2012年12月24日月曜日

吉川元春館跡(広島県山県郡北広島町海応寺)

吉川元春館跡(きっかわもとはる やかたあと)

●所在地 広島家山県郡北広島町海応寺
●指定 国指定史跡
●形態 居館
●高さ 標高380m(比高10m)
●施工開始時期 天正10年(1582)
●遺構 館・石垣・門跡・庭園跡その他
●規模 間口110m、奥行80m
●探訪日 2006年10月25日、及び2011年6月1日

◆解説(参考文献『吉川元春館跡 第5次発掘調査概要 1998 広島県教育委員会編』『日本城郭体系第13巻』等)
 吉川元春館跡は、前稿日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)から南西3キロほど下った江の川支流の志路原川の南岸に築かれた館跡である。
【写真左】吉川元春館跡
 東側に残る門側の石積み塀
【写真左】案内図
 現在は合併にともない北広島町となっているが、旧豊平町にあって、近くには別稿で紹介している「万徳院」や、「日野山城」などが所在している。













現地の説明板より

“吉川元春館跡

 駿河国(静岡県)を本拠としていた吉川氏は、鎌倉時代の終わりごろに、大朝本庄(北広島町大朝)に地頭として入り、室町時代には安芸国の北部を中心とする地域を治める国人領主に成長します。その後戦国時代には周防国の大内氏と出雲国の尼子氏との間に立たされましたが、毛利元就の次男である元春を当主として迎えることにより毛利体制に入ります。
【写真左】配置図
 右方が北を示す。
 













 吉川元春は弟の小早川隆景とともに毛利氏を補佐し、おもに山陰攻略に貢献します。
 1600年関ヶ原の戦い後、吉川氏は山口県岩国に移りますが、それまでの吉川氏に関わる遺跡が山県郡北広島町に分布しています。

 そのうち、駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、松本屋敷、万徳院跡、洞仙寺跡、西禅寺跡、常仙寺跡の9遺跡が史跡吉川氏城館跡として国の史跡に指定されており、小倉山城、万徳院跡、吉川元春館跡の3遺跡は広く一般へ活用するために整備し、歴史公園として公開しています。
      北広島町教育委員会”
【写真左】門跡
 東側の石積みの南北中央部に設置されている。










館建築工程の記録

 当館跡については、数回にわたって遺跡調査が行われているが、そのうち平成10年(1998)5月から翌11年3月にかけて行われた「吉川元春館跡 第5次発掘調査」の概要報告書の中の文献調査によると、当館の建築工程のようすが次のように記されている。

  1. 天正11年(1583) 冬、工事着手
  2. 同12年       2月初旬、土地造成がある程度終わり、作事工事に移る。 桜の植えられた庭の整備。
  3. 同年        4~5月、家臣の掌握する番匠を雇って急ピッチの工事
  4. 同年        6月以前、元春夫妻の居所、衣服用の倉の完成
  5. 天正13年(1585) 5月以前、「ついし」=石垣の工事開始
  6. 同年        5月、石材不足、石の採取、運搬、館の背後に「山芝」の設置、その付近に塗り蔵の建設(「くらぬり」)。
  7. 同年       閏8月末、和浪の鍛冶が雇われ工事に加わる。
  8. 天正14年(1586) 9月、会所の建築。
  9. 同年        11月、元春没
  10. 天正15年(1587) 6月、元長没。経言(広家)家督相続。
  11. 天正16年(1588) 広家の結婚に当たり、「吉野原普請」。
  12. 天正19年(1591) 3月、広家、豊臣秀吉から出雲月山富田城居城を指示される。
  13. 同年        5月、「土居」に海応寺建立が決まる。寺領5町。
  14. 慶長5年(1600)  10月、毛利氏の防長移封が決まる。
  15. 同年         11月、周防における「広家領地」が打渡される。
【写真左】主殿舎跡
 殿舎跡は敷地内に併せて4か所あり、これはそのうち最も大きなものである。








