2012年1月22日日曜日

真山城(島根県松江市法吉町)

真山城(しんやまじょう)

●所在地 島根県松江市法吉町
●別名 新山城
●築城期 平安時代末期か
●築城者 平忠度か
●城主 多賀元信、尼子勝久
●高さ 256m
●遺構 郭・帯郭・石垣等
●登城日 2007年12月23日、2012年1月18日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』、『尼子物語』妹尾豊三郎編著等)
 今稿では、前稿忠山城(島根県松江市美保関町森山)で紹介した真山城を取り上げたい。
 所在地は、松江市の法吉町(ほっきちょう)に所在し、別名「新山城」ともいわれる。
南方にはいずれ取り上げる予定の「白鹿城」がそびえている。
【写真左】真山城遠望
 真山城側の尾根と並行して走る西側の尾根(大高丸城側)の北方・天狗山付近から見たもの。


 左側最高所が本丸で、以下右に「一ノ床」「二ノ床」「三ノ床」と下がっていく。


現地の説明板より

“真山城址
 真山は新山とも書かれ、標高256mで、頂上から一の床、二の床、三の床と階段上に区画され、野面積みの石垣が残っている。

 永禄6年(1563)毛利軍の将、吉川元春が真山に陣を布き、尼子軍が拠る白鹿城を攻めた。この戦に尼子軍は敗れ、白鹿城は落城する。以後毛利氏は真山城を拠点として、多賀左京亮元信を入城させた。

 永禄12年(1569)尼子勝久、山中鹿介幸盛らは京都で挙兵し隠岐に渡り、ついで島根半島に上陸して真山城を占拠した。以後、尼子軍は真山城を本拠として、広瀬の冨田城に迫ったが、尼子軍は敗れ、尼子勝久は元亀2年(1571)真山城を去った。

 勝久退去まで2年余の歳月であった。以後、毛利氏が城を修理し家臣を置いた。真山城の廃止時期は明らかでない。

 法吉 白鹿 真山の自然と文化を育む会”
【写真上】真山城跡及び白鹿城跡案内図
 真山城登城は前回(2007年)雨の中、南側登山口から本丸までの往復で断念していたが、今回(2012年1月18日)は本丸を過ぎ、そのまま尾根伝いに北へ進み、この図では書かれていない、北端の鳥ノ子山(252m)を通り、西の尾根を伝い、白鹿山城砦群(天狗山・玄武山・尻廻し山)を縦走し、大高丸山の東尾根を下って、本谷林道へ降りるコースを踏査した。


築城期と築城者

 『雲陽軍実記』によれば、平安末期に平薩摩守忠度(ただのり)が、平清盛より当地島根半島の東部(本庄・森山とあり、前稿「忠山城」もこの区域に入るだろう)を宛行され、新山にこの城を築いたとされている。
平忠度は、平忠盛の六男で、清盛とは異母弟に当たる。

 もっとも、これについては『日本城郭体系第14巻』でも記されているように、伝承によるもので、史実かどうかはっきりしない。ただ、尼子氏の居城・月山冨田城の築城が、治承元年(1177)頃、平景清の築城とされ、また、出雲国と石見国の国境にある鶴ヶ城跡(島根県出雲市多伎町口田儀清武山)も、康和から嘉承年間(1099~1108)に築城されているので、平家が支配した西国(出雲国)の真山城の築城期も、その頃と推察してもよいだろう。
【写真左】真山城登山口
 南麓部にあたり、麓を東西に道路が走っている。東方には「ソフトビジネスパーク」というIT関連の工場団地があるためか、山道の割に車の往来が多い。


 駐車場はこの付近の南側に2台程度と、少し西の坂を下ったT字路の脇に1台分のスペースが確保できる。


戦国期

 説明板にもあるように、真山城が記録に現れるのは戦国期である。
 以前にも述べたように、尼子氏が弱体化し始めるのは、永禄3年(1560)12月の晴久急逝が一つのきっかけとなっている。跡を継いだ嫡子・義久の代になると、それまで尼子氏に与していた国人領主は次第に離れ、毛利氏につくようになる。

 永禄5年(1562)ごろになると毛利氏は先ず石見国を支配し、次第に東進し出雲国へ侵入してきた。同年12月10日、毛利元就は宍道湖北岸に荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を築き、尼子氏居城の月山冨田城と、真山城の南方にあった尼子十旗の一つ白鹿城の連絡を絶った。
【写真左】白鹿城遠望
 案内図にもあるように、真山城の南方には白鹿城が指呼の間にある。
 登り始めて2合目付近から見え始める。





 説明板では、真山城に毛利方吉川元春が永禄6年に陣を布いた、とあるが、おそらくこの年の前年、すなわち荒隅城を築いたとき、すでに真山城の方へも一部は向かっていたのだろう。

というのも、白鹿城と冨田城の連絡を絶つためには、白鹿城より南方にある荒隅城のみでは、決定的な遮断ができないと考えられるからである。

 荒隅城の位置は白鹿城の南方宍道湖岸にあるが、白鹿城から冨田城へ向かうルートとしては、南進の他に、東部の朝酌川沿いを伝っていく方法があり、距離的にもむしろこのルートが優先される。

