2012年2月21日火曜日

米子城(鳥取県米子市久米町)

米子城(よなごじょう)

●所在地 鳥取県米子市久米町
●別名 久米城・湊山城
●築城期 文明2年(1470)ごろ、または天正年間(1573~92)
●築城者 山名氏か、または吉川元春
●改修者 吉川広家・中村一忠
●形態 平山城
●遺構 石垣・門等
●高さ 標高90m
●指定 国指定史跡(平成18年:2006年)
●登城日 2006年11月8日、及び2010年5月21日

◆解説(参考資料 「米子市HP」『日本城郭体系第14巻』『尼子物語:妹尾豊三郎編著』等)

米子城については、以前取り上げた同市内にあった尾高城(鳥取県米子市尾高)でも少し紹介しているが、平成18年に国指定史跡を受けた平山城である。
【写真左】米子城遠望・その1
南麓を走る国道9号線の東方から見たもの。
 2012年2月撮影のもの。
【写真左】米子城遠望・その2
 中海を挟んで、北側から見たもの(2014年2月撮影)。








現地の説明板より

“国指定史跡
 米子城跡
     指定年月日 平成18年1月26日


 米子城は、伯耆国守護山名教之(のりゆき)の配下、山名宗之(むねゆき)によって応仁年間から文明年間(1467~87)に築かれたと伝えられる。その後、天正19年(1591)には、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家が新たに築城を開始したが、関ヶ原の戦い後、吉川広家が岩国に転封となった。このため、新たに伯耆18万石・米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長7年(1602)に完成させたとされる。
【写真左】湊山公園案内図
 米子城は、湊山公園として整備され、「三の丸」は野球場、「二の丸」は庭球場と示されているが、江戸後期の配置名称だろう。


 『日本城郭体系』にあるように、当城の江戸初期は、本丸は湊山に、二の丸は「丸山(別名内膳丸)、三の丸は飯山というように、独立した山城構成だったようだ。


 当時の面影を残しているものは、この本丸と「内膳丸」だが、その周囲は散歩コースとして市民に親しまれている。
 なお、登山口は5か所設けられている。
この案内図では左側が北を示し、右上に国道9号線が走る。なお、この図には描かれていないが、国道9号線を挟んで南側には既述した「飯山城」がある。



 絵図によると米子城は、天守と副天守(四重櫓)の二つが並ぶ威容を誇っている。一説によると、四重櫓は天守に先行する古い時代のもので、吉川時代のものとも尾高城から移築したものとも伝えられている。


 中村氏により、城下町を含め整備された米子城であったが、中村氏の改易の後、慶長15年(1617)に加藤貞泰が入城、そして、加藤氏転封後は、池田光政一族の池田由之(よしゆき)・由成り(よしなり)と城主が頻繁に入れ替わる。
【写真左】頂上・内膳丸登城口から向かう。
 公園管理事務所側の駐車場に車を止め、そこから向かうと、九十九折の石積み階段があり、数分で鞍部にたどり着く。







 池田光仲が寛永9年(1632)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩家老職の荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、明治になって天守閣をはじめとする建物すべてが取り壊された。


 米子城は、山上に本丸、内膳丸、山裾に二の丸、三の丸を配して水濠(現在は埋め立てられている)で囲んだ典型的な平山城で、近世城郭として、その歴史的価値は高い。
平成19年3月 鳥取県教育委員会”
【写真左】内膳丸と本丸の分岐点
 この場所で右に向かうと本丸・二の丸方面へ、左に向かうと内膳丸へつながる。
 最初に内膳丸へ向かう。





築城期

近世城郭となった米子城の前身は元々海城といわれている。別名「湊山城」ともいわれているように、「湊」すなわち「港」があった場所とされ、横田山城(島根県松江市美保関町森山)のように、中海湖岸に水軍城としての役割を持たせた城砦と考えられる。
【写真左】内膳丸
 丸山とも呼ばれ、二の丸の機能をもっていた。
下段示すように、中村氏時代の家老・横田内膳正村詮が担当し、別名「内膳丸」という。


 郭周り1町46間、冠木門1、二十櫓1、二重多門櫓1などがあり、武器庫が設置されていた。
 台形状の奥行のある削平地で、先端部から中海が俯瞰できる。



 築城期は応永から文明年間、といわれているので、いわゆる「応永の乱」が繰り広げられた時である。当時の伯耆国守護・山名教之の配下・山名宗之が築城者といわれている。

 このころ応仁の乱が勃発すると、山陰にも東軍方と西軍方が相入り乱れた様相を呈する。山名教之は、石見国守護であった山名政清と西軍方(山名宗全)に味方し、伯耆国と石見国に挟まれた出雲国・隠岐国の守護・京極持清は、東軍方(細川勝元)に与した。

 湊山城(米子城)は、伯耆国と出雲国の国境付近に所在し、いわゆる境目の城として非常に重要な城砦であったことが想像される。
【写真左】内膳丸から本丸を見上げる。
 2回目の登城が5月だったため、周囲の木立が青々と茂り、本丸の石垣が少ししか見えないが、この位置からの眺めも見ごたえがある。
先端部に人が立っている。