吉川元春

 さて、吉川元春についてはこれまで度々紹介してきているが、毛利氏の山陰攻めの中心として活躍したのが元春である。対して、弟の小早川隆景は主として、南方の瀬戸内方面を担当した。

 享禄3年(1530)、元就の次男として安芸吉田城に生まれた。同じ年に生まれた戦国武将としては、越後の上杉謙信や、豊後のキリシタン大名・大友宗麟らがいる。

 天文16年(1547)、元春17歳のとき、母方の従兄となる吉川興経の養子となったが、これは最初から元就による吉川家乗っ取りの計画があったといわれている。事実、興経の子で幼年であった千法師を元春の養子とし、成長後に再び吉川家の当主とする約束をしておきながら、のちに興経と千法師を殺害してしまう。
【写真左】番所跡
 門跡の南には通用口が別に設けられているが、この坂をあがったところにある。
 出入りの監視をしているところだったのだろう。





 元就が吉川興経に対して、このような処置をとった理由の一つは、天文12年(1543)の大内義隆軍による月山富田城攻めの際、大内軍が大敗することになるが、大内軍が背走している最中、従軍していた吉川興経は、同じく大内方に属していた三刀屋久扶らと一緒に突如、尼子方に寝返った。

 元就にとってよほどこのことが終生忘れられなかったとみえ、三刀屋氏の場合も、毛利氏に属したものの、輝元の時代になっても不遇な扱いをされることになる。
 ただ、三刀屋氏の場合は後に元春の計らいによって、当地大朝に預けられることになるが…。
【写真左】復元された台所・その1
 番所の南には台所があり、現地には復元された建物がある。
【写真左】復元された台所・その2
 土間にはカマドが造られ、料理のための板敷間も見える。









 さて、元春の活躍については他の史料でも紹介されているので、詳細は省くが、元春館の建築途中、すなわち隠居した最晩年の天正14年(1586)、秀吉の九州征伐の際も病をおして参加している。

 一説ではすでにこのころ癌に侵されていたといわれ、出征先の豊前小倉城で没した。享年57歳。
【写真左】館跡全景
 西側から見たもので、右に台所があり、中央が門跡になる。

 なお、写真にはないが、北西部には庭園跡が残る。






館跡から出土したものなど

 2回目に訪れた昨年の6月、館跡の北側に「戦国の庭 歴史館」という資料館が建てられていた。入館したところ、客が管理人の我々二人だったこともあり、係の方にご親切に出土した主だった収蔵品などについて、説明をしていただいた。
 出土物としては、輸入陶磁器・国産陶器、木製品、石製品、建築部材等がある。
 この中で、特に印象に残ったものとしては、次のようなものが挙げられる。

  1. 下駄 この館に住んでいたであろう女・子供が履いていたもので、大人用でもかなり小さいもサイズのものが多い。
  2. 桶(結桶) 元々は食糧の保存・運搬用に造られたものだが、当館跡からは、その役目を終えた桶が、便槽用のものとして再利用されていたという。いまでいうリサイクルである。
  3. 便槽から出たもの 上記の便槽から出土したものとしては、便の中に残っていた木の実の種や、動物性の骨などがあったという。この中で、驚いたのが、「鶴」を食べていたということである。いまでは考えらないことだが、当時「ハレ」の時、すなわち目出度い催しや、重要な客人を招いた時など、そうしたメニューが出たようだ。また、山間部であるにも関わらず、海の幸が予想以上に料理として出されていたという。これは、石見の益田藤兼が元春と縁戚関係にあったことから、度々往来があり、石見からこうした海産物など貢物があったからといわれる。
【写真左】海応寺跡
 館跡の西側に残るもので、南接して吉川元春・元長及び夭逝した末子のものと思われる墓がある。
【写真左】吉川氏の墓・その1
 現地の説明板より










“史跡 吉川氏城館跡(昭和61年8月28日指定)

吉川元春の墓

 吉川元春は1586年(天正14)豊臣秀吉の要請により九州の小倉へ進攻したときに57歳で病没した。遺骸をこの地に帰し葬送し、随浪院殿前駿州太守四品海翁正恵大居士と号す。