 このため、白鹿城からの動きを確実にとらえることができるのは、北方の真山城の方がより有効ではなかったかと思われる。
【写真左】土橋
 3合目付近にあるもので、長さは20m前後か。
ちなみに、こうした土橋形状の遺構がもう一か所あったように記憶している。



 さて、南に荒隅城を向城とし、北に真山城を抑えた毛利方は、白鹿城を落としていくことになるが、この戦いは後に、「白鹿城二の城戸大合戦」と呼ばれることになる。これについては、いずれ取り上げる「白鹿城」の稿で、紹介したいと思う。

鹿助らの真山城占拠

 毛利氏によって白鹿城を落とされた永禄6年(1563)10月29日から6年後の同12年(1569)6月、前稿「忠山城」でも述べたように、尼子再興を図った尼子勝久・山中鹿助らが、忠山城からこの真山城を攻略した。
【写真左】満願寺城遠望
 4合目から5合目付近で眺望できるが、宍道湖北岸に「満願寺城」が確認できる。


 大永元年(1521)又は大永7年(1527)、当時尼子氏に属していた湯原豊前守信綱が築城した。永禄5年(1562)、毛利元就が荒隅城に入ると、信綱の孫右京進春綱は毛利方に降った。
 満願寺城についても、いずれ取り上げたい。


真山城落城

 彼らの最終目標は、尼子氏の居城であった広瀬月山冨田城の奪還である。しかし、再興軍の戦いはこの後、出雲・伯耆の所々で敗戦を屈し、説明板にもあるように、勝久らが拠ったこの真山城は元亀2年(1571)8月21日落城し、再び隠岐国へ逃走することになる。
【写真左】登城途中の墓石
 5合目手前の西側に祀られている墓石で、「相本盛之助、更科姫 墓」と刻銘されている。建立されたのは、昭和2年11月とある。


 以前この墓についての史料を目にしたことがあるが、二人は尼子氏と関わった人物なのかはっきりしない、とされている。
【写真左】三の床
 7合目付近からさらに傾斜がつき始めるが、この位置で最初の郭・三の床が現れる。


 三の床の南端部から下段まで7,8mの比高を持ち、下段の尾根を東から西に向かって道が造られている。この道が「白鹿谷」に向かう道の一つである。


三の床は、幅5m前後で、南北に約30m伸びる。東側面には南北に幅1m程度の腰郭が付随さている。
【写真左】二ノ床手前の小郭
 三ノ床から40m程度進むと、二ノ床手前に小郭が控える。


 幅・奥行とも5m前後で、登城道はここで東(右)から西(左)へ回って進む。
【写真左】二ノ床・その1
 8合目付近にある郭段で、本丸まで200m弱の位置になる。


 二ノ床は全長約50m前後で、2,3段の段差を持たせた規模で、幅はほとんど変わらず5,6m前後。
 写真は北側から南を見たもの。
【写真左】二ノ床・その2
 この写真奥は次の壇である一ノ床が控えている。


 そしてこのあたりの傾斜が一番強く、要害性が高い。
【写真左】一ノ床南切崖
 二ノ床の北端部で、一ノ床の切崖が見える。
【写真左】一ノ床
 基本的に三ノ床から本丸までの郭幅は5~10mの範囲内で、ほぼ直線の尾根伝いに郭段が続くが、一ノ床辺りで少し幅が広くなり、長さも100m前後と大きくなる。


 一ノ床中心部には、石碑跡が残る。おそらく以前にはこの上に石柱が建ててあったのだろう。現在は自生した松の木が立っている。


 なお、一ノ床の北側には少し鞍部となった底部が残り、東西には土塁状の痕跡が認められる。
【写真左】主郭・その1
 一ノ床から緩やかな登りを過ぎると、主郭が現れる。
 松江市民の手ごろな登山として親しまれているせいか、主郭周辺は整備され、見通しがいい。
【写真左】主郭に建つ石碑
 主郭北側には「尼子勝久公之碑」と刻まれた石碑が建つ。


真山城の南麓に常福寺という寺があるが、この寺院の住職・小川龍山という人が書かれたものとある。
【写真左】主郭から南西を見る。
 宍道湖を中央に、手前に「小白鹿城」、宍道湖南岸に「幡屋三山」といわれる「丸倉山城」「大平山城」「八重山城」(2009年11月投稿)、その右には大黒山の後背に「高瀬城」などが控える。
【写真左】主郭から西方を見る。
 西方には、「本宮山城」(2009年3月30日投稿)が見える。
【写真左】主郭から北西を見る。
 右側には日本海が見え、このあたりでは最高所で、出雲風土記に登場する神名火山の一つ霊山・朝日山が見える。


また、その手前には「海老山城」(2011年12月14日投稿)の尾根が見える。


なお、この日は真山城からさらに北に向かい、西側の相対する尾根(写真に記したライン)をたどった。
【写真左】主郭から南方を見る。
 白鹿山稜線より少し西に走る稜線の南端部には、毛利元就が陣した「荒隅城」が見える。


