2009年12月16日水曜日

石見銀山・山吹城(島根県大田市大森銀山)

石見銀山・山吹城跡(やまぶきじょうあと)

●登城日 2007年3月3日
●所在地 島根県大田市大森銀山
●指定 世界遺産登録・国史跡指定
●標高 414m
●築城期 延慶年間(1308~11)
●築城主 大内弘幸
●遺構 郭、帯郭、土塁、石垣、堀切、虎口、櫓台、礎石建物、吹床跡その他

◆解説(参考文献「島根県の歴史散歩」、サイト「山陰の城館跡」・「島根県遺跡データベース」その他)
●登城したのは、2007年3月で、午前中に仁多(雲南市)の三沢城を登城し、そのあと車を西に走らせ、石見銀山に入った。このころは山城探訪も初期のころで、登城の経験も浅く、登城する際の要領や、体力的なエネルギー配分など身についていないころである。

【写真左】山吹城主郭付近から北東方面の眺望
 前記したように、山城の遺構を確認する知識が希薄で、しかも、ヘトヘトになって登り切った安ど感と、眺望のみに興味が移り、写真も登山者のそれと同じスタンスで撮ったものばかりである。

【写真左】山吹城遠望
 南側に聳える矢滝城側から見たもの(2013年4月5日)。









●石見銀山が世界遺産登録されたのは、2007年の7月である。従って、登城したのは登録される4カ月前で、現在のように車で来た場合のような交通規制はなく、大森の町並みの奥の駐車場に置くことができた。

●現在もあるのかわからないが、ちょうど駐車した傍らに作業詰所のようなものがあり、そこで遺産登録に向けて準備作業をしていた人たちがいた。

●当日銀山に来ていた観光客はもっぱら「間歩」や町並み探訪が主で、山吹城へ登城するような観光客は私ら夫婦のみだった(今でもそうかもしれない)。詰所にいた担当の人に、山吹城登城のルートなどを尋ねたところ、親切に教えていただいたが、登城途中に、数日前に降った大雨で山道が壊れているところがあるとのこと。また、高所になるほど傾斜がきついので、足もとも十分に気をつけるようにと、再度念を押されたのを覚えている。
【写真左】主郭付近東側斜面
 山吹城は南北に長く、東西は天然の険峻な切崖である。







●登城口を過ぎたあたりから、予想通り谷間からあふれ出た水が道を横断して溝をつくり、倒木も斜面になぎ倒されたままという状況だったが、登城ルートそのものに障害物はなく向かった。

●中間地点あたりから傾斜が際立って厳しくなり、途中で何度も引き返そうかと思ったが、下るにも結構体力を使いそうだったので、逡巡しながら一歩一歩足を前に出して進んだ。これだけきついと、下から攻め入って行ったとしても、それまでに体力を使い果たして、攻撃する体力や気力もなくなるだろうと思われる。まさに、掛値なしの「難攻不落の山城」であることを身をもって知ることになった。

●そうやって悪戦苦闘の末、たどり着いた本丸からの眺めを目にしたとたん、いっぺんにそれまでの疲れが吹き飛んだ。とにかく絶景である。ほぼ360度のパノラマである。これまで登城した山城の中でも、眺望の素晴らしさは最上クラスと思える。
【写真左】主郭付近から北側郭および北東部を見る
 眺望としては全体に北側がよく、北東山麓に大森銀山の町並みがほぼ見渡せる。




●冒頭にあるように、山吹城の築城期は島根県遺跡データベースでは延慶年間(1308~11)としているが、これはこの時期、大内弘幸が銀山・峯山において白銀を採り、外国船に与えるという記録(「銀山記」)を根拠とするもので、史料によっては、天文2年(1533)の大内義隆が石見銀山を奪回した時とするものもある。

