2010年1月20日水曜日

三木城(兵庫県三木市上の丸)

三木城(みきじょう)

●所在地 兵庫県三木市上の丸
●登城日 2009年3月1日
●形式 平山城
●別名 金山城、別所城
●築城期 明応元年(1492)前後
●築城者 別所則治

【写真左】北側(切崖)付近より三木城本丸跡付近を見上げる。
 この傾斜法面は、現在崩落を防ぐための土木施工がされており、当時の面影は残していないが、かなりの険峻さがあったものと思われる。




◆解説
 現地には、複数の説明板があるが、その中から最初に当城の略歴について転載する。

“三木城跡について
 三木城は室町時代の後期、東播八郡の守護代となった別所則治によって、明応年間(1492~1501)に築かれました。
 戦国時代末、五代城主長治のとき、天下統一を目指す織田信長の家臣羽柴秀吉に攻められました。秀吉は、三木城を取り囲むように30余りの付城を築き、兵糧攻めにしました。
 この戦いは三木合戦といわれ、天正6年(1578)4月より1年10カ月に及び、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として全国的に有名です。天正8年(1580)1月17日に長治一族の自害によって開城し、籠城した人々の命が助けられました。
 合戦後は、秀吉の家臣が城代として在城し、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は、池田輝政が姫路城主となり、その支城として存続しました。
 大阪夏の陣の直後、江戸幕府が打ち出した一国一城令によって、元和3年(1617)に廃城となりました。”


【写真左】現在の城跡跡の配置図
 当時の場所には現在、稲荷神社、図書館、美術館、旧校舎、保育所などがあり、三木城の遺構としては、「かんかん井戸」と、忠魂碑(本丸)付近が残っている程度である。










 次に、400年祭記念碑というものには、別所長治にまつわる内容が記載されている。


“四百年祭記念之碑
 村上天皇を祖とし東播八郡を領した三木城主別所長治公が、織田信長の命により中国進攻に当たった羽柴秀吉の大軍を迎えた1年10カ月の長きにわたり三木城に拠り応戦。
 将兵とともに果敢に戦ったが、天正8年1月17日ついに諸人の生命に代わって、一族とともに自刃し三木城を開城、再びこの地に平和をもたらしたのである。時に長治公は若干23歳であった。
 想うに、当時の中央勢力に対し、敢然と戦い播州武士の面目を示した勇武と、これを最後まで支援した一族家臣の忠誠心は、他に類を見ないところである。
 ここに別所長治公四百年祭にあたり、思いも新たにしてその遺徳を顕彰し、併せて三木合戦において散華した彼我物故者諸霊位の御冥福を祈って建碑の辞とする。


  昭和56年5月3日
 別所長治公四百年祭実行委員会
 名誉会長・三木市長 大原義治   会長 鈴木信次”
【写真左】当時の三木城想像図
 本丸は北方の先端部に設け、その真下には、美嚢川が流れている。おそらくこの川は堀としての機能も考えられていたと思われる。


 本丸の西南部には二の丸、その東からは帯郭状の平坦地があり、この上には本丸を補助するような形で「新城」という廓状のものがあり、以下東から南にかけて廓や、櫓段を設け、さらに南東部には「宮の上の要害」という見張り場の役目を持たしたような独立峰が建っている。


◆本願寺光教(証如)と尼子氏

 ところで、当地の他の説明板に少し記されているが、この三木城には出雲の尼子氏も攻め入っている。時期は天文年間である。このころ、経久も晩年ながら元気で、孫の詮久(後の晴久)も亡父・政久に代わって山陰の雄として頭角を現してきた頃である。
【写真左】西側にある稲荷神社鳥居と、階段
 稲荷神社は三木城跡の中央部に建立されている。








