2015年8月14日金曜日

別所長治首塚(兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺)

別所長治首塚(べっしょながはる くびづか)

●所在地 兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺
●参拝日 2014年11月22日

◆解説
 以前紹介した三木城(兵庫県三木市上の丸)の南側にある雲龍寺には、三木合戦で自刃した別所長治の墓が祀られている。
【写真左】別所長治首塚
 現在は五輪塔が建立されている。











現地の説明板より

“由緒の記

 羽柴秀吉の軍勢を迎えうつこと1年10ヶ月、天正8年正月17日申の刻、三木城主別所長治公は将兵、領民の身がわりとなり、一族とともに自刃、その壮烈なる最期は武士の鑑みとして永く語り継がれ、その遺徳は正に永遠にして不滅であります。
【写真左】長治の首塚が祀られている雲龍寺と三木城の配置図
 雲龍寺は二ノ丸の南側にあって、東には「鷹の尾」という物見櫓が配されている。
 下段にも紹介しているように、三木城が築城される以前に既に当院が創建されていた。









 昭和17年、帝国在郷軍人会三木分会によって当首塚の補修が為され、さらに昭和48年3月、別所公奉賛会はさきに三木城再建の構想趣意に賛同され寄進された浄財と首塚修復に当たり寄せられた市民有志の浄財を以て茲に玉垣を建立、併せて照子夫人の霊を合祀いたしました。

 これは実に公の遺徳を偲ぶ三木市民の強い心のあらわれでありまして茲にその由緒を刻み、永くこれを顕彰するものであります。

 昭和48年3月25日
     別所公 奉賛会”
【写真左】雲龍寺山門
 入口の左右にはそれぞれ、
「三木釜山城主 別所則治公中興開基 雲龍寺」
と刻まれた石碑と、
「村上天皇勅願所 後醍醐天皇御下賜 高源山」
の石碑がそれぞれ建立されている。



別所長治

 別所氏は守護大名・赤松氏の庶流といわれているが詳細ははっきりしない。しかし、赤松円心(則村)の孫、すなわち円心の子・則祐の三男・持則の代になって、別所氏の名跡を継いだとされている。

 その後、嘉吉の乱によって赤松氏が衰退すると、別所氏も同じ運命を辿ることになる。応仁の乱が勃発すると、赤松氏も勢力を回復、これに合わせるように別所氏も再び歴史の表舞台に登場することになる(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1参照)。
【写真左】雲龍寺境内
 左側が本堂で、長治公首塚は右側にある。










 このとき別所氏は則治の代となり、三木城を築城したとされる。このころ、別所氏は三木城を本城とし、支城の一つとして築いたのが、以前紹介した端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺)などである。

 さて、三木城を本拠とした別所氏はその後次のような代を重ねた。
  1. 則治               ?~    1513年
  2. 就治(則治の孫とも)      1502~1563年
  3. 安治               1532~1570年
  4. 長治              1558~1580年
 長治の父は元亀元年(1570)に死去するが、長治が父から家督を継いだとき、若年だった長治の後見人として、安治の二人の弟(吉親(賀相)・重宗(棟))が務めた。

 信長・秀吉による西国征途の際、長治は早い段階で信長に恭順を示していたが、後見人である二人の叔父のうち、吉親は秀吉と衝突、これに対し、重宗は一貫して信長に与すべきとして別所一族内で対立。
 このため、重宗は自ら三木城を退城し、浪人となった。その後天正13年(1585)秀吉の傘下に入り、但馬国に1万5千石を与えられ、八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)の城主となっている。
【写真左】雲龍寺周辺図
 別所長治夫婦墓・首塚の右奥は、もとの濠があったところで、当院も三木合戦の際、郭・陣地として使用されたものだろう。








 ところで、長治がなぜ途中から反信長・秀吉へと変わったのだろうか。

 様々な説がいわれているが、その理由として挙げられるのが、秀吉による上月城攻めがあまりにも常軌を逸した残虐な行為であったこと、また、前述したように、別所氏も元は西播磨の領主であった上月城主と同じく赤松氏庶流であったこと、さらには長治の妻が波多野秀治(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)の女であり、秀治が天正3年(1576)1月の段階で反旗を翻していたことなどが挙げられる。