戦国期

 尼子氏が滅ぶ元亀2年(1571)の春、伯耆国の尾高城には毛利方の猛将といわれた杉原播磨守盛重が備後から転城し、攻囲を防御せしめていた。そして、その北方の中海に突き出した湊山には吉川元春の家臣・福頼元秀が守備していた。

 時期ははっきりしないものの、同年3月ごろと思われるが、尼子方の羽倉孫兵衛(和久羅山城主)が大将となって、目加田采女・同弾右衛門、高尾右馬允等500余騎が小舟を連ねて、米子城を攻めた。
【写真左】御殿御用井戸跡と、二の丸跡
 上記の「内膳丸」から本丸に向かう途中で、一旦下に降りると、後の二の丸跡となった現在の庭球場、及び井戸跡がある。


 「きれいな清水がわきでるので、御殿の用水に使う車井戸があった」と記されている。
 左側が後の二の丸で、庭球場。



 その後、安芸にあった杉原盛重が尾高城に戻ると、二度目の尼子方の攻撃で、羽倉孫兵衛は毛利方の将・岩田藤次郎によって討ち取られた。

【写真左】旧小原家長屋門
 現地の説明板より






“米子市指定有形文化財


 旧小原家長屋門


 この長屋門は、市内西町の小原家にあったが、昭和28年米子市に寄贈され現在地に移築し、市立山陰歴史館として昭和59年まで利用してきた。


 小原氏は、米子荒尾家の家臣で、禄高120石であった。
 建物は、江戸時代中期の建築で、木造瓦葺入母屋造りの平屋建てで、床面積は84㎡余りであった。大扉の向かって右側に1室、左側に2室あって、その上は一部低い中二階になっている。市内に現存する唯一の武家建築として貴重である。
 №16 米子市”
【写真左】枡形(ますがた)
 上記の長屋門からそのまま南に下がると、「枡形」がある。


 規模 東西25.44m、南北22.72mとほぼ正方形の平坦面で、入口を二重にし、門奥の見通しを遮り、この手前の広場では、城主の行列の共揃い、武士の集合場所として使われたという。



中村一忠と家老横田内膳

 関ヶ原の合戦後、伯耆国18万石の領主として駿府から中村一氏の嫡子・一忠が封ぜられ、松平伯耆守一忠と改称した。しかし、当時彼はわずか12歳であったため、米子藩の執政は家老横田内膳が補佐した。
【写真左】9号線側の登山口から登る。
 上掲の枡形より南に向かったところにもう一つの登山口があり、この場所から左に向かうと、頭上の本丸側に向かう。


 三段の石垣群が見えてくる。



 彼は藩政の安定、産業殖産に大いに手腕をふるい、近世米子の城下町としての基礎を築いた。
 しかし、このことが却って藩内で反感を抱くものが出始め、一忠の近臣らが内膳を暗殺してしまった。慶長8年(1603)11月14日のことである。

 このため、内膳の嫡男・主馬之助は、父の無念を晴らすため、一族とともに本丸から南方に聳える飯山(三の丸)に立て籠もり、蜂起した。

 これに驚いた一忠は、父・一氏の盟友であった隣国・出雲の月山富田城に封ぜられていた堀尾吉晴に援軍を頼み、結果主馬之助は敗れ、自刃した。

 その後、一忠20歳の慶長14年(1609)、日野川に狩りに出た際、梅を食べたことが災いし、5月12日夭逝した。一忠には嫡男がいなかったため、伯耆中村家は断絶することになる。

以降については、説明板の通り。
【写真左】鉄御門跡
本丸・天守に向かう門跡で、頑丈な鉄製の門が造られていた。
間口12.72m、奥行4.5m、2階建。
【写真左】本丸・天守閣跡・その1
本丸の規模は、東側平均42間、南側平均14間、西側平均69間、北側平均46間。
天守は、五重櫓、四重櫓、などがあった。
櫓総数は18、門数は6箇所あった。


写真は天守閣のあった礎石跡。
【写真左】本丸・天守閣跡・その2
【写真左】本丸側から内膳丸を見る。
この写真は、5月ごろに登城したもので、左側は中海、麓は米子の町並みが見え、その奥には美保関の島根半島が見える。
【写真左】本丸跡から大山(だいせん)を見る。
 右側に大山が見える。
 近在の城郭の中でもこれだけ眺望がいいところはそれほど多くはない。
 ただ、天守があったころはおそらく日本海からの風をまともに受けていたと思われるので、冬の最上階は相当堪えたのだろう。
【写真左】遠見櫓跡
本丸から少し下がった所にあり、7.27m×9.09mの平屋櫓と、3.36m×3.63mの二重櫓があったという。別名着見櫓。





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2012年2月16日木曜日

神魂神社(島根県松江市大庭町)

神魂神社(かもすじんじゃ)