●延慶年間を含め鎌倉末期でも出雲・隠岐国において、各郷に地頭職が安堵され、それぞれの本拠とする居城がつくられている。このことから、大森においても、大内氏が拠った城は当然造られていったものと思われるので、築城期は延慶年間とする方が現実的である。
【写真左】主郭付近
 各郭の施工精度がよく、削平地である郭の輪郭が把握しやすい。








●その後の山吹城の変遷は他のサイト・資料で度々紹介されているので、詳細は省くが、大まかにいえば、戦国期に至って、大内氏・尼子氏・小笠原氏・毛利氏らが銀山・山吹城をめぐって30年以上も攻防を繰り返し、最後は毛利元就が治めたということになる。

●当城の概要は、ほぼ独立峯の山で、山頂部に主郭を置き、南北に数段の郭を配置している。南側の山腹の斜面には放射状の連続した16本の畝状空堀(竪堀)があり、そのほか主郭南側にクランク状の折れた大規模な空堀があるという特徴を持っている。

●城下からみると、山城としての要塞施設を優先するよりも、示威的、あるいは威圧感を持たせた山城であり、近世城郭の片りんをうかがわせるものだといわれている。

【写真左】大森銀山の町並みおよび、出雲大社方面を見る











【写真左】日本海と日御碕方面を見る












【写真左】東方に「三瓶山(さんべさん)」を見る。











◎関連投稿
矢滝城(島根県大田市温泉津町湯里 西田)

2009年12月12日土曜日

丸山城跡(島根県川本町田窪古市)

丸山城跡(まるやまじょうあと)

●所在地 島根県川本町田窪古市
●登城日 2008年3月12日
●築城主 小笠原長旌(ながはた)
●標高 480m
●遺構 郭、虎口、郭、石塁、カマド、礎石建物
●遺物 銭貨(洪武通宝)、青磁(15世紀)、白磁、備前焼、美濃陶器、兜等
●備考 円山城

◆解説(参考文献「島根県遺跡データーベース」「サイト:川本町」その他)

 石見小笠原氏の出自は、弘安の役(1281)により阿波小笠原氏の長経の孫・長親が、その功によって石見国邑智郡村之郷を賜ったのが初期とされている。具体的にこの地に入ったのは、その14年後の永仁3年(1295)頃とされている。
【写真左】丸山城遠望













 入部した地である邑智郡村之郷は、現在の美郷町内にあり、そこに山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)を築く。長親の子・長胤の代になる南北朝期には、南山城より北方2キロに宮内城も築いているが、おそらく南山城の支城の一つであったと思われる。

 南北朝期には、長胤は武家方として宮方(後醍醐派)と戦い、その功によって、現在の川本町内にある温湯城と、赤城(赤城山城)を賜る。本城としたのは温湯城で、以後小笠原氏の拠点となる。 その後しばらくは他の一族と同様、同氏一族の惣領家と庶子家が分裂や抗争を繰り返してきたらしく、詳細は不明である。

【写真左】二の丸と本丸の間にある井戸跡












 戦国期になって同氏の名前が度々出てくるのは、長雄である。この地域ではげしい攻防が繰り返された目的は、何といっても「石見銀山」の支配である。

 弘治元年(1555)毛利元就が陶晴賢を降し、大内氏支配下の石見銀山を同3年に占領する。一方、尼子晴久は、佐田・高櫓城(島根県出雲市佐田町反辺慶正)の本城経光を石見に向けさせ、奪取を試みる。このとき長雄は尼子方に与して、銀山の守城・山吹城(島根県大田市大森銀山)を攻略する。

 しかし、翌永禄2年(1559)5月20日、毛利元就は長雄の拠る温湯城を攻撃。さらに7月に本城経光を城番とする山吹城も攻撃。8月25日、温湯城に立てこもった小笠原長雄は、尼子の支援を受ける間もなく毛利元就に降伏する。
【写真左】二の丸入口付近
おそらく虎口と思われる。