雲龍寺

 三木城内には雲龍寺という寺院があり、この一角に本稿で紹介した別所長治の首塚が祀られている。
【写真左】「別所長治公・照子夫人 首塚」とかかれた看板

【写真左】長治公・照子夫人の墓
 五輪塔形式の墓石で、昭和17年に補修されたもの。










現地の説明板より

“長治公と雲龍寺

〇雲龍寺(曹洞宗)
 天徳2年(958)に慈恵僧正の創建と伝えられているが、羽柴秀吉との三木合戦時には、三木城内にあったため、殿堂及び伽藍は焼失しました。

 天正8年(1580)1月17日、一族の最後を弔うために、雲龍寺7世の住職春泰禅師が、当時の三木城主別所長治公の自害の席に招かれたときに、長治公は後事を禅師に託し、日頃から愛用していた「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見として贈りました。
【写真左】外堀に使われていた石垣
 附近には、三木城の外堀に使用されていたという石垣が積んである。






 三木城開城後、領主杉原伯耆守は秀吉に上訴して寺院を再建しました。
 天正13年(1585)秀吉から境内山林竹木並びに30石の寄進状及び制札を賜り、以後代々の徳川将軍家より御朱印状を承りました。

 秀吉の兵糧攻めにあい、城内の藁まで食べたとの言い伝えにより、当寺では毎年1月17日に藁に見立てた〝うどん″を食べて当時を偲ぶ会が催されています。
【写真左】山門の外側
 この写真の先を進むと、本丸に向かうが、その手前で、右に二ノ丸、左に西の丸が控える。

 もっとも、大半は宅地などになっており、当時の面影は余り残っていない。


 この寺は古い歴史のある寺院で、明治維新までは公寺に属しており、特別な上位の寺でありました。

 その創建は村上天皇の勅命によるもので、天皇の勅願所でありましたが、廃絶すること久しく、その後、播磨、備前、美作の守護職であった時の豪族赤松円心入道則将が、古い寺伝を知り、深くこれを惜しんで朝廷に再建を奏請して、そのご聖慮に沿い、天皇より高源山の山号を賜りました。

 時は後醍醐天皇の元亨2年’(1322)で、天皇の祈願所となりました。のち、文明年間になって、時の城主別所加賀守就治が異忠禅師を招いて再建し、そのとき規模を一新して禅寺として開山した寺院であると伝えています。”

◎関連投稿
 瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)

2015年8月9日日曜日

竹中半兵衛の墓(兵庫県三木市平井)

竹中半兵衛の墓(たけなかはんべいのはか)

●所在地 兵庫県三木市平井
●探訪日 2014年11月21日


◆解説
 前稿秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡でとりあげた平井山の西麓には、黒田官兵衛と同じく秀吉に仕えた名軍師竹中半兵衛の墓が祀られている。
【写真左】竹中半兵衛の墓・その1
 宝篋印塔又は五輪塔型式の墓石ではないことから、後年建立されたものだろう。






現地の説明板より

“竹中半兵衛の墓

 一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斉藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し、殊勲を立てました。

 しかし、三木城攻防戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配しこの地に帰ってきました。
 けれども、病魔には勝てず天正7年6月13日、36歳の若さをもって永歿しました。臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。
 秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれます。”
【写真左】墓所の前付近
 半兵衛の墓は、秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡の西側に祀られている。






竹中重治

 昨年放送された大河ドラマ「軍師 官兵衛」で登場した竹中半兵衛。華奢で繊細、まるで女性のような姿であったといわれている。
 大河ドラマでは、半兵衛を演じたのは谷原章介氏だったが、知的な面を併せ持ち、よくハマっていた。章介氏は以前から思っていたが、その容姿、立ち振る舞いなどからしてこうした役や、平安期の公家・公卿などがよく似合う俳優さんだ。
【写真左】竹中半兵衛の墓・その2
 地元の方々によって墓守りをされているようで、この日もきれいな花が飾ってあった。