 尼子氏が備中・美作国を支配する計画は、当初からあったと思われるが、播磨、それも摂津が近い東播磨まで触手を伸ばしていることは興味深い。そのきっかけを作ったのは、本願寺光教ではなかったかと思われる。
 光教(法名:証如)は、本願寺第10世で、石山本願寺を創建している。

 天文5年(1536)12月17日、彼・光教は尼子詮久に品物を送り、好(よしみ)を通ずる。この後両者の交流が深まり、明くる天文6年7月、光教は経久に太刀と織物を贈る。8月には経久は石見銀山を攻略し、石見武士が次々と尼子方に属していく、まさに絶頂期である。12月8日には、今度は詮久が光教に馬代などを贈っている。

 そして、同月14日にいよいよ詮久軍が播磨国に入ってくる。このとき光教は、当時の播磨国守護赤松政村の安否を問い、併せて詮久の勝利を祝したとある(証如日記)。
【写真左】三木城本丸跡付近
 いろいろな建物があるが、文字通り公園となっている。このあたりは特に広く、平坦地に改変されている。




 尼子詮久が最初に三木城を攻めたのは、この時で、明くる天文7年1月初旬には出雲月山富田城に帰国している。

 そしてその2ヶ月後、祖父・経久が律儀に光教に物を贈っているので、詮久が三木城攻めをした際に、光教が何らかの協力をしたということだろう。

 続いて、同年11月に入り2回目の三木城攻めが始まる。このときは経久自身も播磨に向かった。この段階で、守護赤松政村は淡路島へ逃走する。光教はよほどうれしかったのか、経久にお礼の贈りものを渡している。もっともこの時も、三木城は陥落していない。

 尼子氏が播磨に出かけている間に、天文8(1539)年5月、大内義隆が石見銀山を奪回する。急ぎ経久らは帰国する。そして改めて、同年暮れ(11月末)詮久が、播磨国で赤松晴政(政村)を破っている。
【写真左】三木合戦図
 主だった三木合戦の流れを絵図にしたもので、法界寺において、この絵を使って絵解きが行われているという。





◆竹松丸について

 さて、別所長治については、上掲の説明板の通りだが、鳥取県の「岸本町誌」に興味深い記録が載っている。

 それは、自刃した長治一族の中で、唯一当時乳呑児だった「竹松丸」が、この伯耆国岸本の地で生き伸びていることである。経緯は次のとおりである。

 三木城にて自刃した別所長治一族とは、本人、妻・照子、竹姫(5歳)、虎姫(4歳)、千松丸(3歳)、そして竹松丸(1歳)と、二男二女で、このほか長治の兄弟など約10人前後だったといわれている。妻・照子は長治の胸中を察して、先にわが子と痛ましい最期をとげ、そのあと長治は次の辞世の句を詠み、旅立った。

 辞世の句

  今はただ恨みもあらじ もろ人の
       命にかわる わが身と思えば

【写真左】かんかん井戸
 本丸にある井戸で、口径3.6m、深さ25mという。石をなげると「カンカン」と音がすることから、「かんかん井戸」と呼ばれた。


 この井戸から出土したといわれている城主・別所氏の鐙が運龍寺(城内)に保存されているという。



 ところが、長治の懇願か、妻・照子の遺志かわからないが、末子の乳呑児・竹松丸は、当時別所氏の別当として働いていた野脇新三郎と、その妻(竹松丸の乳母)に抱かれて、密かに三木城を脱出する。


 野脇新三郎は、もともと伯耆国岸本町の出身である。さらに同行者としては、長治の従兄であった別所忠治が長治の念持仏を携えていた。

 彼らが郷里の伯耆岸本に戻り、竹松丸はそこで野脇に育てられ、文禄4年(1595)年、判田別所小太郎と名乗り、尾高城の客分となる。

 その後、別所長兵衛と改名して、元和8年(1622)44歳で没する。その後、同氏の後裔は1947年に絶家となっているが、別所姓が米子市方面に点在していることから、別所氏の庶流が生き延びてきていると思われる。