 現在当地は天倫寺という寺になっており、遺構はほとんど確認できないが、宍道湖北岸の水軍城として、白鹿城攻めの際重要な城砦となった。


いずれ荒隅城についても取り上げる予定である。
【写真左】主郭より南東に伯耆大山を見る。
 登城したこの日は珍しく晴天で、視界もよかったため、伯耆大山(だいせん)も鮮やかにみることができた。
【写真左】主郭から北北西に鳥ノ子山を見る。
 真山城の主郭を越え北に進むと、数回のアップダウンをしながら、鳥ノ子山につながる。


東方の真山側の尾根と、西方の白鹿山砦群・大高丸山側尾根との中心にあたり、扇の要の位置になる。


島根県遺跡データベースでは「城砦」として登録はされていないが、毛利・尼子の戦いではおそらく当山も重要な物見砦の役目を果たしたものと思われる。この山についても、紹介する予定である。
【写真左】主郭から北に向かう。
 前記したように、主郭からさらに北に向かうが、主だった場所としては、寺床・本谷口、そして鳥ノ子山がある。
【写真左】真山城北方の分岐点・持田越し
 真山城の主郭を北に進むと、途端に傾斜のきつい下り道となり、ご覧の鞍部にたどり着く。


「持田越し」といわれるところで、手前が真山城側、奥に向かうと「鳥ノ子山」、そして左に降りると「寺床」「本谷口」へ向かう。


 なお、ここに来るまでにも小郭らしき遺構が2,3確認できた。



次稿では、「鳥ノ子山」周辺について紹介したいと思う。

2012年1月18日水曜日

忠山城(島根県松江市美保関町森山)

忠山城(ちゅうやまじょう)

●所在地 島根県松江市美保関町森山
●築城期 永禄12年(1569)
●築城者 尼子勝久
●遺構 削平地・石塁・井戸・郭等
●遺物 焼米・陶磁器
●高さ 290m
●登城日 2011年9月27日

◆解説(参考文献『尼子物語』『新雲陽軍実記』妹尾豊三郎編著、『日本城郭体系第13巻』等)
 赤崎山城(島根県安来市赤崎町城山)でも少し紹介したが、尼子勝久・山中鹿助らが尼子再興を期して、隠岐国から出雲国に入った最初の山城である。
【写真左】忠山城遠望
 北側から見たもので、鹿助・勝久らが隠岐から日本海を渡海し、上陸したといわれる千酌(ちくみ)の地区。

 おそらく、この写真の谷間から向かったものと思われる。



 中海から隔てた南東部から当城を遠望すると、切り立った山容を誇り、容易に近づけない山城であることを思わせる。


尼子再興の始まり

 尼子氏居城・月山冨田城が毛利氏の手によって落城したのは、永禄9年(1566)7月である。
 尼子氏の生き残った家臣たちは四散し、諸国流浪の身となった。山中鹿助(山中鹿助屋敷跡(島根県安来市広瀬町富田)参照)らは、しかし尼子再興を期し、あらゆる手立てを模索していくことになる。
【写真左】林道からの分岐点
 忠山城へは、北側の千酌から当城の西麓の峠を越え、南側の中海側まで結ぶ林道があり、くだんの峠付近で車を駐車し、そこからは歩いていくことになる。

 郭跡にはNTTの無線中継所があり、そこまで道はあるが、関係者専用のようだ。また度々落石があるため、徒歩のほうが確実である。
 写真にもあるように、この位置で中継アンテナが見える。


 伝聞では、鹿助と吉田八郎左衛門義金(直景)・真木宗右衛門高純らは、頭に菅笠を、肩には輪袈裟を、手には金剛杖を持つ巡礼者となって東国へ向かい、武田・長尾(上杉)・北条の軍法を調べ、さらには越前国・朝倉(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)の家風を学んだとされ、その後京都へ腰を落ち着けた。

 そして、当時、松永弾正(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)に身を寄せていた尼子十勇士の一人・横道兵庫介や弟・権允を京都へ呼び、体勢を整えていった。
【写真左】登城途中から西方を見る。
 本丸跡周辺は雑木があるため、ほとんど眺望は期待できない。このため、登城途中で部分的に視界を確認できる。

 写真は、ここから攻め入ったとされる西方の「真山城」方面を見たもの。
 残念ながら、忠山と真山城の間には「枕木山(H453m)」という山があるため、真山城は見ることはできない。



尼子勝久の擁立

  その後、尼子一族の一党であった新宮党の遺児で京都東福寺の僧侶となっていた勝久(太尾山城・その5参照)を還俗させ、尼子再興軍の大将として擁立、旧尼子氏配下の者や、雑兵も含め約300余の兵を集めた。