 さて、竹中半兵衛は本名竹中重治といい、美濃国、現在の岐阜県大野町にある大御堂城という平城で天文13年(1544)9月11日に生まれている。のちに出会う黒田官兵衛が、天文15年(1546)に生まれているので、官兵衛より2歳年上となる。

 半兵衛の才能を最初に見出したのは信長といわれている。当時仕えていた暗愚の主君・斉藤龍興の居城・稲葉山城(岐阜城(岐阜県岐阜市金華山)参照)を奪取した半兵衛は、その後、信長がこの城を譲るように要求したものの、頑なに拒絶、その後再び龍興に返還している。

 その後、半兵衛は自らの意志で栗原山(城)に蟄居している。資料によっては、この頃既に信長から誘いを受けていたというのもあるが、実際に仕え始めたのは、主君であった斉藤氏が滅亡した永禄10年(1567)後といわれている。そして、半兵衛は信長直参の家臣ではなく、秀吉に仕えることを自ら申出ている。
【写真左】竹中半兵衛の墓・その3












 秀吉の家臣となって全幅の信頼を受けたことを最も示す記録は、姉川の戦い(姉川古戦場跡(滋賀県長浜市三田町・野村町)参照)のときである。この戦いで秀吉が本陣しとしていたのが、近江・横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町)であるが、秀吉は当城を留守にすることが多く、殆ど半兵衛に任せていた。

 横山城は当時浅井氏の持城であったが、織田方(秀吉)に奪われ、そのあとに当時木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が城番を務めることになった。半兵衛は当城において常に戦況を見定めながら、適格な作戦を立てていたものと思われる。
【写真左】竹中半兵衛重治公墓詩
 墓所には江戸時代後期(天保年間)、当地を訪れた儒者・山田翠雨(やまだすいう)が、半兵衛の遺徳を偲びここに詩を残した。



両兵衛

 さて、半兵衛の軍師としての評価はこれまで多く語られてきたので、ここでは割愛するが、前記したように、のちに黒田官兵衛が半兵衛と出合い、半兵衛がいわば師匠となって官兵衛の資質を更に伸ばすことになる。そして、二人はその名前から「両兵衛」とも呼ばれ、秀吉の懐刀となった。

 二人はその後強い絆で信頼を深めていくが、特にそれを証明したのが天正6年における荒木村重の謀反のときのことである。

 説得に向かった官兵衛が、逆に村重に捕らわれ幽閉された際、信長は官兵衛が裏切ったものとし、秀吉に人質として預けていた官兵衛の息子・松寿丸(後の長政)の処刑を命じた。秀吉は処置に困ったが、ここで半兵衛が機転を利かし密かに松寿丸を匿った。翌天正7年10月、有岡城は落城し官兵衛も助け出され、松寿丸も父・官兵衛のもとに返された。

 有岡城の戦いで、信長はもとより、秀吉自身もおそらく官兵衛が裏切ったと思っていた状況下である。信長の命に逆らい、自らの所領地であった岩手城(美濃国)に松寿丸を匿うことは、一つ間違えれば、自身の命にも拘わることになる。

 半兵衛が如何に官兵衛に対して全幅の信頼を寄せていたか、このことからもうかがえる。また、後に成人した黒田長政は、このことについて最後まで半兵衛への感謝を忘れなかったという。

2015年8月4日火曜日

秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡(兵庫県三木市平井・与呂木・志染町安福田)

秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡
    (ひでよしほんじんあと・ひらいやまのうえつけじろあと)

●所在地 兵庫県三木市平井・与呂木・志染町安福田
●指定 国史跡(平成25年3月指定)
●築城期 天正6年(1578)7月
●築城者 織田信忠
●高さ 145.07m
●城主 豊臣秀吉
●遺構 郭群・土塁等
●登城日 2014年11月22日