 本来なら降伏した段階で、城主は自刃をし、その代償として家臣の命を救うという処置が多いが、長雄は元就の意向で死を免れ、隠居する。

 所領については当然のことながら没収される。川本や江の川南方の地を没収、その代わりとして江の川北方の旧領や、毛利氏が支配していた元福屋氏所領の伊田(井田)・波積を新給地としてあてがわれる。
【写真左】本丸跡 二の丸もかなりの大きさを持つが、本丸はさらに広い










 その後、息子である長矩が家督を継ぎ、天正11年(1583)から同13年にかけて、川本町三原に丸山城を築いたとある。 父長雄が蟄居されてから24年後のことである。

 なお、この間に残る記録としては、天正7年(1579)、長旌・元枝両名が石見国武明八幡宮を修復し、翌年同宮に田地を寄進、天正10年には、元枝・元扶名によって、石見国大家大宮神主職を大宮公旧に安堵とある。

 この後、天正12年の武明八幡宮の寄進では、元枝・元扶名で、翌13年、すなわち丸山城が築城完成した年には、8月10日付で、小笠原長旌が日御碕社造営に対し、自領の棟別段銭の進上を国司元武に伝えたとある。

 ところで、長矩と長旌という名前が混在しているが、おそらく同一人物と思われる。また、元枝や元扶については兄弟という説が有力だが、はっきりしない。また武明八幡宮は丸山城下北東部にある。

 丸山城を築いた頃に、小笠原氏はこのほか周辺に4,5カ所の出城を設け、小規模な領域ながら石見銀山南西部の扶植を図っていく。
【写真左】本丸に立つ石碑
 小笠原氏15代長旗公の末裔・松本宗太郎という人のもので、昭和46年4月吉日となっている。






 しかし、それから10年後、毛利輝元によって出雲神西に移封される。どういう理由なのか不明だが、輝元がこうした処置を行った事例は、出雲・石見地域でもかなりの数に上る。

 特に元・尼子方だった一族に対してその傾向が強く、以前取り上げた三刀屋氏などは改易されている。またそれと期を合わせるように、文禄4年(1595)に輝元が出雲・石見・隠岐での大掛かりな検地を実施していることから、できるだけ毛利方の息のかかった武将に、本領安堵させたかったのかもしれない。
【写真左】大就寺
国道9号線の神西湖付近に設置されている。









 なお、小笠原氏が出雲神西に移封されたとあるが、「神西村史」によると、

「1545年ごろ(天文14年)、長雄が毛利元就の命により、湖陵町三部に「横尾山日出城」を築き、その鬼門に当たる大島の地に祈願寺として建てた」

 とする「大就寺(左写真参照)」がある。

 となると、もともとこの地域は長雄がすでに領有し、しかも元就がこの地域まで押さえていたということになる。このころ、尼子晴久は杵築大社や日御碕社などに対し、支配権を有していたが、前段の記録から考えると、そのすぐ南方である湖陵地域までは、完全に支配下に治めていなかったことになる。

 しかし、軍勢図的に見ても、また当時の毛利・尼子合戦史から考えても、同史の「天文14年」という時期にはいささか疑問が残る。
【写真左】丸山城本丸付近その1













【写真左】同上石垣













【写真左】大手口付近













【写真左】丸山城森林公園の看板
支柱が腐食して看板が地面に落ちている。

2009年12月10日木曜日

二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)

二ツ山城跡(ふたつやまじょうあと)

●所在地 島根県邑南町鱒淵永明寺
●別名 出羽城
●指定 邑南町指定史跡
●登城日 2008年3月12日
●築城主 富永(出羽)朝輔
●城主 出羽氏、高橋氏、出羽氏
●標高 510m
●遺構概要 郭、空堀、竪堀、帯郭、石垣等

