2013年2月14日木曜日

頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)

頭崎城(かしらざきじょう)

●所在地 広島県東広島市高屋町貞重
●築城期 大永3年(1523)
●築城者 平賀弘保
●指定 広島県指定史跡
●高さ 標高504m(比高250m)
●遺構 郭・堀切・竪堀・石積み・土塁その他
●備考 明治神宮
●登城日 2012年12月14日

◆解説(参考文献(『日本城郭体系第13巻』等))
 頭崎城は、前稿松嶽城(広島県東広島市河内町入野)でも少し紹介したように、平賀氏の居城である。
【写真左】頭崎城遠望
 南麓側から見たもの。
 登城口は南側に2か所あり、貞重集会所あたりから北に向かう農道を進むと、途中で手造りの案内板が2,3か所設置してある。

 この日は、そのうちの西側の箇所から登ったが、棚田の奥に駐車スペースがあるものの狭い。また、農繁期トラクターなどが往来すると思われるので、注意が必要。



 現地の説明板より

広島県史跡  頭崎城跡(平賀氏の遺跡)
        昭和44年(1969)4月28日指定

 頭崎城は、中世安芸国の有力な国人領主平賀氏の築いた山城です。平賀氏は出羽国平鹿郡(ひらがぐん)から移り、高屋町高屋堀の御薗宇城を拠城としました。その後平賀弘保は、文亀3年(1503)に白市の白山城に本拠を移しましたが、さらに戦乱の激化に対処するため大永3年(1523)に白山城の北方約4kmにある、比高差約200mの頭崎山頂に頭崎城を築き、その子興貞が居城しました。
【写真左】鳥居の段
 一般的な登城コースと思われる大手道を進むと、最初にこの郭が見える。

幅7,8m×奥行5,6m程度のもの。



 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れ、毛利氏に従って萩に移るまで、頭崎城は平賀氏の本城として使用されました。その間、何度も改修を重ねたと思われ、その城域は東西900m、南北600mに及び、中世の山城としては広島県内では毛利氏の郡山城に次ぐ広さがあり、平賀氏の支配領域のほぼ中心に位置しています。

 現在も多くの曲輪が残っていて、名前を伝えるものに、本丸に当たる「甲(つめ)の丸」や「西の丸」「太鼓の段」「煙硝の段」「稽古場」「大将陣」などがあります。
 また、付近には「御屋敷」「蔵屋敷」という地名や常楽寺跡などが残り、居館や寺院、家臣の屋敷を配置していたことがわかります。このように、頭崎城は戦国時代末期の国人領主を考えるうえで、非常に貴重な遺跡です。
     平成5年(1993)3月31日
     東広島市教育委員会”
【写真左】城域手前の鳥居など
 下段で紹介する三の丸東にある頭崎神社の鳥居や、勧請された明治神宮の鳥居と思われる鳥居跡が入口付近に建立されている。



平賀氏歴代の居城

 頭崎城はこれまで、平賀氏の墓地(広島県東広島市高屋町高屋堀)の稿でも記したように、平賀氏は代を重ねる間に次の3か所の居城を築いていく。
  1. 御薗宇城  東広島市高屋町高屋堀  居城期間 1278~1503年  (225年間)
  2. 白山城    東広島市高屋町白市   居城期間 1503~36年ごろ  (33年間)
  3. 頭崎城    東広島市高屋町貞重   居城期間 1523~1600年  (77年間)
 最初に拠った城館が御薗宇城である。これについては既に御薗宇城(広島県東広島市高屋町高屋堀)で紹介しているのでご覧いただきたいが、同氏がもっとも長く居城として使用したもので、小規模な城砦(城館)ながら、安芸国における平賀氏の基礎がこの期間に出来上がっていく。
【写真左】登城道右側の断崖
 この付近からこうした岩肌が露出して見える。









大内氏と尼子氏の狭間で

 やがて戦国期に至ると、山陰の雄・尼子経久が南下し、西方からは大内氏が東西条の鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)を攻略してきた。このため、隣接していた平賀氏は否応なく両氏のいずれかに与することを余儀なくされた。