◆解説
 秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡(以下「秀吉本陣跡」とする)は、以前紹介した三木城(兵庫県三木市上の丸)から北東方面へ約3キロ余り向かった平井山に築かれた山城である。
【写真左】「羽柴秀吉本陣」と書かれた幟
 主郭跡に設置されているもので、後段でも紹介するように、この位置には展望台が設置され、南西方向に三木城を俯瞰することができる。












現地の説明板より

“国史跡 「三木城跡及び付城跡・土塁」
  秀吉本陣跡(平井山ノ上付城跡:平成25年3月指定)

所在地 三木市平井・与呂木(よろき)・志染(しじみ)町安福田(あぶた)

 三木合戦の際、羽柴(後の豊臣)秀吉が本陣とした付城です。
 美襄川(みのかわ)と志染川の間に挟まれた山上に位置し、南西に三木城を望むことができます。
【写真左】駐車場
 おそらく国指定を受けた平成25年度に整備されたものだろう。

 登城口が左側にみえるが、その脇に下段の縄張図と併せ説明板が設置されている。

 この日、駐車場には中型のバスが停まっており、ほどなくして20人前後の団体者が下山してきた。
【写真左】縄張図
 北東部に駐車場が設けられ、そこから階段伝いに進むと、太閤道(伝)があり、周囲には段状の平坦地群が取り巻き、主郭(郭Ⅰ)を過ぎて南側尾根に進むと、大手口(推定)とされる箇所がある。

 なお、これとは別に東側に進むと当城の最高所といわれる箇所があり、郭Ⅱと表記されている。


 天正6年(1578)7月、織田信長の長男・信忠が三木城を支援する神吉(かんき)城や志方城(ともに加古川市)を攻略した後、築城したとされています。8月に羽柴秀吉が入ると、10月15日に津田宗久を招いて茶会を開催しました。
 同22日に別所方が襲来して合戦が繰り広げられましたが、別所長治の弟別所治定らが討死するなど、別所方の敗北に終わっています。
【写真左】愛宕社
 登城口の階段を登っていくと、最初に現れるのがこの「愛宕社」とかかれた祠である。





 城は、土塁囲みの平坦部を主郭(Ⅰ)として東西に尾根が延び、その尾根から分かれる北側の尾根には軍勢が駐屯するための段状の平坦地群が設けられています。主郭(Ⅰ)の東側に延びる尾根は、部分的に土塁で囲まれ、櫓台状の土盛りが見られます。
 なお、Ⅱ・ⅢはⅠから独立した曲輪群を形成し、三木城を包囲する付城群の中では最大規模を誇っています。”
【写真左】段状の平坦地群
 当城の特徴の一つで、本陣跡の周辺部にはこうした段状の平坦地群が多く残る。
 兵士の駐屯を目的として施工されたものだが、長径の割に短径(幅)は3、4m前後が多い。


三木合戦

 説明板にもあるように、秀吉が別所長治の拠る三木城を攻め落した戦いである。この合戦については、以前とりあげた三木城(兵庫県三木市上の丸)でも紹介しているので、詳細は省きたい。
【写真左】太閤道
 主郭及びその先の最高所郭Ⅱまで向かう道はほぼ尾根伝いに設置されている。
 地元では(伝)太閤道と呼ばれている。




 なお、説明板にある志方城(兵庫県加古川市志方町志方町720)は既にアップしているが、神吉城は志方城から南に約3キロほど向かった東神吉町神吉に所在する平城で、現在常楽寺という寺院になっている。
 また、ここからさらに南に下がり、加古川を渡ると、三木合戦の際、途中から別所氏と袂を分かち、秀吉方に与し、その後、賤ヶ岳の合戦(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)で活躍し、七本槍の1人とされた糟屋武則の居城・加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)がある。
【写真左】主郭・その1
 三方を土塁で囲み、南西方向に三木城を望むことができる。
 現地には展望台が設置されている。







織田信忠

 さて、本稿の秀吉本陣跡は説明板にもあるように、築城したのは織田信長の長男・信忠とされている。三木合戦の前、信忠が最も武功を挙げたのが、松永久秀らが籠城した信貴山城攻めである。