 又、左に隣接しているのは、元春の長男元長の墓で、1587年(天正15)に宮崎県日向において40歳で病死したものである。
 元春に同じくこの地で葬送し萬徳院殿前禮部中翁空山大居士と号す。
【写真左】吉川氏の墓・その2
【写真左】吉川氏の墓・その3

 なお、右に離れている墓標は、元春の四男で早逝した禅岑法師の墓といわれているが定かでない。
 吉川家が岩国に移封された後は、一時期荒廃したが、1827年(文政10)に修復され、玉垣・石塔ができた。さらに1908年(明治41)の進賞、追贈に際し改修が行われ現在に至っている。
    昭和60年2月1日
       広島県教育委員会
       豊平町教育委員会”

【写真左】資料館「戦国の庭 歴史館」の建物
 吉川氏関係のものが集められている。







◎関連投稿

2012年12月22日土曜日

日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)

日野山城(ひのやまじょう)

●所在地 広島県山県郡北広島町新庄
●別名 火の山城・日山城
●指定 国指定史跡
●築城期 天文19年(1550)以前か
●築城者 吉川元春
●標高 705m(比高300m)
●遺構 郭・空堀・土塁・石垣・井戸等
●規模 1,500m×800m
●登城日 2012年10月19日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 毛利元就の次男・吉川元春が築いた山城で、近在ではもっとも大規模なものである。所在地は、以前投稿した日野山城へ移る前の居城・小倉山城から4キロほど南下した日野山に築かれている。
【写真左】日野山城遠望・その1
 北方の小倉山城から見たもの。








現地の説明板より

“日山(ひのやま)城跡

 日山城は吉川興経のあとを継いで毛利氏から入った元春が、1550年に新庄小倉山城から入城して、それまであった山城をより本格的な城塞として整備した。
 1591年に孫の広家が、出雲月山富田城に居を移すまで吉川氏の本城として用いられた山城である。
 城は周辺一帯を見渡すことができる標高705m、比高300mの山頂に造られている。山頂の郭群は、「本丸」を中心に「二の丸」「池の丸」「姫路丸」「馬の段」など数十段の郭を東西約700mの範囲に連ねている。
【写真左】日野山城遠望・その2
 東麓を走る国道262号線から望む。

 登城口はこの道路の西側(中山峠付近)に案内板があり、そこから車で少し向かうと2,3台駐車できる駐車場が設置されている。


 なお居館(吉川元春館跡)は城の西南麓約3kmの海応寺にあり、途中には吉川元長の菩提寺(万徳院跡)が残っている。
 範囲数kmに及ぶ極めて大規模な日山城内には、庭・寺院跡などがあり、それまでの実戦的な中世山城とは様相を異にし、館的な役割も果たしていたと考えられる。
    昭和61年8月28日史跡指定
         北広島町教育委員会”
【写真左】登城道分岐点
 駐車場からしばらく歩いていくと、ご覧の分岐点がある。案内表示などはないが、左側の道を進む。

 なお、この分岐点にはかなり古そうな石積みがある。祠か何かがあったのだろう。




吉川氏累代の居城

 吉川氏の居城として、改めて同氏居城関係を整理しておく。
  • 日野山城    天文19年(1550)、10代元春(毛利元就次男養子)築城。11代元長・12代広家、居城期間約40年
  • 月山富田城(島根県安来市広瀬町)   12代広家移る。
【写真左】登城道
 しばらく谷筋を進むため、途中から渓流を登っていくような箇所が続く。

 登城する時期としては、雨季や夏季などは避けた方がいいだろう。間違いなく藪蚊と湿気で体力を消耗する。





日野山城の築城期

 説明板には築城期を1550年、すなわち天文19年と記してあるが、これより4年遡った同15年7月6日付の『吉川氏宿老手日記』には、

 火野山わたし申候て其まま二郎殿(元春)御座候て可然候事

 という記事があり、実際には山城築城の前から砦などの要塞施設があったものと思われる。ちなみに、元春が吉川氏に養子に入り家督を継ぐのは、天文16年で、併せて元就が家督を長男隆元に譲るのもほぼ同時期である。
【写真左】米蔵段付近の石垣
 渓流沿いのコースから次第に離れ北側の尾根を進んで行くと、「米蔵段」という郭が出てくる。