◎関連投稿
瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)
【写真左】天守跡
 写真のように少し盛り上がった部分で、築山状態のものだが、当時はもう少し大きかったものと思われる。






【写真左】本町滑原(なめはら)遺跡出土石列遺構の説明板
 この説明板中央の写真は、別所氏時代のものと思われる瓦片が出土しているもので、焼土層は、三木合戦時のものだという。






◎関連投稿
秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡(兵庫県三木市平井・与呂木・志染町安福田) 
別所長治首塚(兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺)
山家城(京都府綾部市広瀬町)

2010年1月18日月曜日

感状山城(兵庫県相生市矢野町)

感状山城(かんじょうざんじょう)

●所在地 兵庫県相生市矢野町瓜生
●登城日 2007年7月29日
●標高 301m
●指定 国指定史跡(平成8年)、市指定文化財(昭和60年)
●築城期 鎌倉時代、または建武3年(1336)
●築城者 瓜生左衛門尉、または赤松則祐

◆はじめに
 この山城へ登城したのは、もう3年近く前になる。当時、山城探訪初期のころで、関西方面の山城としては初めてのものだったと思う。
 はっきりとした記憶としては、とにかく暑く、途中で何度も脱水症状のような状況になったことだ。未経験とはおそろしいもので、平地でいると暑いものだから、山に上がれば、きっと涼しいだろう、という全く単純な発想から、この山へ登ったわけである。なぜ、この山城に決めたのか、今では余り覚えていないが、おそらく「国指定」をうけているから、ということだったと思う。

 出雲から車を飛ばして、麓にいくと夏休みだったこともあって、多くの父子連れがキャンプなどをしていた。渓流から涼しい風が吹き、この段階ではいい場所に来たものだと満足していた。そして、ゆっくりと登城をし始めたが、中腹辺りから険しい道となり、おまけに先ほどの涼しい風は全く吹かず、もううだるような暑さである。連れ合いも同じような状況で、とにかく微風を求め、影を求めるだけが目的となっていった。四足のトミー嬢(綽名・チャチャ)も、大きな口を開けたまま、ハーハーと尋常でない。
 そうやって、脱水症状の一歩手前のタイミングで本丸にたどり着いた。反対側から登ってきた御夫婦も、私らと同じ状態だったらしく、「もうー、参った、参った、こんなに風がないとはねー」とへたり込んでしまった。
 そんな体調になってしまったため、まともな写真が少ない。
【写真左】本丸付近その1

◆解説(参考文献「サイト相生市」など)
 築城期や築城者については、二説あり、一つは鎌倉時代に瓜生左衛門尉が、もう一つの説は、建武3年(1336)、赤松円心の三男則祐が築いたという。
 特に後者の関係では、建武年間(1334~36)、足利尊氏を追っていた新田義貞を、赤松則祐がこの山で50日余りにわたって、足止めさせたという。これにより、尊氏から則祐に対して、その功を称え感状を与えられ、この山城を「感状山城」としたとされている。
 この感状山城と関係する山城としては、おなじ播磨にある「白旗城」がある。新田義貞を足止めさせた城としては、どちらかといえばこの城の方の記述が多い。
 赤松氏は義貞に対して表向き降伏したといいながら、実際には降伏はせず、その言で義貞に油断を与えさせ、白旗城や感状山城の防備を固めた。このことを怒った義貞が、必要以上にこの地で赤松討伐のため、長期間在陣することになった。これによって、尊氏は着々と九州において再起の準備をすることができたわけである。

 さて、感状山城の遺構概要だが、石垣による郭形状が、鎌倉南北朝期とは違い、戦国期のものであるという指摘もあり、当城の使用期間も200年以上ではなかったかといわれている。
 主な遺構としては、倉庫跡、井戸、大手門、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ各曲輪群、南曲輪群などがある。
【写真左】その2