 永禄12年(1569)、尼子再興軍は但馬に入り、地元の海賊奈佐日本助(津居山城(兵庫県豊岡市津居山)参照)の船に乗り、その年5月隠岐島へ渡った。

 隠岐国では、佐々木義清の流れをくむ隠岐為清が、西郷町東郷の宮田(くんだ)城(西郷湾の北東部)へ招き入れ、勝久らの尼子再興に協力した。ただ、この為清は後に、弟清実の恩賞が自らのものより多いことを不服として、再興軍に反旗を翻すことになる。
【写真左】登城道
 この位置は、主郭部の東側面にあたり、左側は主郭の切崖にあたる。道路右も切り立った天然の要害である。

 この道を北に進み、北端部で左に回り込み、今度は西側の道を進むと南端部の郭(中継所)に行き着く。


勝久・鹿助忠山城へ拠る

 それから1か月余の永禄12年(1569)6月23日、尼子勝久・山中鹿助ら再興軍は隠岐国から渡海し、出雲国島根半島の千酌浜に船を着けた。そしてそこから南方に聳える忠山に入った。

 この忠山城は写真でも分かるように、島根半島東部の中ではもっとも屹立した山城で、この位置から南方に中海を隔てた月山冨田城方面を俯瞰できる絶好の山である。
【写真左】北端部の中継所
 現在このような施設が建っているが、おそらく当時は北方を固める出丸のようなものがあったものと思われる。

 施設があるため、当時の規模は不明なものの、三角形状で、幅は15m、奥行は30m以上はあったのではないだろうか。


 忠山城に拠った勝久らは、ここで檄を飛ばし尼子再興の支援者たちを集めた。このとき当城に馳せ参じた主な者は以下の通り。

  1. 大庭の大宮司・秋上三郎左衛門綱平、その子・伊織介久家ら200騎
  2. 森脇市正久仍(ひさより)、横道源介高光、疋田右近・同右衛門尉、原田孫四郎(孫六)、松田兵部少輔、熊野兵庫助・同次郎、馬田兵庫助・同長左衛門、桜井與八、朝山六郎、田原右兵衛他700騎
  3. 大山教悟院の精兵300余騎
  4. 中井平三兵衛・同助右衛門、加藤彦四郎、寺本市丞、進左吉兵衛、高尾右馬允・同宗兵衛、目加田采女正・同弾右衛門、福山次郎左衛門・同孫次郎、長森吉内、日野一族、熊野新右衛門、池田與三郎、相良助太郎、比田十郎、徳吉孫九郎等500騎
  5. 隠岐為清をはじめとする隠岐勢300余騎
  6. その他1000余騎
合計すると約3000余騎となり、しかも忠山に拠ってから、わずか5日後にこれだけの者が馳せ参じたことは驚きである。おそらく隠岐にあったときから、すでに鹿助らが出雲国にいる旧臣らに対し連絡をとっていたのだろう。
【写真左】NTTの中継所
 南端部に設置されたメインの中継所。
 周囲は柵が巡らされ、入ることはできない。建物の上に鉄塔が建っている。

 おそらく、この中継所は南端部の郭として2,3段のものがあったのだろう。


 忠山城に拠ってから最初に仕掛けたのは、当城から西方15キロにあった毛利方の多賀左京亮の立て籠もる真山城(島根県松江市法吉町)である。この戦いは同月下旬といわれているので、忠山城に拠ってからすぐに行われたものだろう。

 再興軍はあっという間に真山城を落とし、勝久らは一旦末次に土居を構えて砦を築いたという。
なお、真山城については、次稿で取り上げる予定である。
【写真左】主郭に向かう道
 中継所の北側の柵に沿って東に向かうと、途中から北に上る道が見える。

 これが主郭につながるもので、案内板などはまったくないため、ほとんどの人が中継所を見て、遺構が消滅しているように思うかもしれない。
【写真左】登城道
 主郭までは30m前後と距離は短い。
登城したのが夏の終わりといっても、暑い時期であったため、下段の写真でも分かるように、雑草が繁茂して、遺構の確認が今一つだった。
【写真左】主郭・その1
 幅10m、奥行20m程度の規模で、ご覧の通り。
【写真左】主郭・その2
 一角にご覧のような石碑が祀られている。
【写真左】北側の一段目の腰郭
 主郭から北に向かって、次第に細い尾根状が続くが、最初に1m程度の段差を持たせた郭が残る。
【写真左】北側2段目の腰郭
 さらにもう一つの郭が残る。
 残念ながら、そこからさらに北に向かおうとしたが、あまりの雑木・藪コギで断念した。
【写真左】忠山城から南方に中海・大根島を見る。
 中央に見える島が大根島で、さらにその向こうの右側を進むと、尼子氏の居城・月山冨田城につながる。
【写真左】大根島から忠山城を見る。
 2012年2月12日に撮影したもので、当山の優美な山容はこの大根島からの眺めが最もいい。

【写真左】忠山城から伯耆大山を見る。
 左側に聳えるのが大山。その麓は米子の街並み。
【写真左】南方から忠山城遠望
 林道を南に降って、国道431号線付近から見たもの。










◎関連投稿
正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)

