2010年9月7日火曜日

三隅大平桜(島根県浜田市三隅町矢原)

三隅大平桜(みすみおおひらざくら)

●所在地 島根県浜田市三隅町矢原
●探訪日 2010年4月2日
●樹齢 660年
●指定 国天然記念物(昭和10年)

【写真上】三隅大平桜その1

◆解説

 山城とは直接関係はないが、今稿は番外編として前稿「茶臼山城」から南に5,6キロほど登った矢原地区にある「三隅大平桜」を紹介したい。

 全国には有名な桜がたくさんあるが、この石見地方でも見事な花を咲かせる老木が数本点在している。特に「三隅大平桜」(以下「大平桜」とする)は有名で、春になると県内外からこの石見の山奥へ観光バスやマイカーで多くの人が訪れる。

 枝張り東西24m、南北29.6mで、彼岸桜と山桜の両方の性質を持つ「ミスミオオヒラザクラ」という貴重な品種のもので、推定樹齢年数は、660年という。
昭和10年(1935)に国指定の天然記念物とされたが、その当時は幹枝が11本あったという。今は山火事や、台風などで4本しか残っていないが、たくましい生命力と地元の管理をしている人の手によって今日まで保っている。
【写真左】三隅大平桜その2
 かなりの老木のため、年々開花する確率が低くなっているとのこと。周辺には観光客のための駐車場などが整備され、地元の人によって屋台などが並ぶ。
 600年以上もの永い間、この地で石見の歴史を見続けてきたわけである。
【写真左】三隅大平桜・その3













 生前、作家の水上勉氏が当地の桜を初めて見た時、余りの素晴らしさに「まるで雪の小山のようだ」と絶賛、その話が次から次と伝わり、この石見の桜は一気に有名になった。

 さて、山城探訪者としては、桜見物も楽しいひと時ではあるが、どうしてもこうした山間地に行くと、周辺の山城が気になる。

 実は、この「大平桜」のある矢原地区には、三隅氏一族の支城といわれた山城がある。
前稿「茶臼山城」本丸に設置されていた「三隅高城と内郭外郭城跡案内図」にもあるように、この桜がある位置から、南西へ500m向かったところの「矢原城」である。
【写真左】三隅太平桜その4
 右側は法面になっており、周囲は棚田の面影が残る。近くに民家が見えるが、おそらく其処が大平氏の家だろう。
【写真左】三隅大平桜・その5
【写真左】駐車場付近
 10年ぐらい前に訪れた時は、この場所に向かう道は狭い旧道しかなかったが、近年観光バスや多くのマイカーが訪れることもあって、道路や駐車場も整備されている。

 ただ、ピークには相当混雑するため、充分に注意が必要だ。




 三隅高城の南方を守る役割のあった支城で、城主は後に「四ツ山城」の城主となった須懸備中守忠直や、矢原掃部介兼永などであったという。

 ところで、「大平桜」の樹齢は、660年という。単純計算すると、植えられたのは1350年、すなわち正平5年(観応元年)となる。

 この桜の所有者・大平富太郎氏の祖先が、「馬をつなぐために植えた」と言い伝えている。大平氏の出自は分からないが、矢原城を含むこの三隅氏の領有地で、正平5年ごろに桜が植えられたということと、「馬をつなぐために植えた」という伝承を考えると、そこに石見南北朝時代の歴史の一コマを想像せずにはいられない。
【写真左】四ツ山城遠望
 大平桜の近くにあるという「矢原城」は、この日向かっていないが、この場所から南の峠を越え、現在益田市となっている美都町東仙道に入ると、「四ツ山城」を望むことができる。

 四ツ山城は、2009年12月27日に投稿しているが、この時の写真は四ツ山城全貌を撮影したものがなかった。文字通り「四ツ山」を俯瞰するためには、南麓側からよりも、北側の方から見た方が、「四つの峰」を確実にみることができる。


石見南北朝

 当時、博多の探題一色載氏(吉原山城(京都府京丹後市峰山町赤坂)参照)は、足利直冬が中国探題として西下したため、西国の武家方の勢力が弱まったことに恐れ、一旦肥前に逃れ、足利尊氏にその救いを求めた。そして、正平5年4月、石見の「三隅兵を起こす」との注進があった。