●所在地 松江市大庭町563
●創建 平安時代中期か
●祭神 伊弉冊大神・伊弉諾大神
●参詣日 2012年2月吉日

◆解説(参考文献『尼子盛衰人物記』妹尾豊三郎著等)
 前稿横田山城(島根県松江市美保関町森山)の城主といわれた秋上庵介久家の父・三郎左衛門綱平が、戦国期当社の大宮司として仕えた社である。
【写真左】神魂神社の参道・鳥居













 所在地は、以前取り上げた松江・茶臼山城跡・島根県松江市山城町茶臼山から南西方向へ約1.5キロほど隔てたところにある。

 付近には、出雲国造館跡・大石古墳群・大石横穴群・後谷古墳群及び、八重垣神社などがあり、古代出雲の国府地域とされている場所でもある。

 創建期などについては、伝承によるものが多いため、具体的な時期ははっきりしないが、おそらく平安期の中ごろには創建されていたと思われる。
【写真上】神魂神社付近の史跡配置図
 松江市の南方にあたるこの付近は、中海に注ぐ意宇(おう)川を中心に多くの古代史跡が残る。
 この図の右(東方)には出雲国庁跡もあり、古代から中世にかけて長く繁栄した出雲府中とも考えられている。


現地の説明板より

“神魂神社 案内
 御祭神 伊弉冊(いざなみ)大神  伊弉諾(いざなぎ)大神
 祈年祭 4月18日
 例祭  10月18日
 新嘗祭 12月13日


 当社は出雲国造の大祖天穂日命(あめのほひのみこと)がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、以来天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで奉仕され、大社移住後も「神火相続式」、「古伝新嘗祭」奉仕のため参向されている。


 本殿は室町時代初期、正平元年(1346)建立の大社造りで、その大きさは三間四方高さ四丈あり、出雲大社本殿とは規模を異にするが、床が高く、木太く、とくに宇豆柱が壁から著しく張り出していることは、大社造りの古式に則っているとされ、最古の大社造りとして昭和27年3月国宝に指定されている。
 本殿内は、狩野山楽土佐光起の筆と伝えられる壁画九面にて囲まれ、天井は九つの瑞雲が五色に彩られている。”

また、当地には小泉八雲が明治24年4月5日、西田千太郎とともに訪れている。
【写真左】本殿・境内














秋上氏と神魂社(神魂神社)

 戦国期に秋上氏が神魂社の大宮司という社家一族であったことはすでに述べたが、庵介(久家)が尼子氏に仕えたのは、実兄である孝重が神職を継いだこともその理由の一つだが、下段に示す記録から考えて、尼子氏による支援を受けていた国造・北島氏の影響が働いていたと推察される。

 この時期で最初にでてくるのは、文明12年(1480)の「秋上文書」である。同年4月28日付で次のように記されている。
  • 国造・北島高孝、神魂神社神主・秋上大炊助(おおいのすけ)に大庭保内の高孝知行分の代官職等を安堵する。
 また、延徳3年(1491)2月23日付の「佐草文書」には
  • 神魂神社秋上益綱、杵築大社の佐草泰信より預かった大庭保内の佐草領を、死後返還することを約束する。
 とあり、この2年後の明応2年(1493)11月28日付の「秋上文書」では
  • 国造・北島利孝、秋上氏の買得地を安堵する。
 と記され、この時期までは、杵築大社国造である北島氏が秋上氏に対し、直接命を下しており、尼子氏など武家側からの介入がなかったことがうかがえる。
【写真左】本殿・その1













 しかし、大永3年(1523)になると、ここで尼子経久が関わることになる。
  • 同年12月9日付、神魂社総社神主職得分について、社職・宮富氏が尼子経久に訴える。経久、国造・北島雅孝(まさのり)に取扱いを命じる(「同文書」)。
 そして、尼子経久の命によって、大永5年(1525)6月付の秋上文書では、
  • 神魂社秋上孝国、両神魂及び惣社神主職得分は、永く孝国の子孫に帰属すべき旨の置文をつくる。
 となり、享禄4年(1531)になると、4月16日付で、17歳になった詮久(あきひさ)すなわち、経久の孫・晴久が、直接安堵した記録が出てくる。
  • 尼子詮久(晴久)、秋上大炊助(おおいのすけ)に、両神魂神社及び惣社神主職を安堵する。
 そして、経久が天文10年(1541)に没した後は、晴久が家督を引き継ぎ、この後神魂神社に関係する記録は、以下のものがある。
  • 天文13年(1544)9月20日、晴久が神魂社に太刀を寄進。
  • 天文15年(1546)9月26日、秋上孝重以下12名の杵築町の代表者、三沢本郷の壇所をめぐる坪内・吉田両氏の御供宿相論について、坪内宗五郎に当座の堪忍を要請する(「坪内文書」)。
  • 天文20年(1551)4月27日、尼子氏、神魂社に太刀一文字を奉納する(「秋上文書」)。
 先述したように、尼子再興軍の一人として山中鹿助らと行動を共にしていたが、後に下段示すようにに毛利氏に属することになる。
  • 永禄6年(1563)8月28日、北島秀孝・幸孝、秋上三郎左衛門尉跡を、毛利元就の命に従って、秋上彦四郎に与える(「秋上文書」)。
 そして、永禄7年になると、この「彦四郎」はおそらく、「与四郎」と思われるが、元就が官位を推薦している。
  • 永禄7年(1564)10月27日、毛利元就、秋上与四郎を周防守に推挙する(「秋上文書」)。
 この2年後の永禄9年(1566)11月、ついに尼子氏居城の月山富田城が落城することなり、翌10年には毛利氏は、2月に神魂社に諸役を免じ(「神魂神社」)、7月には正式に秋上周防守に、神魂社の所領を安堵する(「秋上文書」)。