2012年1月10日火曜日

日倉山城(島根県雲南市掛合町掛合)・その2

日倉山城(ひぐらやまじょう)・その2

◆解説(参考文献『頓原町誌』『掛合町誌』等)
 本稿では、前稿につづいて日倉山城の戦国期の動き、及び田部長右衛門(田邊家)について述べたいと思う。

 前稿でも少し紹介しているが、多賀山城主であった通続の叔父といわれた花栗弥兵衛が、永正11年(1514)に反乱を起こしている。
おそらく、このころ多賀山氏一族に何らかの問題が起きたためだろうと思われるが、この騒動を含め、後に多賀山通続が下段に示すように、「置文」を残している。
【写真左】蔀山城本丸














多賀山通続の置文

 この史料は、永禄2年(1559)12月に晩年の通続が書き遺したものといわれ、『飯南町誌』でその概要が下段のようにまとめてある(一部管理人加筆)。

 “自分(多賀山通続)が9歳のとき、叔父花栗(「多賀山通続同家系図案」によれば、弥兵衛という)が逆心を起こし、多賀山通広(通続の父)と、兄又四郎を永正11年(1514)9月9日に討ち果たした。

 このとき、自分は乳母に負われて蔀山城を落ち、掛合へ頼みに行くことになった。掛合にいる多賀殿の女房が、自分の叔母だったからである。しかるに、あくる正月20日、井上八郎右衛門尉が、桧木谷(高野町)において、花栗弥兵衛と刺し違え、弥兵衛を討った。井上は多賀山家にとって大功ある者である。

 自分は7番目の末孫であるが、8歳のとき母におくれ、9歳の時父と死別、10歳の時家督を継いだ。永正12年(1515)のことで、44年以前のことである。

 自分が、21歳の時、丹州(山名氏)の御下知によって、雲州(尼子氏)から離反した。ために、2年間も尼子勢と戦い、地下中が荒廃してしまった。3年目の享禄元年(1528)9月、尼子勢が蔀山城を攻囲した。

 翌年の7月19日から20日にかけて、城外の小屋で戦っている兵どもは、ついに兵糧が尽き、ある者は味方の陣に帰り、ある者は敵陣へ落ちてことごとく討たれた。

残った者は、

  • 江木源三郎・同善左衛門尉
  • 白根若狭・同雅楽助・同豊後・同豊後・同九郎左衛門尉
  • 水間伊賀
  • 大嶋河内
  • 湯浅肥前
  • 田邊四郎左衛門尉・同五郎兵衛
のみであった。彼らは3日間持ちこたえ、退却するにあたっても、粉骨砕身の働きをした。

 すると、天道のお助けであろうか、にわかに大雨が降り、その間に囲みを破って脱出することができた。江木善左衛門尉・白根雅楽助・白根豊後・水間伊賀・田邊四郎左衛門尉は、追手と立ち向かい、比類なき働きをして討死した。いずれも大功ある者で、子々孫々まで目をかけるべき家柄である。

 末代の者のために、ここに書き置くものである。
 時に、永禄2年12月、認める。”

【写真左】蔀山城本丸から日倉山城方面を見る。
 蔀山城からは、掛合の日倉山城は当然ながら見えない。






 通続が残したこの置文は、多賀山氏にかかわる事件を詳細に記したもので、大変貴重な史料といえる。同文からは色々なことが分かってくるが、『頓原町誌』にも書かれているように、次のようなことが推察される
  1. 花栗弥兵衛という人物は、多賀山通続の叔父であり、おそらく通続の父・通広の弟であったと思われる。
  2. 花栗というのは、現在の日倉城のある掛合の南方・頓原町(現飯南町)の「道の駅」付近の地名で、当地に「伝花栗弥兵衛の墓」とされる遺跡が残る。
  3. このことから、花栗弥兵衛は蔀山城の多賀山氏から分家し、当地・花栗に所領を分与されたと考えられる。ただ、弥兵衛が謀反を起こした理由は分からないが、多賀山一族に深刻な対立があったことがうかがえる。
  4. 通続が掛合の日倉城を頼って落ち延びたということから考えると、分家した花栗氏より以前に、掛合の日倉城に多賀山氏が進出している可能性が高い。
  5. 永正12年(1515)年に10歳であったというから、尼子氏と決別した大永6年(1526)は通続21歳のときで、その2年後の享禄元年(1528)9月9日、尼子経久が備後蔀山城を攻めている(『山内首藤家文書』)。
【写真左】日倉城の案内板
 前稿で紹介した国道54号線に設置されたもの。











田部長右衛門

 ところで、島根県出雲部では、江戸時代から繁栄を誇った三大鉄山師の一族田部家がある。田部家は代々長右衛門と名乗り、第23代は地元島根の県知事を務めた。ちなみに他の二氏は、度々紹介してきた塙団衛門の系譜とされる桜井家と、絲原家である。

 田部氏の始祖は、紀州(和歌山県)の田辺氏といわれ、前々稿「蔀山城」で紹介した山内首藤通資の家臣であったといわれている。つまり、相模国(神奈川県)鎌倉郡山内を本拠としていた藤原一族であった山内氏が、正和5年(1316)に備後国地毘荘に入部した際、随従してきたのがこの田辺氏である。
【写真左】日倉山城遠望
 2016年4月2日撮影
 この日たまたま国道54号線を走っていたら、主郭付近がきれいに伐採されていたので、車を停めて撮った。




