2017年8月19日土曜日

片島城(岡山県倉敷市片島町)

片島城(かたしまじょう)

●所在地 岡山県倉敷市片島町
●形態 平城(海城)
●高さ H:26m
●築城期 室町時代
●築城者 二階堂政行
●城主 細川下野守等
●遺構 郭等
●備考 片島神社・妙任寺等
●登城日 2015年9月11日

◆解説
 片島城は現在の倉敷市片島町に所在していた平城(平山城又は海城)で、往古この付近は海域であったが、当時から片島山という小丘陵を持つ島であった。その後、高梁川から流れてくる土砂が堆積し、干潮時には干潟が広がるようになったという。
【写真左】妙見宮及び番神宮の鳥居
 片島の最高所で当時この場所が主郭であったと考えられる。






 片島城が築かれたのは南北朝期といわれ、地元の豪族二階堂氏の手によるもという。その後室町期に至ると、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)の城主細川下野守の居城となったと伝えられている。
【写真左】法厳寺
 片島城跡には城跡としての遺構はほとんど残っておらず、従って城跡を示す標柱などは全くない。

 現在は、左の写真にある法厳寺が南麓に建立されているが、当院は江戸時代初期、真如大徳上人(~1660)の創建とされており、おそらくこの辺りが船着場であったと考えられる。

 そして、そこから階段を上がって北に進むと、片島神社があり、さらにそこから上に向かうとまとまった墓地が東半分を占め、その南側の最高所に冒頭で紹介した妙見宮が祀られている。

 また、この墓地は西側に妙任寺という寺があるので、当院の檀家寺と思われる。
 

細川下野守

 鴨山城の稿でも述べているが、片島城主として名の残る細川下野守とはおそらく、細川道董(みちただ)と思われる。もともと道董は四国伊予の川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)にあったが、叔父通政の名跡を継承、旧領の備中に移っている。道董が伊予から備中に移るきっかけとなったのが、毛利氏と盟約を結んだことからである。その後、次のような経緯を経て鴨山城に入城した。
  1. 永禄2年(1559)~同9年(1566) = 笠岡大島青佐山(H:249.4m)(笠岡と浅口両市の市境で南に水島灘を望む)に最初に入る。
  2. 永禄9年(1566)~天正3年(1575) = 鴨方六条院竜王山(H:289m)
  3. 天正3年(1575) = 鴨山城入城  
片島城は冒頭でも述べたように、現在では倉敷市の中に入っているが、当時の状況を考えると、最初に入った笠岡青佐山在城時代に、水島灘の海域が片島城周囲まで広がり、高梁川河口は片島城から北へ凡そ4キロほど上った船穂町水江(倉敷市)当たりではなかったかと推察される。

 こうしたことから、細川道董は伊予の川之江城時代から培ってきた水軍領主としての顔を持っており、毛利氏も水島灘(瀬戸内)の押さえとしての役割を期待していた可能性が高い。
【写真左】片島神社の参道を登る。
 法厳寺の境内の東側に階段があり、この階段を登っていくと、片島神社に繋がる。
【写真左】片島神社境内
 左側が片島神社本殿で、その奥には急傾斜にともなう法枠工の斜面が見える。

 想像だが、片島神社境内が中段部の腰郭の一つで、その上が主郭(本丸)だったように思われる。
【写真左】さらに上の傾斜地
 片島神社の脇を一旦左にまわり、坂道を登っていくと、もう一段上にも土木工事された傾斜面が見える。

 なお、途中には天満宮、祇園宮、先霊宮などと刻銘された石碑や祠が祀られている。
【写真左】途中に見えた墓地
 墓石そのものは新しいが、この場所も元は小規模な郭があったのではないかと思われる箇所。
【写真左】墓地から上を見上げる。
 この箇所も急傾斜地である。
【写真左】頂上部にある墓地
 登りきると、東端部側にある墓地に出た。