 この戦いのあと信長は主だった戦いの総帥として信忠を指名し、信長後継者としてその地歩を固めていくことになる。しかし、その後本能寺の変において父信長とともに自害したといわれる。享年26歳。
 なお、この他信忠に関連する投稿としては次のものがある。
御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)
高遠城(たかとおじょう)跡・長野県上伊那郡高遠町東高遠
【写真左】主郭・その2 土塁
 南西方面に向けて構築されたもので、高さは1m弱のもの。
【写真左】主郭展望台から三木城方面を見る。
 方角としてはこの方面と思われるが、三木城がこの写真に入っているのか判断がつかない。
【写真左】主郭を降りて、東側の方へ向かう。
【写真左】櫓台状の土盛
 主郭の東側に向かうと、およそ100m前後の土盛が現れる。
 またその西端にはさらに高くなった箇所があり、櫓があったものと思われる。
 なお、この位置から北に延びる尾根にも中小の郭群(段状の平坦地群)が連続している。
【写真左】大手口まで100mの地点
 大手口は南側とされている。
【写真左】段状の平坦地群
 大手口付近にも平坦地群が多くみられる。
【写真左】大手口(推定)
 説明板より

“秀吉本陣への入口
 与呂木から谷伝いに上る登城道の本陣入口で、両側を一段高く切盛りし、段状に平坦地を設け、見張りなどの兵を駐屯させたと思われます。”

2015年7月28日火曜日

端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺)

端谷城(はしたにじょう)

●所在地 兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 衣笠氏
●高さ 140m(比高40m)
●形態 丘城
●遺構 郭・空堀・堀切等
●登城日 2014年11月22日

◆解説(参考文献 「端谷城 第1次発掘調査地元説明会資料 神戸市教育委会 文化財課 平成14年3月19日」、「HP 武家家伝 衣笠氏」等)

 兵庫県の東部明石市を流れる明石川の支流櫨谷川(はぜたにがわ)の中流域櫨谷寺谷は、隣接する福谷とともに歴史を持った地区である。中世には中村と呼ばれ、西国街道の要所でもあったされ、鎌倉時代から戦国期まで多くの戦場となった場所でもある。
 なお、当地は旧国名でいえば東播磨となるが、東隣の摂津国と接し、端谷城はいわゆる「境目の城」であったことも指摘できる。
【写真左】端谷城遠望
 南東麓から見たもの。
 当城は標高140m程の高さで、しかも比高は40m程である。

 現在はその麓に民家などが建っているが、下段でも示すように、明石川の支流櫨谷(はせたに)川が三方を囲み、濠の役目をしていたため、比高の低さの割に防御性がこれによって高められていたものと思われる。

 
現地の説明板より

“端谷城

 端谷城が築かれた詳細な時期は不明ですが、城主の衣笠氏は鎌倉時代の中頃には櫨谷の荘園を治めていたと考えられます。室町時代には、赤松氏に属し応仁の乱(1466~77)などで活躍し、その功により衣笠の姓を得たと伝えられています。
【写真左】端谷城などの配置図
 端谷城の東には川を挟んで、城ヶ市城があり、櫨谷川を下っていくと、南側に城ヶ谷砦、北側に福谷城などがあった。
 これらはいずれも端谷城の支城といわれている。



 その後は、福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力を争い続け、勢力拡大に伴い櫨谷の谷筋に池谷城、福谷城、城ヶ市城、城ヶ谷砦など衣笠氏一族のものと考えられる城や砦を築いています。

 戦国期に入り、別所氏(三木城)が勢力を伸ばし、やがて東播磨の覇者となった時、端谷城もその支城の役割を果たすようになります。
【写真左】端谷城縄張図
 現地に設置された縄張図であるが、当時の状況を示したもの。色が大分劣化していたため、管理人によって修正している。
 南側の櫨谷川が当時の濠の役目をしており、それを超えると居館があり、この場所を大手口としている。そこからさらに北に向かって尾根伝いに登っていくと、三の丸があり、現在満福寺という寺院が建っている箇所である。
 ここからさらに尾根伝いに進み、堀切をこえて二ノ丸を抜け、さらにその奥に本丸が控えているが、この後背は馬蹄形に長大な空堀が配置されている。