◆解説(参考文献「島根県遺跡データーベース」等)
 所在地である邑南町鱒淵付地区は、合併前の旧瑞穂町にあり、東西に長い島根県のほぼ中央部に位置する。また、広島県との県境に接し、毛利氏の安芸の吉田郡山城や、大朝吉川氏の小倉山城とも近く、中世戦国期ではたびたび抗争が繰り広げられた。
【写真左】登城口付近
 中央後方に見える山が二ツ山城であるが、全容がよくわかるのは、この位置より下った旧瑞穂町の市街地付近の方から見た方がいい。




 当城の概要については、登城口にある説明板から転載する。

“二ツ山城跡の概要
 出羽氏の居城である二ツ山城は、県内有数の規模を持つ山城で、尾根筋を切断した連続堀切から谷底まで続く大規模な竪堀群は、他の山城を圧倒するものがある。
 連続堀切より外側の尾根筋には、やや古い様相を持つ廓群が延々と続くが、枡形虎口を取り入れた主郭部の堅固な縄張りは、近世城郭に通ずるものがあり、戦国時代末期に大規模な改修が行われたことを示している。
 毛利元就の六男・元俱が養子として二ツ山城に入城した永禄年間(1565年頃)に現在の姿に改修されたものであろう。

二ツ山城の略歴
貞応2年(1223) 出羽朝祐二ツ山城築城
正平6年(1361) 阿須那・高橋氏に攻略され二ツ山城落城
享禄3年(1530) 毛利元就の攻略により高橋氏滅ぶ
享禄4年(1531) 出羽氏は出羽郷を回復し二ツ山城に復帰
天文11年(1542) 大内義隆、尼子攻略のため二ツ山城へ入城。石見の諸将、二ツ山城に結集し、出雲に進出する。
弘治3年(1557) 吉川元春、小笠原氏攻略のため二ツ山城に入城
永禄元年(1558) 毛利元就、小笠原氏攻略のため本陣を置く
永禄4年(1561) 毛利元就、福屋氏攻略のため二ツ山城に入城
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏に従い、出羽氏長州萩に移住する。”
【写真左】二ツ山城鳥瞰図
 この図も登城口付近に設置されている。立体的な図のためわかりやすい。




 本丸跡には由来についての説明板がある。以下転載する。

“二ツ山城の由来
 二ツ山城の創始は、貞応2年(1223)富永祐純(出羽氏を称す)の子・朝祐が、出羽郷久永荘の地頭として、石見守護・佐々木定綱の庇護のもとに勢力を拡大するにおよび、その拠点として築いたのにはじまり、益田の七尾城についで石見国第2番の古い山城である。
 正平16年(1357)9月、出羽実祐の時、阿須那の藤掛城主・高橋貞光によって攻略され、やむなく本拠を君谷の地頭所に移さねばならなかった。
 高橋氏はやがて本城を築いて、芸備石の間に当地方最強の勢力となった。
 明徳3年(1392)、南北朝統一によって、出羽祐直は、高橋氏より出羽700貫地のうち、250貫地を得て、宇山に住むことになった。

 享禄3年(1530)、高橋氏が毛利元就によって滅ぼされると、出羽祐盛は元就より出羽全域を与えられて、そのよき配下となった。
 天正19年(1591)、出羽元実は、出雲の頓原由岐に移封となってこの地を去った。かくて、本城についで二ツ山城も廃墟となって歴史の中に埋もれてしまった。
瑞穂町文化財愛護協会”



 この中に出てくる「本城」とは、二ツ山城の南西部2キロにある田所下地域にある山城で、高橋師光が1361年ごろに築いたとされている。
 また「君谷の地頭所」とは、二ツ山城から北へ約50キロほど行った江の川沿いの君谷湊(現美郷町)から、さらに君谷川を3キロほど登ったところにある。おそらくこの時は、当地を治めていた小笠原氏か佐波氏の庇護によるものと思われる。従って当地にも「地頭所城」という古城が残っている。
【写真左】登城口付近 ※イノシシか何か多くの獣の匂いがあるらしく、トミー嬢は終始大興奮状態