 同年7月20日、足利直冬は出雲市の鰐淵寺に祈祷を命じ(鰐淵寺文書)、8月13日には出雲国佐々木信濃五郎左衛門尉らは直冬に応じ挙兵、同月19日には、小境元智も直冬方として旗揚げし、多久中太郎入道らと共に白潟橋で終日戦闘を繰り広げた(萩閥66)。
以後、直冬・石見宮方連合軍と、武家方との間で激しい戦が繰り広げられることになる。

 大平氏の敷地に植えられたこの桜は、直冬による宮方軍の戦勝祈願、もしくは武運長久を祈った三隅一族の植樹記念のものだったかもしれない。

 「馬をつなぐ」馬とは、当然武者の馬で、おそらくこの見事な桜の場所は、馬場跡であった可能性が高い。そして、矢原城主だった須懸備中守や、矢原掃部介らの馬が、この桜の木に繋がれていたと想像もしてみたくなるのである。

2010年9月5日日曜日

茶臼山城(島根県浜田市三隅町岡見 栗畑)

茶臼山城(ちゃうすやまじょう)

●所在地 浜田市三隅町岡見 栗畑
●登城日 2010年1月16日
●築城期 不明
●築城者 不明(三隅氏)
●城主 城市新左衛門源重時、寺井伊賀守義信
●標高 292m
●遺構 郭、帯郭、堀切等、麓に屋敷跡

◆解説(参考文献「三隅町誌」「益田市誌・上巻」等)
 先月末に取り上げた「針藻城」でも少し紹介しているが、今稿では、当城から南方に見えた茶臼山城を取り上げる。
 所在地は、三隅町岡見の栗畑・海老谷境に聳える尖り山の茶臼山城(292m)である。
【写真左】茶臼山城主・寺井家屋敷跡・その1
 茶臼山城に向かう道の一つとして最も整備されているのは、国道9号線滝見付近で南に向かう大規模林道である。
 城主寺井家の屋敷跡があるのは、この道路の右側にあるが、写真にある石碑は小さいため、車で走っていると見過ごすかもしれない。
 場所は、海老谷というところで、この位置は茶臼山城の北麓に位置する。
【写真左】寺井家屋敷・その2
 屋敷跡は御覧の通り、荒廃しているが、石垣はしっかりと残り、敷地の段が確認できる。
 写真の左側が茶臼山方面になるが、居城から当該屋敷まではかなりの距離になる。
【写真左】寺井家屋敷跡・その3
 現地には写真に見える瓦片が散在している。
こういうのを見ると、非常にリアリティを感じる。
【写真左】寺井家屋敷跡から茶臼山城を遠望する。
 写真左に見える高圧電線付近が登城路の尾根で、さらに右に向かうと本丸跡に繋がる。手前の樹木の後背付近が本丸と思われる。

現地の説明板より

“茶臼山城は、寺井伊賀守義信居守せる時、元亀元年(1570)毛利氏に攻められ落城した。それまでは、常に三隅氏の支城としての役割を果たしていた。
 弘治2年(1556)当時の城主・城市新左衛門源重時は、励称寺(現在の礼光寺)を開基した。
 永禄元年(1558)、城主豊前守豊臣二郎重直の長臣栗山七郎右衛門発心得度して西蓮寺を開基した(三隅町誌より)。
畑、海老谷集落活性化事業”
【写真左】登城口付近
 写真の右側に最近整備された大規模林道があり、駐車スペースはこの道路の右わきに2台程度とれる。




 以前四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)の稿でも示したように、益田氏が築城した美都町の「四ツ山城」は、後に大内義隆の調停(天文7年:1538)で、三隅氏のものとなり、本城・三隅高城と、この茶臼山城を併せて、後に「三隅3城」としている。

 築城期については、茶臼山城の所在地が四ツ山城と同じく、益田領との境界に近いことを考えると、戦国期よりさかのぼった南北朝初期のころ、すなわち三隅氏の最盛期である兼連の時代と考えられるが、定かでない。