 鎌倉にあった山内首藤氏と、紀州にあった田辺氏がどういう経緯で接点を持ったのか、分からないが、六波羅探題が介在していることは間違いないだろう。
 なお、史料によっては山内首藤通資を、周藤通資と記しているものもあるが、同一人物である。
そして鉄山師としての事業を始めたのは、地毘荘に入ってから200年後とされ、田部彦左衛門という人物が創業したといわれている。

 200年後とは、永正年間(1510年代)である。このことは、冒頭で記した「多賀山通続の置文」に書かれている「花栗弥兵衛の謀殺事件」が起きた時期と重なり、おそらくこの事件が落着したのち、すなわち井上某が弥兵衛を討ち果たした後のことと考えられる。
【写真左】日倉城の麓を流れる三刀屋川












 鉄山創業を開始した当初は、したがって蔀山城近辺、すなわち高野町地域だったのだろう。
その後、出雲国に入るきっかけとなったのが、多賀山氏による掛合進出と考えられるが、その端緒の一つとして挙げられるのが、下段の多賀山通定の宛行である。

 すなわち、前稿で記したように、多賀山通定が、永禄6年(1563)付で宛行した家臣の中に、
「掛合郷坂本村へ1貫前の地を受けた田部宗左衛門」という記録などである。

 なお、江戸期に至ると、田部氏の鉄山事業(タタラ操業)の中心地は、吉田川を中心とした旧吉田村にシフトしていく。

2012年1月9日月曜日

日倉山城(島根県雲南市掛合町掛合)・その1

日倉山城(ひぐらやまじょう)・その1

●所在地 島根県雲南市掛合町掛合
●築城期 15世紀後半~16世紀前半
●築城者 多賀山通憲
●城主 多賀山氏
●高さ 標高376m
●遺構 郭・帯郭・土塁・竪堀・虎口・櫓台
●指定 雲南市指定文化財
●登城日 2008年11月4日

◆解説(参考文献『掛合町誌』『頓原町誌』、『日本城郭体系第14巻』等)
 日倉山城は、前稿「蔀山城」の出張所・出城として出雲国飯石郡掛合(現雲南市)に築かれたものである。
【写真左】日倉城
 東麓を走る国道54号線から見上げたもの。
東麓には54号線との間に三刀屋川が流れ、天然の堀となっている。




現地の説明板より

“掛合町指定文化財
 日倉城跡
   所有者 掛合町
   指定理由
 日倉城は掛合町内にある中世山城跡の中でも代表的な城跡で、備後高野山蔀山城の出張り所として、15世紀後半か16世紀初頭に築城され、飯石郡へ進出した多賀山氏の拠点となったところである。

高野山より王貫峠を経て、阿井・吉田に至る道と、草峠(くさんだわ)を越え頓原・入間・掛合に至る道の接点として戦略上重要な地点であった。


城の規模は小さいが、出雲・石見・備後を繋ぐ戦略的な意味は大変大きく、また掛合という地名の起こりを考える上からも見過ごすことのできない意味を持っている。


多賀山氏が大内氏に従って山口へ赴いた後、城はさびれたが、毛利氏侵攻の際、再びよみがえり、毛利隆元も一時期滞在したと伝えられる。”
【写真左】掛合町観光案内図
 国道54号線沿いの入間地区に設置されているもので、日倉城の位置は№6に記されている。






 日倉山城が所在する掛合地区は、町村合併によってできた雲南市の南方に位置している。

 この場所からさらに国道54号線を南下した、飯南町の「瀬戸山城」(2010年2月24日投稿)の稿でも紹介したように、当地は石清水文書によれば、平安後期から鎌倉初期にかけて、石清水八幡宮の別宮(「八所八幡」として、赤穴・日蔵(倉)とされた場所である。
【写真左】日倉八幡宮
 日倉城から国道54号線を北進し、三刀屋町乙加宮地区に祀られている。

 国道54号線から三刀屋川を挟んだ西岸に建立されているが、おそらく当時は現在の54号線ではなく、その脇を通る道が中世の街道だったと思われる。


 日倉城の所在地から約15キロも離れた場所で、近くには南北朝期、名和長年に従って畿内で活躍した南朝方武将・宇佐輔景の拠った「御城山城」(2009年4月28日投稿)がある。



 このうち、日蔵の別宮は、現在三刀屋町乙加宮にある日倉八幡宮とされ、日倉山城の掛合から北へ向かった場所になる。

 地元に残る『出雲風土記』に、不在神祇官社としてすでに「日倉社」が記されており、その場所を比定する史料としては、江戸期に記された『出雲神社巡拝記』によると、

「掛合宮内村にある日倉社は、もと当所の三里南の掛合日倉山にあったが、多賀与四郎道定が城を築くといって、当社をこの地へ移して祈願所とした。」

と記されている。

 ただ、この『出雲神社巡拝記』の中にある、多賀与四郎道定については、後に述べるように、日倉山城の築城者ではなかったことが推察される。
【写真左】登城口付近・その1
 掛合の町を流れる三刀屋川西岸部にあり、この場所に向かうまでの道は狭く、曲がりくねった道であるが、麓には墓地などがあり、駐車スペースは確保できる。
【写真左】登城口付近・その2
 この写真は現在墓地となっているところだが、記録によれば、日倉山城の城域がこの墓地からさらに下った公園の位置まであったとされているので、当時はこのあたりにも複数の郭群があったものと思われる。