 平賀氏が次に築城したのが白山城であるが、いよいよ高まってきた戦国動乱の世にあって、当城の守りは脆弱でかつ小規模なものだった。平賀氏は永正年間(1504~21)大内氏に従っていた。その後、鏡山城落城後、尼子に従属する状況に追い込まれ、このため、天険にめぐまれた標高504mの頭崎山に3番目の居城を築いた。
【写真左】頭崎城要図
 現地に設置されている図で、上方が北を示す。

 残念ながら本丸等の位置が図示されておらず、分かりずらいが、中央部が本丸(甲の丸)で、その下方に二の丸及び、三の丸があり、本丸側から上に離れた郭群は西の丸を示す。

【写真左】頭崎神社・三の丸
 登り切って最初に見えるのがこの頭崎神社である。

 長さ40m×幅8~14mの細長い変形した郭の三の丸の東側に祀られている。

 この左側の上に二の丸や本丸が位置している。また、右側に向かうと、下段の「太鼓の段」がある。
【写真左】三の丸
 頭崎神社側から振り返ってみたもので、正面に「太鼓の段」がある。

 なお、この写真の左側に「三の丸」の表示板があり、その脇には「西尾根三百米先 大将陣 西下百米 極楽寺経由下山道アリ」という表示板があり、その先を進んでみたが、藪コギ状態の郭段が残っている。



平賀氏父子の対立

 しかし、このころから平賀氏一族の間では、尼子方及び大内方のいずれに属するか意見がまとまらず、白山城には大内派の弘保が、頭崎城には尼子派の嫡男・興貞が拠り、父子の対立が生じていた。

 天文4~5年(1535~36)、父子による衝突は避けられなくなり、それぞれ大内方・尼子方の援軍を交えた戦端が開いた。同6年になると、大内方の杉隆宣が志和の米山城・生城山城(おおぎやまじょう)の城主天野興定と共に頭崎城を攻めたが不成功に終わった。しかしそれから3年後の天文9年、大内方に与していた毛利元就が、頭崎城の背後を突いた夜襲をかけ、ついに陥落させた。
【写真左】太鼓の段
 東南部に配置された郭で、2段の構成となっている。

 位置から考えて、東から南を扼する目的の郭と考えられ、ここから常に監視をしていたのだろう。
【写真左】太鼓の段から松嶽城などを遠望する。
 前稿で紹介したように、松嶽城や竹林寺がよく見える場所である。







 この結果、毛利元就は興貞を出家させ、興貞の子・隆宗(弘保の嫡孫)に家督を継がせた。しかしそれから9年後の天文18年(1549)、隆宗が備後の神辺城攻めにおいて討死すると、白山城にあった祖父弘保は、平賀氏の行く末を案じたのだろう、大内義隆に対し、隆宗の実弟・広相(ひろすけ)を跡継ぎとするよう願い出た。
【写真左】二の丸
 三の丸の西側から細い階段があり、それを登っていくと二の丸に繋がる。手前の幅は10m程度あるが、次第に細くなって本丸に繋がる。

 この写真は手前付近に見えた大岩だが、削平された場所に不自然に残っているところを見ると、何等かの目的で積み上げられたものかもしれない。
 このあと、本丸に向かう。



大内氏による平賀氏への圧迫

 しかし、平賀氏の弱体化をねらっていた義隆はこの願いを受け入れず、小早川常平の次男で、義隆の寵童としていた亀寿丸を弘保の養子とし、新たに平賀隆保と名乗らせ、家督を相続させた。
 なお、隆宗の実弟・広相については、『日本城郭体系第13巻』では、隆宗の子としているが、状況から考えて、隆宗はまだ幼少の時期と思われ、広相が子であったというのは無理がある。

 平賀氏本流の継嗣が一時途絶え、小早川庶流であった隆保が頭崎城主になってから2年後の天文20年(1551)、大内氏の重臣であった陶晴賢の謀反により長門大寧寺で義隆が亡くなると、毛利元就は安芸東西条の大内方の諸城を攻略し始めた。
【写真左】本丸の石垣
 本丸手前に小郭があり、そこから4,5mほどの高さの階段を登ると、本丸にたどり着く。
 この石垣はその脇に見えたもの。