 平常時はこの登城口付近まで車で来ることができるが、この日(2008年3月12日)訪れたときは、途中までの車道に残雪や雪によって倒れた枝が散在しており、中腹の辺りに車を停め、後は歩いてこの位置まで向かった。



 前項の由来を見ると、出羽氏が貞応2年地頭としてやってきたということから考えると、この地頭は承久の乱のときのいわゆる「新補地頭」であったと思われる。ちなみに、出雲国で同年地頭としてやってきているのは、神西城(島根県出雲市東神西)を築いた神西三郎左衛門小野高通がある。
【写真左】西の丸付近
 登城口から登っていくと、途中で竪堀や堀切がある。しかし、現地は笹で覆われ確認が容易でない。

 その先には「天神丸」という小規模な郭があり、さらに「泉水の段」という帯郭状の付近から坂を登っていくと、この西の丸にたどり着く。
 西の丸は東方に配置された主郭を守備する重要な郭と考えられ、このためにそれまでの多数の要害施設(竪堀など)を配置している。

【写真左】西の丸から南方に旧瑞穂町の町並みを見る。
 眺望は東方の主郭部よりもよく、前記したようにこの付近の重要性がよりうなずける。
【写真左】お蔵の段
 西の丸から東に向かうとこの郭に出る。その後、少しずつ下降していくが、東郭群に入る前に、次の空堀(神明空堀)が現れる。

【写真左】神明空堀
 この空堀は規模が大きく、明らかに東郭群と分断させようとする意識が見える。従って、見方によっては二ツ山城も文字通り、二つの山に郭群を配置させた「一城別郭」形式ともいえる。
【写真左】馬場跡
 神明空堀を越えると、神明丸という小規模な郭があり、さらに下って舞殿の段が控える。その後尾根筋を相当加工した跡が見られるのが、この馬場跡である。
 実測はしていないが、有効長さは50m前後はあるだろう。

【写真左】本丸跡
 別名「東の丸」といわれているところで、標高は西の丸と同程度と思われる。広さはこちらの方が大きい。
 現地の状況は本丸であるにも関わらず、部分的に除草がしてあるのみで、雑草と枯れ木が目立つ。
【写真左】本丸付近より登城口方面を見る
 本丸からさらに東下方には「駄屋の段」という大きな郭や、本丸南方に「太鼓の段」および、分離して配置された「出城」などが鳥瞰図に示してあるが、現地に行く案内標識などが不明で、おそらく進入不能の状況と思われる。




◆感想
 冒頭で紹介されていたように、県内でも有数の山城であることは間違いないところだが、残念ながら現地の状況には少なからず不満が残る。
 主要な遺構を探訪しようにも、荒れ放題の状況に近いため、向かうことができない。

 西の丸には展望台だったと思われる廃材が残り、主要部周辺の雑草や笹類の繁茂など、山城探訪者の意欲を削がれるシーンが目に付いた。
 数年前の市町村合併で邑南町となった当地には、この二ツ山城をはじめとして歴史的に価値の高い山城が多い。すべての山城保全に費やす財源確保は、時代の趨勢上無理があるだろうが、せめて当県を代表するようなものには何らかの手当があってほしいものだ。

2009年12月8日火曜日

桜尾城跡・その2

桜尾城跡・その2

浄泉寺(じょうせんじ)と金屋子神社周辺

【写真左】浄泉寺の山門
 石見三門の一つである。










◆解説(参考文献「図説 島根県の歴史」(河出書房)、島根県遺跡データーベース等)

 前稿で紹介した浄泉寺は、桜尾城の北にあり、同寺の裏山に最初に桜尾城の前身・高城が築城されている。高城については数年前詳細な発掘調査が行われている。築城期は、1200年代といわれ、益田氏から分家した周布氏が築城している。