【写真左】茶臼山城跡 登山道案内図
 上の写真に見えるもので、登山道の要所には、ユニークな名称がつけてある。
 この位置から本丸頂上までは、「ゆっくりで30分、1,490歩」と書かれ、登山者にとっては頗る和む案内板である。
【写真左】登城口から少し登った位置から下を見たもの
 写真の後ろに見える方向は、おそらく東方になり、河内城の方向と思われる。
 なお、この位置で標高は137mであるから、本丸まで比高160m弱になる。


 その後、「三隅3城」として定着したのは、前述したように天文7年のころと思われ、このころの各城主は次の通りとなっている(「益田市誌・上巻」)。

(1)三隅高城  城主・三隅兼頼入道藤原兼岳
(2)茶臼山城  城主・寺井伊賀守義信(※)
(3)四ツ山城  城主・須懸備中守忠高
【写真左】三隅高城及び水来山城を遠望する。
 登城してすぐに、「見返り坂」という地点に差し掛かり、右手を見ると、写真に見えるように、左側に水来山城、右側に三隅高城がくっきりと望める。
 頂上部の本丸からも当時はこれら三隅氏関連の山城が数多く見えただろうが、現在本丸周囲の雑木が完全に遮っているため、この場所からしか見えない。



 このことから、本稿の茶臼山城主・寺井伊賀守義信は、天文7年(1538)入城以来、元亀元年(1570)までの32年間当城に拠ったことなる。

 しかし、「三隅町誌」では、茶臼山城の城主については、
 「常に一定の城主というものはなく、三隅氏がその守将を派遣して、この城の守備をさせたもようである。」
 とし、説明板にもあるように、弘治年(1556)には、城市新左衛門源重時が、また、永禄元年(1558)には、豊前守豊臣二郎重直と記している。
【写真左】観音堂跡
 登城途中にあった観音堂跡。登城口から少し登った「見返り坂」手前で、林道を挟んで反対方向に5体程度納められた小祠が見えたので、おそらくそれが移設された観音堂と思われる。
 この個所からしばらく行くと、最初のピークが見える。


 ただ、本稿の写真でも紹介しているように、「寺井氏の屋敷跡」が麓に残っていることを考えると、寺井氏が相当長く居城した可能性が高い。

 元亀元年の茶臼山城攻めについては、説明板にもあるとおりだが、このころ15代三隅城主とされる三隅隆繁は、益田藤兼に完全に抑え込まれ、隆繁自身は事実上益田氏によって軟禁されたような状況だった。
 下段に示すものは、「石陽軍見聞記」のくだりだが、茶臼山城へ攻めよせるその1ヶ月前の7月29日に、針藻城(8月31日投稿)へ攻めよせている。

 ”三隅氏の守将、宇多源氏の末流寺井伊賀守義信の居守せる時、元亀元年8月、安芸の毛利氏三隅城を攻略するに当たり、芦谷・相良・大崎等の諸将5000の兵をもって、27日先ずこの城(茶臼山城)を攻める。

 城兵よく戦いたりといえども、相良が家臣寺山五作清武なるもの謀計を回らし、密かに人夫を集めて山の尾を一文字に掘り切り、水の手を止めたれば城中水に渇し、今は次第に勢力尽きて、ついに守将寺井伊賀守をはじめとし、諸卒1500人悉く毛利に降参したり”
【写真左】分岐点
 手前が登ってきた道だが、ここで右側からの道と交差し、一方は畑登山口方面へ、もう一方が茶臼山方面へ向かう。
 なお、右側の道はおそらく旧道で、最初に紹介した寺井家屋敷跡へ繋がる道だったと思われる。
 この後からは傾斜がかなりきつくなる。


 毛利勢は、ほぼこれと同時期には「四ツ山城」へ、熊谷伊豆守・大友豊後守らを向かわせている。そして、後半になると、三隅本城へ攻め向かうことになる。
 ただ、8月25日になると、芸州から、「尼子勝久らが大森銀山に押し寄せた」との飛脚が入り、吉川元氏は、一旦三隅諸城を益田・秋月らに任せ、27日出雲へ帰陣している。