 そして大内方であった平賀隆保の籠る頭崎城を攻めることになった。弘保は平賀氏居城とはいえ、既に血縁を持たない城主・隆保の籠る頭崎城に対し、全く援助の手を差し伸べようとしなかった。これにより、頭崎城は落城し、隆保は討死したといわれているが、一説には、この後隆保は槌山城へ奔ったのち、当城で亡くなったともいわれている。
【写真左】本丸
 32m×35mの規模のもので、現在桜の木などが植えてあるが、「太鼓の段」や下段の「硝煙の段」に比べるとあまり手入れはされていないようだ。
 本丸の西側には細長い帯郭が二の丸に向かって伸びている。

 なお、本丸の北側には西の丸が控えているが、切崖であるため、一旦引き返して、三の丸側から向かう。


毛利氏への帰順

隆保討死後、平賀氏は前記した隆宗の実弟・広相が改めて家督を認められ、小早川隆景とは兄弟の契りを結び、以後毛利氏に属することになる。

 平賀広相については、三ツ城(広島県東広島市西条中央7 三ツ城古墳)でも紹介したように、当城の城主でもあった。
【写真左】煙硝の段・その1
 三の丸側から細い道を進むと南西突端部に「煙硝の段」がある。








 ところで、平賀氏には隆宗・広相兄弟とは別に、平賀隆直という武将の名も残る。

 出雲国の白鹿城(島根県松江市法吉町)・その2で触れたように、永禄年間に松江の白鹿城に向けて赤穴の瀬戸山城を発向する段階で、毛利方の中に「平賀太郎左衛門隆直」という名が見える。
 おそらく、隆直も隆宗らと兄弟であったかもしれない。
【写真左】煙硝の段・その2
 煙硝の段には大岩があり、その脇に小社が祀られている。
 これは昭和4年に明治神宮から分祀勧請されたもののようで、もとは上部の方にあったようだが、平成12年の鳥取県西部地震で倒壊したため、現在の下部に移築されている。
【写真左】煙硝の段・その3
 大岩(社)の先には、ご覧の郭が南西に伸びている。
【写真左】頭崎城から東広島市市街地を見る。
 おそらくこの視界の中に、平賀氏の白山城もはいっているものと思われるが、どのあたりかわからない。
【写真左】西の丸
 本丸の北側に位置し、石垣によって3区画されているとのことだが、明瞭でない。
 遺構としては、むしろこの辺りが最も種類が多く、竪堀・土塁・堀切・稽古場・馬乗場などといった曲輪群が点在している。

2013年2月11日月曜日

松嶽城(広島県東広島市河内町入野)

松嶽城(まつたけじょう)

●所在地 広島県東広島市河内町入野
●別名 松ヶ嶽城、入野松嶽城
●築城期 建長8年・康元元年(1256)1月
●築城者 大多和季盛
●城主 入野氏(平賀氏庶家)
●高さ 450m(比高240m)
●遺構 郭・土塁・堀切等
●登城日 松嶽城:2012年12月14日、竹林寺:2007年7月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『サイト「城郭放浪記」』等)
 前稿小田城の麓を流れる沼田川を下り、入野川が合流する地点に行くと、南方に篁山(竹林寺)が聳えている。松嶽城は、この南尾根に築かれた山城である。
【写真左】松嶽城遠望
 南麓側から見たもので、松嶽城は尾根筋にあり、そのまま尾根を登ったところにる篁山(竹林寺)がある。





築城者について

  松嶽城の築城者については、下段に示す現地の説明板のものと、『日本城郭体系第13巻』(以下「城郭体系」とする)に記されている内容と若干合致していない点がある。
 先ず現地にある二つの説明板を記しておく。