 浄泉寺からさらに桜尾城側へ向かう途中には、金屋子神社があるが、この神社の裏山には「滝ノ尾城」が記録されている。遺構からすると初期は、中世以前からあったようで、土杭・加工段などがあり、山城形態も含め、麓に金屋子神社などがあることから、鉄穴場であった可能性も高い。

 浄泉寺からさらに浜田側に向かうと、やはり浜田自動車道沿いに「早水城」もあるが、この城についても、古代から中世に及ぶ多種の遺構があることから、山城のみに限定はできない。
【写真左】浄泉寺の山門
 写真では分かりにくいが、非常に繊細な彫刻が施してある。








 ところで、現在の島根県は昔の国名でいえば、出雲・隠岐・石見の3国から成り立っている。

 このうち石見をさらに区分すると、東から石東(せきとう)・石央(せきおう)・石西(せきせい)の呼び名で区分けされている。それぞれの中心都市は、同上順に大田市・浜田市・益田市となるが、厳密な境界線があるわけではない。石見部の面積と出雲の面積では石見部がかなり大きく、しかも東西に長い。

【写真左】浄泉寺の西側に立つ浜田自動車道のコンクリート橋脚の彫刻
 高速道路の橋脚に彫刻があるのは大変珍しい。写真の橋脚左側に大木を表現した作品があるが、この彫刻(彫塑というべきか)も、山門のそれと同じく精緻を極めている。 なお、この橋脚の背後の山が「高城(桜尾城の前身)」になる。







 浄泉寺がある地域は、石東および石央の範囲に当たるが、江戸期に確立した浄土真宗の「石見門徒」の中心部である。特に浄泉寺から出た仰誓(ごうせい:1721~94)は『妙好人伝』をつくるなど、親鸞の教えに忠実な石見教学を育てる。

 石見地方に浄土真宗の教線が多いのは彼らの活躍もあるが、もとは備後山南(さんな)の光照寺を中心とする明光上人系教団だといわれている。光照寺の末寺・照林坊の7世・祐了のとき、永正4年(1507)、広島安芸高田郡原田(現高宮町)に移し、その後永正14年、舟木(高宮町)に移した。この場所は、石見と国境を接し、次第に北上していくきっかけとなる。

 記録によれば、毛利隆元(元就の長男)が、同地に350貫の地を照林坊に寄進しているが、当時から毛利氏は浄土真宗派に対して保護に努めながら、一方で領地拡大のためのいわばソフト面での戦略(教線活動)も巧みに利用していたように思える。

 こうしたことが明瞭に発揮されるのは、元亀元年(1570)から勃発した、織田信長と石山本願寺の抗争において、毛利側は安芸門徒と併せ、石見門徒も参画させ、多くの兵員や銀(石見銀山より)を送っていることである。
【写真左】金屋子神社
 神社の背後に「滝ノ尾城跡」がある。
【写真左】同神社の鳥居・本殿
 当時は、野だたら方式だったと思われるが、神社の規模から考えても、当時から相当の産出量を誇っていたと思われる。 
 確かこの脇に、鉧(けら)塊があったような気がする。

2009年12月7日月曜日

桜尾城跡・その1(島根県邑智郡邑南町市木)

桜尾城跡(さくらおじょうあと)・その1

●登城日 2009年4月4日
●所在地 島根県邑智郡邑南町市木
●標高 360m
●備考 1342年以降、吉川氏が築城
●別名 堀城
●遺構 郭、空堀、竪堀、石積み井戸、堀切他

◆解説(参考文献「島根県遺跡データーベース」その他)
 所在地は、浜田自動車道の瑞穂ICのすぐそばにある。浜田自動車道の東沿道という位置になるが、当然ながら自動車道から直接は行かれないので、いったんICを降り、北へ市木の町並みが続く狭い道から登る。