 ちなみに、この場所には元総理大臣だった竹下登氏の墓地があり、山号「日倉山」と書かれた古寺や、麓には「宗円寺」という多賀山氏と縁の深い寺院もある。


多禰(たね)氏

 ところで、鎌倉期における当地(旧飯石郡)を治めていた地頭については、下記の者とされている(「文永8年関東教書」:千家文書」)。
  • 赤穴荘   赤穴太郎          50町余
  • 来島荘   来島杢助入道       20町
  • 多禰郷   多禰氏           25町余
  • 日蔵別宮 多禰氏            3町
  • 須佐郷   相模殿           30町
  • 大田別宮 出雲房            5町
  • 飯石郡   目黒左衛門入道      14町余
  • 熊谷郷   逸見太郎          17町余 
  • 三刀屋郷  諏訪部三郎入道子    21町
このうち、日倉山城のある旧掛合町に該当する地域は、多禰郷と須佐郷になる。そして多禰郷のエリアは、現在の多祢・松笠・掛合及び北の乙加宮・殿河内・根波別所・里坊・坂本・須所、並びに東方の吉田村の一部にあたる。
【写真左】郭段
 登城道の前半は割と整備され歩きやすい。ただ、全体に周囲の雑木が多いため、途中の眺望はあまり期待できないが、東側(左)は切崖状が続き、直下に三刀屋川の渓流が除く。


 写真は途中に見えた小規模な郭で、標識などは設置されていない。



 上掲したように、多禰郷と日蔵別宮併せて30町弱の領地をもった多禰氏は、もとは当地の郡司か、郷司のような在庁官人の系譜を持った一族と思われ、宝治2年(1248)の出雲大社遷宮において、各地の地頭職が流鏑馬の勤仕を行っており、そのうち多禰氏は第15番の勤仕を行ったと記録されている。

 その後南北朝時代になると、北隣の三刀屋郷を治めていた諏訪部扶重(「三刀屋じゃ山城・その2」2009年4月3日投稿)が武家方として畿内を転戦している間に、大雲寺雑掌が三刀屋惣領地頭職を横妨する事件が起き、これを鎮圧させるため、暦応元年(1338)幕府は、多禰清頼らに御教書を下し、清頼は隣接の熊谷郷地頭・目黒太郎左衛門尉とともに、これら雑掌の横妨を退けたという(「三刀屋文書」)。
【写真左】削平地と切崖
 本丸までの遺構としては、小規模な郭が3,4か所確認できるが、ご覧の通り竹林が多く、写真を撮っても城砦遺構らしく残らない。




 ちなみに、この年(暦応元年・延元3年)は、新田義貞が7月に越前国藤島に敗死し、南朝方の勢威が一気に低下したときである。そして8月には足利尊氏が征夷大将軍に任じられている。

 三刀屋惣領職の横妨事件は、出雲国の主だった武家方が畿内に転戦している間の出来事で、御教書を下したのは、尊氏の執事・高兄弟の弟・師泰である。

 その後の多禰氏に動きについては、康永4年(興国6年:貞和元年:1345)2月28日、諏訪部貞扶が佐々木貞家(南朝方と思われる)の立て籠もる「尾根山城(掛合町多根)」を攻め、3月3日に降伏させるという記録があり、このことから、当時「尾根山城」が多禰氏の居城の一つとされていたと思われ、奪還したものの、同氏(多禰氏)の記録がそれ以後見られなくなる。
【写真左】本丸の麓より見上げる。
 本丸手前までは多少のアップダウンがあるものの、歩きやすいが、この位置からは急勾配の道となる。




室町・戦国期

 さて、室町期から戦国に至る当城の記録についてはあまり詳細なものは残っていない。説明板にもあるように、備後蔀山城(しとみやまじょう)の出張所として、多賀山氏の拠点となったとされている。

 ところで、『掛合町誌』によれば、以前この日倉山城主を多賀山氏ではなく、多賀氏と記した文献が出たため、「平田城」(2011年1月31日投稿)で紹介した多賀氏、すなわち京極氏の家臣であった中原姓多賀氏と混同が生じ、日倉山城の城主がこの「出雲の多賀氏」であるかのような伝聞が広まったという。
【写真左】本丸周りの切崖
 不鮮明な写真のため、分かりにくいが、この崖を落ちていくとそのまま三刀屋川につながる。






 その理由の一つとされているのが、文明5年(1473)8月16日付の法王寺文書「幕府奉行人奉書」において、多賀与四郎・多賀穴見という武士が、坂本村(三刀屋町)の横妨を停止させ云々、という記録が見え、このことから飯石郡内においても多賀氏が本拠を持ち、三刀屋の南方、すなわち掛合区域まで領有していたのではないか、というものである。