 墓地は東半分の殆どを占め、左奥には妙見宮などの本殿が祀られ、墓の間から妙任寺本堂の屋根が見える。
【写真左】番神宮・妙見宮の鳥居
 
【写真左】五輪塔
 妙見宮本殿の脇に建立されているもので、その脇には「當山歴代寺族之墓」と刻まれた墓石などが建立されている。
【写真左】妙任寺
 妙見宮などのある最高所より少し下がった北西端に建立されている寺院で、この辺りは当時北側を監視する郭などがあったのかもしれない。

【写真左】墓地側から南を俯瞰する。
 手前の屋根は片島神社の拝殿や本殿が見え、奥には片島城と同じく、中世には島嶼の姿をしていた大平山を中心とする丘陵地が遠望できる。 
【写真左】片島城から高梁川を見る。
 片島城のすぐ西隣りには高梁川の築堤が南北に走り、高梁川が流れている。

 奥に見える橋は国道2号線の玉島バイパス。

2017年8月13日日曜日

備後・泉山城(広島県神石郡神石高原町福永)

備後・泉山城(びんご・いずみやまじょう)

●所在地 広島県神石郡神石高原町福永
●高さ 547m(比高70m)
●築城期 享禄元年(1528)
●築城者 岡伯耆守信平入道真禅(尼子氏家臣)
●城主 岡氏
●形態 連郭式山城
●遺構 郭等
●登城日 2015年9月7日

◆解説
 備後・泉山城(以下「泉山城」とする)は、広島県神石高原町に所在し、以前取り上げた八尾城(広島県神石高原町福永)の南西500mの位置にある。
【写真左】泉山城遠望
 南麓には禅宗系の寺院・恩定寺があり、その境内奥に進と坂道があり、そこから向かうようになっている。




現地の説明板より

“泉山城址(いずみやま じょうし)

 戦国時代、当地方は対立する出雲の尼子と吉田の毛利との接触地となり、城郭の必要を生じ各地に山城が構築された。

 泉山城は、尼子の家来岡伯耆守信平入道真禅(おかほうきのかみのぶひら にゅうどうしんぜん)が、享禄元年(1528)に築城したといわれている。
 続いて岡伯耆守景信・同孫三郎・同泉守・同左衛門尉景経が城主となる。

 天文21年(1552)と、天文23年(1554)に尼子・毛利の激戦がこの地で繰り広げられた。
 弘治3年(1557)には、この城をはじめ神石町内の各城は、毛利元就に従属するようになった。
 元就の三男小早川隆景が、この城を巡視して「難攻不落の名城である。」と賞賛したということである。

 この城には、軍資金の財宝を埋めかくし、その目印に白南天を植えたとか、天狗が高い松に登って敵情を偵察したという天狗松の口伝が残っている。

    神石町教育委員会
    神石町文化財保護委員会”
【写真左】恩定寺
 当院の縁起等は不明だが、この近くに城主岡氏らの屋敷があったものと思われる。








岡氏

 上掲した説明板では、泉山城の築城者は、尼子の家臣・岡信平とされている。管理人の手元には同氏に関する資料がないため詳細は不明だが、唯一尼子分限帳の中で、惣侍衆として因幡に岡左兵衛なる人物が記録として残っている。もちろん、左兵衛と泉山城主の岡氏との繋がりがあるのか不明である。ただ、元々この地は室町時代から続く宮氏が治めていた場所で、岡氏の泉山城入城に当たっては、おそらく宮氏が尼子氏に属した背景もあったものと思われる。
 
 さて、泉山城の築城期は享禄元年(1528)とされているので、丁度同国(備後国)の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を尼子経久が攻略した年に当たる。

 経久が備後国に侵攻し始めるきっかけとなったのは、山口の大内義興が石見守護国守護職に任じられた永正14年(1517)ごろからである。具体的な動きが始まるのは、義興が京から本国山口に帰国した翌年(永正15年)からであるが、経久もこのころは細川高国などに京極高清の援護を求められたりするなど、直接大内氏と戦火を交えていない。しかし、大永4年(1524)の7月から8月にかけて、当時大内方であった安芸の銀山城(広島市安佐南区祇園町)を尼子経久が、毛利元就と連合して攻撃し出したころから大きく動いた。