 ちなみに、そのまま北へ向かっていくと、「石見三門」の一つ「浄泉寺」がある(石見三門のもう一つは、2009年3月23日に取り上げた、邑南町阿須那にある口羽氏建立の「西蓮寺」)。

 島根県遺跡データベースによると、この桜尾城付近には、北に近接して「滝ノ尾城跡」「高城跡」「陣ヶ丸城跡」などがある。この場所から南東に向かい三坂峠を越えると、すぐに安芸の国に入り、「駿河丸城」や「小倉山城」などがあり、国境の重要な位置であったことがうかがわれる。
【写真左】桜尾城遠望
 市木の街道筋からみたもの










◆現地に設置してあった説明板より

“桜尾城由来

 鎌倉時代(1100年代)、石見に国府が置かれてのち、益田氏の所領となり、川本と市木に別府(役所)が置かれ、石見の守りを固めていた。
 益田氏系の福屋兼宗が浄泉寺の裏山に高城(昔の桜尾城)を築いた。南北朝時代の暦応4年(1341)、福屋氏と周布氏は南朝方で、北朝方の安芸新庄の吉川氏が、雲月山や三坂を越えて攻め込み、高城から福屋氏を追い落とした。

 その後、吉川氏の家老の一人堀氏が、高城から東南700mのこの地に堀城(現在の桜尾城)を築いた。山の上からは観音寺原・大町原・猪子山が南に広がり、北に麦尾の谷が望まれる好位置にある。

 天文18年(1549)、毛利・吉川の家督争いを疎んじた堀小太郎重利は、吉川氏の支配を離れ、福屋氏に組した。その13年後(1562)、毛利元就、吉川元春の軍勢に攻められ、三坂の戦いに敗れ桜尾城内で討ち死にした。
平成15年11月 市木自治会”
【写真左】登城口付近
 付近には正式な駐車場がないので、確実なのは浄泉寺で駐車した方がいいかもしれない。








【写真左】登城路から100m程度入ったところ
 この日登城し始めたのが、夕方の6時を回っていたため、全体に暗く、写真もあまり鮮明でない。

 道幅は歩くのには十分あるが、この日は全体に湿度があり、このあたりは完全に陰になっていることから、薄暗い。





【写真左】「馬ずり登り」といわれている個所
 当時の登城路だろうが、竪堀のような遺構を思わせる。
 この道を馬に乗ったまま登ったのだろうか。現在ではとてもできない芸当だろう。
 なお、別の個所では「馬ずり下り」という個所もあり、登りと下りの道を区別して使用していたようだ。







【写真左】井戸跡
現地の説明板より

“井戸の概略
 井戸は補修したものですが、直径は元石に合わせてあります。上部は石垣になっていて、下部は土をたたき水を溜めていたと思われます
 平成15年11月 市木町自治会”

 直径はかなりあり、2m近いのではないかと思われる。


【写真左】本丸付近からみた城下の市木小学校
 東麓部にあるが、当時は本丸付近の雑木はなく、特に南方向は相当奥の方まで見渡せたと思える。







【写真左】本丸付近
 縄張り図などがないため、確証はないが、この小屋のある辺りが本丸と思われる。









【写真左】本丸付近から北に伸びる腰郭を見る
 全体に管理はいい方だが、特に北に伸びる郭周辺は遺構が分かりやすい。
 北方向には、郭が2段程度あったと記憶しているが、この写真の郭が一番大きい。






【写真左】上記郭から本丸を見る
 高低差がかなりあり、6~7m程度はあると思われる。

2009年12月5日土曜日

小国城(島根県浜田市金城町小国)

小国城跡(おぐにじょうあと)