 登城道から少しそれた箇所にあるもので、文字通り兵糧貯蔵の場所である。

 その上段にはご覧の石垣が確認できる。



 ところで、吉川氏が正和2年から安芸国に来住して以来、居城の位置は次第に南下してきている。これは元春が吉川氏に養子に入ったことにより、さらに安芸国西部(山県郡等)を領有拡大し、併せて山陽・山陰の要所を抑えるために、より要害に適した標高700m余りの日野山を選んだ結果だと考えられる。
【写真左】中城
 大手道から進んで行く場合の最初のまとまった郭群で、「中城」又は「中城口」といわれる箇所。

 後ほど紹介する「大門の原」から比高40m下がった位置にあり、この写真の郭を含め、長さ30~50m前後の郭がこの先に6段連続して配置されている。

 位置的な観点から考えると、いわゆる「出丸」若しくは「前城」としての機能を持つものだろう。


 城の修復

 冒頭でも紹介したように、日野山城は大規模なもので、毛利元就の居城・吉田郡山城と同じく、広島県下では最大のものである。このため、元春が入城した天文19年以降も、修復・増築工事が行われていたようで、例えば永禄9年(1566)霜月(11月)1日付の小早川隆景が石見の益田藤兼に宛てた手紙でも

 “日山普請等被ニ申付一之条、兎角年内者可ㇾ被ニ相延一候”

とあり、10年以上当城の工事が行われていたようである。
 
 また、翌年には同じく益田藤兼の次男・元祥と、吉川元春の女との婚儀成立に対する礼を述べるため、藤兼が安芸吉田郡山城で元春と会う予定にしていたが、元春はこのころ日野山城の西麓に居館を建築中で、その年の出頭は取りやめになったという記録がある。
【写真左】中城から二の丸方面へ向かう。
 前記の中城(群)から二の丸までは、直線距離で250m前後だが、実際には歪な九十九折道を進むため、400m前後はあっただろう。

 当城の中でも最も急峻で、息が切れた箇所である。




遺構の現状

 さて、当城は1986年に国の史跡指定を受けている。
 指定理由は、歴史的価値や規模(遺構数の種類や数)などが抜きんでていることからと思われるが、登城踏査した限り、残念ながら現地の維持管理が定期的に行われていないように見受けられる。

 正直に言えば、小倉山城の整備状況に比べると、日野山城のそれは山城探訪者にとって、不満が残る。
【写真左】「大門の原」入口付近
 先ほどの難所を超えると、ご覧の平坦地が現れる。

 写真左側の切崖を登ると二の丸に当たり、右に進むと「姫路丸」という郭がある。
 大手道から見て左右に配置された郭群となる。

 従って、この位置は「大門の原」の入口に当たり、枡形の形態をなしている。


 しかし、登城してみて感じたことは、広島県下の主だった山城に比べ、登城口から城域に至るまでの道中(登城道)があまりにも険しく、整備するための機材搬入も困難であるからだろう。

 当城の管理主体はおそらく北広島町と思われるが、予算的な制約があって厳しいかもしれないが、せめて遺構箇所に設置されている古い標示板や、劣化して見えないものなどは更新してもらいたい。その際、できれば縄張図を「大門の原」付近に設置していただくとありがたいのだが。
【写真左】姫路丸
 先ほどの「大門の原」入口付近から北に伸びている郭段で、「客殿」と呼ばれる土塁状の郭で区画された北方支尾根上に連なる。