 茶臼山城が落城したのは、その後であるが、寺山清武が水の手を止めた(懸樋の切断)のは、吉川元氏の帰陣直後と思われ、おそらく8月中に茶臼山が堕ちていると思われる。また同じく「四ツ山城」の落城も、同年8月29日、城主・須懸忠高は500の兵と共に自刃した。

 参考までに、三隅本城の落城時期は、史料に若干の違いはあるものの、翌月の9月26日(又は5日、あるいは正月28日)に落城している。
【写真左】「一休みの丘」という個所
 標識の下段には、「汗をふいて、次の登山にそなえよう」と書かれている。確かに、この個所はすこし休憩したくなるところである。
 なお、人工的な遺構は感じられないものの、まとまった平坦地であることから、郭としての機能は十分あった場所と思われる。

【写真左】「ロマンス坂」
 しばらく緩い坂が続く。「話ながらゆっくり登りましょう」とある。実際は、呼吸が大分乱れ、「話」をする余裕はなかったのだが…
【写真左】「夫婦坂」
 「人生を振り返りつつ助け合って」とある。
 だんだんと傾斜がきつくなり、脇の縄ロープに捕まりながら一歩づつ進む。連れ合いは、いつものように、登りは四足の孫(チャチャ)に引っ張ってもらい先に進む。「夫婦坂」を当方は「フーフー」いいながら、登る。
 余談ながら、下りのチャチャの担当は、当方だが、犬にとってはつづら折りの坂は面倒くさく、直滑降で向かうものだから、それを修正するのに一苦労である。


【写真左】やっと本丸が見えてくる。
 「夫婦坂」を過ぎると、さらに傾斜がきついため、その個所は「千鳥坂」と命名してあった。脇付に「もうちょい坂とも人はいう」とある。
 距離はさほどのものでないが、小規模な山城の割に、本丸直下の傾斜がこたえる。
 攻める側も、この地点に来て相当苦労したのではないだろうか。
 このためか、周囲を見渡した限りでは、竪堀のようなものは確認できなかった。
【写真左】本丸下東側の帯郭
 郭段の数はさほど多くなく、写真にあるように本丸下の東側に4、5m幅で北に伸びる郭が確認できる。
【写真左】本丸跡
 長径20m、短径15m程度の長方形の大きさで、この個所は整備されている。

【写真左】「三隅高城と内郭外郭城跡案内図」
 本丸跡に設置されたもので、周辺の城跡配置が示されている。
 ①の高城山三隅城から始まって、⑲の古和城まで列記されている。茶臼山城は⑩に記されているが、このような案内図は、三隅高城にも、針藻城の現地になかったので、当城だけに設置されたものだろう。
 いずれ機会があったら、他の城跡も探訪してみたいものだ。ただ、奥に行くに従って「クマ」の出る確率が高くなるので、事前の十分な下調べと準備が必要だ。
【写真左】北の方向に「針藻城」
 本丸跡には、東西南北に向かって、それぞれの城跡を示す案内標識が建てられている。
 参考までに、西方は「源田山・大多和外(おおたわげ)城」、南方は「四ツ山城」「矢原城」「古和城」、東方は「三隅高城」「河内城」などである。

【写真左】本丸から北に伸びる郭
 茶臼山城の遺構部で、規模的に一番大きいと思われるのが、この郭である。
 本丸から北北西へ伸びる郭だが、この日50m程度まで進んだものの、途中からブッシュで断念した。
 尾根伝いに伸びるもので、次第に細尾根になるものの、おそらく200~250m程度はあるだろう。まとまった部隊が駐屯するにはこの場所が最適だったと思われる。

2010年9月2日木曜日

井野城(島根県浜田市三隅町井野 殿河内)

井野城(いのじょう)

●所在地 島根県浜田市三隅町井野 殿河内
●登城日 2010年1月26日
●築城期 鎌倉末期~南北朝以前
●築城者 三隅(井村)兼冬
●標高 140m(比高60m)
●別名 井村(いむら)城
●遺構 郭、濠、石垣、堀切、竪堀等