 このころ、大内方の主力として奮闘していたのは、陶興房(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)であったが、それまで尼子氏に協力していた毛利元就は、興房の巧みな勧誘もあって、尼子氏を離れ大内氏につくようになった。

 この間の詳細については省くが、泉山城を含めた備後国に限定した記録を辿ると、大永7年(1527)8月、経久は陶興房と細沢山に戦い(蔀山城(広島県庄原市高野町新市)・その1参照)、同年11月27日、両者は再び三吉で戦った。そして、冒頭でものべたように、泉山城の築城期となる翌享禄元年(1528)、経久は蔀山城を攻略した。ちなみに、この年の暮(12月20日)、大内義興は没し、嫡男義隆が家督を継いでいる。
【写真左】説明板
 登城口付近に設置されている説明板。大分色あせているが、文字はしっかりと読める。








天文20年以後

 説明板にもあるように、天文21年及び同23年、泉山城地域で尼子と毛利の激戦が繰り広げられた。その前年となる天文20年(1551)9月、大内義隆は重臣陶晴賢の謀反によって、長門国大寧寺で自害、翌21年3月、晴賢は豊前の大友宗麟の弟晴英を大内氏の後継者とした。

 その1ヶ月後の4月2日、尼子晴久は将軍足利義輝より、本国出雲をはじめ、隠岐・因幡・伯耆・備前・備中・備後・美作の8か国の守護職に補任され、事実上大内氏に代わる中国地方の雄としてその名を誇示することになる。
【写真左】登城道
 登り始めてしばらくは簡易舗装となっていたが、途中から無くなり、歩きにくくなる。

 写真右側は墓地で、泉山城へは左側の道を進む。



 しかし、この年の尼子晴久の8か国守護職補任や、朝廷から授かった従五位下修理大夫といった官位は、敵対し出した毛利元就にとっては脅威となるものでもなく、翌天文22年(1553)元就は尼子方であった江田隆通を攻めた(備後・旗返山城(広島県三次市三若町)参照)のはじめ、次第に備後国の進出を企てていった。
 
 そして、説明板にもあるように、「弘治3年(1557)には、この城をはじめ神石町内の各城は、毛利元就に従属するようになった。」と記されている。勿論この理由は元就が次第に尼子氏を圧迫していった結果でもあるが、これとは別にこの年(弘治3年)の4月、曲がりなりにも長門国を治めていた大内義長を同国・勝山城を攻略し、義長を自害に追い込んだことも大きな要素ともいえる。
【写真左】八尾城
 北側は神石小学校のグランドなどがあり、その南側が八尾城址となっているが、当時は小学校も含めたエリアが城域だったと思われる。



 そして、以前紹介した泉山城に隣接している八尾城(広島県神石高原町福永)の稿でも示されているように、天文21年から翌年にかけて尼子氏と毛利氏の激戦が繰り広げられ、毛利氏が尼子氏を撃退したとある。

 従って、泉山城をはじめ、八尾城及び、泉山城の北西1.5キロの位置にある宮氏の協力者高尾氏居城の宮尾城(城主高尾氏)もこの段階で毛利氏に属したものと思われる。
【写真左】途中の斜面
 簡易舗装が無くなったころから途端に道が歩きにくくなる。
【写真左】藪化した道
 次第に草丈は高くなり、おまけに雨が降り出してしまった。

 9月初旬の気候である。蒸し暑くなり、おまけにやたらと蚊に食われる。本丸まで遠くない距離とは思うが、今回は無理と判断し断念。

2017年8月6日日曜日

花見山城(愛媛県松山市堀江町)

花見山城(はなみやまじょう)