【写真左】石垣
【写真左】本丸付近から城下を見る
【写真左】「ど根性大根」のキャラクター
 ちょうど、このころ「ど根性大根」が全国的に有名になり、相生港近くの休憩所で撮ったもの

2010年1月17日日曜日

洲本城(兵庫県洲本市小路谷・三熊山)

洲本城(すもとじょう)

●所在地 兵庫県洲本市小路谷・三熊山
●探訪日 2008年8月22日
●高さ 125m
●築城期 永正年間(1500年代初頭)
●築城者 紀州熊野水軍安宅氏
【写真左】模擬天守付近
 写真中央奥の建物は、模擬天守のもので、展望台となっている。当城の見ものとしては写真にある保存状態がいい石垣群である。




◆解説
 現地の説明板に詳細な記録が記載されているので、下段に示す。

“史跡 洲本城について

 境城  三熊山(高熊山)の山頂付近、北斜面および北部山麓一帯に分布する城郭遺構地域で、広さは278,459.9㎡。
洲本城は、約500年の歴史があり、城に関連した史実を年代順に見ると次のようになる。

  • 永正年間(1500年代初頭   由良、炬口に進出してきた、紀州熊野水軍の安宅一族が、大坂湾制御の要として洲本城を築城し始める。

  • 天文5年(1536)  阿波国守護三好元長の三男冬康、淡路安宅氏の養子となる。三好氏、上京作戦への布石。

  • 天文23年(1554)  三好四兄弟(長慶、義賢、冬康、一存)洲本会談

  • 永禄3年(1560)  三好兄弟、第2回洲本会談、天下制圧の打ち合わせ。

  • 永禄7年(1564)  安宅冬康、河内飯盛城で兄・長慶に暗殺される。安宅信康・清康、洲本由良城を守る。

  • 天正9年(1581)11月  織田信長の命により、羽柴秀吉淡路を征討。安宅清康開城して、信長を安土に訪れ帰国後、病死。 淡路安宅氏滅亡。 安宅氏時代の洲本城は、土塁を空堀により砦を守る中世山城なので、織田軍の鉄砲隊には対抗できなかった。

  • 天正10年(1582)  四国の長宗我部氏畿内進出を計り、淡路土着の水軍の将・菅平右衛門に洲本城を占領させる。  6月、山崎の合戦に向かう秀吉は、部将の仙石権兵衛、石井与次兵衛を洲本に差し向け、洲本城を奪還させる。  8月、仙石権兵衛秀久洲本城主となり、四国攻めの準備で洲本城を修築、水軍を強化し始める。
【写真左】石垣の間から巨木が育っていた












  • 天正13年(1585)  秀吉の四国攻め始まる。弟秀長、養子秀次で戦闘指揮。  6月18日、洲本城より出陣、福良渡海。  仙石秀久は讃岐で奮戦、戦後高松城主となる。  11月、脇坂甚内安治(中務少輔)洲本城主となる。  洲本城の本格的修築始まる。現在の遺構はほとんどが脇坂氏在城中に修築したものである。  その間、安治は水軍の将として、左のとおり従軍している。

  • 天正15年(1587)  九州攻め

  • 天正18年(1590)  小田原攻め
【写真左】模擬天守前


















  • 文禄元年(1592)  朝鮮の役(壬申の倭乱)

  • 慶長5年(1600)  関ヶ原戦では、東軍へ寝返り家康方で参戦。

  • 慶長14年(1609)  伊予大洲五万三千で移封。  仙石、脇坂時代の洲本城は、大阪城を衛り、秀吉が西南方へ進出する拠点の城として、また水軍の戦闘指揮処としての本格的築城整備の行われた時代である。  関ヶ原戦後の家康にとっては、洲本城は不必要な城となった。むしろ廃城にすべき城であった。そこでこの城を永年腹心の藤堂高虎に預け、普請を中断放置せしめた。