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「三隅町誌」等)
 三隅高城の北を走る304号線(三隅井野長浜線)を東上し、井野地区入口付近に差し掛かると、左側に小ぶりな舌状丘陵が突き出している。この先端部に築かれたのが井野城(別名「井村城」)である。
【写真左】井野城遠望
 南麓を走る道路側から撮ったもので、写真最高所に本丸が設置されている。





 現地の説明板より

“史跡 井村(いむら)城跡
 井村城は、三隅城主4代兼連(~1355)の弟、兼冬(井村氏初代)が、三隅城の支城として南北朝期以前に築城したと伝えられる。
 元亀元年(1570)、毛利軍との戦いで三隅城とともに落城した。
 井村城と上今明の鳥屋尾(とやごう)城とは、本城三隅城を守る要害の地にあったので、この2城をめぐり幾多の攻防戦があった。
 城地には、井村氏の氏神を祭る春日神社と菩提寺報恩寺とがある。
     三隅町教育委員会”
【写真左】井野井村城址平面図(「三隅町誌」より)

 この図を作成するために、測量したのが昭和38年7月30日(三隅地方史研究会実測)とあり、さらに昭和45年2月14日、井野中学校放送部と書かれている。

 当時の中学校の生徒が現地に行き、調査したというから、実にほほえましく、また地元の歴史をこうした形で学んだということは貴重な体験だったと思われる。当時指導された先生に敬意を表したい。

 さて、この図でわかるように、下から本丸まで5段の郭が構成され、本丸はほぼ長方形(横21m×縦28m)の形状になっている。
 標高は島根県遺跡データベースでは、標題のように140mとなっているが、三隅町誌では160mとなっている。

 この図では文字が小さいため読みづらいが、3段郭と4段郭の交差点には「古井戸跡」がある。この個所からは、「かんざしの玉」が出土し、現在麓の菩提寺である報恩寺に保管されているという。
東側から北方にかけては夥しい竪堀が配置されている。西方は天然の要害になっており、竪堀のようなものは当然ながら付帯されていない。


井村氏及び鳥屋尾氏の系譜

  説明板にもあるように、井村城を築城した兼冬は、三隅城主第4代・兼連の弟であるが、兼冬の子・光信(兼雄・石見弾正少輔)は、井村氏代2代となり、もう一人の子・兼武が鳥屋尾氏を継いだ。

 以下、井村氏の歴代城主は次の通り。
  兼冬(初代)⇒光信(兼雄)⇒信世⇒盛世⇒兼冬

 また、鳥屋尾城の鳥屋尾氏の歴代城主は次の通り。
  兼武(初代)⇒兼時(井村光宣の子)⇒正時⇒正武⇒正義⇒正善⇒正吉⇒正輝⇒正信
(石見三隅史蹟及び三隅氏系図による)

 なお、鳥屋尾城は、井野城から北へ3キロ余り向かった上今明・築地平東方に聳える標高480mの要害堅固な山城である。遺構が多いとされているが、登城口が分からないため未登城である。
【写真左】登城口に向かう前の春日神社鳥居跡付近
 南側の道路脇に、写真に見える説明板が設置されている。

 この場所は下段に示す春日神社の鳥居があった場所で、この道を真っすぐ行くと、先ず春日神社に突き当たる。
 菩提寺とされる報恩寺は、春日神社の右隣(東方)に建立されている。
 なお、井野城の方向は、この写真では左側の山から向かっていく



 井野城、及び鳥屋尾城の位置を考えると、三隅本城の支城的役割もあったかもしれないが、東隣りにあたる同じ三隅庶子家である周布氏の領地に最も近いため、むしろ周布氏に対する睨みの目的もあったのではないかと、三隅町誌は述べている。

 初期のころは井村氏も周布氏も三隅氏を中心として同族意識が強かったかもしれないが、代が変わるにつれて独立意識が強くなり、対抗意識も芽生えてくるのは自然の成り行きである。
【写真左】春日神社
 当社は井村氏の氏神とされているが、創建時期は不明。なお、この場所から西南水溝の向いに「姫の墓」というのがあるらしいが、当日この場所は確認していない。