●所在地 愛媛県松山市堀江町
●形態 平山城
●高さ 23.9m(比高15m)
●築城期 正平23・応安元年(1368)
●築城者 河野通堯(村上大蔵大夫)
●城主 久枝四郎左衛門与利、河野通直、河野通孝(西氏か)、西氏
●遺構 郭その他
●登城日 2015年6月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第16巻』等)
 花見山城は松山市の北方堀江町に築かれた平山城である。現在は内陸部に所在する位置となっているが、後段の図でも紹介するように、築城期とされる南北朝期には北方の燧灘が南側まで来ていたと思われ、見方によっては海城であった可能性も高い。
【写真左】花見山城遠望
 西側から見たもので、小丘陵を利用して築城された小規模な城址である。
 手前は、後段でも紹介するように、江戸後期に築堤工事された新池。



現地説明板より

“花見山城と城主の墓

 1368年(室町時代前期)、河野通堯(みちたか)は、葛籠屑(つづらくず)城主・村上大蔵大夫に命じて、花見山に出城を築かせた。当時、守護や寺侍の勢力争いが絶えず、領地を守るために出城を造り敵に備えていた。築城後、通堯は、この地方から他郷の細川勢や仁木勢を退け、政治を安定させた。
【写真左】花見山城想像図
 この図は、管理人が築城当時の南北朝期、周辺部の様子を想像して描いたもの。

 北側を流れる権現川は濠の役目でもあり、さらには海城としての船溜まりを兼ねたものであったかもしれない。
 特に現在の権現川は燧灘河口まで凡そ1キロ弱あるが、当時はそこまで陸地は伸びておらず、花見山城の直近まで灘が迫っていた可能性が高く、以前紹介した西条市の鷺ノ森城とよく似た環境であったと考えられる。
 従って、形態としては海城であり、各郭には館などが建っていたと推測される。


 1379年、通堯は、将軍・足利義満に味方し伊予国の守護に任ぜられた。その後、城代・西通孝から引き継いだ西山氏(西の改姓)が代々城主となる。城主・西山氏の墓は、この花見山の麓にある。

 第4代城主・西山肥後守通倫(みちとも)、第6代城主・西山五右衛門通周(みちちか)は、この地方の開発や村人の救済に尽くした功績で、正八幡神社本殿左側の周敷(しゅうしき)神社に祀られている。
    松山市堀江公民館”
【写真左】城主・西山氏の墓
 道路脇の麓には西山氏の墓が祀られている。
 文字から見て、4代城主・西山肥後守通倫のもののようだ。
 裏には昭和43年建立と刻まれている。



河野通堯(こうのみちたか)

 「日本城郭体系第16巻」には、当城の築城年代や築城者が誰であったかは明らかでないとしているが、現地の説明板では築城期を1368年、すなわち南朝方の元号では正平23年、北朝方(室町幕府)では応安元年としている。因みにこの年の後半(11月~12月)、室町幕府は足利義詮が政務を嫡男義満に譲り、12月30日に義満が征夷大将軍となっている。
【写真左】登城口付近
 西側を南北に走る道路と並行して緩やかな坂道の登城口がある。
 登城したのが大分暑くなった6月の後半だったため、連合いは日笠をさして登る。



 花見山城築城を命じた河野通堯については、以前取り上げた土居構(愛媛県西条市中野日明)や、鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)でも紹介しているが、築城期頃(正平23年)の段階では通堯は南朝方に属し、北朝方の四国管領であった細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)の伊予侵攻に抵抗している。