 また、その翌年(永禄11年)5月になると、久家の叔父であった神主・秋上孝重は、嫡男と思われる良忠に社職等を譲ることになる。
【写真左】本殿・その2














 ところで、前稿でも述べたように、元亀元年(1570)5月14日、毛利方に降った清水寺大宝坊が、森山城を守備していた秋上綱平・久家父子を毛利方に従わせた。

 このことを輝元は非常に喜び、吉川元春・小早川隆景に書状を認め、秋上父子を使者として尼子氏に降伏を勧めるよう命じた。

 この後、秋上久家は、実際山中鹿助のところを訪ねているが、降伏を勧めることはせず、むしろ尼子から毛利方へ降った仔細を伝えるにとどまり、それを鹿助も了承している。

 鹿助からすれば、寝返った秋上氏に対し恨みを持つと思われ、場合によっては彼を討ち果たすこともできたと思えるが、そうした行動はとっていない。
【写真左】本殿・その3













 元亀2年(1571)は出雲国における尼子再興軍の最後の戦いでもあったが、3月の斐川高瀬城落城を機に、6月は隠岐国の毛利方支配、そして8月には伯耆末石城において鹿助が捕らわれ(その後京都へ逃走)、真山城が落城し、彼らの本望はついに遂げることはできなかった。

 同年8月28日、富田城の城番役・毛利元秋は、真山城の落城を祝し、神馬(しんめ)を神魂神社へ奉納した(「神魂神社文書」)。

2012年2月14日火曜日

横田山城(島根県松江市美保関町森山)

横田山城(よこたやまじょう)

●所在地 島根県松江市美保関町森山
●築城期 戦国期か
●築城者 不明
●城主 秋上庵介・久利佐馬助など
●高さ 50m
●形態 海城
●遺構 郭・石垣・堀切・連続竪堀・虎口
●備考 金刀羅山
●登城日 2012年1月21日

◆解説(参考文献『新雲陽軍実記』編著者:妹尾豊三郎等)
 前稿まで宍道湖周辺の山城や海城を取り上げてきたが、今稿では宍道湖の東に繋がる中海を望む海城・横田山城を取り上げる。
【写真左】横田山城遠望・その1
 境水道を挟んだ南側・境港市側から見たもの。


 小丘形態の海城で、小規模なものだが、南北の切崖などは天然の要害をもち、遺構の種類も多い。



 ところで、宍道湖や中海に流れた水は日本海に注いでいるが、その大半を賄うのは島根半島と伯耆(鳥取県)の弓ヶ浜半島との間を流れる「境水道」である。長さおよそ5キロ弱、平均幅400mという狭い海峡を通って日本海に注ぐ。

 一般的には、宍道湖や中海といった名称から、個々の湖が連結され海に注いでいるという理解になるが、河川法的には、宍道湖も中海も、そして境水道も上流部から流れる一級河川・斐伊川の一部とされている。
【写真左】遠望・その2
 同じく境港側から見たものだが、西側に移動して撮ったもの。


 左側に少し大きな建物が見えるが、造船所のドッグで、入江状に深い奥行を持っている。おそらく、東側の船着き場と併せ、この箇所には戦国期、陸揚げされた多くの軍船が置かれていたのではないだろうか。


 また、現在でも造船所が点在しているが、当時からこの場所では軍船の造船所があったものと思われる。



 もっとも、この斐伊川も江戸期の寛永12年(1635)の斐伊川大洪水によるまでは、宍道湖に流れず、反対側である西方の神門水湖(神西湖の前身)に流れていたので、戦国期における中海や宍道湖といった島根半島の地勢は大分違っていたものと思われる。

 さて、今稿の「横田山城」はその境水道の北岸に築城された城砦である。この境水道の北岸(島根半島側)には、この他に東方に「権現山城」及び「鈴垂城」などが残る。

 毛利元就が月山富田城を攻めたのは数回に及ぶが、そのうち永禄8年(1565)の秋の段階では、荒隅城を出立し、富田城の西方に向城(京羅木山城・砦群(島根県八束郡東出雲町植田)・石原山・勝山など)を置き、中海・宍道湖周辺の端城にも厳しく扼するための陣を置いている。
【写真左】遠望・その3
 北側から見たもので、手前の東西に走る道路は、国道431号線。右に行くと松江市、左に行くと美保関神社方面。