 天正6年(1578)、羽柴秀吉の三木城攻めが開始され、当時の端谷城主衣笠範影は淡河城の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として活躍しましたが、三木城落城後の天正8年2月25日に落城し、廃城となりました。今日に残る遺構は、この時のものです。
【写真左】三の丸に向かう。
 写真の階段下に居館があったとされ、大手口となる。現在数軒の家が建ち並んでいるが、道路は狭い。
 比高の低さの割に、三の丸周辺部は切崖となっており要害性が高い。このため階段も急傾斜となっている。


 堀切によって丘陵の一部を切断するなどの大土木工事のすえ、急峻、堅固な城塞を築き上げた背景として櫨谷、東播磨全体が緊迫した状況にあったことが、残された遺構から読み取ることができます。

 櫨谷を守り続けた端谷城は、落城から400年以上たちましたが、市内で最も保存状態が良好な山城です。当時の櫨谷の状況を知ることのできる貴重な遺構で、歴史遺産として後世に守り伝えていかなければなりません。

   2000.8 寺谷里づくり協議会”
【写真左】三の丸・満福寺
 寺院となりその面影は殆ど消えているが、当時は二段で構成された郭だったとされている。
 この写真の奥を進むと本丸にたどり着く。
登城道は一旦境内からそれて右(東側)の脇から向かうようになっている。


衣笠氏

 衣笠氏は当城・端谷城の城主とされ、鎌倉時代の中頃にはすでに当地を支配していた一族とされている。
【写真左】衣笠範景公顕彰碑
 当城最後の城主といわれる範景(影)公の顕彰碑が境内脇に建立されている。






 衣笠氏の姓を名乗りだしたのは室町期に至ってからだが、もともと赤松氏の庶流別所氏の分流ともいわれ、赤松円心の弟円光の曾孫持則をその祖としている。円光といえば、黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)でも述べたように、その子・重光が黒田氏の始祖であるから、黒田官兵衛と衣笠氏はその系譜で繋がっていることになる。
 円光が活躍したのが播磨の北東部といわれているので、代を重ねるうちに東播磨にも及んで行ったのだろう。
【写真左】切崖縁の登城道
 庫裡(三の丸)の東端部に細い登城道が確保されているが、その右下はほぼ垂直の崖となっており、見ごたえ十分の切崖である。


三木合戦
 
 三木城(兵庫県三木市上の丸)でも述べたように、戦国期に至ると信長の西国征伐の一環として、家臣羽柴秀吉が東播磨攻めを開始する。いわゆる三木合戦と呼ばれるもので、天正6年(1578)4月より始まり、以後1年10か月にも及んだ。三木城が落城したのが、天正8年(1580)1月17日といわれ、城主別所長治は自害した。
 ところで、端谷城が落城したのは、同年2月25日とされているので、三木城落城から1ヶ月ほど持ち堪えていたということになる。
【写真左】空堀(堀切)
 三の丸(満福寺)をこえて少し登ると、左手に空堀が控えている。

 現地の説明板では堀切と書かれている箇所で、東西に約30m程伸びた遺構で、右側は途中で停止しているが、左(西)側の谷に向かって削り落としている。
 右(二ノ丸)との比高差は10m前後はあるだろう。見ごたえがある。


遺構及び出土品

 端谷城は小規模な城砦だが、遺構の保存度からいえばかなり良好な状態といえる。また、出土品の中で特に注目されるのは、鎧(甲・よろい)である。平成17年におこなわれた遺構調査などで判明したものだが、主だった郭跡にのこる建物内石敷面の北半部から出土している。
 特に、甲の「胴丸」と呼ばれていた個所のものが多く、着脱用の「押付板」は20枚も出てきている。
【写真左】三の丸から二ノ丸に向かう。
 東側に設置された犬走りだが、写真にもあるように右側には柵が設けられている。
 写真では分かりづらいが、ほぼ垂直の切崖となっているからである。
 このあと、左側にある二ノ丸に向かう。
【写真左】二ノ丸
 幅約25m×長さ約65mの規模をもち、当城の中で最大の面積を誇る郭。
 