現地の説明板(その1)より

“松ヶ嶽城址
 松ヶ嶽城の築城年代は明らかでないが、南北朝初期から室町戦国期に存在していたものと推定される。なお、この城は、大多和八郎太郎・小池大輔房等が拠城したと伝えられる。

 郷土誌「芸藩通志」によれば入野民部少輔貞景(1518~50年代)の居城とある。
 松ヶ嶽城址は、竹林寺南西の支峰の山頂(標高450m)にあり、本丸・二の丸・三の丸と階段状の郭よりなり城内には石積みの井戸が残っている。
別に南方の台地にも郭があり、往時の城郭がうかがわれる。
 またこの北方入口の防備として土塁・空堀の跡も見られる。ここから城までは約400mである。”
【写真左】麓にある石碑・その1
 下段に示した説明板(その2)のもので、この日は時間がなく、麓から見上げただけで登城はしていない。

 右の石碑には、

松嶽城 城主 神武天皇の子孫
大多和八郎太郎入道之墓

紀元2013年12月13日
南北朝廷の争いにて自刃

とある。

現地の説明板(その2)より

“眺望 松嶽城跡
 
 大多和季盛は鎌倉時代に左衛門尉を賜り、入野地頭となる。
 宝治元年6月、三浦泰村の最期を痛み志芳を目指して、建長8年1月、山頂に松嶽城を築く。季盛・為盛・八郎太郎入道と3代に渡り、家臣小池と陣を取る小早川実義は、足利将軍の通報で思留慂取計も八郎太郎聞入れず遂に正平8年12月、自決。平賀文書三号に城は、翌年9月12日将軍から平賀貞宗へ充行と記あり  正信”

とあり、築城者は建長8年に大多和季盛としている。
【写真左】麓にある石碑・その2
 道路脇に建立されているが、この場所には松嶽城へ向かう登城案内などの標識はない。





これに対し、「城郭体系」では次のように記されている。

“…(中略)東広島市高屋町と隣接する賀茂郡河内町入野(にゅうの)を領地とした平賀氏が、入野地区を確保するために築いた城であるが、築城の時期は明らかでない。…(以下略)

ここでは、平賀氏を築城者としている。ただ時期が不明である。


大多和氏と平賀氏

 大多和氏は、説明板にもあるように、元は三浦氏すなわち、桓武平氏系の三浦氏の流れで、相模国三浦郡大多和村(現在の神奈川県横須賀市太田和)の出である。
【写真左】御薗宇城遠望










 平賀氏については、以前御薗宇城(広島県東広島市高屋町高屋堀)でも紹介したように、同氏が最初に本居城としたのは、この御薗宇城である。平賀氏が安芸に下向した動機は、文永の役による元軍来襲の防備のためであった。

 従って時期は文永11年(1274)頃と考えられ、前段の大多和氏が来住した時期より約20年後となる。ただ、平賀氏が御薗宇城を築いた時期に合わせてすぐに松嶽城を築いたとは即断できない。

 おそらく、松嶽城を最初に築いた大多和氏は、説明板(その2)にもあるように、初代季盛から始まり、為盛・八郎太郎入道と続いたが、正平8年(1353)3代八郎太郎入道の自決によって安芸大多和氏は滅び、そのあと平賀氏がはいったものと思われる。

 この間の流れをみると、おそらく3代八郎太郎入道は南朝方であったと思われ、この年の9月21日、足利尊氏・義詮は後光厳天皇を奉じて入京しているので、安芸国における南朝の勢いが衰退した時期と重なる。
【写真左】竹林寺 本堂・厨子
 松嶽城に向かう一つのルートがこの竹林寺境内を始点とするものだが、当院を探訪したのは2007年7月で、蒸し暑く、登城していない。

 サイト『城郭放浪記』氏が詳細に踏査しておられるので、遺構についてはこちらをご覧いただきたい。




入野保継と入野貞景

 戦国期に至った永正15年(1518)、白山城(東広島市高屋町:未登城)を居城としていた平賀弘保とその子興貞は、平賀惣領家を離れ小早川氏に属そうとした庶子家・入野保継を攻め滅ぼしている。

