、小さな八幡宮が祀られている。
【写真左】月見山こどもの森総合案内板
 姫倉城のある月見山は北側から伸びる細長い尾根上に築かれ、北側から「わんぱくの森」「つどいの森」などのエリアが設けられている。

 このうち姫倉城は下段に示す「土御門上皇歌碑」がある「史跡の森」の中に位置づけされている。
 ただ、この図には姫倉城の名称は入っておらず、最下段に書かれている「シバ広場・スベリ台」あたりになる。

 
姫倉氏と長宗我部氏

 姫倉氏が仕えた主君は安芸氏である。安芸氏については、前稿土佐・安芸城(高知県安芸市土居)でも紹介したように、戦国時代になると土佐七雄の一人とされ、国虎は土佐一条家の房元の娘を娶り覇を唱えた。

 長宗我部氏が土佐の制圧を開始して、さらに勢力を強めることになったきっかけは、以前紹介した本山氏の拠る朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)の攻略である。
【写真左】登城口
 公園は南側から向かう道と、東側奥の駐車場から歩いて向かう道の二つがあるが、この日は後者のほうから向かったため、公園内をやや下りながら歩いていくとご覧の看板が見える。
 ここから歩いて2,3分で城域に入る。


 このころは朝倉城主・本山氏と、長宗我部氏の力は拮抗しており、両者とも土佐湾岸の掌握を目論んでいた。これは、具体的には浦戸湾岸地域を支配することによって、海上権益を得て土佐東西への足掛かりをつくるためであった。
【写真左】登城道
 公園になったため、当時の登城道ではないと思われるが、雰囲気は十分に感じられる。
 写真右側が既に中心部になる。



 特に山岳部に本拠をもっていた本山氏などはこの狙いが強く、朝倉城を手中におさめていた同氏にとってもっとも重要な場所となっていた。

 しかし、永禄6年に長宗我部氏が当城から本山氏を追放し、長宗我部氏がこの地域を抑えた。ここから長宗我部氏の土佐東西に侵攻する基礎ができた。
 
 さて、東方侵略の一つである姫倉城攻めの際、長宗我部軍は陸路も使ったと思われるが、主だった隊はおそらく軍船を利用したのだろう。現在、姫倉城の南端部は太平洋の荒波が直接打ち寄せてはいないが、当時は殆ど海岸部の絶壁にあったものと思われる。
【写真左】二の丸か
 最初に現れるのが主郭の北側に設けられた2幅10m前後の規模を持つ帯郭状のもので、二の丸的な位置づけのものと思われる。
 この正面に本丸(主郭)が控える。

 夏場のため草丈が長く伸びあまりいい条件ではなかった。
【写真左】さらに上にある本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
 予想通りここも雑草が繁茂し、遺構の状況としては芳しくないが、凡その形状は確認できる。

 直径凡そ15m前後の円形をなし、周囲には高さ1m前後の土塁が取り巻く。
【写真左】本丸・その2
 土塁を写しているつもりだが、これでは分からないかもしれない。

 また、周囲の立木も南側を伐採すれば、土佐湾・太平洋が俯瞰でき、当時の状況がより把握できたかもしれない。
【写真左】再び二の丸へ降りる。
 本丸の北西端には少し開口部があり、そこから階段と梯子状の通路が設置してある。大分古びた梯子を注意しながら降りる。

 この位置での二の丸と本丸の比高差は約6,7m位だが、南(海側)はやはり敵からの侵入を意識していたのだろう、切崖状の箇所が多くみられた。


土御門上皇歌碑

 ところで、姫倉城は北側から南の土佐湾岸沿いまで南に延びる月見山の先端部に当たるが、当城から尾根筋に北に向かうと、土御門上皇の歌碑が建立されている。

 土御門上皇については、これまで、土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)などで紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】土御門上皇仙跡碑
 裏には「大正11年3月 高知縣香美郡」と刻銘されている。