  • 慶長16年(1610)  姫路城の池田輝政に淡路を領知せしめ、輝政は三男・忠雄の抨知をした。忠雄は由良成山城を修築し、洲本城を廃城とした。
【写真左】洲本城から洲本の町並みを見る
 前稿「一宮城」でも示したように、天正13年(1585)秀長らが6月16日この港に約3万の軍を集めた。







  • 元和元年(1615)  大阪陣の功により、阿波国主蜂須賀至鎮に淡路一国を加増したが、蜂須賀氏は池田氏の跡を継ぎ、由良成山城を拠点とした。  由良は淡路の東南隅にあり、土地も狭小で城下の経営も出来ないことを理由に、前年幕府に申請して承認され、洲本の地に城地を移転するようになった。移転作業は、寛永12年まで山上の城郭は使用せず、山麓には居館、石垣を設けて、城砦をしたが、「お城」の呼称をせず「お居館」と呼ばせた。城下町は、洲本川・千草川の地形を利用し、本格的に計画都市をして造成されている。  この状態が、明治5年(1872)の廃藩置県まで続いた。  山頂付近、北斜面は公園地として洲本町へ払い下げられ、山麓の城地は裁判所、検察庁、拘置所、淡路文化史料館用地等になっている。
     以上”

 同説明板にある由良成山城というのは、洲本南方にある島に建っていたものだが、現在城跡としての遺構はほとんどなく、明治時代に砲台が築かれた跡が残っているという。
【写真左】本丸跡から紀伊水道、和歌山県方面を見る

2010年1月15日金曜日

一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)

一宮城跡(いちのみやじょうあと)

● 所在地 徳島県徳島市一宮町
●史跡指定 県指定史跡
●登城日 2008年4月29日
●築城期 暦応元年・延元3年(1338)
●築城者 小笠原長宗
●標高 144m

【写真上】一宮城案内図
 四国霊場13番・大日寺のほぼ真上の山にある。主な遺構としては図にもあるように、倉庫跡、才蔵丸、明神丸、本丸、釜床跡、畑跡、貯水池跡、水手丸(2カ所)、郭などがある。


◆解説(参考文献「週刊 日本の100人番外編№04 豊臣秀長」「西国の戦国合戦」山本浩樹著、その他)

 前稿「引田城」探訪後、隣の徳島に入り、一宮町の一宮城を訪れた。所在地である一宮は、徳島市中心部から吉野川の支流である鮎喰川をさかのぼったところにある。
 城下には四国霊場88札所の第13番大日寺が建ち、道路21号線を挟んで、一宮神社と神宮寺跡がある。主な登り口は上図のように、2カ所だが、南側から上がるミニチュア版遍路道のようなコースをたどる方法もある。
【写真左】登城口付近
 この左側には、神宮寺跡がある。登城路は全体に整備され、登城する人も多いようだ。








 一宮城は、延元3年(1338)年小笠原長宗によって築城されたとある。小笠原氏の始祖は甲斐国で、のちに信州に移り、その後地元と京都に分かれ、庶流は、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥などに分散していく。

 ちなみに、以前取り上げた石見国の山城で、度々出てくる小笠原氏(温湯城・その1(島根県邑智郡川本町河本谷)参照)は、直接信州から下向したのではなく、一宮城のある阿波からその一族がやってきている。

 時期は津和野・三本松城を吉見頼行が築城した永仁3年(1295)ごろで、小笠原長経の孫・長親が同国邑智郡村之郷(現島根県美郷町の南山城が最初の居城)に入っている。
【写真左】一宮城立体配置図
 上段の図と同じようなものだが、立体的な絵図で分かりやすい。なお、この図では、2カ所の水の手丸のうち、高所のものを「小倉丸」と明示している。