●所在地 島根県浜田市金城町小国
●探訪日 2009年11月27日
●標高 503m
● 遺構 空堀、郭、帯郭、堀切、石垣
●築城期 中世
●城主 徳田刑部少輔

◆解説(参考文献:「島根県遺跡データベース」等)
 以前取り上げた同県内の奥出雲町にある「小国城」と同名であるが、この場所は石見の小国城である。

【写真左】小国城遠望
 南側からみたもの。左に少し見える山が「金木城(金城山)」の稜線

 登城口は、右に見える神社の左側にある。



 当城に関する資料はほとんどなく、唯一城主が徳田刑部少輔という武将であったということ程度である。

 所在地を見てみると、前々稿で取り上げた「花城」から北へ下り、途中の田ノ原というところから、東に52号線(県道か)を通って約2キロほどいった場所にある。

 直線距離では3キロ程度になるので、おそらくこの城も波佐一本松城と何らかの関係があったものとも思われるが定かでない。

【写真左】抱月トンネル付近にある案内図
 この場所は花城や波佐一本松城に向かうR186号線と、県道52号線の分岐点で、小国城は図の中央上部に示されている(写真クリック)。

 なお、図にある男性の絵は、金城町が生んだ演劇作家・島村抱月。


 もう一つ考えられるのは、この小国城の背後にある金木城(H720m)の出城とも考えられる。金木城は、南北朝期、北朝方の部将として活躍した田村氏の居城で、戦国期・永禄年間(1558~70)、福屋氏の家臣で、前記した徳田刑部少輔兼行が在城したともいわれている。

 地取りを考えると、安芸(広島)から雲月山を越えて浜田方面に向かう途中の場所でもあり、東には多数の山城があった旧旭町にも繋がることから、戦略的には重要な場所でもあったと思われる。

【写真左】小国城手前の沿道にある「島村抱月の生誕地顕彰の杜」
 ちなみに、この付近もむかしから「たたら」が盛んで、抱月の父も「たたら」業を営んだが、明治5年の浜田地震で被害を受けるなど苦労したという。

 この付近の地名は「下土居」ということから、小国城と関係のある屋敷があったものと思われる。

【写真左】登城口付近
 この写真の右に「最中山神社」神社がある。抱月の父が当社へ絵馬を奉納しているが、その絵は「宇治川先陣争いの図」という。

 当地・小国の武将がおそらく京へ上り、功があったという事だろう。ちなみにその武将は、他の石見武士と同様、源氏方だったと思われる。

【写真左】登城路
 登城路はほとんど直進するコースで、距離は短いものの、傾斜が思った以上にあり、ゆっくりと上がった方がいい。

 道そのものは管理がされていて、ブッシュの個所はまったくない。

【写真左】本丸直下付近
 途中で二手に分かれ、一方は尾根伝い、もう一方は斜面をジグザグに折れながら行く道がある。登りは後者を選んだ。

 写真の明るい場所は二の壇(仮称)の脇になる。

【写真左】二の壇
 現地には特に遺構名を示すものはないため、便宜上、使用している。

 下の方が二の壇で、左斜面の上が本丸になる。

【写真左】本丸その1
 二の壇から本丸までは約4m程度で、右側に登り道がある。

 本丸跡には写真のような小屋(休憩小屋)が建っているが、だいぶ年数が建っていて、内部の椅子も壊れていて座ることができない。

【写真左】本丸その2
 小屋の左側(西)には小規模な土塁が残っている。

【写真左】三角点
 本丸の北西地点に設置されている。なお本丸周辺のうち、西側、北側はかなりの要害をもった急峻な切崖となっている。
【写真左】金木城方面を見る
 本丸から南方向の視界は割といい方だが、北の金木城方面はやや不良。

 春・夏にはおそらく北方向はまったく見えないだろう。
【写真左】本丸から南に伸びる郭壇
 下山はこの尾根伝いに繋がる郭壇を通った。段数は4,5カ所で、下に降りるに従って尾根幅が狭くなり、自然に郭は消滅していく。

 遺構記録にある堀切や、空堀はそれらしきものは見えたが、ほとんど埋まっているような状況で、判然としない。