 上掲したように、現在は陸地となっているが、この辺りまで浜となっており、船が陸揚げされていたのではないだろうか。


 この端城の一つとされるのが横田山城などで、その際、境水道を封鎖する役を担った武将としては、長屋小次郎の名が残る。

 このルートは、伯耆国側から海路を伝って富田城へ支援する動きを封鎖するもので、おそらく、このころ横田山城・権現山城・鈴垂城の三城とも毛利方に抑えられていたのであろう。

 下って永禄12年(1569)になると、既述したように尼子再興軍が登場し、再び毛利方との激戦が繰り広げられるが、忠山城(島根県松江市美保関町森山)、真山城(島根県松江市法吉町)の稿でも触れたように、当初鹿助らの活躍によって、中海周辺を含め、出雲の主だった城砦の争奪戦が繰り広げられる。
【写真左】横田神社
 東麓に祀られている社で、縁起などは設置されていないが、航海の安全を祈願する社であろう。






 ところで、横田山城については、この名称で軍記物に出ている記録はない。

 ただ、当地名・森山の名が入る「森山城」または「守山城」という記述があり、このことから、「森山城」というのは、美保関森山地区にある三城(横田山城・権現山城・鈴垂城)のいずれかと思われる。
【写真左】横田山城略図
 城砦としての図ではないが、現地に設置されたもので、当日この図に登城道が記されていることが分からず、横田神社の後ろから、道なき道を喘ぎながら登った。


 下山して再び境内にこの図を発見し、南側にしっかりと道が描かれているのを見たとき、思わず絶句してしまった。

秋上庵介

 さて、当城の城主の一人として、永禄年間には秋上庵介の名が残る。
「雲陽軍実記」「陰徳太平記」などでその名が知られ、明治から大正初期にかけて発刊されたポケット本「立川文庫」に、初めて「尼子十勇士」の一人として登場し、その後、地元広瀬町(現安来市)で創立された「広瀬少年剣士会」でも、山中鹿助を筆頭として、彼の名が出てくる。
【写真左】登城始点
 社の後ろにこのようなしめ縄があったため、このまま行けると思い込んだのが間違いだった。


 人間でいえば、そろそろ「喜寿」を迎える老女犬(チャチャ丸:雌ですが)は、もうこの段階で、登城拒否をしたため、管理人一人でチャレンジ。


 秋上庵介は、正式名・秋上庵介久家(伊織介ともいわれる)といい、元は松江市の南方にある大庭大宮(現在の神魂(かもす)神社)の大宮司・秋上三郎左衛門綱平の子である。

 この神魂神社及び宮司とされる秋上氏については、室町期から戦国期にかけて尼子氏が関わる記録が何点か残っている。

【写真左】神魂神社
 松江市大庭町にあり、近くには出雲国造館跡・八重垣神社をはじめ、多くの古墳が点在している。
祭神 伊弉冊大神・伊弉諾大神





 戦国期における神魂社(神魂神社)については、別稿で取り上げる予定(神魂神社(島根県松江市大庭町)参照)だが、室町期における同社の状況は、杵築(大社)国造である北島氏の支配下にあり、尼子経久が登場してくると、その北島氏が尼子氏の支援を仰ぐようになっていく。
【写真左】宝篋印塔
 少し上ると、北側の位置に畑が見え、その脇にはご覧の宝篋印塔が見えた。


 小規模なものだが、その左側には五輪塔形式のような部位が残る。




 そして、永禄6年ごろに至ると、毛利氏の支配下に入り、神魂社も同氏から改めて所領の安堵を受けていくことになる。

 しかし、永禄12年(1569)6月の尼子勝久・山中鹿助らの尼子再興軍が蜂起した際は、秋上三郎左衛門綱平・久家(庵介)父子は、他の諸将と同じく馳せ参じたが、元亀元年(1570)5月、清水寺(安来市)の大宝坊が毛利に降った際、毛利の部将・野村信濃守士悦らによって、秋上父子も毛利に再び属した。

  おそらく、その直後と思われるが、秋上久家が毛利氏に属した後、森山城(横田山城か)の城主として、一時的に大根島にある全隆寺城の城主であった小川右衛門が入っている。

小川右衛門は最期まで尼子氏に属した武将で、状況から考えると、居城としていた全隆寺城を離れ、境水道区域の船戦(ふないくさ)で討死したと思われる。
【写真左】堀切・その1
 細い尾根と倒木に遮られ、かなり苦労しながらかき分けていくと、最初に堀切が見える。


 深さ3m弱で、南北が険しい切崖のため効果は極めて高いだろう。



 さて、秋上父子が尼子氏に属していたころ、毛利氏が出雲に侵入したとき、三刀屋の多久和城を守備していたが、まともに防戦もせず敗走し、また月山富田城を守っていたときは、毛利方天野隆重の謀計にかかって、七曲りで敗戦するなど、芳しい戦歴はほとんど残っていない。