 さて、阿波小笠原氏は、その後姓を一宮氏とあらため、一宮城を居城として阿波国を治めていく。

 一宮城の概要については、現地の説明板より転載する。

“徳島県史跡 一宮城跡
 一宮城は延元3年、小笠原長宗が構築したもので、自然の地形を利用した城として知られる。また、阿波山岳武士の根拠地として、さらには戦国時代の一宮氏の拠点として活躍した名城であった。

 今日残っている本丸の城壁、明神丸、才蔵丸等の跡は、この頃のものであろう。その後、長宗我部氏の侵入、豊臣秀吉の四国統一の際、攻防場となり、天正13年、蜂須賀家政が入国のときにも、徳島城に移るまで居城となっていたものである。元和元年、一国一城の制により廃城となっている。

昭和43年11月 徳島市教育委員会、一宮城跡保勝会”
【写真左】倉庫跡
 登り始めて最初に見えるのが、倉庫跡といわれるところで、登城路脇のものと、途中で枝分かれした道の先端部にもある。この日は、後者の方までは探訪していない。



 当城の名前が特に出てくるのは、上記説明板にもあるように、戦国期である。

 四国を統一した長宗我部元親に対し、秀吉(信長)は紀伊国統一後、天正13年(1585)大掛かりな布陣を擁して攻め入った。その規模は10万余りで、阿波、讃岐、伊予の三方から攻め入る作戦に出た。

 このうち紀伊・和泉の兵3万を率いたのが秀吉の弟・秀長で、同年6月16日、堺から淡路に到着。ここで、明石から同じく3万の兵を率いて渡海した甥の秀次と合流し、同時に阿波に入った。
【写真左】上記倉庫跡付近から徳島市街方面を見る
 豊臣秀長らが一宮城に向かったルートはおそらくこの写真にある徳島市街からだと思われる。
 道のわきに綺麗な花が咲いていた。



 最初に秀長らは、木津城(鳴門市)を陥れたが、その後長宗我部軍の抵抗が激しいため、兵を海部、一宮、岩倉の三手に分けた。

 一宮城の戦いでは、秀長は鮎喰(あくい)川を挟んで、辰ノ山に陣をとった。四国を平定する際の重要な戦いがこの一宮城戦だった。

 戦況が好転せず、長期戦の様相を呈し始めた時、大阪城で病気治療していた秀吉は、自らが出向くと再三決意したが、秀長らが度々の書状をおくって押しとどめ、2ヶ月後の8月6日、ついに元親の降伏により和睦となった。

 元親が降伏した理由は、直接的には秀長らによる同城の水路の阻止が挙げられているが、伝承では元親が、秀吉軍が持ち運んだ騎馬の屈強さ、能力の高さに驚いたからだともいわれている。
 なお、降伏した長宗我部元親は、同日の和睦条件の中で、出身地である土佐1国を安堵された。
【写真左】曲輪跡
 後段に示す才蔵丸や、明神丸が出てくる前に見える郭で、確か2段あったと思われる。











【写真左】堀切
 明神丸と才蔵丸の中間部にあるもので、これにより区画としては才蔵丸を孤立させたものだという。従って、写真左側に才蔵丸専用の入口がある。








【写真左】門跡
 上記の堀切を抜けると、この門跡に出る。写真右を行くと、明神丸に向かう。左方には帯郭や井戸跡がある。










【写真左】明神丸周辺案内図
赤い文字位置が上記門跡。










【写真左】明神丸から徳島市街を見る
 明神丸は上図のような形状で、展望台として使われており、眺めがいい。
 写真中央に流れているのは、鮎喰川で、中央の山並み鞍部には、銅鐸・銅剣が出土した源田遺跡がある。なお、この写真の右下丘陵地には「御殿居」といわれた場所があり、一宮氏のものと思われる。






【写真左】帯郭
 明神丸と本丸をつなぐ部分で、戦略的にも重要な場所である。









【写真左】本丸その1 本丸の形状図面
 三角形の縄張りで、周辺に石垣を積んでいる。












【写真左】本丸その2
 東側にある本丸登城用階段部
 小ぶりな石垣だが、全体に破損個所が少なく、見ごたえのあるものである。この位置からの高さは4m前後だが、北側の方になるとぐっと深くなり、要害堅固な城造りを見せる。