 この保継が当時居城としていたのが松嶽城といわれ、平賀弘保はその後次男の貞景を松嶽城に入れている。ただ、平賀氏はこの貞景の姓名を平賀ではなく、前城主であった入野氏の名を冠し、入野民部少輔貞景としている。
 おそらく、平賀氏はこの戦いの結果、強制的に自分の子を入野氏の養子として入れる条件を飲ませたものと思われる。


竹林寺と小野篁(おのの たかむら)
 
 参考までに、竹林寺と小野篁について、現地の説明板より紹介しておく。
【写真左】竹林寺庭園
 如何にも古刹といった雰囲気がある。











 現地の説明板より

“小野 篁

 芸州入野の郷に、その頂上より夜々光を放ち、日々紫雲たなびく山があった。
 730年(天平2年)行基上人がこの山に登られ、霊光を放っていた桜の大樹を切り、「千手観音尊像」を刻みお堂を建て、「桜山花王寺」と名付けられた。これが「竹林寺」の始まりである。

 当時この山の麓に竹野辺秀識なる人に仕える、八千代という女性があった。八千代は常にこの寺の御本尊を信仰し千日の参詣を続けていたが、満願の日の夜半お堂の中から童子が現れ五色の玉を彼女に授けた。やがて八千代は802年(延暦21年)の春、男子を出産したが、その子が自ら「吾れはこれ篁なり」と名乗った。八千代は不思議に思いながらよろこんで養育につとめたところ、幼時よりまことに聡明で竹野辺殿にいつくしまれたという。
【写真左】松嶽城遠望
 松嶽城の北西に位置する平賀氏の居城・頭崎城から見たもの。

 頭崎城についてはいずれ紹介する予定である。


 長じて12才の時、東の平安京(京都)をめざして郷里を出発した。都での篁はいよいよ勉学に励み学芸、詩歌に優れた有名な人となり、関白小野大臣良相の娘と結婚して小野家を継ぎ「小野篁」と号した。

 篁は、時の嵯峨天皇に仕え、参議に登用され、さらに文学博士に任ぜられたという。また、篁は、非凡の人で昼はこの世で人々のために働き、夜は冥途に至って冥官として罪の軽量を裁いたといわれ、852年(仁寿2年)51歳の時、京都愛宕寺前で大地を蹴破り地底に入られたという。更に篁は、百年後再びこの世に生まれ僧となって、郷里の当寺(竹林寺)で冥途の十王尊像の内9体を刻み、残り1体は自ら生身の仏となられたという。
 その時から寺号も「篁山竹林寺」と改められた。この物語は、県重要文化財「紙本著色竹林寺縁起絵巻」のあらましである。
    河内町
    河内町観光協会”

2013年2月8日金曜日

小田城(広島県東広島市河内町小田)

小田城(おだじょう)

●所在地 広島県東広島市河内町小田
●築城期 文永年間(1264~74)
●築城者 新庄(小田)三郎左衛門信平
●城主 小田氏
●高さ 380m(比高80m)
●規模 28m×40m
●遺構 郭・堀切・土塁・井戸・石垣
●登城日 2012年12月14日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 小田城の所在地は、現在市町村合併によって東広島市となっているが、旧賀茂郡河内町といわれた場所で、東隣の三原市と境を接する位置にある。
【写真左】小田城遠望
【写真左】小田ふるさと案内板
 南麓を走るR348号線沿いにある「寄りん菜屋」というドライブインに設置されている案内板で、小田城及び真光寺跡(景範の墓)が図示されている。




 小田城の東北東約4キロには、椋梨氏の居城・椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)が位置し、さらに小田城の北方1キロには平賀氏の支城といわれる薬師寺城や、龍王山城という砦形式の城砦も記録されている。まさに境目の城ともいえる場所でもある。
【写真左】登城口
 狭い農道脇にある集会所付近が登城口で、集会所の空き地に駐車1台分のスペースがあり、そこから歩いて向かう。
 なお、この場所とは別に西側に直接西麓からアクセスできる林道があるが、案内板などないためわかりずらい。