 こうしたことから、勝久や鹿助などからあまり信任を受けていないこともあり、最終的に毛利に与したのかもしれない。

久利佐馬助の森山城守備

 尼子再興軍が出雲国から撤退し、鹿助らが織田方として畿内を転戦していた天正5年(1577)4月、吉川元春は久利佐馬助に森山城の守備を命じている(「久利文書」)。

 このころの出雲国は、ほとんど毛利方に支配され、輝元を中心に戦後処理として鰐淵寺の再建や、日御碕神社及び、八重垣神社造営などの事業が進められている。

 このような状況下であるにも拘わらず、吉川元春が森山城のみに重きをおいたのは、やはり境水道という戦略的に重要なルートが無防備のままでは危険と感じたからであろう。特に、鹿助の戦法である水軍の動きはもっとも警戒すべきことであったからである。
【写真左】堀切・その2
 先ほどの堀切をこえて上部の方へ登ろうとしたが、周囲に取りつく場所がなく、西側へ大きく回りながら、何とかこの位置まで来る。


 久しぶりにリアリティな堀切に出会った。戦国期なら、こんな場所でモタモタしていたらすぐに上からの攻撃を受けてひとたまりもないだろう。


 しかも、堀切とは別に、北から西面にかけて、竪堀が10か所も施されている。比高が低いこともあって、城砦遺構としては密度が高い。
【写真左】北東部の郭
 頂部は北東から南西にかけて細長い削平地が残るが、このうち北東部については、写真のように荒れ原野状態になっている。


 アンテナの残骸が見えるが、おそらく麓の民家のテレビ共調アンテナだったのだろう。
 この後、南西部に進む。
【写真左】南側の切崖
 急傾斜地崩壊危険区域という指定があるように、この箇所は断崖絶壁で地盤も脆いようだ。
 天然の要害である。
【写真左】祠
 南西部側に進んでいくと、頂部半分過ぎた地点で突然整備された削平地が現れる。


いわゆる主郭だったところ思われるが、北側に少し高くなった壇の上に祀られている。
【写真左】西(南)側に向かう郭段
 このルートが冒頭で紹介した登城道で、最初からこの道が分かっておれば、随分と楽に登ることができたと思われるが、遺構の踏査から考えると、これはこれでまたいいのかもしれない。
【写真左】虎口か
 南西端で大きく道がターンし、東の斜面に繋がって降りるコースとなる。


大分劣化したため、明瞭でないが、おそらく虎口跡と思われる。
【写真左】下山途中から境水道を見る。
 右側が境港市で、左側の山は島根県側の島根半島。
【写真左】登城口の鳥居
 下山すると、終点に鳥居がある。ここから登れば、あっという間に向かうことができた。

2012年2月2日木曜日

満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)・その2

満願寺城(まんがんじじょう)・その2

●所在地 島根県松江市西浜佐田町
●登城日 2006年1月9日、及び2012年1月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)

【写真左】本堂裏の椿
 満願寺本堂から北側に墓地に向かう道があるが、当院庫裡の西側から主郭付近になっている。
 この写真はその手前に植えられた椿の木で庭園風になっているが、ここを登りきるとすぐに空堀が見えてくる。


 今稿では、湯原春綱の戦歴並びに、満願寺城の遺構を中心に紹介したいと思う。

 春綱の活躍については、「萩藩閥閲録」にかなり詳しく記されている。
 後述すように、春綱の後裔が江戸期に入って、萩藩の重臣として仕え、戦国期の同氏関係記録文書を整理保管してきた来たからだと思われるが、これらの史料は、この時期出雲国へ進出してきた毛利方の動きを知るうえでも、貴重なもののひとつと思われる。
【写真左】空堀・その1
 空堀は北側に東西に延び、その後西側に回って南に延びる。
 写真の左側斜面を上がると、頂部(主郭)がある。


 さて、春綱は天正19年(1591)8月に78歳の生涯を終えたが、尼子から毛利氏に属してからの奮闘ぶりは、大いなるものがあったといえるだろう。

 そして、春綱最晩年のころは、毛利・豊臣の戦いは終わり、秀吉が天下をとり、朝鮮出兵前のときで、波乱にとんだ彼の人生も安息の中での終焉を迎えることになる。

 春綱亡きあと、湯原氏は関ヶ原の戦い後、毛利氏に従い周防国熊毛郡小周防に移り、江戸期には萩藩の要職を務めることになる。
【写真左】空堀・その2
 西側まで伸びた堀はここで、南に角度を変えていくが、このあたりはかなり広いもので、いわゆる「堀切」といった方がいいかもしれない。



湯原春綱の奮闘

 前稿で述べたように、尼子氏から離反し毛利氏に属した湯原春綱は、永禄5年9月27日、元就から所領を安堵された(「鰐淵寺文書・萩閥115」)。この2か月後、満願寺城の東方1.5キロに毛利氏の陣所・荒隅城が完成する。