この写真の郭を含め、4段の郭で構成され北に伸びている。ただ、現地は手前の部分のみが踏査可能な箇所で、その先は荒れ原野となっているため、向かっていない。
【写真左】大門の原
 入口付近から50mほど進んで振り返って見たもので、左側に姫の丸、右を登ると二の丸に繋がる。
【写真左】大広間の段
 大門の原を過ぎて、しばらく行くと2m程度高くなり、再び広大な平坦地が出てくる。

 この写真は上側から見下ろしたもので、この場所がもっとも広く、戦いの前など多くの兵士がこの場所に集められたのだろう。

 なお、この先には大広間を囲むように土塁が構築され、そこから西に向かって、本丸、南に向かって二の丸へと繋がる。
 先ず二の丸に向かう。
【写真左】二の丸
 大広間の南側に構築され、西から東にかけて幅5~10m×長さ100m余の規模で、西側の土塁からさらに5m程度高くなった位置にある。
【写真左】二の丸から南方を俯瞰する。
 日野山城の眺望はあまりよくないが、この場所からは南方の千代田方面が確認できる。
【写真左】「下り丸」
 二の丸から再び本丸に向かう。一旦北方向に進み、再びそこから西に折れていくと、最初に大きな郭があり、そこから小規模な郭段が小刻みに西の方へつながる。

 なお、「下り丸」という名称はおそらく本丸から下るという意味から来たもので、個別には別の名称があるかもしれない。
【写真左】三の丸と本丸の分岐点
 下り丸を約100mほど進むと、尾根北側の道で「三の丸」と「本丸」へ向かう分岐点にあたる。
 先に本丸へ向かう。
【写真左】本丸・その1
 手前から見えた本丸の切崖
【写真左】本丸・その2
 標示板は確認できたが…
【写真左】本丸・その3
 全体はご覧の通り。
 2m以上は優にある立派な茅が成長し、まったく遺構の確認は不可能。
 記録では、60m×30mの長方形の平檀を、部分的に石垣で4段に区切っているという。

 そして東南部の広い郭には50cm大の割石による礎石が並んでいるというが、これではどうしようもない。

 この本丸部分は日当たりが良いため、茅の成長も早いのだろう。
 ひょっとして、この茅は本丸に建てられた建物の屋根にも使用されたのかもしれない。
【写真左】三の丸
 先ほどの分岐点まで戻り、北側に下る道を進むと三の丸が控える。

 本丸との比高差は約20m程度あり、北の尾根に向かって3段の構成となっている。
 当城の中では比較的遺構の確認がしやすい状況となっている。

 なお、北端部の郭は西の尾根筋に繋がり、最終的には西方を扼するようだ。


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 周防・岩国城(山口県岩国市横山3)

2012年12月19日水曜日

紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)

紫城(むらさきじょう)

●所在地 岡山県高梁市備中町平川後北
●築城期 元暦年間(1184)~建武年間(1334~1338)
●築城者 藤原資親、平川掃部介源高親
●城主 平川氏
●高さ 600m(比高100m前後)
●遺構 郭・土塁・虎口・堀切等
●登城日 2012年10月21日及び、2013年7月10日

◆解説(参考文献「史跡 紫城址(平川の歴史をかたる会編)、『日本城郭体系第13巻』等)
 紫城は以前紹介した軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)の南方、成羽川のダム湖(備中湖)の対岸に築かれた山城である。
【写真左】紫城遠望・その1
 南西麓から見たもの。











 紫城のある平川は備中国(岡山県)西端部で、備後国(広島県)との境目に当たる。

 登城したこの日、広島県側の神石高原町から向かったが、成羽川上流部から笹尾・豊松・中平・有木など狭い林道のような道を走っていると、中世の面影がそのまま残っている雰囲気が感じられた。
【写真左】紫城遠望・その2
 北東麓を流れる成羽川にかかる新成羽川ダム付近から見上げたもので、谷底から見るとさすがに険阻な景観である。