 発掘調査では掘立柱の建物があった箇所。
【写真左】二ノ丸西の段
 二ノ丸の西側には南北にそれぞれ小さな郭が配されている。
 写真は南側のもの。

 この段では礎石建物が確認されている。
【写真左】二ノ丸先端部から櫨谷の集落を俯瞰する。
 写真の中央部に流れる川が櫨谷川で、この川は下って明石川と合流し明石海峡(播磨灘)に注ぐ。
【写真左】西の壇附近
 二ノ丸の北端部で、本丸の南西方向に伸びる尾根伝いに設置された郭群で、写真はそこに向かう入口点。
 ここからは瓦葺の礎石建物、及び柵や塀などが出土している。
 このあと、二ノ丸と本丸の境付近まで登り、本丸方面に向かう。
【写真左】左本丸、右二ノ丸
 左右の比高差は約2m前後で、傾斜はゆるやか。
【写真左】本丸・その1
 ほぼ最高所となる位置で約140m前後。
 北側には土塁が残るとしてあるが、大分磨耗していて余り高さがない。

 なお、この写真でも分かるように、この箇所の縁も柵がしてあるが、この箇所もほぼ垂直の切崖があり、その奥に長大な空堀が本丸を囲繞している。残念ながらこの箇所は整備されておらず、当日は向かっていないが、ここに向かうには、旧大手道の東側から藪コギ覚悟で進むしかないだろう。
【写真左】本丸・その2
 西側附近の箇所で、右側には物見台及び礎石建物があったといわれている。
【写真左】物見台
 実質当城の最高所であるが、この西側及び北側も絶壁となった切崖がある。







◎関連投稿
淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河)

2015年7月19日日曜日

源頼政の墓・宇治平等院(京都府宇治市宇治蓮華116)

源頼政の墓・宇治平等院
      (みなもとのよりまさのはか・うじびょうどういん)

●所在地 京都府宇治市宇治蓮華116
●平等院創建 永承7年(1052)
●創建者 藤原頼道(関白)
●参拝 2015年7月12日

◆解説(参考文献「平等院パンフ」など)
 源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)ですでに紹介したように、頼政自身が討死したとされれる宇治平等院を先般探訪したので、紹介しておきたい。
【写真左】宇治平等院・鳳凰堂・その1
 参拝したこの日(7月12日)は日曜日で、観光客が多いことは予想していたが、それをはるかに上回る人出だった。

 しかも最も気温の上がった昼ごろだったため、当院内の観光客もいささかバテ気味の表情。

 因みに、観光客の半分以上は中国人ではないかと思うほど中国語が飛び交っていた。


現地の説明板より

“源三位頼政公の墓 宝篋印塔

 源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せされました。歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残しています。
【写真左】源頼政の墓
 頼政の墓は鳳凰堂の裏にある不動堂の境内隅に祀られている。







 治承4年(1180)5月26日、平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追撃を受け、平等院境内にて自刃しました(齢76歳)。

辞世
   埋もれ木の 花さくこともなかりしに
         身のなる果てぞ 悲しかりける”
【写真左】初代 太敬庵通圓の墓
 宇治橋の東岸に「通圓(つうえん)茶屋」という大変に古いお茶の店がある。
 この元祖は頼政の家臣であった古川右内という武士といわれている。