【写真左】本丸その3
 平坦面の精度がよいことから、蜂須賀家がいたころには建築物(天守)があったと思われる。











【写真左】本丸その4
 中心部に建立されている「若宮神社」










【写真左】本丸その5 
 東端部から登り口方面を見る











【写真左】本丸跡から辰ノ山(辰ヶ山)を見る
 前述したように、豊臣秀長らが布陣した山で、標高は197mと、一宮城よりは少し高い。










【写真左】本丸下の釜床跡付近













【写真左】堀切
 本丸を過ぎて小倉丸方面に向かう途中に堀切がある。このあたりからは管理が少し雑になっていて、雑木が目立つ。









【写真左】曲輪跡
 明瞭な遺構としての郭ではないが、このあたりの地形に合わせた小ぶりな廓が点在している。









【写真左】小倉丸の側面
 ここに来ると、本丸ほどの整備がされておらず、登るのを断念した。
 図面を見ると、二段の構成となり、西側に土塁を南北に伸ばし、先端部に櫓台があるという。






 このあと、方向音痴になり、一宮城の南の幹線道路に出てしまった。このため、最初の登城口まで歩いて戻ることになった。しかし、そのルートはおそらく搦手側になると思うので、これはこれで無駄ではなかった。
【写真左】一宮神社

2010年1月13日水曜日

引田城跡(香川県東かがわ市 引田)

引田城跡(ひけだじょうあと)

●所在地 香川県東かがわ市 引田
●登城日 2008年4月29日
●築城期 西暦667年
●城主 四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏
●形式 海城

◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」など)
 前稿に続き香川県の山城で、「多度津城」とは反対の位置(東部)にある引田城を取り上げる。
 この城は、山城というより、断崖絶壁にたつ平山城もしくは、海城形式のもので、城の起源は現地の説明板によると、天智天皇の6年(667)という極めて古いものである。以下、説明板より転載する。
【写真左】現地の案内図
 この場所は、瀬戸内海国立公園・城山園地という区域で、その東半分が引田城域になる。瀬戸内海の播磨灘を眼下に見るところで、さらに東に数キロ行くと、徳島県(鳴門市)と接している。

 おもな遺構名としては、馬屋池、丹後丸、北の郭、櫓、玄関谷、西の郭、化粧池、石囲い、南の郭、東の郭、物見台、狼煙台跡等がある。


“引田城址

 城の起源は遠く天智天皇の6年(667)11月、屋島築城のとき、安倍比羅夫率いる引田氏によって築城したものであるといわれ、また、屋島城(軍団)との連絡のためにできた「狼煙台」として造られたのが城の始まりになったともいわれている。

 この城が、内海の要塞として、代々の城主・四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏などにより改修が加えられ、近世の城として体裁を完備していったが、元和元年(1615)の一国一城令により、廃城となり、今は山上に石垣・土塁、そして空堀などを残すのみで、城郭としての規模は分からない。

 しかし、引田の住民は、この城を拠点として、事ある時は軍船を操り、水軍の衆として大活躍をなし、平時に当たっては内海はもとより、朝鮮・支那の遠海に運航し、特に永正年間、大内氏と結び、近くは堺・兵庫、遠くは台湾・呂宋まで渡航して貿易に従事し、引田港の全盛を招来した。
  城址区域 東西250m、南北500m
  引田町教育委員会”
【写真左】登城口下の駐車場
 主な登城口は南北各1カ所あり、写真はその中で北側の登城口付近にある駐車場。