井野城主第2代・井村光信(兼雄)

 井野城主第2代・光信(兼雄)は、史料によっては、井野城及び、鳥屋尾城、また浜田市にある小石見城の城主にもなっている。
 本来は一つの城にある程度常駐し、いわゆる本拠とする形態が普通であるが、光信が生きたこの時代は、それを許さなかった。なぜなら、石見南北朝時代の真只中であるからだ。

 暦応4年(1341)7月、武家方(北朝)の上野頼兼・吉川経明らは、三隅氏分家の永安氏の所領・岡見の大多和外城を攻めた。
 頼兼は武家方から派遣将軍として、石見の地に入ってきたが、すでに6年の歳月が流れていた。彼にとって、この時の挙兵にはそれまで以上の固い決意があったようだ。

 翌康永元年(1342)2月1日、益田兼見(武家方)は福屋城を攻め落とした。同月12日にはその勢いのまま、浜田の小石見城へ迫った。このとき小石見城に拠っていたのは、井野城主・井村光信(兼雄)である。

 おそらく、このとき小石見城に拠っていたのは、光信の外に、宮方(南朝)の総大将・新田義氏もいたと思われ、17日になると、新田義氏は降伏し、西方にある周布城の周布兼氏も降った。井村光信は、夜半に囲いを突破して、井野城へかろうじて戻っている。

 井村氏第2代・光信について、「石見三隅史蹟」によると、次のように記されている(要約)。

「…六波羅探題攻囲軍に赴き、南朝方派遣の新田佐馬助義氏が石見にくると、これを援け、小石見城の枢地を扼して賊兵を防ぐ。また井村城(井野城)がしばしば敵の鋭鋒を受けた際、奮闘した戦跡は、いまなお井村城と三隅高城との間にある合戦平と称する地名が存在することでも知られる。…」

 また、光信が61歳の祝いに、黒沢城主初代・四郎三隅興一兼春(白禅老―兼繁もいい、三隅城6代を継いだとの説もある)が贈った「偈(げ)」が、野上七太郎家に保存されているという。
【写真左】井村氏の菩提寺・報恩寺










 なお、三隅町誌ではその後の井野城累代の城主について、三隅氏系図による歴代の順位数に混乱があり、整理がついていないが、第5代(町誌では6代としている)兼冬が、井野城東麓に、菩提寺報恩寺(写真上:参照)を建立したとしている。
 また、初代・兼冬と5代・兼冬は同名となっているが、当然ながら別人である。

 くだって戦国期であるが、説明板にもあるように、元亀元年(1570)、三隅高城とともに落城している、とあるが、このときの詳しい資料は、残念ながら三隅町誌には掲載されていない。
【写真左】登城路
 近年整備されていないようで、上部に行くに従ってブッシュ状態である。
 南麓部から登城路が始まっているが、西麓ほどでないにせよ、中盤から傾斜がきつくなる。
【写真左】竪堀
 上述したように、東面から北面にかけて施工されている。この竪堀は東側の最南端部に見えたもの。右隣の竪堀との間隔が意識的に短くされている。
【写真左】 帯郭から本丸方向を見る
 郭跡などほとんどの遺構部にこうした雑木が育ち、写真に撮っても確認が困難だ。
【写真左】本丸跡に立つ石碑
 「井村氏誠忠碑」と刻文され、左隅に「島根県知事三樹樹三書」とある。
 島根県知事の三樹樹三という人は、1937年2月10日~1939年4月17日まで務めた人物で、神奈川県出身。
 昭和23年6月頃は、日本商工会議所専務理事を務めている。
 このことから、この石碑は戦前(昭和12,3年頃)に建立されたものだろう。

2010年8月31日火曜日

針藻城(島根県浜田市三隅町古市場 古湊)

針藻城(はりもじょう)

●所在地 島根県浜田市三隅町古市場 古湊
●登城日 2010年2月27日
●別名 七櫓・針藻山鐘尾城
●築城期 鎌倉時代
●築城者 三隅氏
●城主 大賀氏、三隅兼忠等
●標高 51m
●遺構 七櫓、石垣、郭等