 正平20年(1365)4月、河野氏の本拠の一つであった高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)を頼之が包囲したとき、通堯は一旦伊予から逃れ、能美島を経由して南朝方の得能氏(由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘)参照)の斡旋で、九州大宰府の征西大将軍懐良親王(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)の下に赴き、拝謁している。そしてその後南朝方の後村上天皇から本領・惣領職を安堵され、名を通堯から「通直」と改名している。
【写真左】三の丸付近・その1
 登城道を登っていくと、最初に現われるのが三の丸跡で、一部は藪化し、残りは果樹園や畑地となっていた。
【写真左】三の丸付近・その2
 三の丸が一番低い郭段で、上掲した想像図ではあまり大きなものでないように描いているが、当時はこの付近も含めさらに南側の低くなった箇所にも中小の郭段があり、船着き場としての施設などがあったのかもしれない。
【写真左】二の丸に向かう。
 手前の畑が三の丸で、奥に2m程高くなった段が二ノ丸に当たる。
 適当にクサムラをかき分けて登る。
【写真左】二の丸から本丸へ
 上掲した想像図では二の丸と本丸に若干の段差を設け区画したように描いているが、現地は時節柄かなり伸びた雑草のためその境ははっきりしない。ただ、手前(二の丸)より少し昇り傾斜となって本丸に繋がっている。
【写真左】本丸跡に建つ祇園神社
 本丸跡の一画には祇園神社が祀られている。
 この日、壁には「例大祭は7月4日(土)午後4時斎行いたします。皆さん、参拝下さい。」と書かれた張り紙があった。
【写真左】三角点
 本丸の西方の少し高いところには「三角点」が設置してあった。海抜24m程度の小丘陵に三角点が設置してあるのもめずらしい。

 このあと一旦降りて外周部に廻る。
【写真左】本丸北側の切崖
 右側が本丸にあたるが、その北側には犬走りのような小さな道がついている。
【写真左】西側から見る。
 雑草などが繁茂していていま一つ明瞭でないが、この辺りの切崖も傾斜がありそうだ。
【写真左】堀江新池
 花見山城の西側には道路を隔てた溜池がある。全国ため池百選の一つで、平成22年3月に農林水産省の選定になっている。



現地説明板より

“新池
 昔、堀江村の田畑へは郷谷川、権現川、大川などの水を引いていたが、その水だけではいつも不足がちで、そのうえ数年に一度は干害にあっていた。これを解決するために庄屋・門屋一郎次が大規模な「溜め池」の築造を考え、村人や松山藩にはたらきかけた。松山藩は、工事費の補助と人夫が食べる米をあたえた。
 村人は一丸となって作業に励み、3年の歳月をかけて1835年(江戸時代後期)、ついに藩内最大の溜め池が完成した。
 めずらしい光景となっている池の中ほどの土手(中土手)は、池があまり大きいため、大風の時にできる波立ちによって堤防が壊されるのを防ぐためのもので、先人のすばらしい知恵をみることができる。
    松山市堀江公民館”
【写真左】権現川と新池
 西側からみたもので、右の小丘が花見山城


2017年7月26日水曜日

丹波・金山城(兵庫県篠山市追入字大乗寺)

丹波・金山城(たんば・きんざんじょう)

●所在地 兵庫県篠山市追入字大乗寺
●高さ 540m(比高290m)
●指定 篠山市指定史跡
●築城期 天正6年(1578)
●築城者 明智光秀
●遺構 郭・石垣・土塁、馬場等
●登城日 2015年6月8日

◆解説
 金山城については、以前取り上げた黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の稿でも少し触れているが、黒井城の南方7キロ余りの、丹波市と篠山市の境に聳える標高500m余の金山に築かれている。
【写真左】鬼の架橋
 主郭から西に向かったところにある岩で、地震でもあったら落ちそうな不安定な感じだが、意外としっかりしている。




現地説明板・その1

“市指定文化財 史跡
 金山城址

 金山城は標高537mの頂上に築かれた山城で、本丸を中心に、二の丸、矢島丸、朽木丸、加々丸、コキリ丸などと伝えられる構えをもつ、本丸には一部石垣が遺存しており、町内でも有数の規模を持つ。
 織田信長の命を受け、丹波制圧にのりだした明智光秀が、現在の金山城を天正6年(1578)9月より7年10月にかけて築城した。
【写真左】金山城遠望
 東麓側追入付近から見たもので、麓には追入神社が建立され、国道176号線が南北に走る。なお、この写真の裏側は丹波市になる。