 この駐車場は、この位置から下にあるキャンプ場用のものだが、登城口からさほど離れていない上に、駐車台数も多いため便利だ。




 以上のように、このブログで取り上げてきた山城の築城時期の中では、最も古い部類に入る。天智天皇の時代というから、白鳳(飛鳥)時代である。

 築城されたきっかけは、おそらく天智2年(663)に、日本・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍の白村江での戦いで大敗したとき、あわてて、西日本各地に造られた海城の一つと思われる。
【写真左】北の郭付近その1
 登城口からしばらく歩くと、写真のような石垣をもった「北の郭」が見えてくる。

 現地の説明板より

“北の郭
 当城址中もっとも古い石垣の偉観が見られる場所であり、地元の和泉砂岩・礫岩を使った石垣の構造様式も、天正期の特色がよくあらわれている。

 二段に築かれた上段の石垣は、南へ伸び城門跡から西の郭に続いており、一部石垣の崩れたところでは、裏ぐりに海の石を利用したと思われる丸いぐり石の露出が見られる。 

 北側は自然の岩山まで石垣を築き、その岩山と石垣上に近世の建物が建てられていたことを証する同時代の丸瓦が出土している。
引田町教育委員会”
【写真左】その2











【写真左】女郎島・西の郭・引田灯台方面との分岐点
 このあたりから城域の中心部に差し掛かるところで、写真手前には櫓跡があり、当時の大手口がキャンプ場・西の郭の間にあった玄関谷方面と思われる。









【写真左】引田灯台
 上記の位置から東に向かうと、物見台、東の郭にさしかかり、さらに東端部に足を延ばすと写真の引田灯台にたどり着く。

 この灯台は昭和29年に設置されたものだが、戦国期にもおそらく同じような役目を負っていたのだろう。

 この場所から突端にある「女郎島」にまつわる悲話が残されている。具体的な内容は書かれていないが、奥女中と若僧の悲恋物語「おせんごろし」の伝説という。

 なお、写真にあるように、この場所から右(南)方面に向かい、化粧池、南の郭を目指した。

【写真左】化粧池
 名前からして、さぞ綺麗な池と思ったが、現地は荒れ放題の湿地帯状態だった。

 海岸部なので、生活する上では真水の確保は死活問題だっただろう。おそらくこの池がその役目を果たしたものと思われる。







【写真左】南の郭付近からみた引田の港と播磨灘
 天気がよいと、この写真左前方に淡路島も見えるという。この景色でも十分堪能できる。









【写真左】南の郭
 文字通り南側を防御する場所だが、上記写真にもあるように、播磨灘の東方や、陸路の阿波方面からの動きを監視する物見台的要素の強い郭と思われる。

 現地には石碑が建っていた。





【写真左】西の郭

 現地の説明板より

“西の郭・天守台・南の郭

 ここは、西櫓跡といわれているところで、方形の石垣が残っており、その上には展望台らしい構造物跡があるが、これは大正12年久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)行啓予定地の報により、展望台道路の整備等をなし、現状が一部変更されている。

 ここから南東方、魚の神付近に天守台、さらにその先に南櫓跡の石垣が残っているが、近年崩れ落ちた個所も多い。また、この付近の石垣は、後年引田港一文字波止堤防用としてくずされ利用された。

 その堤防は眼下南方に現存する。天守台等の建造物については、瓦片等から想像し、生駒時代の構築と考えられている。  引田町教育委員会”
【写真左】狼煙台跡付近
 このあたりからだんだんと下がっていく地形だが、数カ所でこうした眺望が堪能できる。
 この位置にある狼煙台を考えると、引田城下の報にいち早く知らせる目的があったように思える。






【写真左】南側の登城口
 最初に登城した位置より、南方(引田の街)側にあるもう一つの登城口。

 結局、北側の登城口からスタートし、引田城域を周回し、南側に降りたことになる。このあと、最初に留めた駐車場まで徒歩で戻った。

 なお、最初の登城口付近(北側)には、馬屋池というのもあったが、残念ながら写真に撮っていなかった。

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