 この後、春綱は元味方だった尼子氏側と戦うことになる。
主だった戦歴と、満願寺城に関係した事項を時系列で示すと次のようになる。

  • 永禄5年(1562)9月27日、毛利元就、湯原春綱の所領を安堵する(「鰐淵寺文書・萩閥115」
  • 永禄6年(1563)3月6日、湯原春綱、松江大草で尼子義久と戦う(「萩閥115」)。
  • 永禄12年(1569)10月5日、毛利元就・輝元、湯原春綱に対し、尼子再興軍と戦い、毛利方として籠城を決めたことを賞し、平定後に土地などを進める(所領安堵か)ことを伝える(「萩閥115)。
  • 元亀元年(1570)2月7日、毛利元就、湯原春綱に対し、山中鹿助らの満願寺城攻めを撃退したことを賞する(「萩閥115」)。
  • 同年3月3日、吉川元春、湯原春綱に対し、布部(要害山)合戦以降の尼子方諸城の降伏、父春綱(ママ)は高瀬城攻めから、湯の要害に在番しているので、安心することなどを伝える(「萩閥115」)。
  • 同年7月22日、小早川隆景、一昨夜山中鹿助ら熊野城へ兵糧を搬入しようとしたが、約束の場所を間違えて引き返したという湯原春綱の報告を謝し、末次城の普請に応じられるよう、準備すべしと伝える(「萩閥115」)。
  • 同年11月22日、吉川元春、口羽通良・宍戸隆家らに対し、18日に平田へ陣替えしたこと、満願寺城へは、日吉・大庭あたりに進出している富田城の兵を待ってから、行くつもりであること、口羽・宍戸らも満願寺城へ向けて渡海すべきことなどを伝える(「萩閥100」)。
【写真左】空堀・その3
 西側のもので、南方向へ伸びていくが、途中から少し西に角度を変え、そのまま斜面に落としている。
 左側の斜面が主郭の切崖になるが、写真で見る以上に角度があり、何度か足元をとられた。


 なお、右側のものは事実上土塁の用途として構築されたと思われ、高さは1~2m前後ある。


  • (※)同年11月29日、尼子勝久、出雲・隠岐の兵船で満願寺城を攻めるが、湯原春綱に撃退される
  • (※)同年11月29日、毛利輝元、湯原春綱に対し、22日夜、尼子方の兵船による満願寺城攻撃を撃退したことを賞する(「萩閥115」)。(「萩閥115」)。
      (※)印の戦いについては、実際に攻めてきたのは尼子勝久に与同していた但馬の日下部氏庶流の奈佐日本助らである。彼については、芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)でも紹介したように、当城の城主・塩冶周防守高清らと、常に行動を共にし、最期は秀吉の鳥取城攻めにおいて丸山城で討死することになる。

       湯原春綱が尼子方(奈佐日本助ら)の攻撃を駆逐したその日のうちに、毛利輝元が春綱に対し賞していることは、毛利方にとって重要な戦であったことがうかがえる。

       この勝利によって、翌12月には、元就・輝元の名によって、多賀元竜に島根郡東長田の土地を与え、白潟・馬潟の橋役を免じ、翌元亀2年(1571)の正月には、真山城にあった尼子方の二つの船のうち、一つは奪取し、もう一つは破却することができている。

       そしてもう一つの大きな成果となったのは、下段に示す斐川の高瀬城落城につながることである。
      【写真左】主郭東側の段差
       全体に遺構箇所は整備されていないため、写真で見てもわかりにくいが、主郭の東側、すなわち当院庫裡側には1.5m程度の段差を持たせた小腰郭が残る。



      高瀬城の落城

       この時期における宍道湖岸でのもう一つの戦いが行われていたのは、宍道湖南西にある斐川の米原綱寛が拠る高瀬城である。
      【写真左】斐川の高瀬城
       北麓からみたもので、左側が本丸、以降右に向かって二の丸・三の丸と続く。







       以前にも紹介したように、尼子方に寝返った米原綱寛の拠る高瀬城に対する、毛利氏側の主力部隊は、出雲林木の鳶ヶ巣城(宍道氏(毛利氏)・鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)参照)から平田手崎城・布崎城(平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)参照)に本陣を移した吉川元春らの軍である。

       高瀬城は前年(元亀元年)、麓に兵糧として予定していた稲を毛利方によって焼き尽くされ、城内には食べるものが無くなっていった。このため、高瀬城からは夜陰に乗じて密かに船を出し、尼子再興軍の拠る松江法吉の真山城へ兵糧の調達に向かわざるを得なかった。
      【写真左】主郭付近
       この辺りが頂部で、20m×15m程度の平坦地となっている。









       しかし、このころ(元亀2年)の宍道湖全域は、上述したようにほぼ毛利方に支配され、なかんずく湯原春綱の拠る満願寺城が、その行く手を阻むことになった。高瀬城から宍道湖を使って真山城へ向かうには、大きなリスクを伴うことになる。
      【写真左】高瀬城本丸から真山城方面を見る。
       左から、満願寺城・真山城・荒隅城・和久羅山城などが俯瞰できる。