◆解説(参考文献「三隅町誌」「益田市誌」等)
 針藻城は、別名鐘尾城とも呼ばれているが、同名の城砦としては三隅本城の麓にも出城のものがある。今回取り上げるのは、本城に位置するものでなく、三隅川河口に築かれた針藻山鐘尾城である。

【写真左】針藻城遠望
 浜田市街地と三隅町の中間地点に聳える霊山・大麻山(599m)頂上の展望台から見たもの。
 針藻城は、写真左に見える三隅川河口にある小丘部で、真後ろには三隅火力発電所の煙突が見える。
 発電所の左に聳えるのは、源田山(263m)で、当山にも中世山城である「大多和外城」や「碇石城」など三隅氏ゆかりの史跡が点在する。



 現地の説明板より

“史跡 針藻城跡
 針藻城は、弘安の役(1281)以後、三隅城主3代の兼盛が鎌倉幕府の命令により、蒙古再来の防備のために築城したものである。このころ、石見地方に築かれた18砦のひとつである。
 南北朝時代以降は、三隅城の支城として要塞化された。また、河口や古湊を利用した、三隅水軍あるいは朝鮮貿易の拠点であったとも考えられている。

 大賀氏は、正長元年(1428)に城主となって以来、三隅氏の家臣として海事を担当したと伝えられている。
 戦国時代、針藻城主が尼子氏に味方したため、毛利氏の武将・益田藤兼に攻められて落城した。弘治3年(1557)のことであった。
   三隅町教育委員会”

【写真左】針藻城東麓に建立された石碑・墓碑など








 地元郷土史「三保村誌」によれば、南北朝時代にはこの砦は孤島として、針藻島と呼ばれ、当時三隅氏が海城形式の支城を設け、針藻山鐘尾城を築いたとされる。

 下って正長元年(1428)2月6日、土佐国(高知県)大崎城主であった大賀政清は、上杉家と合戦に至り、敗れた結果、この地に来住し、三隅氏の客将として針藻城を預かったとされる。
【写真左】石碑の隣に設置された墓石
 形式からいえば、宝篋印塔になるが、架台部分など大分欠損している。




 土佐国の大崎城とは、現在の高知県仁淀川町の大崎小学校の西にある小山と思われるが、戦国期には、甲斐国の武田勝頼が落ち延びたという伝承もある。
 太平洋側の四国・土佐国から、全く反対の日本海側の石見の国に来住するということ自体が、驚きだが、意外なことに、石見国は平安末期から戦国期に至るまで、四国それも太平洋側の阿波国や土佐国との交流がしばしば見受けられる。
【写真左】針藻城の北麓部の道路から、鞍部を見る
 登城路は、三隅川河口部から一旦海岸線の道を通り、民宿のような建物を過ぎた地点から当城に上る道が支線として分岐している。
 もっともこの道は、写真に見える鞍部に造られた農園関係者の利用がほとんどのようだ。
 この写真では、針藻城は左側になる。



 最も代表的な例としては、徳島市の一宮城跡(徳島県徳島市一宮町) でも紹介したように、石見小笠原氏が、阿波小笠原氏の流れであることや、江津市の本明城(島根県江津市有福温泉) で、当城最後の城主福屋隆兼が落ち延びた先が、徳島の蜂須賀氏であったことなどである。
 両国には、そうした長年にわたる人的な交流を結ぶ、何らかのネットワークが存在しているようだ。
【写真左】針藻城本丸から西の頂部を見る
 針藻城本丸跡と隣り合うように西側にも頂が見える。三隅町誌によれば、石見18砦のとき(弘安の役・1281年)、7カ所の櫓が設けられていた。

 このため針藻城は、別名七櫓(ななやぐら)ともいうが、そのうちの一つが写真に見える櫓跡である。当城の中では最も最高所にあり、戦国期に至るまで、本丸を補完するものとして使用されていたものと思われる。