 そして備中に入った途端、山間部ではあるが開けた平川の集落が見えた。平川の地区は高低差は神石高原町とさほど変わらないものの、全体に中腹部まで開墾された畑や集落が点在し、日差しが明るい箇所が多い。
 このことは、長い歴史を持った平川氏が、代々築き上げてきた景観でもあるだろう。
【写真左】紫城と軽尾城の位置図
 紫城と軽尾城との間は、直線距離で約2キロほどだが、中世戦国期は現在のようなダム湖でなかったこともあり、成羽川が形成する険峻な奥深い谷が往来を困難にしていたこともあり、たがいに関わった記録は今のところ見えない。
【写真左】北方の西油野の山並み
 紫城の北麓は成羽川の水を蓄えた新成羽川ダムによる貯水池が東西に長く伸びている。

 この写真に見える奥の山並みは、それらダム湖の対岸にある西油野方面だが、右側の山の奥には以前紹介した軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)がある。


現地の説明板より

“紫城史

 この城は鎌倉時代の建武3年(1336)当時の穴門郷の領家職として、近江国(滋賀県)野洲郡平川荘より、平川掃部介源高親が当地を拝領し、紫城を築き領主として本郷を支配した。高親は出身地の平川荘の地名をもって平川氏と名乗り、当郷に自分の名を与え、平川村と称したのである。

 一方本城と平川氏の館をより強固にするため、次々と支城を築き、金護山城・北丸之城・大原田城・山根城等に一族を配置強化し、一大城域を形成し、初代高親から親倫まで10代に亘り、この城を継ぎ当地を治めてきたのである。
【写真左】登城口付近
 登城口手前100m付近には道路左側に駐車場が設置されている。
 御親切に登城用に杖も備えてあり、地元の方々の熱心さが伝わる。


 時は天文9年(1540)9月1日、出雲の尼子晴久は平川氏が毛利となれば、備中の諸士も皆毛利に属するのを恐れ、尼子の軍勢は米倉平内正勝を大将として、1千騎をもって一の木戸、萩垣の根まで押し寄せる。

 そこで9代目平川三郎右衛門尉久親は、先頭に立ち300騎を二手に分け、谷間で敵の本陣を迎えた。

 軍将米倉は広場で備えを直そうとして、兵士を退かせるのをすかさず攻め込み、尼子の軍将正勝に向け矢を放ち、鎧の千檀の板に射ち込んだ、軍士それをようやく助け、備後国の奴可郡(比婆郡)菅城(すげじょう)まで引き返すが、軍将米倉は深手を負って他界し、軍も出雲まで引き返したという。
【写真左】麓の集落
 少し進むとご覧の風景が眼下に見える。起伏に富んだ山並みながら、なだらかな地形が多いせいか、高所まで田畠や家が点在している。


 このようにして紫城を中心に、この地域一帯で激しい戦闘があったことであろう。それを物語るのが、この地で見られるおびただしい数の室町期の五輪塔である。

 こうして260年の長きに亘る紫城も、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦を機に廃城となり、以後、徳川幕府直轄地となったのである。そして城主平川氏は領主的庄屋として、数代に亘りこの平河村を治めてきたりしと哉。

    平成22年8月吉日   平川の歴史をかたる会”
【写真左】鳥居附近の登城口
 駐車場から200m程度進むと、ご覧の鳥居が建つ登城口が見える。
 登城道は鳥居を潜っていくものと、その右側から進むコースの二通りあるようだ。
 この日は右側から進む。



平川村

 紫城の城主平川氏については、説明板にもあるように、現在の滋賀県にあった野洲郡平川荘から入部したとされる。この野洲郡平川荘というのは、おそらく野洲市西南部三上地区付近と思われ、野洲川東岸部と思われる。
【写真左】城域入口付近の土橋と堀切
 鳥居付近から歩いて10分程度で城域にたどり着く。道も管理されていて歩きやすい。
 この場所は南側に当たり、土橋道の右には堀切がある。
 先ず堀切側の方へ進む。
【写真左】見張り櫓
 現地には「堀切」と命名してあったが、実態は長い空堀といったほうがよさそうな遺構を残し、南東端には「見張り櫓」がある。
 空堀との比高は2m弱程度。