       このため、米原綱寛らの兵糧調達の計画はほとんど成功しなかったとみえ、この年(元亀2年:1571年)3月19日、ついに高瀬城は落城した。
      【写真左】主郭南端部
       藪コギのためわかりにくいが、この奥は宍道湖に向けて断崖絶壁になっている。


       従って、その1m程度手前付近から地面が軟弱に感じられたので、あわてて引き返した。



      加賀城の普請
      • 元亀2年(1571)3月3日、毛利元秋、湯原春綱に対し、桃の節句の祝儀を謝すとともに、加賀城の普請を命ずる(「萩閥115」)。
       加賀城とは、現在の松江市島根町浜田にある城砦(H152m)で、真山城に拠って再興をはかるも、所々で敗戦をきした一部の尼子残党が、再び隠岐の島へ奔走することを察知し、築いたものである。
      【写真左】加賀城
       島根町加賀にある山城で、手前は應海寺。残念ながら、遠望のみで未だ登城していない。






       尼子残党は、それでも何とか追ってをかわし、隠岐の島へ逃げ帰るが、湯原春綱をはじめとする毛利方は、追討の手を緩めず隠岐の島に上陸し、下段に示すように同島は完全に毛利氏の支配下にはいった。

       ただ、このとき真山城からは尼子残党はすべて隠岐へ向かったわけではなく、残りは依然として真山城に残って最後の戦いを挑むことになるが、8月21日ついに落城することになる。
      • 元亀2年(1571)6月4日、湯原春綱、隠岐国に渡り尼子方・隠岐弾正らを降伏させる(「萩閥115」)。
      • 同年6月5日、毛利輝元、湯原春綱に対し、隠岐全体が味方になったことを喜ぶとともに、20日に新山(真山)城攻めに、吉川元春が着陣することを伝え、満願寺城在番の心労を慰労する(「萩閥115」)。
      【写真左】空堀側から主郭を見上げる。
       再び元の位置にもどり主郭を見上げたもので、このあと、一旦北側にある墓地に出て、そのあと、西側に延びる出城といわれた箇所に向かう。



      元亀3年以降

      元亀3年(1572)から天正9年(1581)の動きとしては、春綱に対する論功行賞などの記録が多い。このころの宛行地は、ほとんど島根半島北の海岸部で、すなわち得意としていた水軍領主としての顔が見える。
      • 元亀3年(1572)閏1月27日、毛利輝元、湯原春綱に対し、船1艘(18丁引)の浦役を免除する旨を伝える(「萩閥115」)。
      • 天正2年(1574)3月19日、湯原春綱、毛利氏に対し、佐陀浦・氷の浦・おわし(大芦)・加賀浦・野波浦・のい瀬崎・ちくみかさの浦・北浦・かたゆい浦・もろくいの帆役を求め、4月22日に承認される(「萩閥115」)。
      • 同年4月22日、毛利輝元、湯原春綱に出雲国佐陀浦ほか9浦の帆役を与える(「萩閥115」)。
      【写真左】主郭と出城の中間地点
       主郭から北西方向に延びる長い鞍部には、現在墓地が点在し、遺構の確認は困難だが、おそらく当時はこの辺りも帯郭のような遺構だったと思われる。
       写真は、当院の永代供養塔。



       天正9年(1581)になると、春綱は伯耆国へ在番を命じられるが、これはこのころすでに豊臣秀吉が因幡国攻め(鳥取城攻めなど)を開始している時期で、伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)へ向かったのは、天正7年に、岩倉城主・小鴨元清と、兄南条元続が、毛利氏を離反し織田氏に通じたため、毛利方大将・吉川元長に追陣するためであった。
      • 天正9年(1581)8月11日、吉川元春・元長、湯原春綱に対し、平田での長期滞陣を謝し、佐波恵連に代わり、伯耆国岩蔵城に在番するよう命ずる(「萩閥115」)。
      【写真左】岩蔵城
       鳥取県倉吉市岩倉にある山城で、岩倉城または、小鴨城といわれ、律令時代から名が残る小鴨氏が鎌倉時代に築いたといわれる。
       
      【写真左】郭か
       出城といわれている箇所の手前には南側に郭の痕跡を残す墓地が見える。
       写真の右隅には、小規模な五輪塔が一基祀られている。

       この写真の左側には高さ6,7mにわたって切崖状の斜面が残り、東西に挟まれた平坦地があった。
      【写真左】出城跡の最高所
       墓地はこの辺りまで伸びており、最高所付近にも墓石がある。
       おそらく、この箇所が出城の主郭だったと思われる。
      【写真左】殿山城遠望
       ところで、満願寺城からは、殿山城が指呼の間にある。
       
       天文元年(1532)、尼子興久が父・経久の逆鱗に触れ戦ったといわれた佐陀城は、この殿山城とも言われている。
       また、別説ではこの満願寺城だともいわれているが、昨今では前者(殿山城)とする説が有力である。