 現地の説明板より

“土御門上皇土佐遷幸と歌碑建立の経緯

 1221年(承久3年)後鳥羽上皇(82代天皇)が、鎌倉幕府打倒の兵を挙げるも幕府によって鎮圧された「承久の乱」によって、父君、後鳥羽上皇は隠岐の国(島根県)へ、弟の順徳上皇(84代天皇)は、佐渡の国(新潟県)へ、そして、土御門上皇(83代天皇)は、土佐の国、のちに阿波の国(徳島県)へ配流となった。
 この事件以降公家政権は、急速に衰え幕府の優位は決定的となる政治史上画期的な事変であった。
【写真左】歌碑入口付近
 北側から向かう位置で、公園内を南北に縦断する道の一角にある。







   土御門上皇は、事変の局外者で後鳥羽上皇の倒幕を誅止したほどで幕府も処分する考えはなかったが、上皇は、一人都に留まることを心苦しく思われ、自らが願い出て土佐遷幸が決定した。

 土御門上皇は、承久3年10月10日、供の者を従え香川県綾歌郡松山村に上陸、四国山脈、丹治川を超え、土佐に入国、そして、現四万十市蕨岡字天皇山に入った。

 その後、畑(幡多郡)は小国にて御封米難で守護も困難とのことから、約6ヶ月後の承久4年5月に阿波の国に移られる途上、しばしの間、月見山多聞院常楽寺(現宝憧院)に皇居を構え、月見山で月を眺めし故、山号を月見山と申し、また当時「脇の磯の北、常楽寺の南腹にいかにももののふのふたりし老木の松があり、この松(延命松という)の上の月影を愛でされたと言われている。
【写真左】歌碑付近から南東方向を俯瞰する。
 現在月見山から眺望できる箇所は周囲の木立のため余り多くないが、おそらく上皇もこの景色を眺めたことだろう。

 土佐湾に突出した手結岬が見える。



 土御門上皇の「土御門院御集」に掲載されている
 「かがみのや たがいつはりの 名のみして こふるみやこの かげもうつらず」
 の和歌は、上皇が京の都を偲んで詠まれた常楽寺滞在中の作と言われる。

 ここ、月見山山上には、上皇滞在を記念して大正11年(1922)「香美郡会」が発起となり当時の高知県知事「阿部亀彦」の揮毫による「土御門上皇仙跡碑」が建てられている。
【写真左】歌碑設置付近
 月見山全体がこうした公園などに改変されたため、姫倉城としての遺構は南端部のみしか残ってないが、細長い尾根と東麓部の急峻さを見れば、現在の公園ほとんどが姫倉城の城域として構成されていた可能性が高い。


 しかし、上皇が詠まれた歌碑はなく、有志より建立の話が持ち上がり、地元岸本でも、この和歌は歴史的にも関係の深い岸本ほか5ヵ村を鏡野になぞらえ「香我美町」と命名をしたと香我美町史に謳われていることから、地元有志も賛同、平成21年7月10日実行委員会を結成、同年11月3日(文化の日)を歌碑建立除幕式と定め、活動を行った結果、565名におよぶ人々から浄財を得ることができ、和歌は、京都の「財団法人 冷泉家時雨亭文庫」のご好意により重要文化財「土御門院御集」の筆跡から拡大彫刻することが許され、予定通り11月3日に完成の運びとなったものであります。
                         以上
   平成22年4月3日 
     月見山土御門上皇歌碑建立実行委員会”

2013年12月29日日曜日

土佐・安芸城(高知県安芸市土居)

土佐・安芸城(とさ・あきじょう)

●所在地 高知県安芸市土居
●別名 安芸(安喜)土居
●築城期 延慶2年(1309)頃
●築城者 安芸親氏
●城主 安芸国虎、長宗我部氏、五藤氏等
●形態 平山城
●遺構 石垣、土塁、堀、郭
●高さ 40m
●指定 安芸市指定史跡
●登城日 2013年8月4日

◆解説
 土佐・安芸城は、高知県の東部安芸市を流れる安芸川の中流土居にある平山城で、築城したのは安芸親氏といわれている。
【写真左】土佐・安芸城遠望
 西側から見たもので、独立した小丘陵地に築かれている。このため、城館としては小規模なものである。