 さて、平川氏が備中国に入り平川村を扶植したとあるが、当地と関わった別の一族が記録上残っている。

 それは、今月投稿した出雲国(島根県)の奥出雲の馬来氏が領地した馬木地区の信原氏(星田)という一族である。馬来氏関係の投稿の際、同氏については言及していなかったが、馬来氏が所領した真木村は、文禄5年(1595)ごろを最後とし、その後以下の者が当地を治めることになった。

雲州仁田郡真木村配当之件
  • 大馬木 1500石  信原弥五郎
  • 小馬木 800石   星田内蔵助
  • 同    500石   今井左馬之助
  • 同    456石   那須与惣右衛門
  • 大馬木 16石    百弘三郎兵衛
右之衆拝領前状而之以辻下地無出入ニ堅固可相渡 恐々謹言
   文禄5年2月19日   佐石  判
      (毛利家奉行 佐世元嘉)
             (信原氏蔵文書)
【写真左】三の檀側の虎口
 入口に当たるところで、両側は土塁が囲繞している。








 上記の中で、星田内蔵助は元は三村内蔵助親貞といい、三村氏の一族で、文禄5年の所替え前は、「備中国川上郡平川村」を支配していたという。

 また信原氏についても三村氏の一族とされ、建武3年8月2日付による将軍直義判物によれば、始祖信原朝貞の嫡男・宗貞が、
  • 雲州仁田郡(仁多郡)真木村事早任当知行之旨
とされている。
 そして信原氏は、戦国期の天文元年(1532)、尼子方として活躍し、治郎右衛門は忠節を賞され備中国井原の土地を安堵され、先祖の土地に近いところに移住している。
【写真左】三の檀
 東西29.3m×南北15.5mの規模を持ち、構えの塀として下底幅3.5m、上幅1.0m、高さ1.2mの土塁が西南東を囲繞する。





米倉平内正勝と米原氏

 さて、説明板にある天文9年(1540)の紫城攻めの際、尼子の軍将として米倉平内正勝が一千騎を以て攻めたと記されている。

 尼子氏がもっとも勢力を拡大していた時期は、概ね天文年間(1532~55)である。紫城を攻めた天文9年(1540)は、尼子氏の最強軍団新宮党(国久)(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)が美作に入り、美作・高田城や笹向城などを攻め落としている。おそらく、紫城攻めもその一環として備中国攻めが行われたのだろう。

ところで、この米倉平内正勝という武将だが、管理人の手持ち資料には尼子家臣団として「米倉」なる姓の武将の名が全く見えない。
【写真左】二の檀・その1
 三の檀を過ぎると、約2mほどの高さを持って二の檀が控える。
 二の檀は主郭を囲むように、南から西に回り、さらに北側にも連続している。
【写真左】二の檀・その2
 右側が二の檀で、左の高くなったところが主郭になる。








 どういう経緯で米倉なる武将名が記録されたのか分からないが、この米倉という姓名には疑義が持たれる。

 結論から言って、米倉ではなく、「米原」ではなかったかと考えられる。

 なぜなら、米倉の後につく「平内」は、米原氏が代々つけていたもので、尼子家臣団の一人であった出雲国高瀬城(島根県斐川町)主・米原綱寛は、米原平内兵衛綱寛といった。

 また、以前取り上げた米原氏の出身地・太尾山城(滋賀県米原市米原)その1でも紹介したように、応仁元年(1467)の段階で、既に米原平内四郎の名が見え、さらに、興味深いこととして、尼子経久の父・清貞の代に、米原宗勝入道が出雲に来住したという記録も見える。

 こうしたことから、米倉(米原)平内正勝は、この宗勝入道の嫡男ではなかったかと想像される。

出雲米原氏の流れ

 以上のことを踏まえると、出雲国に初めて来住したのは、米原宗勝入道で、その嫡男平内正勝は、この天文9年の備中紫城攻めにおいて戦死。おそらく正勝には嫡男がなく、当時近江国にあって六角定頼の元に養子に入っていた治綱の子・綱広を出雲米原氏(平内正勝)の跡継ぎとしたのではないだろうか。