 現地の説明板より

“小田城の由来

 今から730年余り前、沼田高山城(本郷町)の小早川家4代城主茂平の弟新庄左衛門季平(椋梨氏の祖)の次男三郎左衛門信平が、文永年間(1264~74)に築城と伝えられ、代々330数年を経て最後の小田城主と思われるのは、小田甚兵衛であると芸藩通誌に記されています。

 関ヶ原の合戦で西軍(豊臣方)に味方して敗れた毛利氏の移封に従って、慶長5年(1601)に椋梨氏一族は、長州(今の山口県)萩に移りましたが、小田甚兵衛はその後、下河内大和原に隠遁していたと考えられ、下河内に小田甚兵衛何某…の墓があることで実証されています。
【写真左】五輪塔・その1
【写真左】五輪塔・その2
 登城口から城域に向かうまでの道標がないため、道に迷ったが、そのとき東麓側の棚田の脇に、2基の五輪塔が祀られていた。

 いずれも高さ50cm程度の小規模なものであるが、下段に示す真光寺跡とは別に、このあたりにも小田氏を祀った墓地があったものと思われる。

 城址は、小田地区の中央に位置し、背後の竜王山(619.8m)の尾根を切り取って盛り土し、標高380m、東西28m、南北40mの城郭で、頂上に土塁の跡がある「本丸」、「二の丸」、西側に井戸跡がある「三の丸」を作ったと考えられます。南側の麓には通用門としての石門があります。

 2001(平成13)年2月
   小田郷土会”
【写真左】登城道
 以前は整備されていたと思われるが、西側の方にご覧の道がある。
 もっとも地肌が露出し、道としては大分傷んでいる。
 前方に小田城の看板が見える。


小田氏
 
 小田城の築城者である小田氏については、説明板にもあるように沼田の高山城(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)参照)の小早川家の庶流といわれている。

 沼田新庄を完全に支配したのは、築城者信平の父季平である。当時新庄地区は、椋梨・和木・大草・小田・上山で構成され、現在の東広島市と三原市に跨る。このうち椋梨氏については椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)で紹介しているのでご覧いただきたい。

 季平の次男・信平が、父から譲り受けたのがこの小田の地である。時期は鎌倉末期と推測される。
【写真左】三の丸先端部
 直近部で土木用のコンクリートブロックや、鉄パイプなどを利用して造られた階段を上がると、二の丸南端部にたどり着く。




 その後、沼田小早川氏に従って実力を蓄え、延徳4年(1492)ごろには椋梨氏と肩を並べる有力家臣となる。

 当時の小田氏は元範で、西方の御薗宇城(広島県東広島市高屋町高屋堀)を本拠とする平賀弘頼との領地争いが起こり、惣領家沼田小早川氏(敬平)に田万里(竹原市)の領地の半分を譲与して援助を請い、本領地を安堵されて惣領家(沼田小早川氏)の家臣となった。
【写真左】展望台
 三の丸付近に設置されたもので、ここから眼下に小田の田園風景が俯瞰できる。









 元範のあとは、管領兵部大夫真光・侍郎景範と続き、景範は元亀3年(1572)に没している。ちなみに、最後の城主とされる小田甚兵衛は、景範の後裔とされている。

 景範の墓は真光寺境内に、甚兵衛の墓は河内町下河内の大和原谷にあるといわれるが、管理人は訪れていない。
【写真左】井戸跡
 三の丸の西端部で二の丸との境になる個所に残る。

 井戸跡の西側は直ぐに斜面になって、駐車場のような削平地ができている。この形状のままで井戸があったとは思われない。おそらく当時三の丸は二の丸の西側まで回り込んでいたものだろう。
【写真左】二の丸
 三の丸から約1m程度高くして北に延びる郭で、幅25m×奥行15m程度の規模。
【写真左】二の丸と本丸
 下段が二の丸、上段が本丸
【写真左】本丸
 小田城北端部で、幅23m×奥行8mの規模。