現地の説明板より

“安芸城跡    市指定史跡

 安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)安芸親氏によって築かれたという。安芸氏は、この地方の有力な豪族の1人で、戦国時代には土佐七雄の1人といわれた。

 城は安芸平野のほぼ中央の小高い丘にあり、本丸(詰の段)からは平野が一望できる。東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があって、これらを外堀とした天然の要塞であった。また、内堀を掘った土で土塁を築き城壁とし、南の大手門は枡形の広場もみられる。
【写真左】案内図
 安芸城跡には歴史民俗資料館、書道美術館などが建ち、また南側には武家屋敷などがある。

 また、安芸城の北西2キロほど行ったところには、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎の生家もある。



 戦国時代の末、永禄12年(1569)長宗我部元親に攻められ、激戦の末落城、安芸氏は滅びた。
 その後30年間長宗我部氏が支配したが、慶長6年(1601)山内一豊の土佐入国とともに山内氏の重臣・五藤氏が安芸を治めることとなり、ここに居館を構えた。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようだが、五藤氏によって、周辺が整備され、今に至っている。
   安芸市教育委員会”
【写真左】濠
 当城の全周には濠が巡らされていたが、現在は特に南側が土塁とともに整備され、見事な景観を保持している。





安芸氏

 安芸氏の出自については諸説紛々あるが、壬申の乱(672年)で配流された蘇我赤兄の後裔といわれている。
 当城の築城期が延慶元年といわれているので、花園天皇のころである。またこのころ、幕府が伊予国の河野氏に対し、当時熊野灘で出没していた海賊を討伐するよう命じているので、土佐湾を指呼する安芸氏にとっても何らかの関わりもあったのだろう。
【写真左】入口付近
 大手門と思われる箇所で、現在残る土塁部の石垣などはおそらく山内一豊時代の重臣・五藤氏のころのものだろう。




 室町期に至ると、土佐国は細川吉兆家が守護職となり、安芸氏はその守護代としてしばらく続くことになる。応仁の乱の際は東軍である細川勝元に加勢し、その当時安芸氏分家の畑山氏から養嗣子として入っていた元信や、その子元康が戦死し一族が途絶えかけたが、元信の実弟元盛が兄に代わって本家安芸氏に入り、安芸氏を再興させた。
【写真左】安喜(安芸)土居内外細図
 江戸時代後期に作成されたといわれる絵図で、左上が安芸城になる。

 江戸時代となってからは山内氏の家臣・五藤氏が城下町として整備しているが、下段にも示すように、城下には武家屋敷がほとんどで、商人たちの建物はこのエリアには入れていなかった。







 戦国時代の大永6年(1526)、安芸氏と同じく土佐一雄のひとつで、西隣に勢力を誇っていた香宗我部氏を破り、さらに元盛の曾孫になる国虎の代になると、当時同国盟主とされた土佐一条氏と縁戚関係を結び、隆盛を極めることになる。ただ、このころから長宗我部氏の台頭もあり、次第に領地境界を巡って同氏との紛争が起き始めた。

 最終的には説明板にもあるように、永禄12年(1569)長宗我部元親は安芸城を攻めることになるが、安芸城内にいた譜代の主だった家臣らが元親に内応したため、国虎は自害の道を選んだ。

 その後、長宗我部元親は香宗我部氏の家督を継いだ実弟の親泰を当城に送りこんだ。
【写真左】土塁
 濠を隔て城域を囲繞する石積みの土塁で、高さは約3m前後のもの。
 一豊時代の五藤氏が築いたものといわれている。
【写真左】毒井戸跡
 現地の説明板より