 正勝に嫡男がなかったとする理由は、その後「勝」の字を冠した米原氏が跡を継いでいないことや、その後綱広及び綱寛と、「綱」の字を持つ名が続いたことからである。
【写真左】主郭・その1
 二の檀から1.5m程度高くなった位置に構成され、東西31m×南北38mの略方形の規模を持つ。







紫城

 さて前置きが長くなってしまったが、当城・紫城については、現地を訪れた際、「平川の歴史をかたる会」という団体によって編集された資料がおいてあり、当城が地元の方々によって熱心に維持管理されていることを感じた。

 この資料によると、築城期は『日本城郭体系第13巻』に記されている建武3年よりさらに古く、元暦年中(1184)藤原資親の代までさかのぼるという。
【写真左】主郭・その2
 ほぼ中央部に当城の説明板が設置されてある。またその傍らには祠跡らしき石積みが残る。





 遺構概要は、主郭・二の檀・三の檀からなり、三の檀には土塁があり、中央部には虎口が設けられている。南東端及び北西100mほどの2か所には見張櫓台があり、二の檀の西側に搦手門があった。

 紫城を守備する支城としては、
  1. 金護山城 城主 平川景親    下郷宮
  2. 北丸之城 城主 江草右京    前北
  3. 大原田城 城主 大原田又十郎 
  4. 山根城  城主 物部郷
などがあった。
【写真左】城井戸
 主郭の北西端に残るもので、現在50cm程度の窪みが残る。








 なお、紫城から2キロほど南下すると、居館跡があったとされているが、どのあたりなのか管理人にはわからない。

 また、平川氏菩提寺とされた曹洞宗・観音院という古刹には、同氏累代の墓があるという。残念ながら、このことを知ったのは登城を終えて数日たってからだったため、訪れていない。(下段追記参照)
【写真左】搦手門
 二の檀の西方部に残るもので、劣化があるものの虎口の形態を維持している。
【写真左】二の檀の北東端
 紫城は南西麓から遠望するとなだらかな山城に見えるが、二の檀の北~東面に立つと険峻な切崖構造となっている。
 この方向を下ると成羽川(ダム湖)に繋がる。




歓音院

 前回訪れたあと、翌13年に歓音院を訪れたので紹介しておきたい。
【写真左】歓音院 山門
 平成19年に落慶されたとある記念碑に縁起等が謹書されていたので、抄出する。






“田口山観音寺本堂 客殿 庫裏改築

落慶記念碑
    當山25世 住職 明苑健善 謹書

 奈良時代行基菩薩の開創と伝えられている当山は、南北朝時代の文和元年(1352)に改めて平川掃部介高親の開基により喜外大澤和尚臨済宗として開山。
【写真左】遠望



 下って室町時代の大永3年(1523)澄山租潭和尚(善福寺4世)曹洞宗に改宗し再興開山。不幸江戸時代2度にわたり焼失し元文4年(1739)再々建。爾来本堂は260有余年庫裡は昭和の初期民家を移築、共に老朽化甚だしく全面改築が懸案となって推移するなか、平成15年(2003)明苑健善和尚・堀井寶総代長遂に協議決断。護持会役員改築方針決定、檀信徒の協賛寄進申し出状況を踏まえ、同16年設計着手、翌17年6月起工、同18年(2006)12月落成。
【写真左】五輪塔群
 山門脇に整然と並んでいる。おそらく改築に合わせて移設されたものだろう。



 その本堂・客殿・庫裏は合わせて延べ497㎡(151坪)、木造瓦葺・一部2階建て。
 ここに、待望の落慶式典を迎えるにあたり、当改築は超過疎地にあって高齢・離村の著しいなか檀信徒等しく三宝帰依のもと可能な限りの力を結集して遂行したものであることを敢えて付言し、幾久しい当山の護持興隆・檀信徒子々孫々の安寧を祈願しながら万感の思いをこめて、この碑を建立する。
  平成19年5月20日   観音寺本堂等建設委員会”