2022年6月9日木曜日

備中・矢掛茶臼山城(岡山県小田郡矢掛町矢掛・東三城)

 備中・矢掛茶臼山城
              (びっちゅう・やかげちゃうすやまじょう)

●所在地 岡山県小田郡矢掛町矢掛・東三城
●形態 平山城
●高さ H:114m(比高80m)
●築城期 不明(天正年間か)
●築城者 毛利元清
●遺構 石垣、郭、堀、井戸等
●備考 茶臼山文化の丘
●登城日 2017年11月27日

解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 備中・矢掛茶臼山城(以下『茶臼山城』とする。)は、以前取り上げた小田川南岸に築かれた備中・猿掛城(岡山県小田郡矢掛町横谷)から、北西方向3.5キロほど向かった小田川北岸に突き出た茶臼山に築かれた城郭である。
【写真左】茶臼山城遠望
南側を流れる小田川の南岸から遠望したもので、中央の一番高いところが本丸となる。




現地の説明板より

“茶臼山城址
 天正3年(1575)、毛利元清は備中一円を平定して猿掛城へ入ったが、民政充実のため天正12年(1584)標高96メートルの茶臼山へ移城した。そして慶長5年(1600)関ヶ原の戦に西軍が敗れ、毛利氏が萩へ西帰するまで16年間在城した城址である。

 その間には天正15年(1587)の九州征伐に引き続いて征韓の役で三度往復の途次、豊臣秀吉が再三立ち寄った史実があり、また長府藩主毛利秀元との由縁(ゆかり)も深い。

【写真左】茶臼山城略図
 現地に設置されたもので、大雑把な図だが、主だった遺構が描かれている。



 更に築城史的にも中世の山城から近世の平城に移る過渡期の升形をもった平山城の典型的な形式を遺し、周囲に濠を廻らし、本丸、太鼓丸、二の丸、三の丸、小丸、的前(まとさき)と幾段にも曲輪や櫓を設け、鎮守の段、爺(じい)が段、茶屋敷、渇(か)れずの井戸の遺構など、山陽道の要衝を扼した見事な城構えを今に遺す貴重な史跡なので、矢掛町合併30周年を記念し、「茶臼山文化の丘」として整備したものである“
【写真左】駐車場
 南側の三の丸付近に設置されている。この駐車場エリアも当時何らかの遺構があったものと思われるが、整地されたため不明だ。

毛利元清

 茶臼山城を築城した毛利元清については、冒頭の備中・猿掛城でも紹介しているが、これ以外のものとしては佐井田城(岡山県真庭市下中津井)の稿でも触れている。

 元清は毛利元就の四男で、母は側室であった乃美弘平の娘(乃美大方)といわれる。元清の兄達(隆元、元春、隆景)が元就の正室すなわち、吉川国経の娘・妙玖を母としているので、彼らとは異母兄弟である。
【写真左】本丸に向かう道
 道路を少し登って行くと、途中から狭い道が枝道で分岐する。この道を登って行く。




 元清の母の実家は乃美氏で、同氏については賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)でも紹介しているが、乃美氏自体は、元々小早川敬平の弟・是景を祖としている(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1)参照)。

 乃美大方は側室とはなっているが、実際には正室の妙玖が天文14年(1545)11月に47歳で亡くなったあと、後妻として元就に嫁いでいる。大方の父は乃美隆興である(稲村山城(広島県三原市小坂町)参照)
【写真左】本丸・その1
 本丸跡には御覧のようなテレビ中継基地の施設が建っている。






 生まれたのは天文20年(1551)といわれ、永禄9年(1566)元服し、2年後の永禄11年(1568)伊予の河野氏支援要請もあって来島村上水軍(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)の村上通康の娘を娶った。その後、備中・備前での宇喜多直家らの動きが激しくなると、元就の命を受け備中猿掛城奪還に向けて東進した。
【写真左】本丸・その2
 施設を含めた本丸周辺部はあまり整備されていない。
 写真は外周部から切岸となった部分だが分かりにくい。



 この時の動きについては、前述したように備中・猿掛城佐井田城(岡山県真庭市下中津井)の稿でも触れているので詳細は省くが、元清は猿掛城に在城した時期に、一時当地名の穗井田(穗田)を姓名とし、穗井田元清とも名乗っている。

 戦歴を見てみると、かなり若いころから活躍し、特にすぐ上の兄・小早川隆景とは多くの戦場で共に戦っている。
 陶晴賢との厳島合戦後、桜尾城主となった桂元澄のあとを受け、当城の城主となり慶長2年に没した(洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)参照)。
【写真左】太鼓丸
 本丸の東側の段で、この個所は整備されている。








過渡期の平山城

 説明板にもあるように、天正12年(1584)の築城期ということからも近世城郭へと移行する時期に築かれた城郭である。現在は「茶臼山文化の丘」という公園化を図ったものになっているが、南西端の小田川北岸から北東方向に延びる長さおよそ1キロの独立丘陵全体が当時の城域だったと考えられ、高さは100m余りしかないが、面積ではかなりの広さを持つ。
【写真左】井戸
 本丸を見た後、再び南方向へ下がっていき、途中で矢掛神社及び、蛸ノ頭という看板があったので向かってみたが、途中から藪コギとなったので引き返し、駐車場の方へ向かった。その道中に見つけたのがこの井戸である。
 略図を見ると、当城には3か所の井戸があるようだ。この井戸は鎮守丸付近のものだったと記憶している。


 大手を東麓に置き、平場の郭に屋敷を配置し、その南側には小田川や、旧山陽道が東西を走る。このことから、縄張配置そのもので近世城郭へアプローチしようとする姿勢が読み取れる。
 南西端から三の丸を据え、北に向かって二の丸、鎮守丸と続き、本丸は北端部の最高所(114m)に太鼓丸を付随させている。また、本丸北側には東西に堀切を設けている。
【写真左】神社
「最上位 経王大菩薩」と書かれた神社。おそらく岡山市にある最上稲荷から勧請されたものだろう。

 上述した井戸と同じ鎮守丸に囲まれた一角に建立されている。周辺部はかなり広い削平地だったので、この付近にも屋敷など建物があったと推測される。
【写真左】二の丸へ向かう。
【写真左】二の丸
先端部の南側から振り返ったもので、きれいに整備されている。
【写真左】二の丸の下の段
 帯郭状の郭が下の方に付随している。このあと、三の丸方面に向かう。
【写真左】三の丸・その1
【写真左】三の丸・その2
中央に井戸が見える(下の写真参照)。
【写真左】井戸
 径は小さいがしっかりと残っている。
【写真左】縄文・弥生時代の説明板
 散策している途中にあった説明板で、この辺りの古代の様子が以下のように書かれている。



”原始時代(無土器・縄文・弥生時代 数十万年前~紀元300年ごろ)

 数万年前に瀬戸内海に人類が住み着いたと考えられているが、無数の石やじりや、弥生式土器などが発見されていることから、この地方には石器時代に人類が住み着いたと考えられる。
 中、白江遺跡の生活跡に見られるように、弥生式時代には人口もかなり密な集村的集落に発達し、この地方でも水稲栽培がこのころ始められたものと考えられている。”
【写真左】三の丸の東の段から二の丸方面を見る。
【写真左】伽藍山城遠望
 茶臼山城の西には伽藍山城が見える。当城については次稿で紹介したい。

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