 この金山一帯には、数々の文化財が存在している。登山口には赤坂の観音堂があり、風呂の谷奥には「役の行者」が祭られ、その二枚石の間には文政の年号を刻んだ不動明王の石仏が安置されている。
 そのほか民話として有名な「鬼の架け橋」「天石」等の景勝地があり、ハイキングコースとして訪れる人も多い。

  指定年月日 昭和57年2月24日 篠山市教育委員会
                      平成2年3月31日建植  ”
【写真左】金山周辺マップ

 南麓側に設置されていたもので、色が大分薄くなっていたため、管理人によって少し加筆修正したもの。

 金山城は右上の黄色い線で囲んだ箇所に図示されている。

なお、登城道は追入神社から少し南に向かったところにあり(赤線)、駐車場は、追入神社側にスペースがあるので、そこに停める。


現地説明板・その2

“金山城物語

 天正6年(1578)2月、三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀叛を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光秀に征討を命じ、同年3月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。

 秀治はその居城八上城にあって、氷上郡にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には、天正3年(1575)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げかえった苦い思い出があったからです。
【写真左】登城口
 両側に灯篭のようなものがあり、ここから向かう。なお、この写真の右に追入神社があり、左側の奥には当時金山城の近くにあった圓林寺が麓に移設されている。


 光秀は、秀治を赤井氏との連携を分断するために、その後、ここに金山城を築きます。すなわち、多紀郡(現篠山市)と氷上郡の郡境にあって、両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正7年(1579)6月、ついに落城し、戦国時代に勇名をはせた波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになります。
   2000年11月吉日
      金山周辺開発推進会議
      篠山教育委員会”
【写真左】観音堂
 登城してから最初に見えてきたのが、観音堂の建物である。縁起等は分からないが、圓林寺や追入神社などと関わるものかもしれない。また、これとは別に稲荷神社の祠らしきものが見えた。


波多野氏と赤井氏

 説明板にもある通り、金山城が築かれたのは、織田方に反旗を翻した黒井城の赤井氏と、多紀郡(篠山市)の八上城主波多野氏の連携を分断するため、明智光秀が築いたものである。因みに、金山城から八上山城までは南東へ直線距離で凡そ14キロ余りで、北方にある黒井城までは7キロほどなので、八上城までの約半分の距離となる。

 明智光秀が金山城を築く直前まで拠点としていたのが、丹波・亀山城(京都府亀岡市荒塚町)である。ただ、同稿でも記しているように、このころは拠点としていた亀山城もまだ完成しておらず、このことから、金山城とほぼ同時並行して普請作業が行われていたと考えられる。

 さて、波多野氏については、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)でも述べたように、初代清秀(秀長とも)が応仁の乱の戦功によって、時の室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ、のち八上に移ったことから始まる。清秀のあと、稙通・晴通・秀治と続いた。

 黒井城の赤井氏については、黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の稿で既に述べているので、そちらをご覧いただきたい。
【写真左】この柵を開けて向かう。
 観音堂から暫く登っていくと、ご覧の柵が設置してある。鳥獣被害の保護のためだろう、かなりしっかりしたもので、入った直後きちっと施錠して向かう。
 なお、ここから金山城までは凡そ1キロとなっている。
【写真左】登城道
 傾斜はあるものの踏み跡も多く、歩きやすい。
なお、途中で「圓林寺道」と刻銘された石碑が横たわっていたので、明智光秀が金山城を築く前まで同寺の参道として利用されていたものと思われる。
【写真左】分岐点
 上掲した金山周辺マップにも図示されているが、尾根ピークで分岐点が出てくる。
 左に行くと、大乗寺へ、右に行くと金山城に繋がる。
【写真左】八上城を遠望する。
 先ほどの分岐点を右に進むと、「鬼のかけ橋」などと書かれた矢印などがあり、その一角にはNHK共同受信組合のテレビ用の電波塔などが設置されている。
 そこからさらに進むと、展望が開けた箇所に出てくる。そこには「大山荘園を望む」という看板が設置され、南東方向の篠山市街地が見えてくる。
 少し靄がかかっていたが、ここから丹波・八上城が見える。