“永禄12年(1569)7月、安芸城は圧倒的な長宗我部軍に包囲された。

 敵に背後を突かれ、不覚をとりながらも安芸勢は城を打って出ては奮戦、籠城24日に及んだが、ついに城の東安芸川の対岸の岡より火矢を放たれ、城は炎上した。

 この間敵に内通するものあり。機をみて城の井戸に毒を投じ、長宗我部の陣に走った。為に城内の兵ら倒れる者多数、士気は著しく衰え、覚悟を決めた城主安芸国虎は、残された全将兵と領民の助命を条件に、自らは菩提寺である浄貞寺に入り自決した。
 以来、この毒井戸は、安芸落城を早めた原因の一つとして、今に語り伝えられている。”
【写真左】登城口付近
 城域の東側に登城口がある。平山城であるので、2,3分で主郭にたどり着く。
【写真左】中段南側の郭
 主郭を中心にして南北に郭段が2,3段連続する構成で、特徴的なものはないが、東の安芸川側である切崖はさすがに意を用いている。
【写真左】主郭附近
 上掲の郭からさらに上に登ると、外観から想像する以上に規模の大きい主郭が現れる。

 最大の平坦地が長径30m程度あり、そこから下の写真にもあるように、南にも数段の郭が連続する。
【写真左】主郭南端部
 主郭を南に向かうと、1.5m程度低くなった段があり、さらに南に行くにしたがって幅が狭くなり、急峻な切崖が濠に落ちている。
【写真左】藤崎神社
 五藤家を祀る神社で、東麓に建立されているが、次のような由来が記されている。

“藤崎神社

 元亀元年(1570)、織田信長の越前朝倉攻めに従軍した山内一豊は、敵を討ち取ったものの、左の目尻から右の奥歯にかけて矢を射られた。重臣の為浄(ためきよ)は、その矢を抜こうとするがなかなか抜けず、わらじをはいたまま一豊の顔を踏み、矢を抜き取った。

 慶長6年(1601)、土佐藩主となった一豊は、為浄の武功を重んじて、五藤家に安芸を預けた。武功のきっかけとなった鏃(やじり)は五藤家の家宝となり、為浄がはいていたわらじは、藤崎神社のご神体となったと伝えられる。
   安芸市教育委員会”


安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区

 
 安芸城のエリアは、赤線で囲んだところで、指定史跡となっている。
 城砦の規模は概ね南北250m×東西100mと、南北に長い。
 また、その東麓を安芸川が流れているが、その対岸には北から伸びた横山という弓状の細い丘陵部がある。

 地取りとしてはむしろこちらの方が、理想的に思えるが、当時こちらにも安芸城を補完する施設(支城、船溜まり、屋敷跡など)があったものと考えられるが、遺構の記録はないようだ。

 この図と併せて、伝統的建造物保存地区についての説明が次のように記されている。

【写真左】安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区範囲図

“安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区

 土居廓中(かちゅう)は安芸平野のほぼ中央、安芸川の西岸に位置し、周辺は条里制の遺構がよく残る古代から開けた土地です。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、長宗我部氏に代わって土佐に入った山内一豊は、山間部が多く東西に広い土佐国を治めるため、佐川、宿毛、窪川、本山、安芸の五か所の土居に家老または重臣を置きました。
【写真左】武家屋敷付近
 当時の道幅のまま残っている。
 代表的な屋敷として、野村家のものがあり、写真にはないが、一般公開をしている。


 本来、「土居」とは、土手に囲まれた領主屋敷のことを指し、この五か所の土居には、家老屋敷を中心に小規模な城下町が形成されました。

 その一つ、土居廓中は、安芸土居に置かれた五藤氏の城下町です。城下は、武家地にみで構成され、町人地は2キロメートルほど南の安芸浦や土居廓中までの街道沿いに形成されました。

 土居廓中には、武家屋敷が並ぶ町割とともに、江戸時代末期から昭和初期にかけての建物が残り、狭い通りに沿って石溝や生垣、塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を今日に伝えています。

 昭和49年(1974)に地元住民により結成された「ふるさと土佐土居廓中保存会」が主体的に保存に取り組んできたこの歴史的な町並みは、安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区とされ、平成24年7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。”
【写真左】岩崎彌太郎生家
 安芸城から北西に向かった一の宮という地区にあり、一般公開されている。

 探訪したこの日も猛暑で、いささかバテ気味になった。入口付近には屋台風の喫茶店があり、注文したソフトクリームが実にうまく、ここから安芸城をしばらく遠望することができた。