 頼政から「政」の字を賜り、太敬庵通園政久と名乗り、平治の乱直後、宇治橋の東詰に庵を結んだ。

 その後、通圓政久の末裔は、通圓(円)の姓を名乗り、宇治橋の橋守を仰せつかり、道行く人々に茶を差し上げてきたとされる。

 現在の通円祐介氏は、24代目となる。


宇治平等院

 永承7年(1052)3月28日、関白藤原頼道は父道長の別荘を寺院に改め、平等院と号した。この前年陸奥(東北)では、俘囚安倍頼時が反乱を起こし、朝廷から源頼義を陸奥守に任じて頼時反乱の追討を命じた。いわゆる「前9年の役」の始まりである(八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)参照)。
【写真左】宇治平等院・鳳凰堂・その2
 北側から見たもの










 そして、その翌年(天喜元年)3月4日、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、「鳳凰堂」と呼ばれるようになった。今では平等院といえば、この「鳳凰堂」がその代名詞ともされている。
【写真左】宇治平等院・鳳凰堂・その3
 東側から見る。










以仁王 ・頼政の戦い

 さて、宇治平等院が建立されてから約120年後の平安末期となる治承年間、源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)でも紹介したように、平氏と源氏の戦いが始まることになる。

 説明板にもあるように、宇治川の戦では平知盛軍の勝利に終わるが、戦いのあとの8月17日、源頼朝が伊豆で、9月7日には信濃で源義仲が、その3日後には、甲斐の武田信義など源氏方の相次ぐ挙兵へと繋がっていくことになる。

 ところで、この戦いでもっとも有名なのが平家物語にも書かれているように、別名「橋合戦」といわれるものである。
 これは、宇治川を挟んで平氏方(平重衡・惟盛)と、源氏(以仁王 ・源頼政)が対峙し、守勢に回った頼政側は宇治橋を壊したため、のちに「橋合戦」と呼ばれた。

 探訪したこの日は蒸し暑く、宇治川の水量は予想以上の量で、宇治の街並散策の途中、中洲に足を運び、つかの間の清涼を味わったが、余りの人出に宇治橋の方には向かわなかった。
【写真左】宇治川・その1
 上流部を見る。











巨椋池(おぐらいけ)

 さて、宇治川の源流は御存じのように、琵琶湖である。平安時代この付近の地勢を見てみると、現在の宇治橋を境にその下流部には巨椋池という巨大な湖があった。そして、平等院が建立される時期とほぼ同じころにかけて、今の宇治地区に碁盤目状の街が形成され、京の都を模したような景観が形づくられたという。
【写真左】宇治川・その2
 中洲に渡り、対岸の宇治上神社方面を見る。









 巨椋池には宇治川、木津川及び桂川も注いでいたため、それまで数えきれないほどの洪水があったという。
 このため戦国時代に豊臣秀吉が三本の川のうち、宇治川を築堤工事によって切り離した(「太閤築堤」)が、被害はさらにひどくなり、結局明治時代になって淀川水系全体を見直した治水工事が始まり、戦後になってやっと干拓田を基本とした現在の景観が生まれることになる。

 おそらく、以仁王 ・頼政の戦いは、そうした宇治川・巨椋池を主戦場とした船戦(ふないくさ)であったと思われる。
【写真左】宇治川・その3
 中洲側から下流部を見たもので、左側に宇治橋が見える。










平氏軍の先鋒

 ところで、この戦で平氏方の指揮官であったのは、清盛の五男・重衡と、重盛の嫡男・惟盛(清盛の孫)だが、先陣を務めたのは下記の信濃武士である。

   氏名        出身地
 吉田安藤馬允     長野市吉田
 笠原平五       中野市笠原
 千(常)葉三郎    飯山市常盤
 
 信濃の国人といえば、木曽(源)義仲が思い浮かぶが、この段階では義仲は信濃をまとめておらず、木曽谷に身を隠していた。そして頼朝が伊豆で挙兵すると、これに呼応する動きを見せる。

 このため、平氏方の笠原平五と同族の笠原頼直は、義仲を襲撃する態勢を整えた。その後、義仲軍の村山義直や栗田範覚らが現在の長野市市原で平氏方と戦った。義仲はその後上野に入り味方を募り、再び信濃に入り、次第に地元勢力を結集、以後平氏方を次々と破り、寿永2年(1183)遂に入京を果たすことになる。