 なお、金山城の南麓部大山地区は、承和12年(845)9月、京都東寺の荘園「大山荘(おおやまのしょう)」となっていたことが知られ(「東寺百合文書」)、推測だが前述した圓林寺(跡)も、元はこの真言宗総本山・東寺の末寺(修験道場)ではなかったと考えられる。
【写真左】圓林寺跡・その1
 上記の箇所からさらに上を目指すと、圓林寺跡が出てくる。

 写真は境内跡と思われる平坦地で、左側に石垣があり、その上にも段が残る。

 明智光秀が築城した際、おそらく当院の境内は駐屯地としても利用されたのだろう。
【写真左】圓林寺跡・その2
 上の段に向かう階段付近で、南無妙法蓮華経と筆耕された石碑が残る。
 このことから東寺の荘園時代真言宗であったものが、鎌倉期に至って法華経(日蓮)に改宗された可能性もある。また、この近くには行者岩(役の行者)という場所があるが、荘園時代修験道場の場所としても栄えたものだろう。

 なお、上の段にはかなり多くの瓦片が散在している。
【写真左】馬場跡・その1
 圓林寺跡を過ぎて尾根筋を直登すると、馬場跡が出てくる。
 幅は5~10m前後で、長さは200m近くもある。
【写真左】馬場跡・その2 石碑か
 丁寧に仕上げられた馬場を進んで行くと、途中でご覧の様な倒木の下敷きになった石積がある。石碑跡にも見える。
【写真左】分岐点
 馬場跡を過ぎると再び分岐点に差し掛かる。
右に行くと、瓶割峠、真っ直ぐ行くと金山城へ、また左に行くと、直接「鬼の架橋」へ繋がる。
 先ずは金山城をめざし直登する。
 なお、この位置から金山城までは150mとなっている。
【写真左】視界が広がってきた。
 少し傾斜のある道を登っていくと、前方が開けていた。金山城の尾根ピークが見える。
【写真左】主郭
 尾根状に不定型な郭群をなした中心部に「金山城本丸」の標柱が立っている。
【写真左】主郭から西に伸びる郭
 主郭側から西にむかって郭が伸びている。少し高くなった郭である。
 なお、この主郭群とは別に、東側にも鞍部をかいして郭群があり、石積などが残っているようだったが、この日は向かっていない。
【写真左】東側から主郭方面を見る
 この位置に来ると、奥行がかなりあることが分かる。
【写真左】黒井城を遠望する。
 北方を望むと黒井城がかすかに見える。周辺部が高い山に囲まれているため、分かりずらい。
【写真左】石垣
 周囲の側面にはこうした石垣が残る。
 このあと、「鬼の架橋」に向かう。
【写真左】鬼の架橋・その1
【写真左】鬼の架橋・その2
  岩の間から見えるのは、丹波市側の国道176号線で、篠山市側から新鐘ヶ坂トンネルを越えて出てきた柏原町上小倉にある「鬼の架橋展望所」が見える(下段参照)。
【写真左】鬼の架橋展望所から遠望する。
 下山した後丹波市側に入り、柏原町上小倉からみたもの。
【写真左】大乗寺の山門
 冒頭の金山マップにも描かれているが、金山城の登城コースの一つで、西側から向かうとこの寺院を経由している。当日は手前の山門しか訪れていないが、中世大山荘の熊野信仰の中心になったという。寺伝によれば、白鳳時代に法道仙人によって開基されたといわれるので、大山荘が東寺の荘園になる前となる。

 戦国時代、地元国人領主中沢氏が庇護し、天正年間の明智光秀による丹波攻めの際、僧兵と共に中沢氏も応戦したという。従って、彼らもまた波多野氏や赤井氏らと連合していたことになる。なお、地元の古文書『荒田文書』にはこの時の様子が詳しく書かれているという。