 もちろん、この多賀氏は中原姓多賀氏で、出雲多賀氏のことである。
【写真左】天台宗牛蔵山 法王寺
 上掲した日倉神社から北西にむかった出雲市稗原町にある古刹で、寺伝によれば、天武天皇の御宇、行基菩薩の草創にして、聖武天皇の勅願所という。


 戦国期には山中鹿助が毛利軍を打ち破った時、この寺も戦場となった。


 ちなみに、法王寺というのは、現在の出雲市野尻にある古刹法王寺のことで、当時は牛蔵寺(ごぞうじ)といわれ、当院から山を一つ越えるとすぐに三刀屋(旧飯石郡)に出る場所である。
【写真左】本丸・その1
 本丸は7.8m四方と小規模なもので、全周囲が天然の要害となっており、南隅には巨岩と併せ祠が祀ってある。








首藤山内・多賀山氏の出雲国進出

 さて、多賀山氏の惣領家であった首藤山内氏は、最終的に備後山内を本拠(甲山城)としていくが、庶家の多賀山氏とは深い関係を持ったまま戦国期を迎える。

 蔀山城の多賀山氏が具体的に出雲国南部(現・雲南市及び奥出雲町)へ進出し始めるのは、同氏第14代の駿河守通憲あたりとされている(「蔀山城」の稿参照)。つまり、新兵衛尉通続の曽祖父にあたる人物である。

 惣領家の山内氏は、室町中期から奥出雲の仁多郡のほうへ進出し、横田荘代官職や、馬木郷(横田)内の所職を取得している。それに伴って、庶家である多賀山氏も進出してきた。多賀山氏が目標としたのが、惣領家山内氏が手を付けない飯石郡方面、すなわち現在の掛合町区域である。

 この場所は、赤穴氏が支配する南方と、三刀屋氏が支配する北方の中間地点に当たり、当時両氏の支配権が弱かった場所である(ただし、来島荘を除く)。
【写真左】本丸・その2
 標識が倒れたままになっていた。本丸全体が岩塊であるので、築城する際は相当な時間を要したことだろう。





 通憲は、掛合の日倉山山頂に祀ってあった神社を、三刀屋町乙加宮の宮内に移し、さらには本拠地蔀山城の麓にあった高山八幡宮を勧請して合祀、日倉山に城を築いて以後当城を多賀山氏代々の出張所としたという。

 従って、『日本城郭体系第13巻』では築城者を通定、すなわち多賀左京亮通定としているが、築城者は曽祖父・通続であって、そのことから築城期も15世紀から16世紀初頭(明応から文亀年間)と考えられる。

 では、多賀山氏が日倉山城を本拠として具体的にどの地域まで所領支配をしていたのか、詳細な史料は残っていないが、唯一江戸期に記録されてとされている『近郷古事漫筆』によると、おおむね次のようなことが推察される。
【写真左】本丸・その3
 登城したこの日(2008年11月)、眺望は北東から南にかけて可能だったが、今はあまり期待できないかもしれない。







多賀山氏の領有支配地

南限

『多賀山通続同家系図案』によると、永正11年(1514)通続の叔父とされる花栗弥兵衛が反乱を起こし、父・通広、兄・又四郎を殺害した、という記録が残っている。このことから支配地の南限は現在の飯南町頓原付近までとなる。

北限

下って戦国期になると、通定の時代になるが、『田部文書「永禄6年(1563)付、多賀山通定宛行状』によれば、通定は
  • 堀江左近丞・井上八郎右衛門尉に対し、掛合郷殿河内の内で、それぞれ3貫前の地
  • 田部宗左衛門に掛合郷坂本村の内で、1貫前の地
をそれぞれ新給として宛て行っている。このことから、北限については、前記したように現在の雲南市三刀屋町南西部までと考えられる。
【写真左】本丸から北麓に三刀屋川を見る。
 日倉山城の東麓を流れる三刀屋川は、この位置で、東側から流下してくる支流・吉田川と合流する。


 この吉田川を遡り、峠を越え阿井(奥出雲町)に出、そこから王貫峠を越えると、多賀山氏の本城・蔀山城につながる。


多禰郷から掛合郷への改称

 次に、地名ついてだが、前記した当地の地名である多禰郷という名称が、戦国期にはあまり出てこず、掛合郷という名称に変わってきている。

 おそらくこの変化も多賀山氏が当地に進出してきた経緯と関係するものと思われる。もちろん、すべて多禰郷の地域全体を指すものではないだろうが、主要なエリアが掛合郷に占有されている節がある。
【写真左】本丸付近から北方の掛合の町を見る。
 掛合の街並みは、当城麓より少し北にむかったところが多い。
 
 多賀山城の本丸に立つと、南方よりも北方、すなわち尼子氏の動きを最も警戒していたことがわかる。




次稿では、永正年間に当城を受け継いだ通続のころを中心に紹介したいと思う。