 さて、大賀政清は、針藻城主となってから、名を政豊と改め、三隅氏の家臣として専ら海事(水運)を担当する。
 この後の当城歴代城主名を下段に示す。

  • 大賀政清(政豊・初代)⇒豊常(2代)⇒常道(3代)⇒道世(4代:鐘尾にて戦没)⇒道豊(5代:駿河守従大位下:尼子氏に加勢)
【写真左】西側から針藻城本丸を遠望する
 本丸と西側頂部の間は、現在農園が造られている。かなり面積としては広い鞍部で、郭跡であった可能性が高い。




 ところで、現地の説明板中、下線を引いた個所「針藻城主が尼子氏に味方した」というのは、三隅兵部少輔兼忠という人物である。三隅町誌では、兼忠は三隅家15代としているが、そうなると、三隅本城の最期の城主・隆繁も15代であったから、矛盾してくる。

 兼忠は、大賀家5代当主道豊の客将として、針藻鐘の尾城で毛利氏に降伏し、寄手の益田藤兼はこれを益田城下(七尾城か)に扶養して卒えさえたといわれるが、別の記録では、兼忠は益田家に引き取られ、益田兼康の弟惣右衛門尉兼久の養子となり、三隅姓を名乗り、萩藩に移り子孫栄えて、22代勘右衛門は、大組で高200石を受け、萩藩閥閲録にも載り、数多くの事績を残している、とある。

【写真左】本丸の西側麓付近からみた日本海
 写真左側に見える坂道が、現在針藻城に向かう唯一の道。
 突き出した護岸堤防付近は、三隅港で、奥に見える島は高島になる。 



 三隅氏の家臣であり、針藻城主でもある大賀氏が、三隅氏累代の将を客将として迎え入れていることは、三隅本城の15代城主・隆繁と同族であったことは間違いないだろうが、具体的な関係は分からない。

 ただ、三隅町誌によれば、三隅氏15代が兼忠であり、兼忠の子・寿久は、毛利輝元より養仙軒の号を貰い、吉見正頼・広頼父子の御附となって、忠節を尽くしたという。寿久の跡は嫡男元久(元信)と至り、彼には実子がなかったため、弟作蔵(後の就重)と続いた、と記している。

 参考までに同誌(三隅町誌)では、三隅氏系図として6種類のものを挙げている。
①享保譜録(萩閥 683三隅勘右衛門録上)
②「大家」家文書(三隅氏系図)
③「三浦」家系図(竜雲寺系図)
④島根県史蹟名勝天然記念物調査報告(野津佐馬助)
⑤寛保譜録(三隅作右衛門録上)
⑥石見三隅史蹟の三隅氏系図(木村晩翠)

 どちらにしても、いずれの説が正しいのか、管理人としては判断がつかない。
【写真左】本丸南側の郭付近
 この写真は南側に当たるところで、さらにこの位置から下っていくと、切崖状態になる。
 この日登城した際、畑で仕事をしておられた御年配の男性に当城について、貴重な話を聞くことができた。

 この方は、70代ぐらいの方だが、自分が子供のころ(戦前)、この崖下で多くの刀や屍がでてきたという。
 また、戦時中(第2次世界大戦)、この針藻城本丸や、西側頂部に監視台があり、敵機来襲を見張る役を、自分の父親がここで任務していたので、自分は弁当などを持って上ったという。
 
【写真左】本丸跡に立つ展望台
 本丸跡そのものはさほど大きなものでないが、眺望は極めてよい。
【写真左】針藻城から三隅川河口を隔てた湊浦の街並みを見る
 写真に見える街並みは、旧三保村といわれたところである。
 なお、この中に、針藻城主だった大賀氏の末裔が現在も住んでおられるとのこと。
 
 また、この写真の後方に見える山並みで、一番右に見えるのが、三隅高城である。
【写真左】針藻城から南方に茶臼山城を見る
 写真中央やや左に見える山で、茶臼山城はまだ投稿していないが、後期三隅高城の三城の一つといわれた支城である。

 先ほどの御年配の方から聞いたもう一つの話として、自分たちが子供のころ、三隅高城、茶臼山城、針藻城ともう一つの三隅支城(名前は忘れたとのこと)に、それぞれ手分けして登り、「狼煙」を挙げて戦国気分を体験したことがあるという。