北側周囲には高さ1m弱の土塁が取り巻く。またさらに土塁の北側は、角度のある切崖を介して堀切が尾根を切断している。(下段の写真参照)
【写真左】堀切
 深さ約8m前後と規模が大きい。
写真右側が本丸側で、左が竜王山側の尾根。
【写真左】西側から見る。
 手前の削平地は上述したように近年施工されたものと思われる。
 左側が本丸で、右側が南になる。

 おそらく駐車場として造成したものだろう。
 遺構がこの箇所にもあったと考えられるが、いささか史跡保存としては荒っぽい処置と思える。
【写真左】三の丸から南方を見る。
 手前にも小丘が見えるが、おそらくこの場所も出城のような役目を負っていたものと思われる。

 麓の小田の田園は東西に長く伸び、南側の山の中腹部まで整然と土地改良が施されている。

2013年2月6日水曜日

相良城(広島県三原市大和町下徳良)

相良城(さがらじょう)

●所在地 広島県三原市大和町下徳良
●別名 下城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 相良良左衛門大夫
●高さ 360m(比高15m)
●形態 平山城
●指定 三原市指定史跡
●登城日 2012年11月7日及び、2014年3月25日

◆解説(参考文献「サイト・城郭放浪記」等)
 瀬戸内方面に車を走らせていたところ、偶然道路脇の看板が目に留まり、立ち寄った城砦である。
【写真左】相良城遠望・その1
 周囲は現在田圃や民家などが建ち、近くには公立の施設などが整備されているが、当時の比高はもう少し高かったものと思われる。


現地の説明板より

“相良城址
   昭和48年10月大和町文化財指定

 相良城は戦国時代の典型的な平山城で、標高360m、周囲192m、面積2,760㎡で山上は、東部の一段高い郭と、平坦な郭とがあり、本丸と二の丸跡と推察される平坦な郭の外周には、高さ1.3m、幅2.0mぐらいの土塁が数か所残っている。

 当時この地の支配者が平常時は農耕等を営み、戦時に周囲を一望できるこの山城にこもり敵対したものと推察される。
 この城について芸藩通誌に「下城」、世羅郡誌に「相良城または下城」と記されている。
 城主については、世羅郡誌に「或曰 相良良左衛門大夫所居」とあるが、詳細は不明である。

  昭和62年 月
     三原市教育委員会”
【写真左】東側切崖
 一部崩落個所が散見されるものの、険峻な切崖を保つ。









相良城は、以前取り上げた同町にある椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)から、北東へ約5キロほど向かった位置にあり、城主相良某という武将も椋梨氏と同じく、元は沼田小早川家の流れと思われる。

 写真でも分かるように、大変小規模な城塞で、居館跡といった雰囲気を持つ。
【写真左】登城口
 登城しようとしたらご覧の看板。「進入禁止 入ってはいけません」とのこと。

 外周部の崩落があり、危険だからということなのか。残念だが、素直に従うことにした。

 ちなみに、『城郭放浪記』氏は、「自己責任で」登城されている。同氏の写真を見ると、思った以上に広いようだ。また、外周部には土塁が残っている。
【写真左】下から見上げる。
【写真左】麓の看板
 「とくとくクラブ」という地元の団体が作製したもの。
【写真左】五輪塔か
 入口付近には、五輪塔の破片らしきものと、地蔵が祀られている。
【写真左】相良城遠望・その2
 北東部から見たもの。











追記

 最初に登城してから2年後の2014年に附近を探訪する機会があったので、この日「自己責任」の下で、登城することにした。
【写真左】本丸・その1
 当城(公園)脇の階段を登ると、ごらんのような広い削平地となった広場が見える。
【写真左】土塁・その1
 南側から東側にかけては土塁跡が残る。
【写真左】土塁・その2
 北東端のもの。
【写真左】相良城想像図
 山城というより、平城形態の城館跡といったほうがいいかもしれない。

 この想像図にもあるように、本丸の中には屋形や、物見櫓などが描かれ、平時も居館として機能していた可能性が高い。
【写真左】本丸・その2
 下から見ていたときより、実際に現地に立つと想像以上に広く感じる。